砂久保陣場(すなくぼじんば)

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河越夜戦における関東管領山内上杉憲政の本陣

砂久保陣場跡に建つ稲荷神社
砂久保陣場跡に建つ稲荷神社

入間川左岸の平坦な武蔵野台地に位置し、川越城(川越市郭町)から南西約4kmの距離にある砂久保陣場跡は、河越夜戦において関東管領である山内上杉憲政(のりまさ)が本陣を置いたとされる場所である。河越夜戦は、東明寺口合戦、天文の乱ともいい、山内上杉憲政、扇谷上杉朝定(ともさだ)、古河公方足利晴氏(はるうじ)の連合軍8万余騎に対して、北条氏康(うじやす)がわずか8千の兵力で打ち破った合戦で、天文24年(1555年)厳島の戦い、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いとともに日本三大奇襲のひとつといわれている。城将の北条綱成(つなしげ)が3千余の城兵とともに守った河越城の防備は堅く、要害性も優れていたため、包囲戦は半年間にもおよんだ。このため、砂久保陣場も空堀や土塁など、何らかの防御を施した陣城であったと思われるが、遺構は何も残らない。当時の砂久保付近は全くの原野で、見通しは良かったが、地形的にほとんど平坦であった。陣場跡といわれる場所には稲荷神社が建ち、周辺は畑と宅地になっている。『新編武蔵風土記稿』の砂久保村の項に、「上杉憲政陣所跡。河越夜戦の陣跡。小田原記の砂窪とは、この場所。しかし、具体的な陣の場所、合戦などすべてについて伝わっていない。もともと広野であって新しい村なので、何も伝わらなかったのだろう」と記されている。砂久保村は正保年間(1644-48年)の頃に開墾された村という。ここから北西1.5kmに北条方の寺尾城(川越市下新河岸)があり、『関東古戦録』によると、天文15年(1546年)の河越夜戦の頃は諏訪右馬亮が居城したとされるが、この戦いでの関わりは不明である。大永4年(1524年)扇谷上杉朝興(ともおき)は、江戸城(東京都千代田区)を北条氏綱(うじつな)に奪われて河越城に逃れている。そして、天文6年(1537年)朝興が病没すると、その跡は五郎朝定(ともさだ)が13歳で継いだ。同年(1537年)北条氏綱は大挙して河越城に攻め寄せており、扇谷上杉朝定は三ツ木(狭山市新狭山)で氏綱を迎え撃った。北条氏の先鋒は井浪(印浪)、橋本、多目、荒川らを足軽大将とする部隊で、本隊は5手に分けられていた。このときの5隊による陣立てが、のちの北条軍団の五色備(黄備、赤備、青備、白備、黒備)の基本になったといわれる。朝定は叔父の扇谷上杉朝成(ともなり)とともに2千余の軍勢で決戦を挑むが、北条軍7千余の勢いは鋭く、扇谷上杉軍は総崩れとなり、朝成が生け捕られ、7百余名が討ち取られて河越城に逃れた。北条軍は河越城を5方向から総攻撃し、ついに城に火の手が上がった。朝定は河越城を捨てて松山城(埼玉県比企郡吉見町)に敗走する。天文10年(1541年)北条氏綱が没し、長男の氏康が27歳で跡を継いだ。氏綱から氏康への家督相続の直後、扇谷上杉朝定が河越城を奪還すべく兵を動かした。この合戦を伝える直接史料はない。しかし、この河越城の戦功に対して、氏康が篠窪(しのくぼ)出羽入道、太田弾正忠、竹本源三、大藤(おおとう)与次郎、重田(しげた)杢之助に与えた感状が現存する。日付は天文10年(1541年)11月2日となっているから、その直前に両軍が激突したものと考えられる。扇谷上杉軍を撃退した氏康であったが、衰運の扇谷上杉氏に代わって、関東管領の山内上杉氏が舞台に登場する。天文14年(1545年)山内上杉憲政は、扇谷上杉氏の居城であった河越城を奪回するため、扇谷上杉朝定、古河公方の足利晴氏と結んで、8万余騎の連合軍を形成して河越城に押し寄せた。足利晴氏は氏康の妹婿であったが、北条氏の統制を受けるようになり、自立化を図ったものと考えられる。

来襲した連合軍は河越城を完全に包囲しているが、このとき河越城に籠城していた城将は、主将の北条上総介綱成(つなしげ)、副将の朝倉能登守、師岡山城守など、わずか3千余騎であった。主将の北条綱成は玉縄衆のひとりで、父の福島正成(くしままさしげ)は遠江土方城(静岡県小笠郡大東町)の城主であり、今川氏親(うじちか)の甲斐侵攻軍の総大将でもあったが、武田信虎(のぶとら)に討たれたため、子の福島綱成は相模国小田原に逃れて北条氏綱に仕えた。その後、綱成は氏綱の娘を娶り、北条姓を名乗る。朽葉色に染めた四半の練絹に八幡と直筆した旗を用い、「地黄八幡(じおうはちまん)」と呼ばれる猛将である。今回の山内上杉憲政の河越城奪回戦には今川義元(よしもと)との連携があった。連合軍が河越城に押し寄せると同時に、北条方の駿河長久保城(静岡県駿東郡長泉町)を今川氏が攻めかかった。北条氏康は駿河に出陣して今川氏と交戦するが、山内上杉憲政らの挙兵が伝わり、たちまち両面作戦の苦境に陥った。氏康は河越城の救援のために、河東地域を今川氏に返すという屈辱的な条件で義元と講和を図っている。これを第二次河東一乱という。挟撃の片側を治めた氏康は、関東方面へ転戦できる状況を得て、河越城の戦いに打って出ることになる。一方の連合軍は、河越城の攻略に兵糧攻めを選んでおり、山内上杉憲政は河越城の南方の砂久保に本陣を置き、扇谷上杉朝定は東明寺付近、足利晴氏は伊佐沼付近に陣を置いて包囲した。または、砂久保に布陣したのは山内上杉憲政ではなく足利晴氏であるという説もあり、山内上杉氏は柏原城(狭山市柏原)に陣を布いたとも伝わる。翌天文15年(1546年)北条氏康は相模国小田原より馬廻衆8千の手勢を引き連れて武蔵国府中に着陣した。この時すでに河越城の兵糧は尽きており、大変な苦戦に陥っていた。氏康は三ツ木まで進軍するが、兵力に大差があるため正攻法で戦っては勝機はないと考え、謀略を用いる。『北条記』には、「敵に味方を比ぶれば、唯(ただ)九牛が一毛なれば、一散に戦(たたかい)て叶がたし。謀(はかりごと)あるべし」とある。再三再四にわたって出撃しては、そのたびに府中の陣に逃げ帰った。さらに連合軍に対し河越城兵の助命嘆願をおこなったと伝わる。まず、足利晴氏に対しては、諏訪右馬亮に命じて、城兵を助命してくれれば城は明け渡すと申し入れ、上杉方には常陸国の小田政治(まさはる)の陣代である菅谷隠岐守貞次(さだつぐ)を通じて、城将の綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議のうえ、公方家に仕える旨を申し入れた。これらより、寺尾城主の諏訪右馬亮は、外交を任された武将であることが分かる。だが連合軍は受け入れず、逆に包囲軍の一部を割いて氏康を攻撃しているが、これに対して氏康は戦わずに兵を引いた。これを見た連合軍は、北条軍の戦意は低いと判断している。このように、北条氏の小部隊による出撃・退却や、助命嘆願を繰り返すうちに、連合軍の武将たちは北条氏を侮(あなど)るおごりの気風が強くなり、酒や女に溺れて油断し始めた。そして、氏康はこの時を待っていた。北条綱成の弟の福島勝広(かつひろ)が伝令役として連合軍の包囲網を突破して河越城に入り、北条軍による奇襲計画を伝える。氏康は、敵と味方を区別するために紙製の白い胴肩衣を鎧の上につけて味方の目印とし、たとえ敵であっても白い胴肩衣をつけているものは討ってはならないこととし、合言葉を定め、首級も斬り捨てにするよう徹底して、決戦当日の夜中に砂久保に忍び寄った。

北条氏康が砂久保陣場に斬り込むと、大導寺、印浪、荒河、諏訪右馬亮、橋本らの家臣も従った。他では菅谷隠岐守、多米大膳亮、笠原、内藤、石巻などの奮戦もあった。寝込みを襲われた山内上杉軍は、予期せぬ奇襲に狼狽し、味方同士で斬り合う者、武器を持たずに逃げ出す者が続出し、主力部隊である山内上杉軍は総崩れとなった。あるいは、繋いだ馬に鞭打ったり、弦(つる)の切れた弓を取ったり、一本の槍を2、3人で相争ったとも伝わり、大混乱を呈したようである。この時、砂久保陣場は兵火により炎上したという。氏康の砂久保への攻撃に呼応して、河越城で籠城していた北条綱成も城門を開いて古河公方軍に襲いかかった。このため連合軍は混乱状態に陥っており、特に東明寺口では凄惨な殺戮戦と化している。山内上杉憲政は上野平井城(群馬県藤岡市)に、足利晴氏は下総古河城(茨城県古河市)に敗走した。このとき、東明寺口の市街戦が最も激しく、扇谷上杉軍は壊滅し、扇谷上杉朝定は乱戦のなかで討死、扇谷上杉家はこの戦いで滅亡した。他にも連合軍では、小野因幡守、本間近江守、倉賀野三河守、難波田弾正、本庄藤三郎ら1万6千の兵が討ち取られた。一方、北条方の戦死者は百名程度であったといい、北条軍の完勝であった。また、氏康がいよいよ連合軍に夜襲をかけるという時に、北条勢に疫病が広がり、死者が続出したという。しかし突然、疫病を司る神である牛頭天王(ごずてんのう)が現われて、氏康が必死に祈った甲斐あって兵士たちは回復、総攻撃にかかったという伝承も残っている。砂久保陣場跡にある説明板には、以前は(山内)上杉憲政が陣をとった場所と書かれていたが、経緯や理由は不明であるが、この説明板が新しくなった。そして、そこには北条氏康が陣を張った場所となっており、内容が書き変わっている。それによると、天文15年(1546年)扇谷上杉氏の宿老で岩付城(さいたま市)の太田全鑑(ぜんかん)を離反させ味方に引き入れたことで、氏康は4月17日に出陣に踏み切り、砂窪(砂久保)に着陣している。4月20日に山内上杉憲政が氏康の陣所の砂窪に攻め掛かって来たが、氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃した。実際には奇襲戦ではなく迎撃戦であったという。どうも最近の研究では、こちらの方が有力なようである。ところで、河越夜戦が実際におこなわれたことを証明できる文書は、山内上杉憲政の発給した感状が2、3通残っているのみであり、北条側には存在しない。もちろん感状には夜襲のことは記されていない。夜襲は忍者以外はおこなわないのが戦国の習しで、「武者なる者は夜中に働かず、夜中動くのは盗賊の類(たぐい)」とされており、この河越夜戦は、風魔孫右衛門、二曲輪猪助(にのくるわいすけ)ら北条氏の忍者によるものだという説もある。二曲輪猪助は、河越城攻防戦で活躍した風魔忍者で、忍びの名人であった。氏康の命により河越城を包囲する足利晴氏の陣中に忍び込んでは、敵情を報告していた。ところが、回を重ねるうちに露見してしまい、猪助は小田原を目指して駆け出した。これを古河公方の忍者である太田犬之助が追いかけた。犬之助も韋駄天であったため、猪助は捕まりそうになったが、繋いであった馬を奪って何とか振りきった。その後、古河公方の陣中で「かり出され逃げたる猪助卑怯もの、能(よ)くも太田(追うた)が犬之助かな」という落首が貼り出されて話題となった。これを知った猪助は犬之助に対して「早足勝負」を申し込み、二人は十里の道を駆けくらべした。結果は猪助が勝ち、犬之助は力つきて息絶えたという。その後、猪助は伊賀国へ行き、風魔忍術を伝えたといわれる。

このように諸説あるものの、河越夜戦の翌日には、多摩郡滝山城(東京都八王子市)の大石定久(さだひさ)、秩父郡天神山城(長瀞町)の藤田重利(しげとし)など、山内・扇谷の両上杉氏の重臣らが氏康に降っていることから、何らかの激しい戦いがあり、上杉勢が退却したことは事実である。この出来事を境として北条氏の河越領有は決定的となり、北条綱成の半年におよぶ河越城での籠城戦を賞するとともに、綱成に代えて大道寺駿河守盛昌(もりまさ)を城代に起用した。そして、天文20年(1551年)山内上杉憲政は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って平井城を出奔する。ここに関八州はすべて北条氏の領有するところとなる。河越城下の蓮馨寺(川越市連雀町)は、天文18年(1549年)大道寺盛昌の妻である蓮馨尼(れんけいに)の開基によって創建された浄土宗の寺である。盛昌は河越夜戦で活躍しており、その戦功により河越城の城代を仰せ付かった。盛昌の妻は河越夜戦の3年後に自領である平方村(上尾市平方)に小さなお堂を立て、甥にあたる感誉(かんよ)上人を小田原より招いて開山とした。夫の活躍を喜ぶ一方で、河越夜戦で戦死した大勢の魂を弔いたいという気持ちが湧いたのだと考えられている。これが蓮馨寺の草創となる。蓮馨寺は、永禄9年(1566年)までに河越城下松郷の現在地に移され、永禄10年(1567年)蓮馨尼は亡くなった。感誉上人は、蓮馨寺を開いた5年後、江戸増上寺(東京都港区)の第10世法主となる。入山してすぐに「清規三十三ヶ条」を制定し、現在も浄土宗寺院の住職の任命を受ける際には、必ず受講しなければならない「感誉流伝法」を定めた。しかし、わずか4年で増上寺を退山し、その後は河越の蓮馨寺に隠遁して念仏生活を続けた。感誉上人が育てた直弟子のひとりが、増上寺中興の祖となった源誉(げんよ)上人である。源誉上人は感誉上人とともに蓮馨寺に移ると、共に修行の毎日を送っていたとされる。しかし、感誉上人が亡くなると、源誉上人は蓮馨寺を出て、天正12年(1584年)増上寺の第12世法主となった。天正18年(1590年)豊臣秀吉が相模小田原城(神奈川県小田原市)を開城させて、関八州は徳川家康が支配することとなった。家康の菩提所は、三河の大樹寺(愛知県岡崎市)という浄土宗の寺である。このため、浄土宗の増上寺は家康と関係を結び、徳川家の菩提所として急速に発展していく。慶長8年(1603年)家康は江戸幕府を開設する。そして、慶長15年(1610年)には後陽成天皇から源誉上人に「観智国師」という国師号が与えられ、名実共に浄土宗の第一人者となり、増上寺は総本山の知恩院(京都府京都市)と肩を並べるようになっていった。観智国師は、家康の知恵袋のひとりとして重要な役割を果たしていく。川越では喜多院(川越市小仙波町)の天海大僧正が有名だが、蓮馨寺の源誉上人(観智国師)の存在も大きく、戦国時代から江戸時代初期にかけて、川越は2人の傑出した人物を生んでいる。河越夜戦の激戦地と伝えられる東明寺(川越市志多町)の境内には、河越夜戦跡の碑が建てられ、将兵の遺骸を納めた富士塚が残る。宝暦年間(1751-64年)に掘ったところ髑髏が500体ばかり出たという。塚の上には稲荷諏訪天満宮がある。これは難波田弾正憲重(のりしげ)が河越夜戦で東明寺口の古井戸に落ちて死んだため、その霊を祀ったものである。当時、東明寺には広大な寺領があり、その門前町は鎌倉時代より大いに賑わった。そこが戦場になったことから、古くは東明寺口合戦ともいわれた。明治期の道路工事でも一帯からは夥しい数の人骨が出土している。(2004.07.04)

東明寺境内と河越夜戦跡碑
東明寺境内と河越夜戦跡碑

川越城跡碑と富士見櫓台跡
川越城跡碑と富士見櫓台跡

城下町に建つ蓮馨寺の本堂
城下町に建つ蓮馨寺の本堂

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