曽根城(そねじょう)

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西美濃三人衆のひとりで斎藤道三の家臣団の中核をなした稲葉一鉄の居城

城の面影を残す曽根城本丸跡
城の面影を残す曽根城本丸跡

大垣市の北部郊外にある曽根城は、揖斐川の支流である平野井(ひらのい)川が蛇行する湾曲部を利用して築かれた平城である。現在、曽根城の本丸跡が華渓寺の境内となっており、「史跡曽根城本丸跡」の石碑や説明板が設けられている。この寺は、曽根城主であった稲葉一鉄(いってつ)が母親の菩提寺として建立した寺である。華渓寺の境内が、古絵図の本丸の形どおりに周囲より1mほど高くなっている点や、本丸を取り囲む水堀を利用したと思われる水田が城郭らしさをわずかに残している。曽根城跡の一部が公園として造成され、一面に芝生が植えられて「曽根城公園」と名付けられているが、この公園には遺構は何も残っていない。平成元年(1989年)曽根城の発掘調査がおこなわれ、華渓寺の北側に本丸に関係すると考えられる石垣と石敷遺構が発見された。石垣の石材は赤坂の金生山から産する石灰岩の自然石で、これらを並べて、石敷遺構とあわせて郭を形成している。さらにその内側にも本丸を囲む土塁と石垣の存在が推測されており、出土品などから石垣の年代は、稲葉一鉄の時代(1525-79年)と推定できるという。これらの遺構は保存のために埋め戻し、公園として整備をおこなって地上復元している。華渓寺の外周に当時の石垣の基壇部分が再現され、これらの説明板も設けられている。寺の入口付近には、「華渓寺福水」という湧き水が今も湧き出しており、かつてはさらに水量が多かったという。大垣は昔から「水の都」と呼ばれるほど地下水の豊富な地域で、地下水が自然に湧き出して泉ができた所を「がま(河間)」と呼んでいる。寺の北側の曽根城公園にも「大池」という大きな池があり、湧き水による透き通った水で湛えられている。往時は水堀や深沼田などで守られた堅固な城であったと思われる。大池のほとりには春日局の生誕の地であることを示す案内板が立っている。大奥総取締役の春日局こと福(ふく)は、父が明智光秀(みつひで)の筆頭家老である斎藤内蔵助利三(としみつ)で、母が稲葉一鉄の娘である安(あん)であった。華渓寺が所蔵する『曽根古城跡図』の中央部に「斉藤内蔵佐」と斎藤利三の屋敷が記されていることから、春日局はここで生まれたのではないかとされている。天正10年(1582年)本能寺の変で逆賊となった明智光秀・斎藤利三の一族はことごとく討たれたが、お福は生き残り、伯父の稲葉重通(しげみち)の養女となって、稲葉氏の縁者で小早川秀秋(ひであき)の家臣である稲葉正成(まさなり)に嫁した。斎藤利三はもともと稲葉一鉄に仕えていたが、のちに出奔して光秀の家臣になった経過があり、『曽根古城跡図』はまだ利三が稲葉家に奉公していた頃のものと考えられる。曽根城公園への入口近くには、「曽根城家老斎藤内蔵助利三屋敷跡」の石碑が建てられている。現在、斎藤利三の屋敷跡は菖蒲園になっており、毎年6月になると花菖蒲が見ごろを迎える。曽根城公園には、幕末の勤皇家であり漢詩人の梁川星巌(やながわせいがん)と妻の紅蘭(こうらん)の銅像が建つ。寛政元年(1789年)星厳は大垣藩の蔵元役を務める郷士の長男として安八郡曽根村に生まれる。12歳のときに相次いで両親を亡くし、家督を継ぐことになった。そして、華渓寺の住職のもとで育てられる。後に家督を弟に譲って江戸へ出て、文化6年(1809年)帰郷して詩塾「梨花村草舎」を開塾、儒学者で有名な頼山陽(らいさんよう)と並び称される漢詩人となる。安政5年(1858年)安政の大獄の捕縛対象者となったが、逮捕の直前にコレラで死亡した。華渓寺の境内には梁川星厳記念館があり、華渓寺の南方に梁川星巌邸跡がある。

曽根城の築城年代は不明だが、室町時代後期に稲葉氏の祖である稲葉伊予守通富(みちとみ)によって築かれたという。以降は稲葉氏の勢力拡大の拠点となった。稲葉通富には不明な点が多く、通貞、通高とも称したようで、通兼、通弘、通長なども同一人物の可能性が高い。隠居して塩塵(えんじん)と号した。伊予国守護職である河野刑部大輔通直(みちなお)の四男であるというが、河野宗家には通直という名が多く、このあたりにも混乱の原因がある。当初は、どこの国なのか不明であるが安国寺に入って僧侶となり、祐宗(ゆうそう)を名乗った。しかし、武勇を好み、寛正年間(1460-66年)伊勢神宮(三重県伊勢市)への参詣途中で群盗に会い、その数人を撃殺したことで武名を負って、みずから還俗した。寛正2年(1461年)諸国を巡って美濃に来たところ、美濃国守護職の土岐左京大夫成頼(しげより)に剣術師として遇されたことが縁で、土岐成頼の妹を娶って稲葉姓を称し、美濃に住み着いたと伝わる。そして、本巣郡軽海を与えられ、軽海城(本巣市)を築いて本拠とした。このように稲葉氏は、一般的には伊予の河野氏の出とされるが、伊賀氏と同族とする系譜もある。建仁元年(1201年)鎌倉幕府の政所別当である二階堂行政(ゆきまさ)が、京都への抑えとして稲葉山の山頂に砦を築いた。この稲葉山城(岐阜市天主閣)は、二階堂行政の娘婿の佐藤伊賀守朝光(ともみつ)に譲られた。そして、朝光が伊賀守だったことから、次男の光宗(みつむね)は伊賀氏を称し、稲葉山城主を受け継ぐ。貞応3年(1224年)伊賀光宗は伊賀氏の変で信濃国に配流となり、弟の光資(みつすけ)が稲葉三郎左衛門尉を称して稲葉山城を守った。これが美濃稲葉氏の始まりといい、稲葉山城とは現在の岐阜城のことである。その後、稲葉光房(みつふさ)と続くが、この系統は『尊卑分脈』によると、光資−光房−光有−光之(伊勢守)とだけ記して傍系を記していない。これらを考え合わせると、伊予の河野氏に関係する人物が、美濃の稲葉氏の名跡を継いだのであろうか。一方で、戦国時代に西美濃三人衆と称された安藤伊賀守守就(もりなり)の一族で、土佐藩の重臣となった山内伊賀氏に伝わる系図によれば、安藤守就の曾祖父である伊賀太郎左衛門光就(みつなり)の弟の光兼(みつかね)が稲葉七郎を名乗り、その子が塩塵と記されている。安藤守就は伊賀伊賀守とも名乗っており、伊賀光資の後裔であった可能性も考えられる。その後、土岐成頼は西美濃の守りを固めるため、稲葉通富に命じて池田郡に小寺城(池田町小寺)を築かせており、小寺城が稲葉氏の本拠となっている。別名として白髭城、池田山城ともいう。稲葉通富はこの小寺城に住し、3千貫文の地を与えられ、のちに軍功を挙げて一郡6千貫文の地を領したという。稲葉通富の長男である備中守通則(みちのり)も土岐氏に属していたが、大永5年(1525年)浅井・朝倉連合軍が美濃に侵攻した際、稲葉一族は南宮山南東麓の牧田川左岸において北近江の国人領主である浅井亮政(あざいすけまさ)と激戦を演じており、この牧田の戦いで稲葉通則と息子5人(通勝、通房、通明、豊通、通広)が全員討死してしまう。この事態により、幼少時に方県郡長良の崇福寺(岐阜市長良福光)で喝食(かつじき)となっていた六男の宗哲(そうてつ)が11歳で還俗して、良通(よしみち)と名乗って家督を継いだ。この稲葉良通こそ「頑固一徹」の語源ともいわれる稲葉一鉄である。諱を通以、通朝、貞通、長通、良通と何度も改め、通称を彦四郎、彦六郎といった。天正2年(1574年)に剃髪して一鉄と号している。

稲葉一鉄は石津郡牧田(上石津町)で戦死した稲葉一族の供養のために養源院(池田町本郷)を建立しており、その跡地には、稲葉塩塵、通則、長男の通勝(みちかつ)、次男の通房(みちふさ)など、一族の墓が存在する。養源院は、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの戦火により焼失しており、その後再建されることはなかった。この墓所には池田恒利(つねとし)の墓もあり、恒利の妻である養徳院(ようとくいん)は織田信長の乳母として知られる。池田政秀(まさひで)の娘であった養徳院は、近江の滝川恒利を婿に迎え、天文5年(1536年)池田恒興(つねおき)を生み、同年に吉法師(のちの織田信長)の乳母となる。吉法師がまだ乳飲み子だった頃、乳母の乳首を噛み切り、そのたびに乳母を代えては乳を与えようとするが、毎回乳母の乳首を噛み切ったという。しかし、養徳院が乳母になると、乳首を噛み切ることはなかった。恒利の死後、織田信秀(のぶひで)の側室となり、信長の妹を生んでおり、このため恒興は信長に厚遇された。また、滝川一益(かずます)は従兄弟にあたり、恒興を頼って織田家に仕官している。のちに信長は、養徳院を大御乳(おおおち)と呼び敬愛したという。天文3年(1534年)稲葉一鉄は、山城のために不便な小寺城から平城の曽根城に本拠を移し、小寺城はそのまま廃城となった。そして、土岐頼芸(よりのり)に仕えていたが、土岐氏が没落すると、斎藤道三(どうさん)に仕えて家臣団の中核をなし、安藤守就、氏家卜全(うじいえぼくぜん)とともに西美濃三人衆のひとりに数えられるほど勢力を振るった。また、尾張から美濃侵攻を繰り返す信長の執拗な攻撃を阻んでいる。稲葉塩塵の六男である光朝(みつとも)は白雲(びゃくうん)と号して安国寺(池田町小寺)に住んだ。この白雲は、稲葉山城主の斎藤道三に滅ぼされた主家である土岐氏の仇を討つべく、道三に関係する人物を一夜に一人、延べ千人を斬殺しようと「悲願千人斬り」の志を立てている。そして、夜になると稲葉山城下に現れて辻斬りをおこない、斎藤家を震え上がらせたという俗伝が残る。この安国寺は土岐氏ゆかりの寺で、小寺城の東麓にあり、明応4年(1495年)美濃国守護職であった土岐成頼も当寺に入り剃髪している。ところで、道三の長男である斎藤義龍(よしたつ)の生母は深芳野(みよしの)だが、この深芳野は土岐頼芸の愛妾で、享禄元年(1528年)に道三が拝領している。そして、翌享禄2年(1529年)に義龍が生まれていることや、道三と義龍が義絶していることから、義龍を頼芸の実子とする説もある。そして、深芳野は稲葉氏の出身といい、稲葉一鉄の姉とも妹とも伝わる。弘治2年(1556年)道三は義龍との戦いに敗死し、永禄4年(1561年)その義龍も病没している。そして、義龍の嫡子である龍興(たつおき)が家督を継ぐと、斎藤家は弱体化していった。斎藤龍興は暗愚の大将といわれ、酒色に溺れて政務を顧みようとせず、屈強で知られた斎藤家の家臣団も次第に統制を失った。そこへ織田信長から派遣された木下藤吉郎が調略をおこない、永禄10年(1567年)ついに西美濃三人衆が信長に内通して美濃侵攻を助けたため、龍興の敗北は決定的になり、居城の稲葉山城から退去した。こうして稲葉一鉄は信長に仕えており、安八郡曽根に5万石を領した。のちに一鉄を讒言する者があり、信長が一鉄を謀殺しようと茶亭に呼んだことがあった。このとき、一鉄は茶亭に掛けられた「虚堂智愚」の墨跡の文字を高らかに読み上げ、その意味を説明した。信長は隣室でこれを聞いて、「文武兼備の将なり」と知識の深さに感嘆し、殺害を思いとどまった。

天正7年(1579年)稲葉一鉄は家督と曽根城を次男の彦六貞通(さだみち)に譲り、山間の清水城(揖斐川町清水)に隠居した。そして、稲葉貞通は曽根侍従(そねじじゅう)と称された。一方、天正8年(1580年)佐久間信盛(のぶもり)、林秀貞(ひでさだ)の追放事件に連座して、安藤守就・尚就(ひさなり)父子も武田勝頼(かつより)に内通した罪で追放されている。安藤氏の本拠である席田郡の北方城(北方町)は稲葉氏に与えられた。ところが、天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、安藤守就は混乱に乗じて兵を挙げ、旧領回復を目論んだ。そして、北方城を奪ったものの、美濃衆筆頭だった稲葉一鉄の軍勢に破られて一族とともに敗死している。一鉄もまた美濃で独立を目指していたが、やがて羽柴秀吉に臣従した。天正16年(1588年)稲葉一鉄は清水城にて死去、享年74歳であった。清水城は庶長子の勘右衛門重通が継ぎ、1万2千石の大名として独立した。一方、嫡流で次男の稲葉貞通は、天正10年(1582年)に長男の彦六典通(のりみち)に家督を譲っている。のちに稲葉貞通・典通父子はそれぞれ豊臣姓を下賜されるほど秀吉から信頼されていたようである。しかし、天正15年(1587年)稲葉典通は九州征伐において不手際があり、秀吉の怒りを買って蟄居となった。このため、稲葉貞通が再び家督の座についているが、天正16年(1588年)郡上郡の八幡城(郡上市)に4万石で転封となり、曽根城を離れた。代わって、西尾豊後守光教(みつのり)が2万石を領して曽根城主となる。西尾光教は初め斎藤氏に仕えて氏家ト全に属し、斎藤氏が滅びると織田信長、豊臣秀吉に仕えた。秀吉が没すると徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて東軍に属している。このため、西軍の島津義弘(よしひろ)の軍勢が城下に火を放ち、曽根城を銃撃しているが、東軍の水野勝成(かつなり)が援軍に駆けつけてこれを撃退している。そして曽根城は、石田三成(みつなり)が籠もる大垣城(大垣市郭町)に対峙する最前線となった。西尾光教は関ヶ原の本戦には参加していないが、西軍の守備する大垣城を攻略する等の戦功を挙げ、その功績により1万石を加増され揖斐城(揖斐川町三輪)に移った。このため、慶長6年(1601年)曽根城は廃城となっている。一方、八幡城の稲葉貞通・典通父子は西軍に属しており、岐阜城主の織田秀信(ひでのぶ)の命により石川貞清(さだきよ)の尾張犬山城(愛知県犬山市)の援軍として出陣していた。八幡城は貞通の三男である修理亮通孝(みちたか)にわずかの兵を与えて守らせた。これを知った、かつての八幡城主の遠藤慶隆(よしたか)は、娘婿の金森可重(ありしげ)と共に八幡城を攻めた。一方、犬山城の稲葉貞通は、福島正則(まさのり)の勧めにより東軍に転じることを決めていた。福島正則は、井伊直政(なおまさ)らを介して遠藤慶隆、金森可重に八幡城の攻撃中止を求めたが、稲葉父子の向背は定かではないと拒否された。このため貞通は怒り、八幡城に急行している。八幡城は遠藤・金森軍の猛攻により、降伏勧告を受け入れて和議が成立した。そこへ稲葉父子の軍勢が到着、遠藤慶隆の本陣に突入して慶隆を敗走させている。関ヶ原の戦いの後、貞通・典通父子は家康から罰せられることなく豊後国臼杵(うすき)に5万石で転封となり、江戸時代を通して稲葉氏が臼杵藩の歴代藩主を務めた。役割を終えて廃城となった曽根城は、川沿いの平城ゆえに城地のほとんどが開墾されて田畑に転用された。江戸時代中期の享保19年(1734年)に曽根村堤外にあった華渓寺を曽根城本丸跡に移築している。(2012.01.01)

曽根城本丸跡の華渓寺の境内
曽根城本丸跡の華渓寺の境内

地上復元された石垣と石敷遺構
地上復元された石垣と石敷遺構

菖蒲園となる斎藤利三屋敷跡
菖蒲園となる斎藤利三屋敷跡

稲葉一鉄がいた崇福寺の鐘楼
稲葉一鉄がいた崇福寺の鐘楼

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