宍戸城(ししどじょう)

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佐竹氏の秋田移封のあおりを受けて5万石で宍戸に入った秋田実李の築いた政庁

神社が鎮座する本丸北辺の土塁
神社が鎮座する本丸北辺の土塁

かつて、茨城県西茨城郡に宍戸町が存在したが、昭和30年(1955年)合併により友部町となり、平成18年(2006年)さらに笠間市と合併して、宍戸という地名は消滅した。宍戸城は、旧陣屋地区の標高27mの微高地に長辺約150mの方形郭となる本丸、JR水戸線の宍戸駅付近に北丸(きたのまる)、五輪郭を配置し、3重の水堀と土塁で区画された連郭式平城であった。南方と西方は涸沼川(ひぬまがわ)と清水寺(笠間市平町)下の小河川を外郭線としている。宍戸城の城域については、宍戸駅の北側一帯(笠間市大田町)を北限として宍戸小学校(笠間市平町)の南側を南限とする南北800m、東西350mくらいの細長い範囲であったとされる。北西の龍穏院(笠間市平町)周辺には新たな城郭を計画したといわれる宍戸新城が位置し、南限の水堀と涸沼川の間には笠間街道が通過して城下集落を形成していた。慶長7年(1602年)秋田実季(さねすえ)が中世宍戸城に入城して拡張整備したと考えられているが確証はない。宍戸城の築城は、中世にこの地を統治した宍戸氏に遡るといわれているが、その実態は明らかでなく、近世城郭として本格的な築城をおこなったのは秋田実季となる。中世の宍戸氏の居城については、東側の古館(笠間市橋爪)とする説や、宍戸氏の菩晃寺である新善光寺(笠間市平町)と同一台地上の山尾館(やまおたて)とする説もある。秋田氏時代の正保年間(1644-48年)に作成された『宍戸城下絵図』を見ると、宍戸城は水堀や沼沢地に囲まれ、城の周辺に家臣の屋敷が並び、北側に寺院が配置されている。宍戸城の防衛線は、南の涸沼川、東の友部丘陵、西の諏訪峠、北は北山の森林であった。現在、城跡は完全に市街地化しており遺構はほぼ消滅しているが、本丸を囲む大規模な土塁の北辺が部分的に残っており、土塁上に未廣稲荷神社が鎮座している。あとは本丸南東隅の折れのある土塁の一部が残っているのみである。秋田氏の転封後は幕府直轄領となり、宍戸城は破却された。その後、宍戸藩宍戸松平家の陣屋が本丸跡に設置され、藩庁の他に藩校・脩徳館(しゅうとくかん)、講武所も建設された。このとき、陣屋の表門は西側、裏門は北側に設置された。明治4年(1871年)の廃城後、宍戸陣屋の長屋門形式の表門が、県道30号線沿いにある民家(笠間市土師)に移築現存している。これは安政5年(1858年)に建てられたもので、桁行7.5間、梁間2.5間の規模である。宍戸城跡の西方、道場淵(どうじょうぶち)と呼ばれる涸沼川を望む高台には、江戸時代中期に廃寺になった新善光寺跡がある。ここには、八田知家(はったともいえ)・宍戸家政(いえまさ)父子の2基の五輪石塔が存在する。この石塔は、明和6年(1769年)宍戸氏の子孫である一木理兵衛(ひときりへえ)が先祖の八田知家と宍戸家政の供養のために新善光寺の境内に建てたものと伝わる。一木氏の祖は、南北朝時代の6代当主である宍戸朝里(ともさと)の四男・基里(もとさと)で、元中4年(1387年)難台山の戦い(笠間市上郷)の恩賞として、武蔵国一木郷(東京都港区赤坂)を与えられ、一木氏を名乗った。2基の石塔のうち右側の「宍戸四郎知家の墓」と刻まれる方が八田知家を指す。左側の少し小さい石塔には「当山開基宍戸四郎家政の墓」と刻まれ、八田知家の四男で宍戸氏の祖となる宍戸家政のものである。初代常陸守護・八田知家は、下野宇都宮城(栃木県宇都宮市)を本拠とする宇都宮氏2代当主・八田宗綱(むねつな)の次男であった。『尊卑分脈』、『諸家系図纂』などには、八田知家を河内源氏6代棟梁・源義朝(よしとも)の実子(十男)とする伝承が載っている。

しかし、保元元年(1156年)の保元の乱において知家は源義朝の従者として戦っていた史実があり、知家が義朝の十男であれば、その3年後の平治元年(1159年)に九男・源義経(よしつね)が生まれることと辻褄が合わない。平安時代末期、現在の茨城町から笠間市にかけての涸沼川流域一帯に摂家・九条家を領家とする小鶴荘(こづるのしょう)という荘園が成立していた。常陸国に土着した桓武平氏の多気氏・下妻氏が開発して寄進したものである。そのため多気氏や下妻氏が荘官として現地支配していた。ところが、源頼朝(よりとも)の有力な御家人であった八田知家は、建久4年(1193年)曾我兄弟の仇討ちによって鎌倉が混乱する中、多気氏・下妻氏を讒言により没落させて小鶴荘に進出し、常陸守護としての基盤を築いた。知家には多くの息子がいて、多くの支族を輩出している。長男・太郎知重(ともしげ)に続く嫡流は、筑波山南麗の小田城(つくば市小田)を本拠として小田氏を称し、次男・二郎有知(ありとも)は美濃国伊自良(いじら)荘に地頭として入部して伊自良氏を、三男・三郎知基(とももと)は下野国茂木保に地頭として入部して茂木氏を、そして四男・四郎家政が茨城郡小鶴荘に地頭として入部して宍戸氏を称した。これについて、本領である小鶴荘の荘名と名字が不一致な点、および荘域に「宍戸」という地名が全く存在しない点が指摘されるが、14世紀前半には小鶴荘に宍戸荘という呼び方が存在することや、「宍戸」を広域地名と捉える考え方もあることから、宍戸氏も宍戸という地域を本領にしたと理解できる。他にも、六男・六郎知尚(ともひさ)が苗字の地である新治郡八田を継いでおり、後に越前国に移って浅羽氏を称し、七男・七郎知勝(ともかつ)は出家して解意阿弥陀仏観鏡(げいあみだぶつかんきょう)と号す。八男・八郎為氏(ためうじ)も出家して明玄(みょうげん)と号し、筑波山中禅寺(つくば市筑波)の別当を務めて筑波氏を称した。九男・九郎知氏(ともうじ)は筑波郡田中荘に地頭として入部して田中氏を称し、十男・十郎時家(ときいえ)は陸奥国高野郡を領して高野氏を称した。また、八田知家の養子である中条家長(ちゅうじょういえなが)は武蔵国中条保を領した。建仁3年(1203年)宍戸四郎左衛門尉家政は、小鶴荘山野宇(やまのう)郷に居館を築き、山尾館または宍戸城と称した。この山尾館は、宍戸城跡の西方の高台にある清水寺境内から涸沼川までの一帯に築かれていた。遺構は何も残っていないが、方形居館であったと考えられている。この居館の南側の一角に宍戸家政の弟である解意阿弥陀仏観鏡がお堂を建てて、善光寺式阿弥陀三尊像を安置した。このお堂が後の新善光寺である。観鏡は、建保6年(1218年)に没した父・知家の菩提を弔うため13歳で出家して、浄土宗の法然(ほうねん)の高弟・証空(しょうくう)のもとで修行し、暦仁2年(1239年)新善光寺を開山する。弘安元年(1278年)時宗の一遍(いっぺん)に学び、後に時宗12派のひとつである解意派を興している。建暦3年(1213年)5月3日の和田合戦において、宍戸家政は北条義時(よしとき)方として参戦、鎌倉琵琶橋で和田義盛(よしもり)方の猛将・朝比奈義秀(よしひで)と一騎討ちを演じるが、組み合いとなって討ち取られた。家政の跡は宍戸家周(いえかね)が継いだ。2代当主の家周は、鎌倉幕府の御家人として頭角を現している。寛元3年(1245年)常陸守護の宗家3代当主・小田泰知(やすとも)が病没すると、4代時知(ときとも)は幼弱であったため、宝治元年(1247年)宍戸家周が小田氏に代わって常陸守護に補任された。

別の理由として、小田時知の生母が、宝治元年(1247年)の宝治合戦で滅ぼされた三浦氏の出身であったため、一時的ではあるが家周が常陸守護を務めることになったともいう。家周は時知の家政を後見し、後に常陸守護は小田氏に戻されるが、3代・宍戸家宗(いえむね)を経て4代・宍戸家時(いえとき)の時に、再び宍戸氏が常陸守護を務めている。5代・宍戸知時(ともとき)から家督を譲られた四郎朝里は、元弘3年(1333年)足利尊氏(たかうじ)に従って上洛している。尊氏は鎌倉幕府に謀反を起こし、六波羅探題を滅ぼしているが、この戦いに宍戸朝里も従っている。同年の新田義貞(よしさだ)による鎌倉攻略には、父の宍戸知時が新田軍に従って鎌倉幕府を滅亡させている。建武元年(1334年)朝里は安芸守に任ぜられ、安芸国甲立庄を賜って、名乗りを朝家(ともいえ)に改めた。後醍醐天皇と尊氏の関係が悪化して建武の乱が勃発するが、建武3年(1336年)尊氏が九州に都落ちした際も宍戸朝家は従っており、筑前で菊池武敏(たけとし)と戦っている。南北朝時代になり、南朝の春日顕国(あきくに)が北畠親房(ちかふさ)に従って小田城に入ると、関東地方における南朝の一大拠点となった。しかし、南朝の拠点は北朝方に次々と制圧され、顕国は馴馬城(龍ケ崎市)に籠城したが、宍戸朝家の攻撃によって落城した。顕国は一族と共に北朝方に捕縛され処刑、その遺体は京都に送られた。朝家は『太平記』に「宍戸安芸守ハ物馴タル剛ノ者」と評される人物であった。その後は本拠を安芸に移しており、その系統は安芸宍戸氏として続いた。一方、常陸にも常陸宍戸氏が続いている。貞和2年(1346年)頃に宍戸氏が新たに宍戸城を築くと、山尾館を改修して西城と称した。この新たに築かれた宍戸城とは、古館のことと考えられる。戦国時代の宍戸氏は、江戸氏や佐竹氏に対抗するため、宍戸城の周囲に多くの城郭を築いた。南東方面には住吉城(笠間市住吉)、湯崎城(笠間市湯崎)、長兎路城(笠間市長兎路)などが整備され、北方の市原城(笠間市下市原)も小原から笠間への道筋を押さえる役割を担っていた。しかし、江戸氏の南下政策によって、宍戸氏は江戸氏と婚姻関係を結ぶなど、領国の維持に苦心している。一方、勢力拡大する佐竹氏が江戸氏と協調するようになると、筑波四十八館の旗頭として6万7千石を領した宍戸氏であったが、佐竹氏の塵下に属して半独立領主として存続した。天正18年(1590年)小田原征伐に際しては、宍戸義綱(よしつな)が佐竹氏らと共に豊臣秀吉に謁見し、6万1千余石の領地を安堵される。一方、佐竹義重(よししげ)・義宣(よしのぶ)父子は秀吉から常陸国に54万石の支配権を認められ、その朱印状を後ろ盾に常陸国の平定に乗り出した。江戸重通(しげみち)は小田原に参陣しなかったため佐竹氏に攻められるが、宍戸義綱は江戸氏との関係から江戸氏に味方して佐竹氏と戦って討死している。義綱の嫡子・義長(よしなが)は鹿島へ逃亡、宍戸宗家は佐竹氏と親密な関係にあった庶子・義利(よしとし)が当主を継いだ。宍戸義利は佐竹氏の家臣となることで命脈を保つも、文禄4年(1595年)には知行6730石で真壁郡の海老ヶ島城(筑西市)へ移封となり、約380年間支配した父祖伝来の地を離れることになる。宍戸氏転封後の旧領は佐竹氏一族や家臣が分知することになり、友部村など4か村は佐竹氏の直轄領となる。義利が没すると、宍戸義長(よしなが)が家督を継いだ。慶長7年(1602年)常陸一国54万石の佐竹氏が出羽国秋田20万石へ減転封となると、義長は秋田へは従わず土着して帰農した。

宍戸氏の一族には秋田へ移った者もおり、茂木氏とともに出羽十二所城(秋田県大館市)に配置されている。慶長7年(1602年)佐竹氏の秋田移封のあおりを受けて、秋田実李が出羽国秋田5万2千石から宍戸に5万石で入った。太閤蔵入地の2万6千石が考慮されなかったので実質的な減封であった。実は実李は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に属していたが、戦後に出羽国山形の最上義光(よしあき)が「秋田氏は西軍に寝返った小野寺氏と通じていた」と徳川家康に讒言する事態となった。実季は家康に弁明して嫌疑を晴らしたはずであったが、宍戸に減転封となった。さらに宍戸には城郭と呼べるものはなく屋敷構えであったため、実季は不満を抱いての入封であった。この実季によって宍戸城が大規模に築き直され、近世城郭として整備された。宍戸藩主となった実季は、慶長19年(1614年)の大坂夏の陣では天王寺口の先鋒として毛利勝永(かつなが)隊と激突したものの大損害を受けて撃破された。寛永7年(1630年)9月、失政を理由に秋田実季は突如として領地を没収され、伊勢国朝熊に蟄居させられた。真の理由は不明で、長男・俊季(としすえ)との不和、家臣同士の派閥対立、実季の幕府に対する不遜な態度などが考えられる。なお、秋田俊季の家督継承は認められ、俊季が宍戸藩の2代藩主となった。正保2年(1645年)秋田俊季は5千石を加増され、陸奥国三春5万5千石に移封となり、43年間続いた宍戸城は廃城となった。その後の宍戸は幕府直轄領となり、関東郡代・伊奈半十郎忠治(ただはる)の管轄となる。宍戸城は破却され、武家屋敷も取り壊されて、その大部分が水田となった。のちに宍戸は水戸藩領となっている。天和2年(1682年)水戸藩の初代藩主・徳川頼房(よりふさ)の七男・松平頼雄(よりかつ)が、水戸藩2代藩主・徳川光圀(みつくに)から宍戸1万石を分与されて水戸藩の支藩・宍戸藩が立藩した。宍戸藩はわずか1万石の小藩であるが、御三家・水戸徳川家の御連枝であり家格の高い藩であった。参勤交代はなく、代々藩主は江戸に定府した。宍戸松平家は無城大名で城持ちの格式ではなかったため、天明7年(1787年)宍戸藩5代藩主・頼救(よりすけ)の時代に宍戸城の本丸跡を利用して陣屋を設置した。城下町の規模は以前に比較して著しく縮小している。秋田氏時代の宍戸城の絵図と宍戸松平氏時代の宍戸陣屋の絵図を比較すると、南東隅の土塁の折れが同じなど、宍戸陣屋は秋田氏時代の宍戸城本丸跡をそのまま利用していることが分かる。元治元年(1864年)元治甲子の変(天狗党の乱)が起こると、幕命により水戸藩主・徳川慶篤(よしあつ)の名代として宍戸藩9代藩主・松平頼徳(よりのり)が鎮圧のため江戸から水戸に下向する。この軍勢を大発勢といった。しかし、大発勢は市川三左衛門ら諸生党が占拠する水戸城(水戸市)に入城できず、那珂湊に向かったところ諸生党が追撃してきて砲撃を加えてきた。頼徳ら大発勢はやむなく応戦するが、天狗党が大発勢側に合流したため、結果的に諸生党および幕府追討軍と交戦することになってしまう(那珂湊戦争)。松平頼徳は幕府追討軍との戦いは本意でないため降伏するが、幕府追討軍総括・田沼意尊(おきたか)より責任を追及されて、頼徳は切腹、家臣の多くも処刑され、宍戸藩は改易となった。この争乱での宍戸藩の犠牲者は63名を数える悲劇となった。頼徳の辞世の句は「思いきや野田の案山子(かかし)の竹の弓、引きも放たで朽ち果てんとは」である。慶応4年(1868年)2月、新政府より宍戸藩の復興が認められ、父の松平頼位(よりたか)が再び藩主となる。(2025.05.11)

本丸南東隅の折れのある土塁
本丸南東隅の折れのある土塁

残存する本丸北東隅の土塁跡
残存する本丸北東隅の土塁跡

移築現存する宍戸陣屋の表門
移築現存する宍戸陣屋の表門

八田知家・宍戸家政の五輪石塔
八田知家・宍戸家政の五輪石塔

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