下田城(しもだじょう)

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小田原北条氏が直轄した城で、北条水軍の前線拠点であった軍港を守る要塞

鵜島城址碑と天守台への階段
鵜島城址碑と天守台への階段

中世の海賊城に分類される下田城は、下田湾に突き出た半島状の丘陵に築かれ、周囲には複雑に入り組んだ入江を持ち、三方を海と断崖に囲まれた天然の要害であった。この丘陵は鵜島(うじま)というため、鵜島城とも呼ばれた。現在、城址一帯は下田公園となっている。標高69mの山頂部を主郭とし、四方に延びたやせ尾根の要所に曲輪や櫓台を設け、総延長700mを超える長大な空堀が巡る伊豆半島で最大規模の城であった。最高所となる曲輪は天守台と呼ばれるが、天守が築かれた訳ではなく、おそらく井楼櫓のような物見の施設があったと考えられる。現在も天守台の岩盤には、複数の柱穴が確認できる。尾根上の曲輪はいずれも細長く、大きな建物を建てる敷地は確保できない。現在の開国広場に居館が置かれたようで、その北麓の平地には城将の清水康英館があったとされる。下田城の場合、山上の尾根を大土塁とみなして活用しているのが特徴で、このため本曲輪や二曲輪、三曲輪と明確に区分できる曲輪配置をしていない。軍船を収容する船溜りを守るために尾根の地形をうまく選んでおり、船溜りを抱え込むよう防御する縄張りとなっている。船溜りは淡水と海水が混ざった汽水域である北側の稲生沢(いのうざわ)川の河口付近に設けられ、船底に付着する生物や植物を繁殖させないようにした。『下田年中行事』巻之十四によれば、この辺りに「大手」と呼ばれる地名があった事から、海賊城らしく大手は海に向いていたと考えられる。城址および周囲は、馬場ヶ崎、和歌ノ浦、お茶ヶ崎、志太ヶ浦、大浦、狼煙崎(のろしざき)などが複雑に入り組んだ地形で、お茶ヶ崎には物見櫓があったとされる。また、赤根島など周辺の小島群とも連携していたようである。長大な空堀の構造は、北条流築城術の特徴である畝堀(うねぼり)で、空堀の中に侵入した敵兵の行動を妨げるために障害物(畝)を設けた堀であった。天主台の南側の畝堀が保存状態が良く、その形跡を確認することができる。下田城の築城時期は不明だが、延元2年(1337年)に記された『基氏帳』の記録に「本郷氏島城主志水長門守」とある。この本郷とは稲生沢川の下流域に残る地名であり、氏島城とは鵜島城のことと考えられている。従って、下田城は南北朝時代には既に存在していた事になる。明応2年(1493年)北条早雲(そううん)が伊豆討入りをおこない、堀越公方を継いだ足利茶々丸を滅ぼして伊豆一国を平定する。これにより伊豆に割拠する国人たちも、早雲を初代とする北条氏に従うことになる。天文20年(1551年)頃に成立したと考えられる『小田原旧記』には「豆州下田之城代笠原能登守」と記されている。この頃には下田城と呼ばれ、北条氏配下の城として機能していたことが分かる。ちなみに笠原能登守とは笠原康勝(やすかつ)のことで、北条氏3代当主である氏康(うじやす)の五家老に数えられる重臣であった。他の五家老とは、武蔵河越城代の北条左衛門大夫綱成(つなしげ)、相模玉縄城代の北条治部少輔綱高(つなたか)、武蔵栗橋城代の富永右衛門尉直勝(なおかつ)、上野平井城預りの多目周防守元忠(もとただ)であった。この五家老の指物の色はそれぞれ定められており、「地黄八幡」こと北条綱成が黄備、北条綱高が赤備、富永右衛門尉が青備、笠原能登守が白備、多目周防守が黒備で、これら五色を総称して北条五色備(ごしきぞなえ)と呼ばれた。やがて北条氏は下田城を北条水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎を配置した。朝比奈孫太郎とは玉縄十八人衆のひとりで、玉縄城主である北条左衛門大夫氏勝(うじかつ)の次に数えられるほどの実力者であった。

天正14年(1586年)北条氏と同盟関係にあった徳川家康は、天下統一を進める豊臣秀吉に対して臣従することとなり、天正15年(1587年)秀吉の九州平定を経て、相模小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏は関東で孤立した。北条氏5代当主の氏直(うじなお)は、表面的には中央勢力である秀吉と友好的な関係を模索しつつ、一方で領内の主要城郭を改修強化しており、和戦両様の構えで臨んだ。天正16年(1588年)陸の防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英(やすひで)を城代として大改築がおこなわれた。北条氏直の判物によれば「豊臣秀吉軍は船働歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手であるから一切任すのである」という内容の文書が残っている。清水氏は、祖父の盛吉(もりよし)が北条早雲に従って伊豆入国した譜代の家臣であった。賀茂郡の加納矢崎城(南伊豆町加納)を本拠とし、三島神社奉行および評定衆なども務め、北部の伊豆郡代笠原氏とともに南部の伊豆奥郡代として、北条氏の伊豆支配の代行者であった。康英は、清水氏2代当主である綱吉(つなよし)の子で、北条氏康の偏諱を与えられている。清水氏の当主は、代々北条氏の偏諱を拝領しており、官途名は太郎左衛門尉、受領名は上野介を称した。韮山城(伊豆の国市)に属する伊豆衆随一の大身で、知行は伊豆衆の中で最も多い829貫700文余という。『北条氏所領役帳』によれば伊豆衆二十九人衆の筆頭とされ、伊豆在地の小領主らを寄子同心に組み入れて率いた。その後も北条氏を滅ぼしたい秀吉と、有利な条件で臣従を勝ち取ろうとする北条氏との間で駆け引きは続いたが、天正17年(1589年)北条氏の家臣が名胡桃城事件を起こすと、これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、北条氏の討伐が決定的となる。天正17年(1589年)12月から翌年にかけて北条氏の防衛態勢は整えられていった。伊豆半島を守備する北条軍は、獅子浜城(沼津市獅子浜)に大石越後守直久(なおひさ)、丸山城(伊豆市八木沢)に富永三右衛門山随(さんずい)、安良里(あらり)城(西伊豆町安良里)に三浦五郎左衛門茂信(しげのぶ)、田子城(西伊豆町田子)に山本信濃守正次(まさつぐ)など、わずかな兵力が配備されるのみで、伊豆半島の水軍の主力は下田城に集約し、西伊豆の大型水軍基地である長浜城(沼津市内浦重須)、高谷城(伊豆市土肥)などは放棄された。下田城の守備は、主将の清水康英と、弟の淡路守英吉(ひでよし)、英吉の子・能登守をはじめ、雲見(くもみ)の高橋丹波守と、一族の左近、六郎佐衛門、縫殿助、助三郎ら、子浦(こうら)の八木和泉守、妻良(めら)の村田新左衛門、小関加兵衛など、伊豆衆を主力とした。また、小田原からの援軍として江戸摂津守朝忠(ともただ)とその一党、さらに検使として派遣された高橋郷左衛門尉らを合わせても僅か600人余であった。雲見の高橋丹後守とは、「丹波殿、女房質入れご出陣」、「丹波殿、鯨に乗ってご出陣」という狂歌が残る北条家臣団の名物男であったようである。当初、北条氏の船手大将である梶原備前守景宗(かげむね)が下田に派遣されており総勢2千8百の兵力であったが、景宗は豊臣水軍と戦うには陸上交通に不便な下田城では補給が困難で、籠城には不利であると主張、そもそも豊臣水軍が下田城を通り過ぎて小田原沖に出てしまっては意味がないとして清水康英と対立した。そして、天正18年(1590年)2月下旬、景宗配下の水軍は小田原の河口と、三浦半島の相模新井城(神奈川県三浦市)の油壺湾へ移動してしまう。

北条氏政(うじまさ)・氏直父子も景宗の行動を認めざるを得なかった。下田城の城兵は海賊衆(水軍)が多かったが、康英はそうではなかったため、北条氏の依頼により吉良氏朝(うじとも)の水軍の将である江戸朝忠が副将として派遣されたのであった。豊臣軍が小田原を攻めるには、まず伊豆を政略しなければならなかった。伊豆攻略軍の総大将は、九鬼大隈守嘉隆(よしたか)で1千5百を率いていた。他に、長宗我部元親(もとちか)2千5百、脇坂安治(やすはる)1千3百、加藤嘉明(よしあき)6百、毛利水軍5千、それに徳川水軍の小浜景隆(おはまかげたか)、向井正綱(まさつな)、本多重次(しげつぐ)など、合わせて1万4千余の大軍勢であった。瀬戸内・熊野・伊勢の海賊衆を中心とした強力な水軍である。それらは関船や、小早、荷船など、軍船1千隻で編成された大船団で、長宗我部元親の家臣・池六右衛門などは、200挺艪の大型安宅船に大砲2門、鉄砲200挺を装備したものまで用意していた。天正18年(1590年)3月、駿河の清水湊(江尻)に集結した豊臣水軍は、一気に伊豆半島の西海岸へ進攻、小浜景隆は高谷城と丸山城を占拠する。4月1日には安良里城を本多氏が、田子城を向井氏が落とし、勢いに乗った豊臣軍は大挙して松崎へ上陸した。そして、いち早く高札を立てて豊臣軍の狼藉を停止、軍規を保ち人心の安定を計っている。その内容は、戦乱で逃れた農民を急ぎ帰らせること、軍勢が民家へ陣取ることの禁止、農民に不法な申しかけをしたり、麦などを刈り取った者は厳重に処罰するというものであった。この掟書には、天正18年(1590年)4月の日付が残り、岩科の天然寺(松崎町)に現存している。一方、子浦に上陸した部隊は下田城を目指して陸路を進軍するが、伊豆ヶ崎岩殿(がんでん)の岩殿寺砦(南伊豆町岩殿)で清水英吉が行く手を阻み、妻良衆の小関加兵衛と村田久兵衛の活躍により豊臣勢を退却させた。この岩殿における小関と村田の戦功を北条氏直が賞した記録が残っている。しかし、豊臣水軍は西伊豆を制圧しながら南下、主力である九鬼・長宗我部・脇坂・加藤らの軍船は、4月1日に石廊崎(いろうざき)沖を旋回して下田沖に到着した。下田城は三方が海に面した要害で、軍船をつける所はない。このため加藤嘉明らの部隊は、下田湾から対岸の外ヶ浜に上陸し、民家などを焼き払いながら、武山の武峰(ふほう)出丸を占拠、軍船から大砲を運んで武山から下田城を砲撃した。また、下田富士の麓からも侵攻して、城下に火を放ち、下田城の山下郭に迫った。これらの戦いの中で、江戸朝忠は討死している。圧倒的な兵力を有した豊臣勢は、無理な力攻めはおこなわず、海上封鎖で下田城の孤立を図ったが、内陸部からの攻勢は強めていた。しかし、勇将として知られる清水康英の巧みな指揮により、下田城は落城することなく持ち応えている。途中、長宗我部隊を残して主力は小田原沖に召喚されたが、それでも兵力差はどうすることもできず、4月下旬に開城勧告を受け入れ、豊臣方の安国寺恵瓊(えけい)、脇坂安治らと三か条の起請文を交わして下田城は開城した。『安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文』には「天正十八年四月二十三日、下田城で籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った」とあり、豊臣水軍の西伊豆侵攻から50日余も持ち応えたことになる。北条氏の代表的な城郭である山中城や武蔵八王子城(東京都八王子市)でさえ、僅か1日で落城したことを考えると、下田城は善戦したといえる。一説に、下田に残された長宗我部元親は、一刻も早く小田原へ行くために謀略を用いたという。

それは、下田城に小田原落城を報せる嘘の矢文を放ち、やむなく開城した清水康英らを捕らえて殺そうとしたというが事実ではない。開城した下田城は、家康の家臣・天野三郎兵衛康景(やすかげ)が管理した。一方、城を出た康英らは林際寺(河津町沢田)に退去して、高橋丹波守ら配下の労をねぎらい、「下田籠城五十日間の戦功を謝す」という書状を与えて散軍した。康英は菩提寺の千手庵に隠棲、妻子と共に3人で身を寄せたことから三養院(河津町川津筏場)と呼ばれるようになるが、翌天正19年(1591年)6月に康英は没した。康英には他に2人の息子がいたが、長男の新七郎は、永禄12年(1569年)駿河蒲原城(静岡市)で甲斐武田氏と戦って戦死している。次男の太郎左衛門尉政勝(まさかつ)は、元亀3年(1572年)武田信玄(しんげん)の西上作戦に北条氏からの援軍として参加、徳川家康との三方ヶ原の戦いにも参戦し、敵将の首を素手でねじ折るという荒技をみせ「ねじ首太郎左衛門」と畏怖された。その怪力は母ゆずりで、康英の妻も崖から落ちかけた牛と俵を抱え上げたという逸話を持つ。小田原征伐では、政勝は小田原城に籠城しており、開城後は北条氏直に従って高野山に同行、のちに家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす)に仕えている。北条氏が滅びると、その遺領は家康に与えられ、約100年におよぶ北条氏の伊豆支配は終焉を迎えた。下田には家康の家臣である戸田忠次(ただつぐ)が5千石で入部して下田城を継続使用したが、慶長6年(1601年)忠次の次男・尊次(たかつぐ)が三河国田原に転封した後は江戸幕府の直轄領となる。役目を終えた下田城は廃城となるが、元和2年(1616年)下田に遠国奉行が置かれることとなった。この下田奉行は、下田港の警備、船舶の監督、貨物検査、当地の民政が役務である。下田港は江戸に出入りする帆船にはよい風待ち港であったため、出船入船三千艘といわれるほど賑わった。初代下田奉行の今村彦兵衛重長(しげなが)は須崎に遠見番所を置いて、下田港に出入りする船を監視、元和9年(1623年)番所は大浦に移され、寛永13年(1636年)船改(ふなあらため)番所に変わり、江戸に入る船は必ず下田港で御番所の調べを受けなければならなくなった。こうして下田港は大いに繁栄した。2代奉行の今村伝四郎正長(まさなが)は下田城址に植林をおこない、以後は幕府の御用林として保全された。また、寛永12年(1635年)了仙寺(下田市七軒町)を創建している。正長は長崎奉行も兼ねるなど、幕府の中でも要職にあった。享保5年(1720年)下田奉行は廃止され、新たに相模国浦賀に設置された浦賀奉行の浦方御用所が置かれた。下田には幕末の史跡も多く、嘉永7年(1854年)日米和親条約締結により即時開港となった下田港にアメリカ海軍東インド艦隊7隻を率いるペリーが上陸した場所であるペリー艦隊上陸記念碑、吉田松陰(しょういん)が黒船密航に失敗した後に拘束されていた吉田松陰拘禁之跡、ペリーと日本全権が日米和親条約付録下田条約を締結した国指定史跡の了仙寺、下田条約により事実上の貿易が開始された欠乏所(けつぼうしょ)跡、ロシア使節プチャーチンと日露和親条約の調印場所である長楽寺(下田市三丁目)、日本で最初の米国総領事館として使用された玉泉寺(下田市柿崎)、初代アメリカ総領事ハリスの世話役であった「唐人お吉」が晩年に営んだ料亭・安直楼(あんちょくろう)などである。太平洋戦争末期、下田城跡は特攻艇・震洋(しんよう)の基地となり、地下壕や高射砲の砲座も残る。現在も城域の一部を海上保安庁が利用しており、水軍拠点としての歴史は続いている。(2015.08.12)

往時は700m以上あった畝堀跡
往時は700m以上あった畝堀跡

尾根を鋭く断ち切る岩盤堀切
尾根を鋭く断ち切る岩盤堀切

天守台の南側に現存する畝堀
天守台の南側に現存する畝堀

稲生沢川から見た下田城全景
稲生沢川から見た下田城全景

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