指月伏見城(しげつふしみじょう)

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豊臣秀吉が明の使節と謁見するために築城した黄金色に光り輝く豪華絢爛な城

一部が保存された内堀の石垣
一部が保存された内堀の石垣

京都の南の玄関口である伏見は、桂川・鴨川・宇治川に沿った平野部と桃山丘陵で構成されており、街道と水運が発達した要衝として栄えた。戦国時代には豊臣秀吉が伏見城を築いたことで、絢爛豪華な桃山文化が開花している。また、徳川家康もこの地を重要視しており、江戸時代には京都・伏見・大坂を結ぶ淀川水運が整備され、伏見港は日本最大級の河川港として大いに賑わった。幕末には坂本龍馬(りょうま)をはじめ、多くの志士たちが集った場所で、鳥羽伏見の戦いの舞台としても知られている。京都盆地と山科盆地の境界となる丘陵群は北から東山丘陵、深草丘陵へと連なり、その南端は桃山丘陵と呼ばれている。桃山丘陵は東部の標高約105mの木幡山を最高所とし、西方へ緩やかに傾斜していき、下鳥羽から横大路の低地へと至る。木幡山から南西の桃山丘陵の南端部は指月丘(しげつのおか)と通称された。伏見の地には、短期的に3つの伏見城が築かれた。まず、豊臣秀吉により指月丘に隠居屋敷(豊臣期指月屋敷)の造営が始まり、その後に本格的城郭に改められた伏見城(豊臣期指月城)、慶長伏見地震で伏見城が倒壊した後、城地を木幡山に移して再建された伏見城(豊臣期木幡山城)、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで焼失後、徳川家康によって同じ場所に再建された伏見城(徳川期木幡山城)である。この指月城と木幡山城の両方を総称して伏見城と呼んでいる。1つ目の伏見城である指月伏見城は、観月の景勝地である指月丘に存在した。この指月城にいた頃に秀吉が詠んだ歌がある。「さらしなや、をしまの月もよさならん、たゝふしみ江のあきの夕くれ」というもので、月の名所である信州の更科や松島の雄島と同じくらい伏見江(巨椋池)の秋の夕暮れは素晴らしいという意味である。指月城の城域推定地は標高約40m、比高約25mで、その南側は宇治川に面した急峻な崖であり、高低差は最大で約25mとなる。宇治川の南側には、かつて広大な巨椋池(おぐらいけ)が存在し、池というよりは湖と呼ぶべき規模を誇っていた。中世まで巨椋池には桂川・宇治川・木津川・山科川が直接流れ込んでいたが、豊臣秀吉による河川付替事業により宇治川・山科川が分離、さらに明治時代の河川付替事業によって巨椋池が河川から分離、昭和初期の干拓事業によって巨椋池は消滅している。指月城は築城から廃城までわずか1年半という短い期間であったため、史料がほとんどなく、指月城は存在しなかったとする説が現れるなど、幻の城とされてきた。木幡山城(京都市伏見区桃山町古城山)の築城にあたって城下町が大きく広げられ、指月城跡にも新たに大名屋敷が築かれたため地表面に痕跡はなく、これまで指月城の所在すらつかめていなかった。しかし、近年になって木幡山城の大名屋敷の遺構の下から指月城の遺構がいくつも発見されており、その実態が徐々に明らかになってきた。平成27年(2015年)指月城の推定範囲の中央部分で、南北約43mの直線的な石垣と内堀跡が出土した。南北端ともに調査区外へと延びるため全長は不明という。この内堀跡からは多数の金箔瓦が見つかった。考古学的な見地においても、指月城の実在は疑う余地がなく、この内堀東側の石垣の一部を展示保存している。また、縄張りを確認するため表面波探査法を実施したところ、南北に延びる2本の内堀が検出されたという。従来、本丸のみの単郭式とみられた指月城が、3つの曲輪が東西に連郭式に並んでいたことが分かり、東側の曲輪が最も広いため本丸と想定されている。指月城の曲輪は雛壇状に造成され、最上壇の東側の曲輪から西に向かって少しずつ低くなっていた。

この東側の曲輪の北東隅が外側に張り出して土壇状の高まりがあるため、この場所に天守があったと想定される。指月城の推定範囲は、東側は舟入(ふないり)と称される幅約110m、深さ約14mもある人工的に掘削された窪地、南側は宇治川北岸の崖、西側は大和街道(現在の国道24号線)、北側は立売通りで区画された南北約250m、東西約500mと考えられていた。しかし、令和3年(2021年)さらに北側の推定範囲外の場所から指月城の石垣が出土したことから、指月城の推定範囲がさらに北側に広がる可能性が高まっている。指月城の支城として、宇治川を隔てた南側の巨椋池に浮かぶ水城が向島(むかいじま)城(京都市伏見区向島本丸町)である。現在は巨椋池が干拓され、向島城の城跡としての痕跡は本丸跡の微高地程度だが、向島本丸町、向島二ノ丸町などの地名が残されている。『慶長年中卜斎記』には「文禄三年伏見向島に城を御取立指月の城より川に橋を掛けてと被仰出候」とあり、文禄3年(1594年)に向島城を築いて指月城との間に豊後橋が架けられたことが記されている。豊後橋は、豊後の大友吉統(よしむね)に架橋させた全長約200mの橋である。また、文禄3年(1594年)9月、加賀の前田利家(としいえ)に命じて槇島堤を築かせ、宇治川の流れを変えるという大規模な土木工事をおこなった。これは宇治川の流れを巨椋池から分離して桃山丘陵の南辺まで延長させる工事であり、淀津と岡屋津という巨椋池の東西に位置する古代からの港の機能を指月城下に集約することと、指月城の南側の宇治川を外堀として機能させる狙いがあった。槇島堤は、豊後橋を起点に宇治橋の手前まで繋がる宇治川の堤防である。槇島堤は宇治橋近くから薗場堤を経由して小倉堤とも繋がっており、槇島堤と薗場堤が繋がる付近には槇島城(宇治市槇島町)があった。駒井重勝(しげかつ)の『駒井日記』には、翌文禄4年(1595年)4月5日に早くも槇島堤に桜3180本の桜並木の存在が記されており、1年足らずで築堤が完成したことになる。指月城からの春の眺めは、宇治川の槇島堤に咲く美しい桜、その奥の巨椋池と向島城がそびえる姿は壮観であったと想像できる。槇島堤の築堤に伴い、宇治橋を経て木幡山の東側を通っていた大和街道を、小倉から小倉堤上を北上して豊後橋を経て指月城下を通るルートに変更している。指月城の舟入は、秀吉の命により上杉家の直江兼続(かねつぐ)が掘削したもので、宇治川に接続する舟入から淀川を通じて摂津大坂城(大阪府大阪市)と直結していた。このように伏見は水陸交通の結節点となり、政治的・経済的役割を飛躍的に高めている。伏見という地名の初見は、『日本書紀』巻十四の雄略天皇17年(473年)の条の「山背国内村俯見村」である。また、『万葉集』第九の和歌「巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり射目人(いめひと)の伏見が田居(たゐ)に雁渡るらし」にも見え、古代の早い段階にまで遡ることができる。平安時代中期の治暦3年(1067年)頃、平等院(宇治市宇治蓮華)を建てた関白・藤原頼道(よりみち)の次男で伏見長者と称された橘俊綱(としつな)が、指月丘に壮大華麗な伏見山荘「臥見亭」を造営したとされる。『後拾遺和歌集』には橘俊綱の伏見山荘を詠んだ和歌が収められ、俊綱の伏見山荘が都から客人を呼び、遊びに興じることができる施設と景観を備えたものであったことが分かる。『中右記』によると、寛治7年(1093年)に伏見山荘は焼失し、翌寛治8年(1094年)には俊綱も病没している。橘俊綱の伏見山荘を含む伏見庄は弟の家綱(いえつな)に伝領され、さらに白河法皇に寄進、以後は天皇家に伝わった。

白河法皇は養子の源有仁(ありひと)に、さらに有仁の子となった皇女・頌子(しょうし)内親王に伏見庄を伝領、この頌子内親王が後白河法皇に譲っている。仁安2年(1167年)後白河法皇はこの指月の丘陵上に壮麗な伏見殿を造営し、仙洞御所(せんとうごしょ)とした。仙洞御所とは退位した天皇(上皇)の御所で、後院ともいう。後白河法皇の崩御の後は遺領・長講堂領に組み込まれ、第六皇女・覲子(きんし)内親王に伝領された。承久3年(1221年)承久の乱によって長講堂領は鎌倉幕府に没収されるが、翌年には返還されている。覲子内親王の崩御により長講堂領は後深草天皇に寄進された。正元元年(1259年)後深草上皇が伏見殿を建てて仙洞御所として用いられ、後深草上皇の葬儀も営まれた。その後も持明院統の伏見上皇、後伏見上皇、花園上皇らが伏見殿を仙洞御所としている。南北朝時代の正平7年(1352年)足利尊氏(たかうじ)と南朝が講和した正平の一統の後、尊氏・義詮(よしあきら)父子と南朝方が再び敵対した際、大和国吉野に連れ去られた北朝の光厳法皇・崇光上皇は還御後に伏見殿に入り仙洞御所としている。このように伏見は天皇家の直轄的な荘園となり、指月丘に仙洞御所が存在する時期が続いた。その後、伏見殿と伏見庄は光厳法皇から栄仁(よしひと)親王に譲られ、後に四大宮家に数えられる伏見宮家に伝えられていく。元亀4年(1573年)室町幕府15代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に反発して挙兵し、巨椋池にあった槇島城に籠城する事件が起きた。しかし、伏見の岸に殺到した織田軍に包囲されて敗北、義昭は京都から追放されて室町幕府が滅亡するなど、この辺りが歴史の表舞台に登場している。天下統一を果たした豊臣秀吉は、天正19年(1591年)関白職を甥の豊臣秀次(ひでつぐ)に譲り、聚楽第(京都市上京区)を秀次の居所とした。このため秀吉は、文禄元年(1592年)指月丘に自身の隠居屋敷の造営を命じている。関白を退いて太閤となった秀吉が、隠居屋敷に指月丘を選んだのも、指月丘が仙洞御所として使用された前例を意識していたと思われる。実子に恵まれなかった秀吉は、関白の公邸である聚楽第と、豊臣家の本城である大坂城との間に自らの隠居屋敷を築いて、秀次へ権力の移譲を進めようとした。この頃、朝鮮出兵(文禄の役)をおこなっており、朝鮮に出兵しなかった諸大名から軍役を徴発して、昼夜兼行の過酷な普請がおこなわれた。ところが、文禄3年(1594年)正月より隠居屋敷は機能強化のために本格的な築城に改められ、指月の丘陵上にほぼ新造的に築城されている。これが指月城とも呼ばれた最初の伏見城である。この指月城は、文禄2年(1593年)から小西行長(ゆきなが)らが進めていた文禄の役の講和交渉に際して、明の使節を迎えるために築城されたもので、明の使節に秀吉の権力と財力を見せつけ、朝鮮半島での侵略の正当性を認めさせる事が最大の目的であった。『甫庵太閤記』には、文禄3年(1594年)の「二月初此より廿五万人乃着到にて、醍醐・山科・比叡山雲母坂より、大石を引出す事夥し、伏見には堀普請に勢を分けて掘せけるに、奉行衆打ちかはり打ちかはり見舞いしかば」とあり、築城と同時に惣構堀の普請も始まった。同年4月には淀古城(京都市伏見区納所北城堀)から天守・櫓が移築された。同年10月には殿舎が造営され、秀吉が入城している。文禄2年(1593年)秀吉に秀頼(ひでより)が誕生したことで豊臣政権の状況は変わり、文禄4年(1595年)6月末に豊臣秀次とその妻子が粛清されると、同年7月には破却となった聚楽第からも多くの建物が指月城に移築された。

秀次に仕えていた家臣らも伏見に移動して、指月城は豊臣政権の中枢として機能することとなる。近江安土城(滋賀県近江八幡市)の巴文軒丸瓦など信長の軒丸瓦は文様のくぼみ底面(凹面)に金箔を貼るが、秀吉のは縁上面と文様自体(凸面)に金箔を貼る。金箔は朱漆を接着剤としている。朱色地に薄い金箔を貼ることによって、より派手やかな黄金色となる効果を狙っていたようである。先行する大坂城や聚楽第などより、指月城の飾瓦における金箔瓦率は圧倒的に高く、飾瓦はすべて金箔を施して、5層天守を中心とした城郭全体を黄金色で飾り立てていたと評価されている。派手好みの秀吉の城の中で最も派手な城であった。大坂城、聚楽第、木幡山城など秀吉の城で出土する軒丸瓦は、五七桐文、菊文、三ツ巴文の3種類である。しかし、指月城から出土された日輪(にちりん)文軒丸瓦は類例のない特殊なもので、文様はなく縁上面、内側面、底面の全体に金箔を貼り、円形の黄金文様を表現したと解すべき他の城では見られない意匠で、指月城でも推定範囲の西半域という特定の場所でのみ出土する。しかも後継の木幡山城では見られない。巴文に次いで日輪文(無文)の出土数が多く、少し大型の日輪文軒丸瓦は、明の使節との謁見用の御殿等の屋根を中心的に飾ったものと考えられている。この頃、文禄の役は明の参戦により膠着状態に陥り、講和条約の締結を画策しており、秀吉は明の使節とは大坂城ではなく新造中の指月城で引見することを決めている。結果的には、明の副使とは指月城で謁見したようだが、正使との会見が予定されていた文禄5年(1596年)7月18日の1週間程前に大地震が発生して実現しなかった。明の正使との会見は、結果的に大坂城でおこなっている。文禄5年(1596年)閏7月12日の深夜に起こった大地震は、のちに慶長伏見地震と呼ばれる。この地震により、指月城天守の上2層が倒壊するなど大きな損害を受けた。この時、秀吉は指月城におり、『当代記』によると女73名、中居500名が死亡したといい、秀吉は秀頼を抱いて庭に脱出し、城内で唯一残った台所で夜を明かした。平地は地割れの危険があるので、夜が明けて指月城から北東約1kmにある木幡山に避難した。イエズス会のフランス人宣教師ジアン・クラセが著した『日本西教史』には、大地震の後「城中ニ残リシ者ハ庖厨ノミ太閤殿下姑ク此所ニ入ラレシガ平地ハ地震ノ為メニ裂クル事アレバ安心ナラズト黎明ノ頃或ル山上ヘ避ケ」、「殿下山上ヨリ我ガ城ノ荒タル状ヲ望ミ」、「此山上ニ於テ新ニ伏見城ヲ築カシメタリ」とあり、平地にあった指月城が地震で倒壊したこと、木幡山上に避難したこと、山上から倒壊した指月城を見たこと、避難した山上に新たな伏見城(木幡山城)を築かせたことが分かる。この地震を契機として同年10月27日には「慶長」に改元された。比叡山山麓の西教寺(滋賀県大津市)の客殿は指月城にあった殿舎で、大地震で大破したものを慶長3年(1598年)大谷刑部少輔吉継(よしつぐ)の母と、山中山城守長俊(ながとし)の内室が寄進したものである。桃山御殿と通称され、桁行12間、梁間8間、柿葺きの一重屋根で、南面を入母屋造り、北面を切妻造りとした桃山様式を伝える建物である。伏見城が木幡山に移転すると、指月城跡は大名屋敷地となり、『伏見古御城絵図』では、東側の曲輪の西半を寺沢志摩守、東半を泰長老(相国寺の僧・西笑承兌)の屋敷としている。城跡一帯の地名である桃山町泰長老はこれに由来する。天守台は月光院の敷地となり、中央の曲輪は蒲生飛騨守、松平上総守、西側の曲輪は山中山城守、横田少将、浅野弾正の屋敷となった。(2023.11.18)

指月城の天守台の想定場所付近
指月城の天守台の想定場所付近

宇治川対岸からの指月城遠景
宇治川対岸からの指月城遠景

西教寺に現存する指月城殿舎
西教寺に現存する指月城殿舎

指月城の支城・向島城本丸跡
指月城の支城・向島城本丸跡

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