渋谷城(しぶやじょう)

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平安時代から続く渋谷氏一族の居館

渋谷城跡の金王八幡宮
渋谷城跡の金王八幡宮

JR渋谷駅の東側にある金王八幡宮は、渋谷氏歴代の居城であった渋谷城跡の一部で、寛治6年(1092年)渋谷氏の祖となる河崎基家(もといえ)が、城内の一角に渋谷八幡宮を創建したことに始まる。現在、金王八幡宮の一隅には、土佐坊昌俊(しょうしゅん)こと渋谷金王丸(こんのうまる)を祀る金王丸御影堂があり、この御影堂には渋谷金王丸が保元の乱に出陣の折、自身の姿を彫刻して母に遺した木造が納められている。その傍らに渋谷城の「砦の石」と伝わる石塊が残る。江戸時代には、徳川家光(いえみつ)の守役の青山伯耆守忠俊(ただとし)と乳母(めのと)の春日局が3代将軍就任をこの神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によるものとして、現在の社殿および神門を寄進している。このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館であった。東に鎌倉街道、西から南にかけては文部省唱歌『春の小川』のモデルとなった渋谷川が流れる。金王八幡宮の西側の丘陵斜面は「堀の内」と呼ばれ、東・南・西の低地には渋谷川を利用して水堀を巡らしていたものと考えられる。現在の渋谷警察署のあたりが堀の跡といわれている。この斜面から丘上にかけて居館が築かれていたのであろう。丘の上は金王丸産湯井戸をはじめ、水質の良い井戸に恵まれている。居館の周辺の数ヶ所には湧泉による湿地帯があったとされ、交通の要衝で、眺望に恵まれ、要害堅固という、城郭としての好条件を備えていた。北東方面には黒鍬(くろくわ)谷と呼ばれていた谷地が展開しており、台地続きの南東側も1kmも行かずに渋谷川支流のイモリ川が渓谷を刻んでいる。江戸時代には、まだ馬場や的場、築地の跡が残っていたという。

桓武(かんむ)天皇の孫にあたる高望王(たかもちおう)の後裔、平将恒(まさつね)は、本領である武蔵国秩父郡中村郷に因んで秩父氏もしくは中村氏を称した。秩父氏の祖である平将恒は、武蔵国の勅旨牧である広大な秩父牧の別当職に就任、これが秩父平氏の成長基盤となり、この一族から河越、畠山、小山田、稲毛、江戸、葛西、豊島、渋谷など、鎌倉時代に武蔵国で活躍する諸豪族を輩出する。秩父将恒の長男である秩父武基(たけもと)も、秩父別当職を得ている。長元4年(1031年)秩父武基は、源頼信(よりのぶ)による平忠常(ただつね)追討に功をたて、軍用の八旒の旗を賜り、このうち日月二旒を秩父妙見山に奉納、八幡宮として鎮祭した。妙見信仰とは北斗七星信仰につながる。これは北斗七星中の第七星が破軍星(はぐんせい)と呼ばれ、この星を背にすると必ず戦に勝つと信じられており、弓箭の神として崇拝された。永承6年(1051年)から始まる前九年の役において、秩父将恒と、息子である秩父武基、豊島武常(たけつね)、小山田常任(つねとお)ら秩父党は、ともに出陣するが、秩父将恒、豊島武常、小山田常任は討死している。その後、永保3年(1083年)から始まる後三年の役では、秩父武基の子である秩父武綱(たけつな)が、源義家(よしいえ)の軍に従い、源氏の白旗を掲げ先陣を切って活躍したと伝えられる。秩父武綱の弟とも、一説には次男ともいわれる河崎冠者基家が、出羽国の金沢柵(秋田県横手市)を攻略した功により、恩賞として武蔵国豊島郡谷盛庄(やもりのしょう)を与えられた。河崎基家は秩父二郎、小机六郎とも号し、武蔵国荏原郡、橘樹郡河崎庄(神奈川県川崎市)や小机郷(横浜市港北区)などを本領とする人物である。河崎基家は、このたびの武功を月旗の加護であると考え、寛治6年(1092年)豊島郡谷盛庄に月旗を奉じて八幡宮を勘請した。これが現在の金王八幡宮の前身である渋谷八幡宮の始まりである。なぜ平氏なのに清和源氏の氏神である八幡神なのかについては、主人である八幡太郎義家の信仰している神を祀ったということである。金王八幡宮の社記によると、同じ寛治6年(1092年)河崎基家の嫡子である河崎平三重家(しげいえ)が、源義家の上洛に従って、内裏(だいり)の警備をおこなっていた時、2人の賊徒が切り込んできた。河崎重家がこれに立ち向かって、1人を討ち取り、1人を生け捕りにした。賊徒の名を問うたところ、「我こそは相模国の住人、渋谷権介盛国(もりくに)なり」と名乗ったという。この功によって、堀河天皇より渋谷の姓を給わり、渋谷土佐守従五位下に任じられている。普通、賊徒の姓を給わるというのはおかしな気がするが、生け捕りにした賊徒は「権介」と名乗るので、相模国の在庁官人であり、一定の領土を支配する在地領主である。この賊徒も慣例により本領の地名を名字にしていたと考えられるため、賊徒の本領である渋谷の地を没収して、河崎重家に与えるということを意味しているのである。こうして、渋谷土佐守重家は、相模国高座郡渋谷荘も領有することになるが、谷盛七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井等)を本領として、渋谷八幡宮を中心に館を構築して居城とした。これが、東京の「渋谷」という地名の由来とされている。

渋谷重家夫妻が渋谷八幡宮に授児祈願を続けたところ、金剛夜叉明王が妻の霊夢に現れて御神徳により子供を授かったという。このため、永治元年(1141年)8月15日に生まれたこの子供に金王丸と名付けたのである。渋谷重家の長男・重国(しげくに)は、相模国渋谷荘司となって移ったが、次男・金王丸常光(つねみつ)はこの地で成長した。渋谷金王丸は、17歳の時に源義朝(よしとも)に従い保元の乱(ほうげんのらん)で功をたてた。その後の平治の乱(へいじのらん)に敗れた義朝は、東国に下る途中に尾張国野間荘内海の長田忠宗(おさだただむね)の館に立ち寄った際、長田の謀反によって謀殺される。随従していた金王丸は、長田氏の郎等数十人を切って京都に戻り、義朝の死を常盤御前に伝えて、自身は出家して土佐坊昌俊と名乗って諸国を行脚、義朝の菩提を弔ったという。源頼朝(よりとも)とも親交が深く、鎌倉幕府の開幕にも尽力した。源義経(よしつね)の追討の命を受け、文治元年(1185年)10月23日夜、心ならずも義経の館に討ち入り、勇ましい最期を遂げた。渋谷八幡宮には渋谷金王丸が所持していた「毒蛇長太刀」が保存されている。金王丸の没後も、渋谷氏はこの地で渋谷城に拠っていたが、その動向は一切不明である。しかし、目黒の『氷川神社新倉宮司蔵書』の文中によると、応永23年(1416年)上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱の際、禅秀方に渋谷氏という土豪が存在する。この時、禅秀軍は世田谷城(世田谷区)を落としたが、足利持氏(もちうじ)が、白金から青山、渋谷を進軍して、世田谷城を奪還したとある。

大永4年(1524年)北条氏綱(うじつな)の関東攻略の際、江戸城(千代田区)より出撃してきた扇谷上杉朝興(おおぎがやつうえすぎともおき)と氏綱が高縄原で衝突した(高縄原の合戦)。両軍は激闘を展開したが、戦線は膠着状態となった。そこで氏綱は別働隊を渋谷方面から廻して扇谷上杉軍を挟撃し退路を遮断した。これが功をなして、扇谷上杉軍は守勢にまわり江戸城へ退却した。この時に渋谷城は北条氏の別働隊によって焼き払われ、渋谷氏は滅んだとも、渋谷城を捨てたともいわれる。現在の渋谷駅前から円山町に至る坂道を道玄坂という。大永5年(1525年)渋谷氏が北条氏綱に滅ぼされたとき、渋谷一族の大和田太郎道玄(どうげん)が渋谷城跡近くの坂の傍に道玄庵という庵(いおり)を造って住んだ。そのため、この坂を道玄坂と呼んだという。または、大和田太郎道玄は、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛(よしもり)の子孫ともいい、この坂に出没して山賊・夜盗のように暴れ回ったとも伝えられる。江戸時代になると道玄坂は、大山街道の一部として多くの人と物が往来していた。当時の道玄坂は、現在の道玄坂から世田谷街道に入って松見坂までを広く呼んだものであった。江戸時代の中期頃より現在の道玄坂を指すようになった。やがて明治時代になり、品川鉄道(JR山手線)ができると、渋谷付近は急速に開けだした。渋谷城跡に残る金王桜(こんのうざくら)についてはさまざまな伝承があるが、『金王神社社記』によると、源頼朝は父である義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、鎌倉亀ヶ谷の館からこの地に移植したものとされている。一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられた。(2002.03.19)

金王八幡宮正面
金王八幡宮正面

渋谷城の砦の石
渋谷城の砦の石

渋谷城跡の金王桜
渋谷城跡の金王桜

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