新発田城(しばたじょう)

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天守代用の本丸三階櫓の屋根に3匹の鯱が載せられたという全国的に例のない城郭

3匹の鯱を載せた本丸三階櫓
3匹の鯱を載せた本丸三階櫓

蒲原平野の北東部、新発田川の自然堤防上の微高地に築かれた新発田城は、江戸時代には新発田藩の藩庁として機能した。新発田という地名の由来には諸説あり、潟(湖沼)に接する地域である「州端(すばた)」や、湿地・荒地を開墾してできた「新開発田」などがある。新発田城の縄張りは、本丸を中心に周囲を二ノ丸が取り囲み、その南側に三ノ丸を配置して、三ノ丸の南端に大手門を開いた南北に長いひょうたん型となる輪郭・梯郭併用式の平城であった。外側には外ヶ輪(とがわ)、西ヶ輪(にしがわ)と呼ばれる外郭部を備えていた。城郭としての機能は本丸と二ノ丸の北半分(古丸)に集中しており、二ノ丸の南半分と三ノ丸には家老や重臣の武家屋敷が並び、外郭部には中・下級藩士の屋敷や寺町などが造られた。本丸の一部において「切込ハギ」により布積みされた石垣が用いられ、約350mにわたって現存しているが、これは寛文9年(1669年)の大地震により崩れた石垣を積み直す際に、それまでの乱積みから変更されたものである。このため新発田城は石垣の城という印象が強いが、これら以外に石垣は用いられず、主に土塁が使われたという。現存するものとしては、本丸と二ノ丸の間に配置された帯曲輪の土橋門跡付近に土塁が残されている。往時の新発田城には、櫓が11基、主な城門が5棟あった。本丸には鉄砲櫓、三階櫓、折掛櫓、辰巳櫓の4基の櫓と、表門、裏門があった。このうち北西隅に築かれた三階櫓が事実上の天守に相当するが、外様大名の立場から江戸幕府に遠慮して天守という名称は用いず、三階櫓と呼んでいた。この三階櫓は、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型3層3階であった。3層目の丁字型の棟上には3匹の鯱が載せられるという独特なもので、他に類例を見ない。三階櫓の前身となる「いぬい櫓」は2層であったが、寛文8年(1668年)の大火によって焼失しており、延宝7年(1679年)に三階櫓が築かれた。その他、二ノ丸には6基、三ノ丸には1基の櫓が配置された。本丸御殿は柿葺きの2階建てで、室数は130にもおよんだ。本丸の裏門や、二ノ丸の大手中の門および西の門、三ノ丸の大手門は、高麗門と櫓門を組み合わせた枡形門であったが遺構は何も残らない。現在の新発田城跡には、本丸表門と旧二ノ丸隅櫓が現存しており、ともに国の重要文化財に指定されている。本丸表門は寛文の大火を経て、享保17年(1732年)に再建された2階建ての櫓門で、腰まわりは北国特有の瓦張りの海鼠壁(なまこかべ)を用いて、冬季の積雪時でも壁が腐らないよう工夫されていた。現在の本丸表門の堀側は土橋になっているが、本来は木造の橋が架けられていた。二ノ丸隅櫓も寛文の大火後に再建された入母屋造の2層2階櫓で、もとは二ノ丸北側にあったものを、昭和35年(1960年)に現在の本丸鉄砲櫓跡に移築したために旧二ノ丸隅櫓と呼ばれる。こちらも腰まわりは白と黒の海鼠壁になっている。本丸表門と旧二ノ丸隅櫓は、新潟県内で唯一、江戸時代から現存する城郭建築遺構である。平成16年(2004年)には、明治初頭に撮影された古写真や、古文書、古絵図などを資料として三階櫓、辰巳櫓が当時の伝統工法によって復元された。三階櫓の外部は白漆喰塗りで、各層の腰壁は海鼠壁で仕上げている。一方、辰巳櫓の壁だけは海鼠壁ではなく総白漆喰が用いられているのが特徴である。また本丸表門の内側には、初代藩主である溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)の銅像が建ち、本丸表門の外側には、秀勝の曾孫にあたる堀部安兵衛武庸(たけつね)の銅像が建っている。赤穂四十七士のひとりである堀部安兵衛は、新発田の出身であった。

現在、城跡の一部が新発田城址公園として整備されているが、新発田城の本丸および古丸のほとんどが陸上自衛隊の新発田駐屯地になっているため、自衛隊の敷地内に存在する三階櫓は見学できず内部非公開となっている。寺町の寳光寺(新発田市諏訪町)は新発田藩主である溝口氏累代の菩提寺で、初代秀勝をはじめ10代までの歴代藩主の墓塔が並んでいる。かつては浄見(じょうけん)寺と称したが、宝永6年(1709年)江戸幕府5代将軍の徳川綱吉(つなよし)が死去すると、綱吉の院号である常憲院と音が通じるのをはばかって寳光(ほうこう)寺と改名した。弘化2年(1845年)に再建された大きな山門は、瓦葺きの入母屋造の二重門で、細部装飾が多いのは幕末期の特徴である。清水園(新発田市大栄町)の脇には、新発田城の三ノ丸付近にあった石黒門三郎(70石)の武家屋敷が移築保存されている。また足軽町が町はずれの街道筋に配置されることも城下町に共通してみられることだが、清水園から新発田川を挟んで隣接する足軽長屋(新発田市諏訪町)もそんな足軽町の跡地に建っており、俗に清水谷長屋と呼ばれた。天保13年(1842年)に新発田藩の普請奉行によって建てられた木造茅葺き寄棟造の下級武士8世帯向け棟割長屋で、全国的にも例をみない遺構として国の重要文化財に指定されている。新発田城の別名としては、本丸が舟のような形をしていることから舟形(ふながた)城と呼ばれたり、南側以外の三方面が馬足不叶(ばそくかなわず)といわれた自然の要害としての湿地帯で、アヤメがたくさん咲いていたことから菖蒲(あやめ)城とか、大雨になると城が水面に浮んで見えるというので浮舟城と呼ばれた。また、新発田城の縄張りを命じられた長井清左衛門が設計のことで悩んでいたところ、枕辺に1匹の狐が現れ、雪の上に尾を引いて指示したという伝説から狐尾曳ノ城(きつねおびきのしろ)とも呼ばれている。この長井清左衛門は、美濃の斎藤義龍(よしたつ)の旗本・長井源七郎を父とし、姉(瑞雲院)が溝口秀勝の正室であることから、藩主とは義弟の間柄にあった。鎌倉時代初頭、金剛院領であった蒲原郡加地荘の地頭は佐々木三郎盛綱(もりつな)であった。佐々木盛綱は、源頼朝(よりとも)の挙兵を助けた佐々木四兄弟のひとりで、近江国佐々木庄を基盤とした宇多(うだ)源氏佐々木氏の棟梁である佐々木秀義(ひでよし)の三男として生まれる。平治元年(1159年)平治の乱で源義朝(よしとも)が敗れると、これに従った佐々木一族は関東へと落ち延びた。その後、伊豆国に流罪となった源頼朝の身辺に仕えた佐々木盛綱は、元暦元年(1184年)の藤戸の戦いでの活躍など、治承・寿永の乱の平家追討で功をたてている。これらの功績により、源頼朝から加地(かじ)荘の地頭職に任ぜられたのである。以後、盛綱の子孫が加地荘に土着して加地氏を名乗り、加地城(新発田市東宮内)を累代の居城とした。この盛綱を祖とする佐々木党は、加地氏を嫡流として、庶流には磯部氏、倉田氏、竹俣(たけのまた)氏、新発田氏、五十公野(いじみの)氏などがいた。鎌倉時代から戦国時代にかけて阿賀野川の北岸地域に割拠した国人領主のことを揚北衆(あがきたしゅう)と呼び、佐々木党もこれに含まれる。そして、現在の新発田城の地には、新発田氏の城館があったという。最初に築かれた時期は不明だが、この城館が新発田城のはじまりとなる。新発田氏は室町時代頃に加地氏より分かれたとされ、有力な国人領主として新発田城を本拠に新潟津(新潟市)から三条島(三条市)までにおよぶ地域を支配していた。

戦国時代になると、新発田氏は惣領家である加地氏を凌ぐ勢いを持っており、阿賀野川以北の国人領主のなかで、越後守護代の長尾為景(ためかげ)と対抗できる最も独立性の強い存在にまで成長していた。長尾為景は上杉謙信(けんしん)の父にあたる人物で、越後国守護職の上杉房能(ふさよし)を滅ぼし、その報復のために侵攻してきた関東管領上杉顕定(あきさだ)をも敗死させている。享禄3年(1530年)越後上杉氏の一族である上条定憲(じょうじょうさだのり)が長尾為景に対して挙兵した上条の乱において、新発田伯耆守綱貞(つなさだ)は、揚北衆佐々木党の五十公野景家(かげいえ)、加地春綱(はるつな)、竹俣昌綱(まさつな)らと共に、上条定憲に呼応して長尾為景と戦った。この戦いは、天文5年(1536年)まで7年にわたって続き、上条方は次第に為景を追い詰めて隠居にまで追い込んでいる。家督を継いで春日山城(上越市)の城主となった長男の長尾晴景(はるかげ)だが、病弱であったことから家臣団をまとめきれず、越後国内の争乱が続いたため、天文17年(1548年)四男の景虎(のちの上杉謙信)に家督を譲った。天文20年(1551年)長尾景虎が上・中越地域を平定すると、下越の国人領主たちも景虎に従い、長尾氏の家臣として所領を安堵された。こうして、景虎に仕えるようになった新発田綱貞・長敦(ながあつ)父子は、内政外交に力を発揮し、揚北衆では色部氏に継ぐ勢力を有していた。特に長男の尾張守長敦は、上杉謙信の七手組大将のひとりとして、本庄繁長(ほんじょうしげなが)、色部勝長(いろべかつなが)、中条藤資(なかじょうふじすけ)、加地春綱、竹俣清綱(きよつな)、柿崎景家(かきざきかげいえ)らと並び称された武将であった。次男は五十公野氏を継いでおり、五十公野源太治長(はるなが)と称した。新発田長敦・五十公野治長兄弟は上杉謙信に仕えて、関東、信濃、越中への遠征に従い勇将の名を馳せた。天正6年(1578年)上杉謙信が没し、家督をめぐって御館の乱(おたてのらん)が勃発すると、長敦・治長兄弟は劣勢だった上杉景勝(かげかつ)を支援しており、武田勝頼(かつより)との甲越同盟の成立や、上杉景虎(かげとら)方として軍事介入してきた蘆名盛氏(あしなもりうじ)・伊達輝宗(てるむね)の軍勢を退けるなど大いに活躍した。ところが論功行賞において、景勝の側近である上田衆が恩賞を独占しており、新発田氏や五十公野氏に恩賞は与えられなかった。天正8年(1580年)頃、新発田長敦が不遇のうちに嗣子なく病没すると、五十公野治長が新発田家に戻って家督を相続することになり、新発田因幡守重家(しげいえ)と名乗った。結局、景勝が新発田重家に与えた恩賞は、新発田家の家督相続を認めるというだけで、重家の不満は爆発した。天正9年(1581年)重家は上杉景勝からの離反を決意し、妹婿の五十公野信宗(のぶむね)、加地城の加地秀綱(ひでつな)ら佐々木党の協力を得て蜂起、蘆名盛隆(もりたか)・伊達輝宗に通じて独立した。いわゆる新発田重家の乱である。戦上手な新発田勢の抵抗は凄まじく、放生橋(ほうじょうばし)の戦いでは、菅名但馬守、水原満家(みついえ)、上野九兵衛らを討ち取り、上杉軍は大惨敗を喫して、景勝自身も危険な状況に陥っている。この頃の新発田城の主郭は、江戸時代に古丸と呼ばれた場所にあったという。しかし、天正15年(1587年)豊臣秀吉の支援を受けた景勝は、1万余の大軍をもって新発田勢の諸城を攻略し、ついに孤立した新発田城は落城、新発田重家は自刃した。この新発田重家の乱は、鎮圧まで実に7年もの歳月を要している。

新発田重家の乱の鎮圧後、新発田城には宮島三河守が城代として入城したが、慶長3年(1598年)秀吉の命により上杉景勝が会津に移ると、春日山城に堀秀治(ひではる)が入城し、その与力大名として溝口伯耆守秀勝が新発田に配置される。後に新発田藩の初代藩主となる溝口秀勝は、尾張国中島郡西溝口村の地侍の出身で、加賀国大聖寺4万4千石から越後国蒲原郡に6万石(1万石は分封)で入封した。そして新発田城跡を取り入れて築城を開始、縄張りは家臣で楠流軍学者の長井清左衛門と甲賀流軍学者の葛西外記(げき)がおこなった。慶長5年(1600年)徳川家康の上杉征伐を妨害するために上杉景勝が越後で上杉遺民一揆を煽動すると、溝口秀勝・宣勝(のぶかつ)父子は一揆鎮圧に奔走している。このように関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、家康から所領を安堵される。秀勝が築城を始めた新発田城は、入封から56年後の承応3年(1654年)3代藩主である溝口宣直(のぶなお)の時代に完成した。入封当時の領内は、信濃川、阿賀野川、中之口川、加治川の氾濫などにより湿地帯や沼沢地が形成され、頻繁に発生する水害により実質は4万石ほどしかなかったという。歴代藩主が河川改修や干拓など治水工事と新田開発に努めたため、新発田藩領は豊かな穀倉地帯に変わり、実高は20万石以上にもなったと伝わる。幕末には実績が認められ、石高10万石に改められることになる。寛文10年(1670年)赤穂義士の堀部安兵衛は、新発田藩士の中山弥次右衛門の長男として新発田城下の外ヶ輪で生まれた。母方の祖母は藩祖溝口秀勝の六女という家柄であった。中山弥次右衛門は辰巳櫓の管理責任者であったが、中山安兵衛が13歳のときに辰巳櫓を焼失させた責任により浪人した。新発田藩士の来歴を記した『世臣譜(せいしんふ)』には、「此人世に云伝ふ所は巽の御櫓を預かりしか、桐油(合羽)の虫干せしより火出て此御櫓焼失しけれは、この御咎を蒙り御暇を玉ふといふ」とある。その後、「高田馬場の決闘」で名を挙げた安兵衛のもとに、赤穂藩士である堀部弥兵衛から養子に迎えたいと申し出があり、堀部家を継ぐことになる。元禄15年(1702年)大石内蔵助や堀部安兵衛をはじめとする赤穂四十七士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、泉岳寺(東京都港区)にある浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級を供えて仇討ちを報告した。翌年、幕府より四十七士に切腹が命じられ、泉岳寺の浅野内匠頭の墓の近くに葬られる。獅子奮迅の活躍をみせた堀部安兵衛は享年34歳であった。新発田城は溝口家12代の居城として、外様大名でありながら国替えもなく、約270年という長い年月にわたり城下町とともに栄えた。慶応4年(1868年)戊辰戦争に際して去就を決めかねていた新発田藩は、米沢藩から再三にわたり奥羽越列藩同盟としての明確な態度をとるように催促された。やむなく幼君である12代藩主直正(なおまさ)が米沢藩の陣営である岩船郡上関へ赴くことになった。これは策戦協議に名を借りて、藩主が人質に取られることである。これを知った領民は一斉に蜂起し、上人数溜(かみにんずうだまり)に数千人が集結して藩主の通行を阻止したため、清水谷御殿(新発田市大栄町)に入って上関行きを取りやめるという事件がおきた。このため新発田城は列藩同盟軍に包囲されるが、新政府軍の到来により危機を脱し、奥羽越列藩同盟から離脱して新政府軍の先鋒として庄内藩・米沢藩などと戦った。明治6年(1873年)新発田城は廃城令により一部を残して破却され、第二次世界大戦まで歩兵第16連隊の兵営として使われて、昭和28年(1953年)からは陸上自衛隊が引き続き駐屯している。(2014.05.05)

移築現存する旧二ノ丸隅櫓
移築現存する旧二ノ丸隅櫓

現存する櫓門形式の本丸表門
現存する櫓門形式の本丸表門

堀部安兵衛ゆかりの辰巳櫓
堀部安兵衛ゆかりの辰巳櫓

国指定重要文化財の足軽長屋
国指定重要文化財の足軽長屋

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