石神井城(しゃくじいじょう)

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江古田原・沼袋の戦いで太田道灌の足軽戦法に敗北した名族・豊島宗家の本城

石神井城主郭の土塁と空堀跡
石神井城主郭の土塁と空堀跡

難読とされる石神井(しゃくじい)の地名の起こりについては記録に残されている。『四神地名録』には里人のいい伝えとして、井を掘った折、地中から出た石棒を石神井社の神体として祀り、村名を石神井村と称したというものである。『武蔵野話』では「豊島郡下石神井村に石神井の神祠(じんじゃ)と号せる祠(やしろ)あり、神体は石なり、土人(ところのもの)のいひ伝ふるは、いにしへ井を穿し時土中より出しと、夫故村の名を石神井村と称せるよし」と述べている。この社(やしろ)は現在の石神井神社(練馬区石神井町)で、石剣を御神体として本殿に奉祀している。このように石神井の地名は「石神(しゃくじん)の井」に由来する。中世の石神井城跡は、石神井台の石神井氷川神社、三宝寺、道場寺などのある一帯で、石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約49m、比高約7mの舌状台地が城跡である。台地の東西を堀切で断ち切り、東西約350m、南北350mの規模で、東側は幅約7mの壕(ほり)で区画され、西側は幅約9mの壕と土塁で区画されていた。南側は石神井川、北側は三宝寺池を利用して防御した。『武蔵野話』には「この古城跡平城にして広く北に深き池を構へ追手は沼田にて左右は隍(ほり)ふかく堀廻し能固(よきかため)の平城なり、今にその地形を失はず、櫓などかまへし所とみえて築山の小山などあり」とある。現在、石神井公園内の主郭と想定される区画の空堀、土塁のみが保存状態よく残され、往時の空堀は上幅11.6m、底幅3m、深さ6.1mの箱堀で、土塁は基底幅12.3m、現在の高さ2.3m、築城当時の高さ4.5m(推定)となる。縄張りは主郭と外郭からなる比較的単純な構造と想定されるが、城全体の縄張りなど詳細は不明である。石神井城跡は発掘調査もおこなわれ、主郭や土塁築土からは12世紀から16世紀前半までに属する陶磁器が出土している。江戸時代に平坦な主郭跡は畑となったが、主郭の内部からは柱穴跡が若干検出され、鉄釘なども出土しており、小規模な掘立柱建物が建てられていたと考えられている。また、畝状の溝筋が出土したが何の遺構なのか不明である。石神井城は、その規模や空堀、土塁、曲輪の配置からみて15世紀初頭の関東動乱期のものと推定され、時代に応じて逐次拡張されたものと考えられる。三宝寺池は井の頭池、善福寺池とともに武蔵野三大湧水池と呼ばれ、この湧水が石神井川の水源となっている。石神井城は、貴重な水源地である三宝寺池を支配する目的もあった。三宝寺池という名称は、応永元年(1394年)豊島宗朝(むねとも)の開基による三宝寺のそばにあることが由来となっている。もとは東方にあった三宝寺を、文明9年(1477年)豊島氏を滅ぼした太田道灌(どうかん)が、石神井城跡の一郭である現在地に移したと伝わる。三宝寺の境内にある長屋門は、墨田区本所にあった勝海舟(かつかいしゅう)の邸宅から移築したものである。この三宝寺池には、石神井城の落城時の伝説が残されている。太田道灌によって落城に追い込まれた石神井城主・豊島泰経(やすつね)は、豊島氏重代の家宝である黄金の鞍を置いた白馬にまたがり三宝寺池に飛び込んで自害した。次女の照姫(てるひめ)も父・泰経の後を追って身を投げたという。史実では泰経は再起を図って城を脱出するのだが、三宝寺池の北側には、縁者が2人を供養したという殿塚と姫塚が存在する。城跡に建つ石神井氷川神社の創建は室町時代まで遡る。社伝によれば、応永年間(1394-1428年)このあたりの領主であった豊島氏が、武蔵国一ノ宮である大宮氷川神社(埼玉県さいたま市)から分霊して、石神井城内に守護神として祀ったのが始まりという。

石神井氷川神社は石神井城の落城後も石神井郷の総鎮守として領民に仰がれた。中世の石神井郷は、谷原(やはら)、田中、上石神井、下石神井、関の5箇村からなり、現在の町名では、石神井台、石神井町、上石神井、下石神井、立野町までを含む。また、江戸時代の元禄年間(1688-1704年)には、豊島氏の子孫である旗本・豊島泰盈(やすみつ)・泰音(やすたか)父子によって石神井氷川神社に石燈籠一対が奉納されている。この石神井氷川神社の東側が、周囲を空堀と土塁に囲まれ、西側に折歪(おりひずみ)を示す主郭となる。しかし、この主郭の周りには保護のためにフェンスが設けられていて、イベントでもなければ内部は見学できない。武蔵国豊島郡を名字の地とする豊島氏は、桓武平氏の流れをくむ秩父氏の庶流・豊島武常(たけつね)が初代当主である。鎌倉時代には、現在の文京区、台東区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、練馬区、足立区など東京都区部の北側地域や、その周辺地域に勢力を持つ鎌倉幕府の有力御家人であった。その勢力は時代の流れの中で徐々に弱まっていったようである。時代が下ると、それまで豊島氏の本拠としていた平塚城(北区上中里)から石神井川を西に遡って練馬地方へ進出し、源流である三宝寺池を押さえる位置に石神井城を築いているが、その年代は判然としない。しかし、豊島一族が鎌倉時代末期には石神井あたりを支配していたことは確かである。石神井川流域を制するための城は、石神井川沿いに練馬城(練馬区向山)、板橋城(板橋区)、滝野川城(北区滝野川)と、平塚城に至るまでだいたい4kmずつに設けられていた。石神井城周辺から出土する板碑は、その数や内容において立派なものが多い。年代においては、道場寺付近から出土した文応元年(1260年)11月の弥陀種子板碑や、妙福寺旧地から出土した弘安6年(1283年)正月の日蓮題目板碑があり、三宝寺裏手西方から出土した正和3年(1314年)10月の弥陀種子板碑など、練馬区の板碑の中でも古い年代に属している。また特に石神井川流域に沿って板碑が多く出土することから、当地が古くから豊島一族の繁栄した場所であったと考えられる。『新編武蔵風土記稿』によると、はじめ9代当主の豊島三郎入道泰景(やすかげ)が石神井城主となり、ついで弟の景村(かげむら)が元弘年間(1331-34年)に在城したことが分かる。しかし、兄・泰景の代に既に石神井地域まで進出していたことから、築城はさらに遡ると考えられ、当初は居館程度のものであったと思われる。石神井郷は、もともとは豊島一族の宇多氏の所領であったが、婚姻関係により宮城氏、豊島氏と伝来した。豊島宮城文書の『石神井郷内宮城氏所領相伝系図』、『石神井郷内宮城四郎右衛門入道行尊跡相伝系図』によると、鎌倉中期、宇多左衛門大夫重広(しげひろ)という者が、武蔵国比企郡泉(埼玉県比企郡滑川町)の泉右近蔵人の妻となった娘に石神井郷を譲渡したが早世してしまった。宇多重広には他に箱伊豆(はこいず)と土用熊(とよくま)という娘がいた。姉の箱伊豆は足立郡宮城郷(足立区)の葛西氏の後裔である宮城六郎政業(まさなり)に嫁し、妹の土用熊は豊島宗家の豊島泰景に嫁いだ。箱伊豆は四郎右衛門為業(ためなり)を生み、土用熊は孫四郎朝泰(ともやす)を生んでいる。弘安5年(1282年)宇多重広は箱伊豆に石神井郷の所領を譲渡しており、それは実子の宮城為業に伝えている。一方、豊島泰景は嫡子・朝泰の幼いうちに死去したため、一時的に豊島景村が家督を相続した。その後、10代当主となった豊島朝泰には子がなく、宮城為業の子である小三郎宗朝を養子に迎えた。

貞和5年(1349年)宗朝は宮城為業から石神井郷を相続しており、11代当主となった豊島宗朝は石神井郷と豊島宗家の所領を併せ持ったことが分かる。その間、鎌倉幕府滅亡の際は、関東で新田義貞(よしさだ)が挙兵するが、豊島氏はこの討幕軍に加わり、同族の江戸氏、葛西氏、河越氏とともに分倍河原の戦いに参加している。建武2年(1335年)中先代の乱において、足利尊氏(たかうじ)に敗れた執権・北条高時(たかとき)の遺児・時行(ときゆき)は、石神井城の豊島景村のところに逃れて潜伏したという。この時、北条時行は男子を儲けたという伝説があり、その子が輝時(てるとき)で、子供のいない豊島景村の養子になった。応安5年(1372年)豊島輝時は道場寺を創建し、豊島氏の菩提寺となっている。境内には太田道灌に滅ぼされた豊島泰経と一族の墓と伝えるものが現存している。南北朝の動乱において、豊島景村・輝時父子は南朝方に属して功あり、景村は従五位下左近大夫に任じられ、輝時も従五位下左近将監兵部大輔に任じられた。また、豊島景村は豊島郡の他に足立郡、新座郡、多摩郡、児玉郡に所領を持ち、武蔵国で大きな勢力を形成した。応安元年(1368年)平姓武士団による武蔵平一揆の乱で、豊島氏も関東管領・山内上杉氏と戦うが、敗れて石神井郷を含む所領を没収された。それから27年後となる応永2年(1395年)12代泰宗(やすむね)に返還され、13代範泰(のりやす)に継がれていった。その後、豊島氏は山内上杉氏の麾下となる。応永30年(1423年)鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)と関東管領・犬懸上杉禅秀(ぜんしゅう)が争い、禅秀が自害するという事件が起こった。『豊嶋範泰着到軍忠状』は、この上杉禅秀の乱における豊島範泰の活躍を語るものである。これによると、豊島範泰が入間川に参陣して瀬谷原合戦に加わり、禅秀の息子・犬懸上杉伊予守憲方(のりかた)らを追撃して大いに働いた旨が記されている。その後も関東の動乱は続き、関東管領・山内上杉顕定(あきさだ)と扇谷上杉定正(さだまさ)は古河公方・足利成氏(しげうじ)と対決する姿勢をとった。山内上杉氏の家辛が長尾景信(かげのぶ)、扇谷上杉氏の家宰が太田道灌であった。文明5年(1473年)長尾景信が死去すると、長尾家に相続問題が起きた。山内上杉顕定は、家宰に景信の弟である長尾忠景(ただかげ)を立てたため、景信の嫡子・長尾景春(かげはる)はこの処置を不服として主家を恨み、敵方である足利成氏と通じて、山内上杉氏と敵対するようになった。文明8年(1476年)6月、折りしも駿河今川家で内紛が起り、解決のため太田道灌が江戸を離れた隙に、長尾景春は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)で挙兵した。いわゆる長尾景春の乱の勃発である。このとき豊島氏も景春に応じて加勢した。これは19代当主の豊島泰経の妻が長尾景春の妹だったという説もあるが、本当の理由は別にあったと考えられている。その頃、太田道真(どうしん)・道灌父子の勢力が急速に伸びてきており、豊島氏の同族である江戸氏が江戸から追い払われて、豊島氏の所領と境界を接するようになり、次第に太田氏によって豊島領が浸食される状況となった。このため豊島氏は山内上杉氏から離反、長尾景春および古河公方に味方して、太田道灌との決戦におよんだのである。文明9年(1477年)豊島勘解由左衛門尉泰経は石神井城で挙兵、その弟の平右衛門尉泰明(やすあき)は練馬城で挙兵した。長尾景春に与する豊島氏は石神井・練馬・平塚の3城を東西に連ね、扇谷上杉方の河越城(埼玉県川越市)と江戸城(千代田区)を結ぶ連絡路を封鎖して遮断した。

豊島泰経は、景春方の相模溝呂木城(神奈川県厚木市)、相模小磯城(神奈川県中郡大磯町)、相模小沢城(神奈川県愛甲郡愛川町)の諸城と連携して、太田道灌の江戸城を包囲する態勢を整えた。3月14日、事態を重く見た道灌は、江戸城と河越城を結ぶ要路を奪回するため、まず豊島氏の拠る石神井・練馬の両城を攻略することとし、加勢に相模の扇谷上杉勢を充てようとしたが、前日までの大雨で多摩川が増水して渡河できなかった。そこで道灌は反乱の鎮圧を優先して、相模の景春方勢力である溝呂木城および小磯城の掃討に向かった。3月18日、溝呂木正重(みぞろぎまさしげ)の溝呂木城が落城し、次いで越後五郎四郎の小磯城も落ちた。続いて金子掃部助の小沢城を攻めるが、容易に落ちず武蔵の援軍を得てようやく攻め落した。さらに4月10日には、武蔵国勝原(埼玉県坂戸市)で河越城攻略に布陣した景春方の小机城主・矢野兵庫助との戦いで、河越城将がこれを打ち破った。かくして太田道灌包囲網は崩壊して、逆に豊島氏が孤立する状態となった。文明9年(1477年)4月13日、江戸城より出陣した太田道灌は、豊島泰明の拠る練馬城を攻撃した。しかし練馬城の抵抗は激しく容易に落ちないので、城下を放火して一旦兵を引いた。道灌が江戸城に戻る途中、石神井城から練馬城の救援に駆け付けた兄・豊島泰経と遭遇、練馬城からも弟・豊島泰明が追撃してきた。太田道灌は、援軍の扇谷上杉朝昌(ともまさ)、千葉自胤(よりたね)と合流のうえ、軍勢を引き返して妙正寺川と神田川の合流点付近である江古田原、沼袋と呼ばれる場所で迎え撃った。このとき道灌は、中野沼袋氷川神社(中野区)に本陣を構えたという。この江古田原・沼袋の戦いは野戦を得意とした道灌が足軽を駆使して勝利しており、弟・豊島泰明ほか数十名が討死、兄・豊島泰経らは敗走して石神井城に籠城した。追撃する道灌は、翌14日、石神井川の南側の愛宕山(練馬区上石神井)に陣城を築いて石神井城と対峙した。愛宕山にはトーカン山という別名もあるが、トーカンは道灌の転訛と思われる。数日の戦闘の後、4月18日に豊島泰経は城外で道灌と会見して降伏を申し出た。しかし、泰経は和議の条件である石神井城の破却を実行しなかったため、偽りの降伏とみなされた。道灌は4月21日に攻撃を再開、石神井城の外郭を攻め落とした。これにより、豊島泰経は石神井城を捨てて逃亡している。豊島氏の敗走により石神井城は廃城となり、道灌の愛宕山塁も同時に役目を終えた。翌文明10年(1478年)正月25日に豊島泰経が平塚城に籠城しているという情報が入り、道灌が平塚城を目指して膝折宿まで進軍したところ、泰経は足立方面に逃亡したという。その後、泰経の消息は不明となり、400年余り続いた名族・豊島氏は没落した。豊島氏の旧領は扇谷上杉氏に接収され、その大部分は太田道灌の所領となった。太田道灌の声望は絶大なものとなるが、それが主人である扇谷上杉定正の猜疑を生み、文明18年(1486年)道灌は定正に誅殺され非業の最期を遂げることになる。その後、扇谷上杉氏が北条氏康(うじやす)に滅ぼされると、石神井は小田原北条氏の支配するところとなった。永禄2年(1559年)北条氏康のまとめた『小田原衆所領役帳』によると、石神井17貫500文の地は太田道灌の曾孫にあたる太田新六郎康資(やすすけ)の知行地となっており、江戸衆に属していた。太田康資の総貫高は1419貫900文で、江戸衆103人のうち筆頭である遠山丹波守に次ぐ2番目の貫高であった。江戸城代を任されていた康資であったが、永禄5年(1562年)北条氏から離反して安房国に退去している。(2017.11.04)

イベントで開放された主郭内部
イベントで開放された主郭内部

三宝寺裏の主郭南側の土塁跡
三宝寺裏の主郭南側の土塁跡

三宝寺池の北側に残る姫塚
三宝寺池の北側に残る姫塚

江古田原・沼袋の戦い古戦場
江古田原・沼袋の戦い古戦場

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