世田谷城(せたがやじょう)

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足利一門である世田谷吉良氏の居所で、世田谷の原点となる城郭

世田谷城阯公園に残る空堀の跡
世田谷城阯公園に残る空堀の跡

世田谷城は経堂台地から南東に突き出た舌状台地に占地した平山城で、城域の三方の麓を取り囲むように烏山(からすやま)川が蛇行して天然の外堀をなしていた。また、残る北側には小支谷が入り天然の要害であった。現在の世田谷城阯公園は世田谷城の南端のごく一部にしか相当しない。ここには崩落防止用の石垣などの手が加えられているが、土塁が二重に残り、空堀や曲輪の跡も現存する。開発が進み旧状は詳らかでないが、この公園の北側に続く住宅街が一曲輪であった。そして、豪徳寺住宅のあたりを館跡といって二曲輪に相当し、東側には周囲を住宅地に囲まれながらも、高さのある土塁や櫓台、深さのある二重の空堀といった遺構が奇跡的に残されており、よく旧態を留めている。豪徳寺の境内周辺は三曲輪と外構に相当するという。一方で豪徳寺の境内が世田谷城主であった吉良氏の居館の跡であるなど諸説ある。豪徳寺や世田谷城阯公園、世田谷八幡宮(世田谷区宮坂)のあたりまで城域が拡がっていたものと考えられている。世田谷八幡宮は、天文15年(1546年)吉良頼康(よりやす)が創建した神社で、世田谷城の西方を守備する出城の役割も持っていた。現存する世田谷城の形態は、天文6年(1537年)に築城された深大寺城(調布市)と類似しており、深大寺城と同様に小田原北条氏と扇谷上杉氏の勢力が対峙する不安定な情勢を反映して修築されたものと考えられている。世田谷城阯公園の北方にある豪徳寺は、文明12年(1480年)世田谷城主であった吉良政忠(まさただ)が伯母の菩提を弔うために世田谷城内に結んだ弘徳院という庵が前身となる。江戸時代、世田谷は近江彦根藩井伊家の飛地であった。彦根藩の世田谷領にあった弘徳院は、2代藩主の井伊直孝(なおたか)によって井伊家の菩提寺に取り立てられ、直孝の法号にちなんで豪徳寺と改称した。これは弘徳院の白猫の手招きによって直孝が雷難を免れたことによると伝えられ、招き猫の由来ともいわれている。直孝の娘である掃雲院(そううんいん)は、井伊家の菩提寺にふさわしく伽藍造営に貢献している。豪徳寺の梵鐘を製作した藤原正次(まさつぐ)は、釜屋六右衛門ともいい、江戸では名の通った鋳物師であった。この梵鐘は世田谷区内に伝わるものとしては最古であるという。また、豪徳寺の参道は、かつて世田谷城の大手道であったと伝えられている。参道の両側に土塁の跡が断片的に残り、空堀を利用した堀底道であったことが分かる。豪徳寺には彦根藩主で桜田門外の変で有名な井伊直弼(なおすけ)の墓所もある。安政5年(1858年)江戸幕府の大老に就任した井伊直弼は日米修好通商条約の調印を断行し、13代将軍である徳川家定(いえさだ)の後継者問題に決着をつけた。さらに、国内の反対勢力を粛清するため安政の大獄を強行したが、安政7年(1860年)激高した水戸浪士らによって、江戸城(千代田区)の桜田門付近で暗殺されている。世田谷城阯公園の南方には世田谷代官屋敷(世田谷区世田谷)が存在する。これは大場代官屋敷ともいい、江戸時代に彦根藩の世田谷領2300余石の代官職を務めた大場氏が代官所の役宅として使用したものである。茅葺き寄棟造りの母屋と表門が現存し、国の重要文化財に指定されている。他にも白州跡や白州通用口門などがある。この代官屋敷は江戸中期の建築で、大場六兵衛盛政(もりまさ)によって、元文2年(1737年)と宝暦3年(1753年)の2度にわたる工事によって造営された。大場氏は世田谷城主吉良氏の遺臣で、天正18年(1590年)主家が滅びると帰農したが、寛永10年(1633年)この地が彦根藩領となったときに代官に起用されている。

貞応元年(1222年)鎌倉幕府の有力御家人である足利義氏(よしうじ)は、承久の乱の戦功により三河国守護職に任ぜられる。義氏は、三河国幡豆郡吉良荘の西条に三河西条城(愛知県西尾市錦城町)を築いて長男の長氏(おさうじ)を、東条に三河東条城(愛知県西尾市吉良町)を築いて三男の義継(よしつぐ)を配置し、次男の泰氏(やすうじ)には下野国足利郡足利荘で足利宗家を継がせた。この長氏の系統が西条吉良氏となり、義継の系統が東条吉良氏となった。そして、泰氏の系統から後に室町幕府を開く足利尊氏(たかうじ)を輩出する。元弘3年(1333年)後醍醐天皇によって新政権(建武政権)が樹立すると、東北から関東にかけての支配力を強化するため、側近の北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子を陸奥に派遣し、足利尊氏の弟である足利直義(ただよし)を鎌倉に派遣した。北畠親房・顕家父子は義良(のりよし)親王を奉じて、陸奥国国府の多賀城(宮城県多賀城市)に下向し、陸奥将軍府を設置する。北畠顕家は陸奥守・鎮守府将軍に任命され、国司として陸奥・出羽の両国を管轄した。また、足利直義は成良(なりよし)親王を奉じて、相模国鎌倉に下向し、鎌倉将軍府を設置する。足利直義は相模守に任命され、執権として関東十ヶ国の経営に着手した。建武元年(1334年)鎌倉将軍府に関東廂番(ひさしばん)が設けられた。関東廂番とは鎌倉将軍である成良親王と足利直義を補佐するために置かれた軍事・検断組織で、この廂番の三番頭人に吉良貞家(さだいえ)、六番頭人に吉良満義(みつよし)が選ばれ、吉良氏から2人の頭人を出している。吉良貞家は東条吉良氏の4代当主で、吉良満義は西条吉良氏の4代当主であった。建武2年(1335年)北条氏の残党による中先代の乱が発生すると、その討伐に向かった足利尊氏がそのまま建武政権から離反、後醍醐天皇の軍勢との戦いが始まり、南北朝の争乱に突入する。吉良貞家は足利尊氏に従って転戦しており、因幡・但馬両国の守護職に任じられ、さらに幕府評定衆も歴任した。貞和2年(1346年)吉良貞家は畠山国氏(くにうじ)とともに、足利尊氏が新しく設けた奥州管領に就任しており、本拠である東条城から一族を挙げて陸奥に移住し、多賀城を拠点として東北地方の平定に努めた。当時、奥州は南朝方の北畠顕信(あきのぶ)が鎮守府将軍として勢力を保っており、南部氏や伊達氏らがそれを支援していた。しかし、吉良貞家らの活躍によって北朝方の勢力が拡大しており、南朝方の勢力圏は次第に縮小していった。観応元年(1350年)中央で観応の擾乱が起こると奥州にも波及し、観応2年(1351年)足利直義派の吉良貞家が足利尊氏派の畠山高国(たかくに)・国氏父子を滅ぼしており、文和2年(1353年)貞家が死去すると嫡子の満家(みついえ)が奥州管領職を世襲した。しかし、延文元年(1356年)頃に満家も死去しており、相次いで当主を失うという不幸に見舞われている。さらに嫡子の持家(もちいえ)が幼少だったため、満家の弟である治部大輔治家(はるいえ)と叔父の宮内大輔貞経(さだつね)が主導権をめぐって対立、鎌倉府を後ろ盾とする治家と、室町幕府を後ろ盾とする貞経の争いが始まった。貞治5年(1366年)吉良治家は初代鎌倉公方の足利基氏(もとうじ)から戦功として武蔵国荏原郡世田谷郷を与えられている。一方で治家は室町幕府から謀反人とされており、貞治6年(1367年)室町幕府の2代将軍である足利義詮(よしあきら)は結城顕朝(あきとも)に宛て御教書を発給し、石橋棟義(むねよし)と協力し、奥州の両管領とともに吉良治家を挟撃するよう命じている。

この両管領の一方は斯波直持(ただもち)であるが、もう一方は吉良氏のうち持家、貞経のいずれを指すのか明確ではない。吉良治家は足利義詮が派遣した追討軍と戦うが、敗れて没落する。その後は奥州管領を務めた奥州吉良氏も衰退の一途をたどり、明徳3年(1392年)3代将軍の足利義満(よしみつ)のときに奥州管領職は廃止、陸奥・出羽の両国は鎌倉府の管国に編入され、2代鎌倉公方の足利氏満(うじみつ)が直接支配するようになった。一方で吉良治家は、明徳元年(1390年)鎌倉公方から鎌倉府に召還されており、以後は上野国碓氷郡飽間(あきま)郷に移住して鎌倉公方に仕えるようになった。この頃の吉良氏は「飽間殿」と呼ばれたといい、上野国飽間に居住しながら武蔵国世田谷にも領地を持ち、鎌倉府における地位によって着実に勢力を回復していった。吉良氏が世田谷城を構築した時期については全く不明である。貞治5年(1366年)吉良治家によって築城されたともいわれるが定かではない。永和2年(1376年)『吉良治家寄進状』により、治家が上弦巻(かみつるまき)の半分の地を鎌倉の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)に寄進したことが分かっている。世田谷城は、応永年間(1394-1428年)頃に居館として整備されたようである。『長弁私案抄』の応永33年(1426年)に「世田谷吉良殿逆修」とあるので、子の頼治(よりはる)か孫の頼氏(よりうじ)の代には世田谷に本拠を移して、この地を支配した。鎌倉府における吉良氏の格式を知るものとして、享徳3年(1454年)の『殿中以下年中行事』がある。それによると、鎌倉府では公方が最高の地位にあって、次が管領であり、その次が御一家であると記されている。吉良氏はこの御一家に列して、「足利御一家衆」、「無御盃衆」と称され、足利一門として格別の処遇を受けた。吉良氏は名家ゆえ戦乱にはあまり関わらず、記録上で残っているのは、吉良成高(しげたか)が扇谷上杉氏の家宰である太田道灌(どうかん)に協力または推戴されて、長尾景春の乱に呼応した豊島氏の蜂起に対し、出陣した道灌に代わって江戸城を守備したくらいである。文明12年(1480年)太田道灌が高瀬民部少輔に与えた『太田道灌状』によると、吉良成高は江戸城に籠城し、数度の合戦を下知して勝利を得たという。この史料より、道灌から「吉良殿様」と呼ばれていたことが分かる。吉良氏は荏原郡世田谷郷と久良岐郡蒔田郷を領有しており、世田谷殿または蒔田殿と呼ばれ、世田谷城は世田谷御所と通称された。そして、相模国を平定した北条氏による武蔵国への侵攻が本格化すると、吉良氏はいち早く北条氏に接近した。天文元年(1532年)頃のようだが、吉良成高は嫡子の頼康と、北条氏綱(うじつな)の娘である崎姫(高源院)との婚姻を結んで北条一門となった。もともと崎姫は、遠江今川氏の一族である堀越貞基(ほりこしさだもと)に嫁いでいたが、死別しており再婚であった。頼康は実子に恵まれず、崎姫と前夫の次男を養嗣子として迎えて氏朝(うじとも)と名乗らせている。永禄4年(1561年)越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)が相模小田原城(神奈川県小田原市)を攻撃した際、吉良頼康は家臣である大平氏や江戸氏らの軍勢を集めて、蒔田湾の軍船を使って三浦半島に入ろうとしたが、北条氏の命令により相模玉縄城(神奈川県鎌倉市)の守備にまわっている。この上杉謙信による小田原城攻撃の際も、永禄12年(1569年)の武田信玄(しんげん)による小田原城攻撃の際も、足利一門である吉良氏の世田谷城や蒔田城(神奈川県横浜市南区)は攻撃の対象となることはなかった。

『快元僧都記』では、吉良頼康を「吉良殿様」とか「蒔田御所」と呼んでいるのに対し、北条氏綱には敬称もなく呼び捨てである。このことからも関東における吉良氏と北条氏の家格の違いが分かる。永禄5年(1562年)吉良氏朝は、北条氏康(うじやす)の娘である松院(かくしょういん)を娶っている。吉良氏朝に嫁ぐ松院に、氏康の叔父である北条幻庵(げんあん)が持たせた『幻庵覚書』には、礼式作法などに関する諸注意が24ヶ条にわたり記されており、北条氏の配慮がうかがえる。しかし、北条氏は吉良氏を姻戚として利用することで権威を高め、吉良氏の家臣団を北条家直属の家臣として吸収した。そして、吉良氏の存在は名目だけとなっている。ところで、吉良氏は現在の世田谷の基礎を築いた。城下集落は東の鳥山川の対岸に広がり、この元宿が吉良氏の財源となっていた。天正6年(1578年)北条氏政(うじまさ)は世田谷城の南側に新宿を設けて商業の活性化を図り、『楽市掟書』を発して六斎市を開いている。小田原から江戸を結ぶ矢倉沢往還(大山街道)の世田谷宿において、伝馬の確保のために宿場を繁栄させる目的があったという。この時、吉良氏の重臣で、吉良四天王の筆頭と称された大場越後守信久(のぶひさ)が元宿にあった居所を現在の世田谷代官所の地に移した。これは北条氏から世田谷新宿の管理を命ぜられたものと考えられる。大場氏は、大庭景親(おおばかげちか)の子孫と伝えられる。世田谷は南武蔵における軍事・交通の要衝であり、城下町は繁栄したが、その実権は北条氏に握られていた。この新宿は成長したため、上宿と下宿の2つに分けたという。現在も続く世田谷のボロ市(東京都指定無形文化財)は、この楽市が起源となる。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役が始まると、吉良氏朝の家臣である江戸摂津守朝忠(ともただ)は、北条氏の指示により伊豆下田城(静岡県下田市)へ援軍として派遣されたが、豊臣方の水軍の猛攻を受けて下田城で戦死した。一方、吉良氏朝に関する史料は残っておらず、小田原の役における氏朝の行動は不明である。このとき世田谷城は何の抵抗もせずに無血開城し、そのまま廃城となった。北条氏と姻戚関係にあった吉良氏朝は、小田原城が落城すると上総国生実(千葉県千葉市)に逃れたともいい、その後に隠居して旧領である弦巻村の実相院(世田谷区弦巻)に入り、慶長8年(1603年)に没した。世田谷城の石材は、江戸城の改修に充てるために運び去られたと伝わる。天正20年(1592年)氏朝の子である頼久(よりひさ)は徳川家康に取り立てられ、徳川家の旗本に列した。そして、家康から吉良姓を継承するのは本家だけにするよう命じられて蒔田姓に改めている。その後、蒔田氏は家格の高さが認められて高家となり、元禄赤穂事件によって本家の三河吉良氏が断絶すると、宝永7年(1710年)吉良姓に復姓した。一方、寛永10年(1633年)彦根藩主の井伊直孝が江戸屋敷賄料として世田谷村など15ヶ村(のちに20ヶ村)を賜ると、大場信久の嫡孫である盛長(もりなが)が15歳にして世田谷領の代官に任ぜられた。しかし、盛長が20歳で早逝したため、同族の大場市之丞吉隆(よしたか)がその職を継ぎ、この市之丞家が代官職を世襲した。そして、本家当主は上町の名主と問屋役を務めている。世田谷代官の職務は、年貢の収納が最も重要な仕事であったが、領内20ヶ村の治安維持もおこなった。元文4年(1739年)市之丞家の4代当主が年貢未進の責を問われて、代官職を罷免され切腹した。このため、本家7代当主の大場盛政が世田谷領の代官職に就き、幕末まで世襲している。(2011.12.11)

世田谷の住宅街に残る土塁の跡
世田谷の住宅街に残る土塁の跡

空堀跡となる豪徳寺参道と土塁
空堀跡となる豪徳寺参道と土塁

豪徳寺にある井伊直弼の墓所
豪徳寺にある井伊直弼の墓所

現存する世田谷代官屋敷の表門
現存する世田谷代官屋敷の表門

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