瀬田城(せたじょう)

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本能寺の変後、瀬田の唐橋を焼いて明智光秀の進軍を妨害した山岡景隆の居城

瀬田城跡に立つ大小の城址碑
瀬田城跡に立つ大小の城址碑

滋賀県の瀬田川は、琵琶湖の南端から流出して南下する川で、京都府に入って宇治川と名を変え、大阪府では桂川・木津川と合流して淀川と名を変える。琵琶湖に流入する一級河川は117本を数えるが、琵琶湖から流出するのは瀬田川が唯一の川となる。この瀬田川に架かる瀬田の唐橋(瀬田橋)は、東海道・東山道(中山道)から京都に至る交通の要衝で、琵琶湖の東岸から京都に向かう際、琵琶湖経由の水上ルートよりも、瀬田橋経由の陸上ルートの方が安全で確実とする「急がば回れ」の語源になった橋である。琵琶湖周辺は天候が急変しやすく、天候が荒れれば船の運航は中止となり回復するまで足止めになるし、比叡山から吹き下ろす強風で船が押し戻されたり、転覆などのリスクもあった。しかし、通常は水上ルートの方が早く、「瀬田へ回れば三里の回り、ござれ矢橋の舟にのろ」という歌もある。膳所藩の管理であった瀬田橋は、江戸時代をとおして15回も架け替えられた。ちなみに、現在の位置に瀬田橋を架けたのは織田信長で、それ以前の瀬田橋は現在より約400m下流にあった。古代より瀬田橋は、京都防衛上の重要地点であったため、数多くの歴史的な戦乱の舞台になっており、「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。現在の瀬田橋東詰から約150mほど南下した場所に瀬田城が存在した。この瀬田城は、瀬田丘陵から北西方向に延びた低丘陵が瀬田川に張り出した先端部に築かれた平城で、勢多城とも書いた。戦時中までは北・東・南の三方に深い堀跡が残っていたとのことで、その城域は南北140m、東西150mであったと推定されている。瀬田橋と東海道・東山道を押さえる軍事的要衝であった。現在、瀬田城の城跡には高層マンションが建ち、遺構は完全に消滅している。マンション西側の県道29号線沿いには、「勢多古城址碑」と「瀬田城趾」の大小の石碑が立つ。古城址碑には瀬田城主であった山岡氏の業績が記されており、山岡景隆(かげたか)は織田信長への忠節から「固く義を執りて応ぜず」と明智光秀(みつひで)の誘降に応じなかったことが刻まれている。瀬田城主である山岡氏の祖は、甲賀郡毛枚(もびら)邑(甲賀市甲賀町毛枚)を発祥とする毛枚太郎景広(かげひろ)とされている。子孫の諱(いみな)に「景」を通字(とおりじ)として用いるのは、景行天皇の末流であることを示すためという。毛枚景広から4代後の式部少輔景通(かげみち)が、栗太郡大鳥居(大津市大鳥居)に移って大鳥居氏を名乗った。その大鳥居景通から3代後が美作守資広(すけひろ)である。田上城(大津市里)を本拠としていた資広は、勢多秀昌(ひでまさ)という人物が治める瀬田邑を切り取って栗太郡瀬田へ進出した。この勢多秀昌とは、勢多大夫判官・中原氏の後裔である学者の勢多氏一族と考えられる。資広は瀬田城の南約3kmの山田岡(大日山)に城を築いて居城とし、この時に山田岡の一字を略して山岡氏を名乗ったとされる。その時期は、室町時代の永享年間(1429-41年)のことである。山岡資広が瀬田城をいつ築いたのか定かでないが、『山岡系図』によれば、瀬田城主の資広が隠居する際、瀬田城を嫡子の山岡景長(かげなが)に譲り、瀬田城の南約1.5kmにある瀬田川西岸の石山の古城を修築して移り住んだという。この石山城は石山寺(大津市石山寺)南側の高台に築かれていた。現在は開発されて遺構は確認できない。地元の伝承によると、資広の隠居城となる前の石山城は、石山寺奉行・須佐美氏の城砦であったとされる。また活動時期は不明であるが、石山寺の公文所に務めたという在地土豪・財川(たからがわ)佐渡守の居城であったとも伝わる。

山岡資広は剃髪して光浄院と号しており、園城寺(三井寺)の光浄院(大津市園城寺町)は資広の再興によるものという。以後、石山城は山岡氏の支城のひとつとなった。山岡景長の後は、景秀(かげひで)、景昌(かげまさ)、景綱(かげつな)、景就(かげなり)、景之(かげゆき)が瀬田城主として続いた。戦国時代の美作守景之の代になると、南近江の滋賀郡・栗太郡を治める国人領主に成長しており、近江国守護職である佐々木六角氏に仕えていた。「江南の旗頭」と呼ばれるほどの実力を保持した山岡氏は、青地氏・馬淵氏らと共に六角氏の軍事力の中心を担った。山岡景之の子は、長男・景隆、次男・景佐(かげすけ)、三男・景猶(かげなお)、四男・景友(かげとも)などがいた。景之の跡を継いで本城の瀬田城主になったのが、嫡男の美作守景隆である。景隆の弟・対馬守景佐が窪江城(大津市大江)の城主で、備前守景猶が石山城の城主になった。瀬田城の北東約1.5kmにある窪江城は、あくまで伝承として、建武年間(1334-38年)に近江佐々木氏により築城され、勢多判官の一族が初代城主を務めたという。のちに足利将軍家の家臣・摂津掃部頭が大江・大萱(おおがや)を支配して窪江城に入ったといわれる。さらに、永正年間(1504-21年)六地蔵城(栗東市)から移ってきた六角氏の家臣・高野甲斐守の支配を経て、山岡景佐が城主になったと伝えられている。窪江城も瀬田城と同じく瀬田橋と東海道・東山道を押さえる役目があり、敵が東海道・東山道を東から攻めてきた場合、窪江城・瀬田城の順で侵攻を食い止める態勢であった。窪江城の本丸北西隅には山岡景佐によって石垣の天守台が造られ、しかも東レ瀬田工場の敷地内に現存しているという。当初、山岡景隆は六角承禎(じょうてい)に仕えていた。永禄3年(1560年)には、織田信長に父を討たれて牢人していた山内一豊(やまうちかずとよ)を200石で召し抱えていた。山内一豊とは、尾張守護代・岩倉織田氏の家老・山内盛豊(もりとよ)の子で、のちに関ヶ原の戦いの功績により土佐20万石の国主となる人物である。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛戦を開始すると、三好三人衆に通じる六角承禎は信長の従軍要請を拒絶、織田軍に徹底抗戦した。この時、山岡兄弟も六角氏に従っている。しかし、織田軍の怒涛の進撃の前に六角氏の諸城は次々と陥落、本城である観音寺城(近江八幡市安土町)も落城してしまった。窪江城の山岡景佐は観音寺城の落城前に信長の軍門に降っているが、瀬田城の山岡景隆は織田方の降伏勧告に従わなかったために攻撃を受けており、大和国柳生に退いたといわれている。『柳生文書』によると、一時は大和を支配する松永久秀(ひさひで)に人質を差し出してこれに属しているが、間もなくして信長へ臣従を誓っている。その時、信長の先鋒として松永久秀と戦うこととなった。『山岡系図』によると「久秀、景隆が女(娘)を虜りて城門の外に置、景隆をして進まざらしむ、景隆士卒に下知してわが女をまず射殺すべしといふ、よりて兵士等矢石を放つといへどもあたらず、久秀終に敗軍し降を請、右府(信長)景隆の軍功を感賞ありて本領を与えらる、後久秀彼女をかへし送らんといふ、景隆いはく女ながら敵に生け捕らるるうへはわが子にあらずと、ここにをいて久秀家臣渡辺左馬助重に嫁せしむ」とある。このような経過を経て、山岡景隆は瀬田城に復帰し、信長から出自である甲賀衆の指揮権を与えられた。しかし『信長公記』には、元亀元年(1570年)木下藤吉郎と丹羽長秀(にわながひで)の軍勢が瀬田城に入った時の話がある。

この軍勢を志賀の城から遠望していた信長は、景隆が六角承禎の軍勢を瀬田城に引き入れて謀叛したものと誤認した。その後、飛脚の報によって藤吉郎・五郎左衛門が参陣したものと分かり不審を解いたというが、景隆が信長の信頼を得るには、かなりの苦労があったと思われる。元亀元年(1570年)11月、織田信長は丹羽長秀に命じて、朽ちて通行不能になっていた瀬田橋の代替に、船を鉄鎖で繋いだ舟橋を架けさせた。この舟橋を村井新四郎、埴原新右衛門に警固させて人馬の往還を可能にした。12月に比叡山に立て籠もる浅井・朝倉軍との和睦が成立すると、信長は宇佐山城(大津市南滋賀町)を出て瀬田城に引き上げ、比叡山包囲軍も瀬田まで兵を引いている。元亀4年(1573年)武田信玄(しんげん)が三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利して三河に侵攻すると、2月に室町幕府15代将軍・足利義昭は信長打倒のために二条御所(京都府京都市上京区)で挙兵しており、景隆の弟で幕臣に取り立てていた山岡景友にも挙兵を命じた。この景友は、もともと山岡氏の領内にある園城寺光浄院の住持で暹慶(せんけい)といったが、元亀3年(1572年)義昭の命で還俗していた。『耶蘇会士日本通信』に「将軍の寵臣」と記されるほど義昭の信頼を得ており、同年5月には上山城の半国守護に任ぜられていた。室町時代の山城国は、半国ごとに守護が置かれるようになり、上山城とは山城国の南半分にあたる上三郡(久世郡、綴喜郡、相楽郡)が該当する。景友は石山寺近くに石山砦(大津市石山寺)を築き、伊賀衆・甲賀衆を集めて挙兵した。また、明智光秀(みつひで)の与力である磯谷久次(いそがいひさつぐ)、渡辺昌(まさ)、山本対馬守らも今堅田砦(大津市今堅田)を築いて同時に挙兵した。石山と堅田を押さえることで、京都への入り口を封鎖している。これに対して信長は、柴田勝家(かついえ)、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆(はちやよりたか)を派遣した。いわゆる石山・今堅田の戦いの始まりである。元亀4年(1573年)2月24日、織田軍は瀬田から琵琶湖を渡り、未完成だった石山砦に攻撃をかけて2日間で落城させた。主将の山岡景友は降伏して退散、織田軍は石山砦を破却している。29日からは琵琶湖の湖畔にあった今堅田砦の攻撃が始まり、明智光秀が囲船で湖上から攻め、丹羽長秀と蜂屋頼隆が陸上から突撃して今堅田砦も落城させた。義昭はなおも抵抗を続けており、洛中の人々は呆れ果て「父母(かぞいろ)も養ひ立てし甲斐もなく、いたくも花を雨のうつ音」という落首が立った。これは、信長が父母のように将軍・義昭を養ってきたのに、その甲斐もなく花の御所(京都府京都市上京区)を激しい雨が打つ音がするという意味である。4月6日に正親町天皇からの勅命により義昭は信長と和睦した。しかし、義昭は7月に再挙兵しており、景隆も槇島城攻め(京都府宇治市)などに従軍している。足利義昭の追放後、山岡景友は織田家へ仕官した。天正3年(1575年)7月、織田信長は瀬田橋の架け替えをおこなっている。架橋奉行は山岡景隆と木村次郎左衛門で、若狭の神宮寺山と朽木山から材木を取り寄せ、幅4間(約7.2m)、長さ180間(約324m)余り、両側に銅製の擬宝珠をもつ欄干(らんかん)を備えた立派な橋を10月に完成させた。天正5年(1577年)閏7月、安土城(近江八幡市安土町)に向かう信長が瀬田城に宿泊、同年10月、安土城を出発した信長の長男・信忠(のぶただ)が瀬田城に宿泊、天正6年(1578年)9月、上洛のため安土城を出た信長が瀬田城に宿泊している。景隆は信長から信頼を得ることに成功しており、信長・信忠父子は瀬田城にたびたび宿泊している。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長を自害に追い込んだ明智光秀は、安土城を接収するため近江に軍勢を進めた。要所を押さえる瀬田城の山岡景隆にも人質を出して味方に付くよう光秀の使者が来たが、景隆は「信長公之御厚恩不浅忝之間中同心申間敷」と信長への忠節を貫いてこの誘降を拒絶した。そして、山岡兄弟は瀬田橋を焼き落として明智軍の進軍を妨害、瀬田城や石山城などの居城も焼いて甲賀の山中に逃亡し、中国地方にいる羽柴秀吉に明智軍の行動を逐一報告した。さらに山岡兄弟は、和泉国堺(大阪府堺市)から三河国岡崎へ脱出する徳川家康一行(神君伊賀越え)を伊賀国境の御斎峠まで先導している。瀬田橋を落とされた光秀は、明智秀満(ひでみつ)に架橋を命じて坂本城(大津市下阪本)で待機、仮橋の設置に3日も費やして安土城に入ることになった。各地に遠征している織田家の諸将が軍勢をまとめて京都に戻るには時間が掛かるはずであった。光秀に時間的な余裕があれば、朝廷を味方に付けて畿内を制圧し、軍事力を増強することが可能であった。しかし、秀吉は中国大返しの大行軍により、わずか10日で畿内に駆けつけ、準備不足の光秀は2倍から3倍とされる兵力差のまま決戦に臨むことになった。景隆が瀬田橋を焼き落としたことで、光秀の貴重な時間を浪費させた。信長の弔い合戦に勝利した秀吉は、信長の後継者としての地位を固め、天下人への道を歩み始める。山岡兄弟は急速に台頭する秀吉に属した。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いの前哨戦として、柴田勝家に味方する滝川一益(かずます)は、家臣・滝川益重(ますしげ)に命じて秀吉方の岡本宗憲(むねのり)の守る伊勢峯城(三重県亀山市)を攻め落として占拠している。これに対して秀吉は大軍を率いて峯城を包囲、この峯城攻めに山岡兄弟も従軍しており、数か月におよぶ攻城戦の末、4月17日に益重を降伏開城させている。しかし、4月19日から始まった賤ヶ岳の戦いの後、山岡兄弟は柴田勝家への内通の嫌疑により全員領地を没収され改易となった。瀬田城には賤ヶ岳の戦いの戦功により浅野長吉(ながよし)が下甲賀と栗太郡で2万3百石を与えられ入城するが、その年の暮には坂本城に移されており、瀬田城はそのまま廃城になった。瀬田城を追われた山岡景隆は、先祖の地である甲賀郡毛枚邑に蟄居し、天正13年(1585年)に61歳でこの世を去った。弟の山岡景友は、豊臣秀吉の死後に再び剃髪して山岡道阿弥と号して徳川家康に接近している。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋(ひであき)の裏切りに大きく貢献したのがこの山岡道阿弥ともされている。関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いでは、道阿弥は弟の山岡景光(甫庵)に命じて甲賀衆100人とともに山城伏見城(京都府京都市伏見区)に籠城させた。この戦いで甲賀衆80人以上が戦死した。戦後、家康は道阿弥に9千石を与え、うち4千石は甲賀衆の給分に宛てた。戦死した甲賀衆の子息を中心に10人の与力(200石)と100人の同心(20石)で甲賀百人組を編成した。のちに江戸へ移住し、青山甲賀町に集住して、江戸城百人番所に詰め、大手三之門の守備に当たる。慶長8年(1603年)山岡道阿弥は加増されて常陸国古渡(ふっと)藩1万石の大名となるが、その2か月後に死去、古渡藩は無嗣改易となった。景隆の七男・山岡景以(かげもち)が道阿弥の養子となって3千石を相続し、甲賀百人組を預かっている。一方、瀬田城の跡地は、貞享元年(1684年)膳所藩主・本多俊次(としつぐ)が禅僧・天寧(てんねい)に瀬田城跡の地を与えており、この天寧が臨江庵(りんこうあん)という草庵を結んでいる。(2023.12.17)

瀬田川越しに眺める瀬田城跡
瀬田川越しに眺める瀬田城跡

軍事的要衝だった瀬田の唐橋
軍事的要衝だった瀬田の唐橋

膳所藩の藩庁であった膳所城跡
膳所藩の藩庁であった膳所城跡

甲賀組も詰めた江戸城百人番所
甲賀組も詰めた江戸城百人番所

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