千賀屋敷(せんがやしき)

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尾張藩の御船奉行を世襲した千賀志摩守家の累代の居館

千賀屋敷跡にある千賀家之碑
千賀屋敷跡にある千賀家之碑

知多半島の最南端、羽豆岬には羽豆城跡(南知多町師崎明神山)がある。慶長7年(1602年)羽豆城を本拠とした千賀重親(しげちか)は、師崎村内に千賀屋敷を築いて移った。このときに廃城となった羽豆城の建物は解体され、その古材を運んで屋敷を構えた。千賀屋敷は千賀城とも呼ばれる。『知多郡史・中巻』に「(慶長)七寅年幡頭(羽豆)崎古城を村内に引移、右之古木を以居屋敷取建申候」とある。『尾張徇行記』には「干賀氏宅は幡頭崎の北浜辺にあり、宅の左に濠を回し、山を背口にして要害の地」とある。千賀屋敷は、間口97m、奥行48mの建物で、その屋敷地は1482坪、裏山が381坪であった。延命寺(南知多町師崎的場)の南にコンクリート塀に囲まれた「千賀家之碑」があり、この辺りが千賀屋敷跡である。現在は商店や民家など宅地になっており、屋敷の遺構は何も残っていない。慶長年間(1596-1615年)千賀屋敷には徳川家康が何度か訪れており、幼い九男・義直(よしなお)と十男・頼宣(よりのぶ)を連れてきたこともある。また、尾張藩の12代藩主である徳川斉荘(なりたか)が、天保14年(1843年)10月の知多巡検に際して『知多御道の記』を記しており、これによると10月3日の夜、斉荘一行は千賀屋敷を宿にしたとある。尾張藩の千賀氏は、戦国時代に伊勢湾に猛威をふるった九鬼氏の一族と伝えられ、代々志摩守を名乗る尾張藩の船奉行だった。尾張藩の水軍を統率し、みずからも手船をもって伊勢湾から遠州灘にかけての制海権を握り、海上防衛を任されていた。師崎村を根拠地とする知多在所持衆のひとりで、篠島・日間賀島の代官を兼ねていた。篠島は尾張藩の流刑地でもあったので、千賀氏は流人裁許や、御肴御用の任も帯びていた。このような軍事的任務を負っていたため、江戸時代を通して千賀氏の配置換えはなかった。元和6年(1620年)9月30日付の『徳川義直黒印状』によると、知行1500石のすべてが、師崎とその周辺にあったが、一円給知は師崎村のみである。正保2年(1645年)の高概(たかなら)しに伴う全面的な給知替の際にも、「数代之在所故、奉願拝領之輩」のひとりとして、師崎村を一円領知(元高336石余から概高366石余)した。従来の片名(200石)、乙方(208石)、篠島(37石)の給知を手離し、須佐(1034石)と日間賀島(4石)の給知を得ている。この知多郡の知行はそのまま明治維新まで続く。なお、万治4年(1661年)愛知郡露橋村(名古屋市中川区)内で140石余を領知しているが、これは船奉行としての役料である。現在、師崎には港を囲むように突き出た2つの岬がある。西側は羽豆岬で、先端の丘陵上には羽豆城跡や羽豆神社が鎮座する。一方の林崎と呼ばれる東側の岬の先端(林崎公園)には、幕末期にお台場(砲台)が建設された。『知多郡砲台烽火台乾坤』には、幕末に尾張藩によって築かれた砲台・狼煙台、そして伊勢湾における尾張藩の軍船の配備といった海防に関する文書類が収録される。これに「今般師崎村ノ内林崎ニ御築立可相成台場之儀波当之方ハ大石ヲ以ノツラニ組立」とか、「高サ之儀ハ大汐満上リヨリ三尺高ニ御築立相成候ハハ如何様之大風高浪ニ候共容易ニ故障有之間敷」とあるように、砲台築造の選地、規模、石垣の構造まで細かく指示されている。この岬は羽豆岬よりも標高が低かったため、大風雨の時の高潮の影響を受けないように大石を使って築造するよう配慮されていた。林崎のお台場には、5門の大砲の設置が計画されていた。二十貫目玉火矢筒(略車台)が1門、五貫目玉火矢筒(略車台)が1門、五百目玉火矢筒(略車台)が2門、三貫目玉カルロウンナーテ(車台)が1門である。

二十貫目玉とは重量75kgの砲丸であり、それを撃ち出す大砲は重量180貫目(675kg)、砲身長5尺(1.5m)、砲身直径約60cmである。これは発射角度を大きく取って、大きな砲弾を撃ち出す臼砲(大極砲)と呼ばれる大砲である。五貫目玉火矢筒は5貫目(19kg)の砲丸を撃ち出す臼砲で、重量100貫目(375kg)、砲身長5尺(1.5m)である。五百目玉火矢筒は小振りな大砲で、約1.9kgの砲丸を用いる。1門は砲身長7尺(2.2m)、砲身直径約22cm、もう1門は砲身長5尺(1.5m)、砲身直径約30cmである。これらは臼砲ではなく、発射角度は45度以下、低い弾道で遠距離射撃するための加農砲(カノン砲)の類である。三貫目玉カルロウンナーテは3貫目玉(11.3kg)を撃ち出す加農砲で、重量250貫目(940kg)、砲身長約2m、砲身直径約50cmである。師崎以外では内海の東端村にもお台場は造られた。この内海一色砲台(南知多町内海山尾)はつぶてヶ浦の北斜面、標高30mの場所に造られ、35m×25mの土塁跡が残っている。このお台場については、比較的豊富な史料やいくつかの伝承が残っている。内海一色砲台は、嘉永3年(1850年)尾張藩が異国船に対する海防対策のために築造したもので、船奉行の千賀与八郎による場所の選定後、勘定吟味役による見聞があり決定したという。嘉永7年(1854年)1月17日から工事を始め、半年後の夏に完成した。工事は1日に650人の人夫を投入するという突貫工事で、1750両の費用が掛かった。お台場が完成した直後の8月、折からの大風雨で出来あがったばかりの砲台が壊れて、慌てたと伝わる。大砲は尾張藩御用鍛冶(鋳物師)である水野太郎左衛門によって鋳造され、矢田川での試射ののち、船で内海に運ばれて、内海の豪商・前野小平治の扣浜蔵(ひかえはまぐら)へ運び込まれて蔵は封印された。また、砲台や烽火台の機能を保つために砲配場、人数備場を設定したとある。林崎の砲台の機能を高めるためには、「御人数備場」を「千賀与八郎屋敷前西之方遠見番所辺迄之内人家裏畑地等之辺」に配置し、「御人数付大砲」を「千賀与八郎屋敷之辺又ハ羽豆崎等」に配置すると記されている。そして、異国船の侵入位置などによっては、地形などを見計らって人数備場の応援を求め、大砲の配置を変更してもよく、それは隊長の判断に任せられていた。尾張藩は切支丹改めのため、寛永20年(1643年)瀬木村に瀬木遠見番所(常滑市北条)を設けていた。この遠見番所は切支丹の侵入を見張るためのものであった。他に師崎や茶屋新田の丘陵上にも番所が置かれ、切支丹番所とも呼ばれていた。船奉行千賀与八郎の千賀屋敷の敷地内、標高38mの段丘上に置かれた師崎遠見番所(南知多町師崎日影)は、居所2棟に水主2名が常駐し、遠眼鏡を配置して船舶等の監視にあたっていた。国道247号線と県道7号線が交差する羽豆岬信号交差点の北東角にある小山が師崎遠見番所跡となる。幕末になると異国船対策のために師崎遠見番所が使用された。知多半島沖に異国船が出没した際、千賀屋敷の遠見番所から名古屋城(名古屋市中区)の二之丸評定所まで急を知らせる通信手段として、狼煙と早飛脚の二方式が採用される。記録によると途中の6箇所に烽火台を設けており、それは、大井烽火台(南知多町大井上苗代)、布土烽火台(美浜町布土祭山)、長尾山烽火台(武豊町長尾山)、亀崎烽火台(半田市亀崎高根町)、緒川烽火台(東浦町緒川西高根)、大高烽火台(名古屋市緑区大高町)であった。大井烽火台は、衣ヶ浦を望む小海田の標高50mから60mほどの丘陵上にあり、現在も烽火台の竈壁(かまどかべ)の基部の遺構が見事に残っている。

この遺構は一辺が消滅しているものの、小石混じりの赤土にスサを混ぜて築き上げた横幅350cm、高さ95cm、厚さ50cmの壁が、遺構の平面を正方形にかたち作り残っている。現在、この遺構は破損が著しいため、簡単な保護用の囲いで覆われており、炉跡の中心に烽火台の形と寸法が刻まれた石柱と、「烽火台跡」という小さな石碑が立っている。烽火台の囲いの中央で枯枝や青い草を燃やして狼煙を焚いたものと考えられおり、烽火台の遺構は全国的にも類のない大変貴重な遺構である。地元の伝承によれば、壁の周りは杉皮で囲まれ、屋根は茅葺きで、煙の出る天井部分には陶器の蓋がかぶせられていたという。しかし、実戦では一度も使われなかった。大井烽火台から布土烽火台の間は約11kmである。距離は長いが海上を隔てているので見通しは良い。布土烽火台は、布土集落の北西、通称「狼煙山」と呼ばれる標高56mの丘陵上に設けられていた。現在は山林と畑になって遺構は消滅しており、規模も不明である。布土烽火台から長尾山烽火台の間は約6kmである。途中には知多丘陵の一部が連なるが谷筋に当たり見通しは良い。長尾山烽火台は、標高32mの長尾山にあったが、工業用地の埋め立てのために崩されて、山自体が消失した。現在、長尾山の跡地には武豊町役場が建っているが、かつて旧庁舎の煙突の高さが長尾山の山頂の高さを表していた。長尾山烽火台の建設は、安政2年(1855年)といわれるが、記録や遺構はなく、規模も不明である。天保14年(1843年)徳川斉荘の知多巡検に際して尾張村の庄屋・市兵衛から鳴海代官所へ提出された御達書には、異国船渡来に当たり「継立に必要な人足」や、「防衛のために配置される侍達の世話」等に関する事柄が詳しく記され、添付の略地図には烽火台もはっきりと描かれているという。長尾山烽火台から亀崎烽火台の間は約9kmである。阿久比川の氾濫原と海上を隔てるので、遮るものはなく見通しは良い。亀崎烽火台は、標高49mの高根山の山頂にあったといわれているが遺構はなく、現在は宅地になっている。明治23年(1890年)3月末、当地で展開された第一回陸海軍合同大演習の直前、この地にも明治天皇が立ち寄るかも知れないと考えた地元の富豪・井口半兵衛によって亀崎烽火台が修復されたことがあったといわれる。亀崎烽火台から緒川烽火台の間は約5kmである。知多丘陵が連なるが途中に高所はなく見通しは良い。緒川烽火台は旧緒川新田の標高83mの丘陵上にあった。『東浦町誌』に築造は、嘉永3年(1850年)と書かれている。緒川烽火台から大高烽火台の間は約12kmである。距離は最大で知多丘陵が続くが、途中に高所はなく見通しは良い。この他にも内海一色砲台から南東1kmの知多半島最高地点である標高128mの高峯山頂にも烽火台が設けられており、ここで上げられた狼煙は布土で把握することになっていた。この内海烽火台(南知多町内海高峯)から布土烽火台の間は約6kmである。丘陵を隔てるが途中に遮る高所はなく見通しは良い。狼煙は遠距離通信の手段としては有効であったが、暴風雨や強風下では使えないという大きな欠点があった。これを補う手段として「継立(つぎたて)」という早飛脚を連続して伝達していく方法が準備されていた。縦2尺、横7尺から8尺の板の真ん中に「異国船渡来」、右に「発見日時」、左に「発見番所名」を書いた注進札を、継立の早飛脚によって名古屋城に知らせるというものである。東海岸経由の継立所は、師崎遠見番所から、大井、矢梨、河和、布土、大足、成岩、乙川、藤江、緒川、大府、大高、熱田、名古屋城の順で、継立所は12箇所であった。

一方、西海岸経由の継立所は、内海遠見番所から、東端、馬場、小野浦、南奥田、上野間、大谷、常滑、森、横須賀代官所、熱田、名古屋城の順で、継立所は10箇所であった。尾張藩は、伊勢湾を北上してくる異国船を迎撃するために4つの船団を編成していた。この船団は千賀氏の手船で構成され、熱田湊に常駐して訓練に励んでいた。『知多郡砲台烽火台乾坤』の記述によると、師崎村で待機する壱番手の壱の手組は、鉄砲船が10隻、鉄砲船附属番船が30隻、御小早船が1隻、鯨船が2隻、番船が15隻という構成であった。鉄砲船とは16挺立ての櫓を持つ中型船で、二百目玉、百目玉、五十目玉の抱え御筒を積載する。漕ぎ手の他に20人の砲手が乗船する。鉄砲船附属番船とは7挺立てや5挺立ての小型船(サッハ船)で、太鼓役同心、御旗奉行、使番が乗船する。御小早船は壱の手組の指揮船で、大番頭、大目付が乗船し指揮を執る。30挺立ての大型船で、漕ぎ手の他に20人ほど乗船する。鯨船は船団附き庶務船で、見分役、筆談役、金瘡医が乗船する。筆談役の藩校明倫堂給事は別に用意された8挺立ての筆談往来船に乗る。番船とは7挺立てや5挺立ての戦闘用の艇舟で5人程が乗船する。須佐村で待機する壱番手の弐の手組は、鉄砲船が5隻、鉄砲船附属番船が30隻、御次小早船が1隻、鯨船が1隻という構成であった。御次小早船は見分船で御手先物頭、御徒目付など10人程が乗船、16挺立ての快速船である。鯨船は運搬船で、鉄砲玉薬奉行が乗船し、玉箱(補充弾薬)を積載、8挺立てで5人程乗船する。西端村で待機する弐番手の弐の手組は、鉄砲船が5隻、鉄砲船附属番船が30隻、見分船が1隻、鯨船が1隻という構成であった。この鉄砲船は、五百目玉、二百目玉、百目玉の抱え御筒を積載する。鉄砲船附属番船には同心が5人ずつ乗船し、鯨船は8挺立てで10人程乗船する。最後に御年寄衆一隊は、鉄砲船が5隻、鉄砲船附属番船が30隻、御関船が1隻、鯨船が2隻、伝馬船が1隻という構成であった。鉄砲船、鉄砲船附属番船、鯨船は弐番手弐の手組と同規模で、御関船には大番頭など43人乗船の50挺立ての大型船である。鯨船には鉄砲奉行、玉薬奉行が乗船した。時期は不明であるが、黒船が伊勢湾へ侵入したという想定で「大海防訓練」が展開された。千賀屋敷に置かれている遠見番所が、神島と伊良湖岬の間に黒船(千賀氏の手船)を発見、かねてからの計画に基づいて、大井村の丘陵上に築造したばかりの烽火台から高々と狼煙が打ち上げられ、布土祭山、武豊長尾山、亀崎高根山、緒川高根山、そして大高の烽火台を経由して名古屋城と熱田湊へ連絡が届いた。黒船が来航したという想定で、船奉行の千賀与八郎の下知のもと、熱田湊で待機していた船団が伊勢湾を南下して迎撃に向かい、両船団は常滑沖あたりで遭遇して、海戦の演習が展開されたという。嘉永6年(1853年)にアメリカの東インド艦隊司令長官であるペリーが4隻の艦隊を率いて来航、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)、たつた四杯で夜も寝られず」という幕府の狼狽ぶりを皮肉った狂歌のように、黒船来航によって日本中は大騒ぎになった。尾張でも伊勢湾を北進する黒船船団を発見、内海一色砲台が黒船に向かって砲撃を加えたのだが、凄まじい轟音に反して、砲丸は海にも届かず海岸の砂浜に落下したという。尾張藩の海防対策は幼稚であったが、欧米列強の関心が低かったために大事には至らなかったのである。千賀屋敷を築いた重親から10代目が藩政時代最後の当主となる信立(のぶたつ)で、戊辰戦争では水軍ではなく、新政府軍に属する尾張藩陸兵の前線指揮官として越後国長岡などで7か月に渡って戦った。(2015.08.15)

敷地内に置かれた遠見番所跡
敷地内に置かれた遠見番所跡

岬先端にあった林崎のお台場跡
岬先端にあった林崎のお台場跡

内海一色砲台の西側の切通し
内海一色砲台の西側の切通し

大井烽火台の竈壁基部の遺構
大井烽火台の竈壁基部の遺構

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