仙台城(せんだいじょう)

[MENU]

初代藩主の伊達政宗が天下への野望を抱きながら築城した仙台藩伊達家62万石の居城

正確に復元された大手門脇櫓
正確に復元された大手門脇櫓

仙台城跡は仙台市街地の西方に位置し、青葉山丘陵と、その麓である河岸段丘部分を城域としている。伊達政宗(まさむね)によって築城された当初の仙台城は、標高約115mの本丸を中心とした山城であった。2代藩主・伊達忠宗(ただむね)の時代になり、山麓部に二の丸(標高約61m)と三の丸(標高約41m)を造営、寛永年間(1624-44年)以降はこの二の丸が藩政の中心となった。現在、本丸跡には仙台のシンボルとなる伊達政宗の騎馬像があり、二の丸跡が東北大学の川内南キャンパスとなって、三の丸跡に仙台市博物館が建つ。青葉山丘陵上にある本丸は、東側が広瀬川に落ちる約70mの断崖となり、南側を落差約40mの竜ノ口(たつのくち)渓谷、西側を青葉山が囲むという天然の要害になっている。青葉山には貴重な自然が残されているため国指定天然記念物となっているが、この山林はかつて御裏林(おうらばやし)と呼ばれ、敵の侵入を防ぐ大規模な3条の堀切が穿(うが)たれ、仙台城の搦め手として仙台藩により厳重に管理されていた。樹木の伐採はもちろん、この原生林には人食い大蛇が住むという表向きの理由により村人の立ち入りを禁じた。一方、比較的傾斜の緩やかな本丸の北側には約17mの高石垣が築かれ、中央あたりに詰門(つめのもん)という櫓門と、その左右に3層の東脇櫓・西脇櫓を、北東隅にも3層の艮(うしとら)櫓を設けて守備を強化していた。仙台城の本丸には4基の3層櫓が存在しており、残りの1つは巽(たつみ)櫓であった。本丸の南東部に位置し、正保2年(1645年)の『奥州仙台城絵図』によると、北側に付櫓とみられる平屋建物が描かれている。この絵図には、本丸が「東西百三十五間、南北百四十七間」と記されており、東西245m、南北267mの広さであったことが分かる。仙台城の本丸の面積は、全国的に見ても最大級の規模であった。絵図によると本丸は、詰門・酉門・埋門・切通門の諸門と、巽櫓・艮櫓・東脇櫓・西脇櫓および2層の酉門櫓を結んで多聞長屋や土塀、木柵で囲まれていた。郭内には大広間・大台所・遠侍・御座間・書院などの殿舎群や、懸造(かけづくり)・能舞台・御成門(おなりもん)などの建物があったが、天守は造られなかった。天守がないのは仙台城の特徴で、本丸の奥には天守台と呼ばれる土壇のみが存在する。これは徳川家康に敵意がないことを示すため、あえて天守を築かなかったと考えられている。天守のない仙台城において、この城の象徴となる建物といえば、慶長15年(1610年)に完成した本丸の大広間であった。その規模は、東西約33.5m、南北約26.3mで、畳敷き部分が約260畳、縁側(えんがわ)を含めると約430畳にもおよび、俗に千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれた。大広間の内部には14の部屋があり、北側に藩主が座る上段之間(鳳凰之間)が配置され、その隣の上々段之間(帝座之間)は、天皇家や将軍家を迎えた時に使用する大広間の中で最も格式の高い部屋であった。鳳凰之間から、孔雀之間、檜之間、虎之間、鹿之間へと続く表座敷と、諸鳥(しょちょう)之間から、鶴之間、鷹之間へと続く裏座敷があり、その他にも複数の部屋があった。これら部屋の名称は、その部屋を飾った障壁画の画題に由来する。大広間の内部を彩る桃山様式の豪華絢爛な障壁画は、狩野派の絵師・狩野左京が担当した。大広間の外観は、高さが約17mもあり、屋根は柿(こけら)葺きであった。大屋根の妻壁は木連格子で、菊花紋や桐紋の大きな彫刻が飾られていた。現在、大広間の発掘調査を基に、遺構の上に盛土をおこない、その上に礎石を配置して平面表示し、柱の位置と部屋割りを表現している。

大広間の南側には、表や奥の御殿が建ち並び、北側には能舞台、西側には御成門が建てられた。御成門は、天皇家や将軍家が訪れたときの特別な門であるが、一度も使用されることはなかった。懸造の眺瀛閣(ちょうえいかく)は、本丸東辺の艮櫓と巽櫓の間に位置する。崖に突き出した数寄屋風書院造りの建物で、「清水の舞台」で知られる清水寺本堂(京都府京都市)と同じ構造である。政宗はここで広瀬川沿いに勢揃いした鉄砲隊の一斉射撃を総覧し、家臣に食事を振る舞うこともあったという。『伊達治家(じか)記録』によると、正保3年(1646年)4月に大地震があり「三階の亭櫓(ていろ)三ツ顛覆(てんぷく)し」と記されているように、仙台城の櫓はことごとく倒壊してしまう。仙台藩は幕府に修理を願い出ており、翌正保4年(1647年)に許可を得ている。しかし、実際には櫓などは修理されなかった。寛文4年(1664年)に制作された『仙台御城下絵図』には、正保2年(1645年)の『奥州仙台城絵図』に見られた4基の3層櫓はすべて姿を消して櫓台だけになっている。その後も本丸の3層櫓等が復興されることはなかった。藩政の中心が二の丸に移っていたため、再建する必要はなかったものと考えられる。仙台城の正門である大手門は、幅約20m、奥行き約7m、高さ約12.5mの2階建ての櫓門であった。日本国内の城門としては最大級の大きさを誇り、大手門脇櫓とともに国宝に指定されていたが、昭和20年(1945年)7月10日の仙台空襲で焼失してしまった。大手門脇櫓は大手門の南側に配置され、1階がL字形となり、角の部分に2階を載せている。1階の東西約16.4m、南北約12m、高さ約11.5m、壁面は白漆喰総塗籠造、屋根は入母屋造・本瓦葺である。現在の建物は、昭和42年(1967年)に木造モルタル漆喰仕上げで再建されたものである。大手門の北側の石垣上には「多聞塀」と呼ばれた土塀が配されている。この大手門北側土塀は戦災を免れたもので、仙台城跡に現存する唯一の建築物である。大手門は藩主の出入りと特定の儀式のある日以外は開門されず、藩士にとって、二の丸東方の扇坂と二の丸北方の千貫橋が通常の登城口であった。『奥州仙台城絵図』によると、三の丸は東西約144m、南北約117mの規模で、周囲は土塁と水堀で囲まれていた。現在も三の丸跡には土塁と水堀の一部が残り、北側の堀跡は日本フィギュアスケート発祥の地とされる五色沼(ごしきぬま)で、東側は長沼と呼ばれている。宮城県知事公館(仙台市青葉区広瀬町)の正門は仙台城の城門のひとつと伝えられ、大正時代に旧日本陸軍第二師団長官舎の正門として現在地に移築された平屋門だが、どこの城門であったかは不明である。寅門(とらのもん)を移築したとの説もあるが、寅門は櫓門なので、そうであればかなりの改変がおこなわれたことになる。寅門は、大手門から本丸に至る坂道の途中に設けられていた二階門で、中門(なかのもん)とも称された。江戸時代に作られた姿絵図には切妻造で、桁行は6間、梁間3間に描かれている。大正9年(1920年)に老朽化のため解体された。他にも考勝寺(仙台市宮城野区)の山門は、嘉永年間(1848-54年)に仙台城から移築された城門である。かつて仙台城の地には、長泉寺、龍泉寺、光禅寺、玄光庵、大満寺の五ヶ寺があり、大満寺の虚空蔵堂が主塔であったため、ここに存在した城館を虚空蔵楯とか虚空蔵城と称した。もともと大満寺は、奥州藤原氏が創建したと伝えられている。『鬼柳文書』によると、観応2年(1351年)2月の和賀義光(わがよしみつ)や野田盛綱(もりつな)の軍忠状に宮城郡虚空蔵楯が登場する。

観応の擾乱の影響により、観応2年(1351年)足利直義(ただよし)側の野田盛綱、和賀義光、国分(こくぶん)氏らは、岩切城合戦に続いて足利尊氏(たかうじ)側の虚空蔵楯を攻撃、城将の畠山上野二郎を自害に追い込む活躍をし、籠城する留守丹波権守、留守三河権守、宮城四郎らは生け捕りにされ殺されたという。一方、伊達政宗が仙台城を本拠とする前は、国分荘の国人である国分氏が居城していたことが知られている。『貞山公治家記録』には「宮城郡国分ノ内千代城ヲ再興セラレ、公御居城ニ成シ給ヒタキ旨、本多佐渡守殿正信ヲ以テ大神君ヘ仰上ゲラル」とあり、伊達政宗の仙台城は廃城となっていた国分氏の千代(せんだい)城を再興したとある。だが、国分氏の千代城がいつまで遡るのか明らかでない。もともと国分氏は坂東武者で、源頼朝(よりとも)の挙兵に従った千葉常胤(つねたね)の五男・胤通(たねみち)を祖とし、千葉胤通は下総国葛飾郡国分郷(千葉県市川市国分)を領して国分氏を称したことに始まる。文治5年(1189年)の奥州征伐を経て、宮城郡国分荘および名取郡において知行を得て、同地の地頭となった。国分荘とは、現在の仙台市泉区のあたりをいい、胤通は郷六に住し、のちに仙台城の地に移ったという。しかし、それを裏付ける史料は見つかっておらず、鎌倉時代の宮城郡における国分氏の動向は全く不明である。江戸時代の地誌等によると、仙台城の地には国分氏の前に島津陸奥守という人物や、結城氏がそれぞれ断続的に居城していたことが記されている。その後、戦国時代になって国分能登守宗政(むねまさ)の時代に、虚空蔵楯を千体(せんたい)城と改めた。『伊達治家記録』によると、「城辺に千躰佛を祀るが故に千躰城と号す」と記されている。その千躰佛とは、虚空蔵堂に安置されていた千体仏を指している。その後、千体城は千代城となった。虚空蔵堂はのちに伊達政宗によって青葉山から経ヶ峯に移され、さらに現在の愛宕山に移された。虚空蔵堂隣の千躰堂(仙台市太白区)には、仙台の地名の起源となった奥州藤原氏時代の千体仏が今も存在する。国分宗政は、国分氏領内三十三郷の豪族を家臣化していき、宮城郡南部から西部を支配する勢力を築いたが、大局では陸奥国守護職・伊達稙宗(たねむね)に従った。伊達輝宗(てるむね)の時代、輝宗の弟である彦九郎政重(まさしげ)を、天正5年(1577年)宮城郡の国分氏のもとに代官として派遣し、後に国分氏を継がせた。これにより国分氏は伊達氏に従属することになるが、国分氏は境を接する留守氏と宿敵の関係にあり、武力衝突を繰り返していた。それは岩切城合戦にまで遡り、それから国分氏と留守氏は対立・抗争を続けてきた。留守氏にも政重の兄である政景(まさかげ)が養子に入っていたため、国分氏家中には留守氏の弟分になることに強い反発があり、内紛が絶えなかった。盛重は家中の混乱に悩まされ続け、天正15年(1587年)伊達政宗が事態を収拾できない国分氏を攻め滅ぼそうとしたため、出羽米沢城(山形県米沢市)に出頭して謝罪した。国分政重は盛重(もりしげ)と名を改めて国分領から退き、国分氏の家臣は伊達政宗の直轄となり、国分衆と呼ばれるようになった。その後、伊達氏に復した盛重であったが、慶長元年(1596年)国分衆の讒言により佐竹氏を頼って出奔、慶長7年(1602年)佐竹氏の転封に従って秋田に移り、出羽横手城(秋田県横手市)を与えられて秋田伊達氏の祖となった。天正15年(1587年)豊臣秀吉は関東・奥羽の諸大名に対して惣無事令を発令するが、伊達政宗はこれを無視して領土拡大を続けた。

伊達政宗は、現在の米沢・伊達・信夫・二本松・会津など東北南部に約150万石の版図を築いたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの遅参と葛西大崎一揆を扇動した疑いで、天正19年(1591年)秀吉によって玉造郡岩出山58万石に減転封させられた。本拠の岩出山城(大崎市)は領国の北西に偏在しており、領内の支配には不便が多かった。また、秀吉による全国統一の結果、上方との往来が頻繁になり、奥羽街道から外れたところにある岩出山は不都合であった。慶長3年(1598年)秀吉が没すると、政宗は徳川家康の政権奪取に協力、慶長5年(1600年)には関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いで東軍に属した政宗は、家康から「百万石のお墨付き」を得るも、南部氏領内で和賀一揆を扇動した疑いで約束は反故にされ、刈田郡2万石のみが与えられた(後に近江・常陸国に2万石の加増)。これにより領土がさらに南に拡大したので、領内の南方に居城を移す必要に迫られた。そこで政宗は、家臣の山岡志摩を家康の許に派遣して仙台城普請の許可をとり、同年(1600年)12月24日、自ら城普請の縄張り始めをおこなった。政宗が青葉山の地を選んだことについて逸話が伝えられている。幕府に移転先の伺いをたてる際、石巻の日和山、仙台の榴ヶ岡(つつじがおか)と青葉山を候補にあげた。政宗としては榴ヶ岡を最も希望したが、一番に望むところは許可になるまいと青葉山を第一候補にしたところ、願いどおり青葉山が許可になってしまったとある。築城に際しては、大工棟梁として京都より梅村彦左衛門家次(いえつぐ)ら名工130名を招き寄せており、彦左衛門は紀伊国根来より彫刻装飾の名人・刑部左衛門国次(おさかべさえもんくにつぐ)を呼び寄せた。梅村一門と国次は仙台城の大広間を造営しているが、それ以外にも鹽竈神社(塩竈市)、大崎八幡宮(仙台市青葉区八幡)、瑞巌寺(松島町)など仙台の名建築を手掛けた。特に国次は、仙台藩が普請を担当した日光東照宮(栃木県日光市)の仕事ぶりが認められ、江戸城(東京都千代田区)や寛永寺(東京都台東区)などの造営をおこない、江戸幕府に大棟梁として迎えられた。この刑部国次は、伝説上の彫刻職人・左甚五郎(ひだりじんごろう)のモデルといわれる人物で、日光東照宮の「眠り猫」の彫刻と同じ構図の「にらみ猫」が大崎八幡宮の欄間に見られる。慶長7年(1602年)仙台城は一応の完成をみる。仙台開府を果たした政宗は、地名を千代から仙臺(せんだい)へ改めた。この頃、「入(いり)そめて国ゆたかなるみぎりとや、千代(ちよ)とかぎらじせんだいのまつ」と詠んでおり、この地が千代といわず永遠に繁栄するよう願いを込めている。寛永13年(1636年)政宗が没し、2代藩主・忠宗の時代になると世も治まり、山上の本丸への往来が不便になった。寛永16年(1639年)山麓に二の丸が造営され、62万石の雄藩にふさわしい城郭が完成した。この時、政宗が晩年を過ごした若林城(仙台市若林区)の建物も移築して利用されたと伝えられている。以降、藩政の中心的な役割は二の丸へ移され、本丸は特別な行事にのみ用いられるようになった。伊達家は江戸時代を通じて国持大名の家格を維持し、加賀藩前田家・薩摩藩島津家に続く仙台藩62万石の大藩として幕末まで13代続いた。慶応4年(1868年)仙台藩の主導により陸奥・出羽・越後国の31藩で奥羽越列藩同盟を結成する。同盟諸藩は新政府軍と庄内・秋田戦線、北越戦線、白河戦線、平潟戦線で戦うが敗北、各戦線は崩壊した。9月12日に仙台藩は降伏、敗戦により28万石に大幅減封され、仙台城の主要施設は新政府に接収された。(2018.04.07)

大広間の礎石による平面表示
大広間の礎石による平面表示

本丸北壁の高石垣と艮櫓跡
本丸北壁の高石垣と艮櫓跡

大手門北側に現存する多聞塀
大手門北側に現存する多聞塀

考勝寺に移築された仙台城門
考勝寺に移築された仙台城門

[MENU]