関東平野のほぼ中央に位置し、千葉県の最北端となる関宿は、利根川と江戸川の分流点にあたり、かつては水運の結節点であった。このあたりに関宿城が存在した。戦国時代、関東制圧を進めていた北条氏康(うじやす)が、この地を押さえることは「一国を取り為され候にも替わるべからず候(一国を取るに等しい)」とまで評したように、関東の水上交通の要衝であった。中世の関宿周辺は現在とは全く異なり、利根川水系、渡良瀬川水系、常陸川水系が常に流路を変えながら自由に曲流し、無数の細流や湖沼によって結ばれていた。ところが、関東を代表する名城のひとつであった関宿城も、江戸時代の利根川東遷事業により周辺の地形が大きく改変されてしまい、中世関宿城の縄張りは不明である。それどころか、その所在すら分かっていない。近世関宿城跡からは中世関宿城に繋がる遺物は出土していないという。近世関宿城は、利根川と江戸川を結んだ逆川(さかさがわ)を背にして、三方を河川に挟まれており、天然の外堀を備えた地に築かれていた。逆川に面する北西隅に本丸を置き、そこから南西の二ノ丸と北東の天神曲輪が本丸を囲み、さらに南東に三ノ丸、発端(はったん)曲輪が続き、外郭が囲んだ。周囲は洪水を防ぐ土塁に囲まれていた。近世関宿城は江戸時代を通して関宿藩の藩庁であった。しかし、戦後の河川改修工事により本丸と二ノ丸のほとんどが江戸川の流路となり、遺構も堤防や河川敷に埋もれて消滅している。本丸の北西隅には御三階櫓(おさんかいやぐら)と呼ばれる天守代用の櫓が造営された。『正保城絵図』には土塁上に茅葺き屋根の3層櫓が存在する。この御三階櫓は牧野親成(ちかしげ)が城主であった時代に築かれたと考えられるが、寛文11年(1671年)に焼失した。その後に入城した久世(くぜ)氏の初代藩主・広之(ひろゆき)によって御三階櫓は再建されるが、武蔵江戸城(東京都千代田区)の富士見櫓を模して築いたという記録が残っている。独立式層塔型で高さは約18mであった。御三階櫓の場所は河川敷になっているため建物を建てる事ができず、平成7年(1995年)500mほど上流のスーパー堤防上に現存する江戸城の富士見櫓を模した御三階櫓が建てられた。これは千葉県立関宿城博物館の建物である。江戸川沿いには木々が繁る一画があり、「関宿城趾」と刻まれた石碑が立つ。この辺りが河川改修工事で残された本丸跡の東側5分の1にあたる。その南方の集落内には、佐竹門跡や大手門跡という場所があり、大手門跡脇の窪地は大手の水堀跡という。建築物に関しては、三ノ丸に設置されていた埋門(うずめもん)が市内の民家(野田市東高野)に移築現存する。城内にあった11か所の城門のうちの1つである。切妻造の薬医門で、四つ足門とも呼称され、両脇の板塀の長さは10.6mにおよぶ。平時は通用門として使用されたが、簡素な造りのため、籠城戦の際は内側を3分の2の高さまで土で埋めて、敵の侵攻を防ぐという役割を担っていたと伝えられる。鬼瓦には久世家の家紋「久世鷹の羽」があしらわれる。文久2年(1862年)老中・安藤信正(のぶまさ)が坂下門外の変により失脚した際、老中首座の7代藩主・久世広周(ひろちか)もこれに連座し、公武合体政策の失敗の責任を問われて本丸新御殿で謹慎した。老中を罷免され永蟄居を命じられた広周は、元治元年(1864年)失意のうちに新御殿で死去している。関宿藩主・久世氏の菩提寺である実相寺(野田市関宿台町)の客殿は、明治4年(1871年)新御殿の一部が移築されたものと伝わる。また、逆井城跡公園(茨城県坂東市)には薬医門形式の新御殿門が移築現存する。
栃木県の飲食店(栃木県下野市)に、寛延元年(1748年)に家督を継いだ4代藩主・久世広明(ひろあきら)の時代に大手門として建造されたという巨大な長屋門が移築現存する。この伝大手門は、幕末の8代藩主・久世広文(ひろふみ)が幕府方に加担した際、戦費調達のため幕府の命により資産家に売却したものという。関宿藩の処刑場であった納谷刑場跡には題目碑が残されている。この付近に処刑場と獄門場が置かれていた。幕末に関宿藩が捕えた水戸天狗党員をここで処刑したという。関宿城の歴史は古く、鎌倉時代初期には下河辺(しもこうべ)氏の古河城(茨城県古河市立崎)の管轄下で砦として存在したらしい。一般的に関宿城は、室町時代後期の武将・簗田成助(やなだしげすけ)によって、長禄元年(1457年)に築かれたとされるが、これよりも前から城が存在していた可能性がある。簗田氏は下野国簗田郡の梁田御厨(栃木県足利市)を発祥とし、鎌倉時代には足利氏の家臣であったが、史料に名前は表れず、その地位は高くなかったようである。成助の祖父・満助(みつすけ)が下総国葛飾郡の下河辺荘に移って水海(みずうみ)城(茨城県古河市水海)を築き、後に関宿に進出した。当初、関宿は常陸佐竹氏の所領であったが、永享8年(1436年)4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)から離反した佐竹義人(よしひと)が、鎌倉公方の奉公衆筆頭である満助を仲介者として降伏を申し入れた際、仲介の謝礼として武蔵国埼西郡33郷と下総国関宿7村が梁田氏に譲渡された。満助は水海から関宿に本拠を移しており、関宿城の築城者とされる場合も多い。婚姻関係では、満助の娘が足利持氏に嫁し、5代鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)となる四男の永寿王丸を生んでいる。永享10年(1438年)永享の乱において、室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)の命を受けた関東管領・山内上杉憲実(のりざね)によって足利持氏が攻められると、梁田満助は一族郎党と共に抵抗するが敵わず、足利持氏・義久(よしひさ)父子は自害して鎌倉公方は滅亡した。この時、満助の子・持助(もちすけ)に永寿王丸を落ち延びさせた後、満助も父・良助(よしすけ)らと共に自害している。永享12年(1440年)に起きた結城合戦で持氏の遺児・春王丸、安王丸が殺されるが、文安6年(1449年)鎌倉府が再興されると、足利成氏が鎌倉公方となった。しかし、享徳3年(1454年)成氏が関東管領・山内上杉憲忠(のりただ)を謀殺して約30年間におよぶ享徳の乱が始まる。享徳4年(1455年)鎌倉を占拠された成氏は古河に移り、古河城を本拠地として古河公方と呼ばれた。成氏の外戚である簗田持助は古河公方の奏者となった。奏者とは公方の御書の副状を認める重職である。古河公方と簗田氏の姻戚関係は慣例化し、簗田満助の兄・直助(なおすけ)の娘が足利成氏に嫁して2代古河公方・政氏(まさうじ)を生み、簗田持助の娘が足利政氏に嫁して3代・高基(たかもと)を生んだ。さらに4代・晴氏(はるうじ)も簗田成助の養嗣子・高助(たかすけ)の娘を妻とし、長男・藤氏(ふじうじ)を生んでいる。幾重にも婚姻関係を持つことで外戚として重用されるようになり、代々の古河公方から偏諱を賜っている。簗田氏は大河が交錯する水郷地帯を押さえ、往来する船から舟役(ふなやく)という関銭(せきせん)や津料(つりょう)などを徴収する権利を与えられていた。その頃、関東では北条氏綱(うじつな)が台頭する一方で、敵対する小弓公方・足利義明(よしあき)や両上杉氏の圧迫を受けて古河公方は閉塞していた。義明とは2代・政氏の次男で、3代・高基の弟にあたる。
そこで氏綱は、足利晴氏と同盟を結び、天文7年(1538年)勢力を広げる小弓公方を第一次国府台合戦で討ち滅ぼした。その後、北条氏の政治介入が強まり、氏綱は古河公方との姻戚関係を求めて、筆頭重臣の簗田高助に調整を申し入れた。高助は足利晴氏の義父であり、晴氏には既に嫡子・藤氏がいたが、北条氏の力を借りた弱みから受け入れざるを得なかった。こうして、天文9年(1540年)氏綱の娘(芳春院)を足利晴氏の正室に迎え、翌年に義氏(よしうじ)を生んでいる。天文10年(1541年)氏綱が亡くなり、北条氏康が当主となった。氏康の勢力拡大に危機感を抱くようになった古河公方・足利晴氏は北条氏との対決を決意、天文15年(1546年)関東管領・山内上杉憲政(のりまさ)や扇谷上杉朝定(ともさだ)と連合して、8万ともいう大軍で北条領へ侵攻するが、河越夜戦で惨敗してしまう。簗田高助は出家し、嫡男・晴助(はるすけ)に家督を譲って北条氏に詫びを入れた。しかし、足利晴氏は幽閉されてしまい、長男・藤氏は廃嫡させられ、天文21年(1552年)氏康の甥である次男・義氏が5代古河公方を相続することになった。こうして簗田氏も古河公方の奏者の地位を失っている。永禄元年(1558年)氏康は簗田晴助に対して、関宿城を義氏の御座所とするから明け渡して古河城に移るよう圧力を掛けてきた。古河公方と簗田氏の居城交換である。こうして簗田氏の解体が始まった。永禄3年(1560年)上杉謙信(けんしん)の関東進出が始まる。謙信は、古河公方には長男・藤氏が就任すべきと考え、簗田氏と同盟を結んだ。危険を感じた義氏は関宿城を脱出、空城となった関宿城には晴助が戻り、古河城には古河公方に擁立された足利藤氏が入った。そして、謙信が関東管領に就任した。謙信は毎年のように越山し、関東で越冬することを繰り返した。謙信が関東に滞在している間は北条氏の勢力は後退し、謙信が帰国すると北条氏の勢力は回復した。永禄5年(1562年)謙信が不在時に古河城は落とされ、捕えられた藤氏は小田原に送られて殺害された。永禄8年(1565年)北条氏康は太田氏資(うじすけ)と共に関宿城を攻めた。第一次関宿合戦である。晴助は巧みな伏兵でこれを撃退し、上杉謙信と常陸の佐竹義重(よししげ)が簗田氏救援のために出兵すると北条軍は撤退した。永禄11年(1568年)氏康は三男・北条氏照(うじてる)に命じて関宿城を攻撃させた(第二次関宿合戦)。栗橋城(茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に入った氏照は、栗橋城と関宿城の間に山王山砦(茨城県猿島郡五霞町山王山)と不動山砦(場所不明)の2つの砦を築き、ここを攻撃の拠点とした。氏照の攻撃により関宿城は落城寸前であったが、永禄12年(1569年)武田信玄(しんげん)が甲相駿三国同盟を破棄して駿河に侵攻したため、氏康は謙信と越相同盟を結んで関宿城攻撃は中止、足利義氏が古河城に復帰した。晴助は、足利藤氏の弟・藤政(ふじまさ)を担ぎ上げて武田信玄と同盟を締結した。だが、その直後に北条氏康が病死して甲相同盟が復活することになり、結果的に簗田氏は北条氏・武田氏・上杉氏との関係が悪化してしまう。天正元年(1573年)北条氏照が再び関宿城を攻撃して第三次関宿合戦が始まる。翌年には当主の北条氏政(うじまさ)も加わり、3万以上の大軍による総力戦となった。戦いは1年近くにおよんだが、後詰の要である上杉氏と佐竹氏の足並みが乱れて援軍は来ず、矢弾・兵糧は尽きて、簗田氏の一族・家臣から内通者(かせ者)が出るなど、戦闘の継続は不可能となった。天正2年(1574年)ついに簗田氏は佐竹氏に仲介を頼んで降伏し、関宿城を開城した。
簗田晴助・持助(もちすけ)父子が水海城に退くと、関宿城は北条氏の管轄下に置かれ、大道寺政繁(だいどうじまさしげ)、北条氏繁(うじしげ)、北条氏秀(うじひで)が在番として派遣された。天正10年(1582年)7月、関宿城に在番していた北条治部少輔氏秀を病気療養のために江戸城へ帰還させ、代わりに江戸衆の島津左近大夫らに在番を命じる文書が残っている。天正11年(1583年)北条氏照が関宿城を管轄し、第三次関宿合戦で内通した晴助の弟・助縄(すけつな)を城代に任じた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅びると、関宿城の簗田助縄も開城、このとき関宿城で戦闘があったのか不明である。簗田晴助・持助父子の戦いぶりを知った浅野長政(ながまさ)は徳川家康に推挙し、持助の子・貞助(さだすけ)が1千石で取り立てられた。しかし、元和元年(1615年)梁田貞助・助吉(すけよし)父子は大坂夏の陣で討死している。徳川家康が関東に入部した際、関宿には家康の異父弟・松平康元(やすもと)が2万石で入り、天正19年(1591年)2万石が加増されて関宿藩4万石となった。康元は母・於大の方のために光岳寺(野田市関宿台町)を創建している。この久松松平家は2代続き、その後も譜代大名が関宿藩主を務めた。能見松平重勝(しげかつ)、小笠原家2代、北条氏重(うじしげ)、牧野家2代、板倉家3代、久世家2代、牧野家2代と入れ替わり、宝永2年(1705年)再び久世重之(しげゆき)が5万石で関宿藩主になる。以降は久世氏が幕末まで続く。慶応3年(1867年)大政奉還により江戸幕府が滅亡すると、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が始まる。関宿藩では藩主の久世広文が幼弱なため、勤皇・佐幕の藩論をまとめることができなかった。慶応4年(1868年)4月、江戸を脱出した旧幕府軍が国府台に集結し、日光へ向けて北上した。これに遅れて純義隊・誠忠隊・回天隊など総勢約1500名が関宿領内へ進軍し、岩井の高聲寺(茨城県坂東市)に頓集する。これに対して、関宿藩は監察・山崎弥五右衛門と留守居役・丹羽慎蔵を派遣し、城下の通行を回避するよう説得するが山崎と従者は斬殺された。関宿藩は新政府軍を城下に引き入れ、薩摩藩を中心とした約300人の部隊が岩井方面に展開して旧幕府軍と戦闘におよんだ。この岩井戦争の後に関宿城は新政府軍に無血開城した。しかし、約500人の関宿藩士のうち丹羽十郎右衛門を中心とする200余人の佐幕派藩士が脱藩して、深川藩邸(東京都江東区)へ向かい藩主・久世広文を擁して抗戦する。関宿藩は佐幕派と勤皇派に分かれて斬り合い、藩主の争奪戦を展開した。久世騒動である。久世家の替紋が卍(まんじ)であったため、丹羽は奥原秀之助を隊長として卍字隊を結成、その内の100名程が彰義隊に加勢して上野戦争に参加した。旧幕府軍の諸藩の脱走兵の中で関宿藩の人数が最も多かった。慶応4年(1868年)5月15日、卍字隊は山王台に陣を布いた。上野山内の八門のうち黒門の攻防が最も熾烈を極め、西郷隆盛(たかもり)が指揮する薩摩藩などの新政府軍は黒門を突破することができなかった。これは、山王台に布陣した卍字隊が黒門口の新政府軍に向かって盛んに砲撃を加えたからで、新政府軍は死傷者が続出する状況であった。苦戦した新政府軍は、まず山王台の卍字隊を叩き、昼過ぎには彰義隊は総崩れとなった。本郷台からの佐賀藩のアームストロング砲の威力も強力であった。この戦いで丹羽も奥原も戦死した。その後、関宿藩の勤皇派が藩主・広文を奪還、明治新政府の命により5千石の減封のうえ久世広文は隠居となり、弟の広業(ひろなり)が9代藩主を相続している。(2024.12.29)