真田丸出城(さなだまるでじろ)

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大坂冬の陣に備えて真田幸村が築いた出城

真田丸の比定地
真田丸の比定地

真田丸は、慶長19年(1614年)真田幸村(ゆきむら)が大坂冬の陣に備えて築いた大坂城(大阪市中央区)の出城で、東西に長い三日月形であったことから偃月城(えんげつじょう)とも呼ばれた。この真田丸は、現在の宰相山(さいしょうやま)公園(大阪市天王寺区玉造本町)、明星高等学校(大阪市天王寺区餌差町)、真田山公園(大阪市天王寺区真田山町)のあたりに存在したと言われている。宰相山公園の一角にある三光神社には、真田幸村公之像と史蹟「真田の抜穴跡」が存在する。真田幸村の銅像の台座には、真田家の菩提寺である長谷寺(長野県上田市)から取り寄せた「真田石」が使われている。真田幸村は、大坂城との連絡通路として抜け穴を造ったと伝えられる。一方でこの抜け穴は、徳川方の前田隊が真田丸や大坂城の惣構えを攻撃するために金堀衆に掘らせた坑道であるとも考えられている。かつて、このような抜け穴は他にも6、7箇所あったというが、現在残っているのはここだけである。真田の抜穴跡の内部はだいぶ土が落ちて通路が埋まっており、最初に左に曲がった先で完全に埋まって行き止まりになっている。この抜け穴がどこにつながっていたのか、今となっては分からない。真田丸は、記録によると東西二つの郭に分かれており、東側の郭は南東部を水堀で囲み、南部を空堀としている。西側の郭は南部を半月状に頑丈な柵で固めていたとある。一般的には、甲州流築城術でいう丸馬出しを大きくしたような構造と考えられており、大坂城の弱点である惣構えの南側の玉造口を補強するように、その外側に構築された。大坂城の惣構えに取り付く敵兵には真田丸から横矢を掛ける事ができた。また、真田丸の両側面の虎口に殺到する敵兵には、大坂城の惣構えから側面攻撃することができ、お互いに連携して十字砲火が可能であった。唯一、援護射撃できない真田丸の先端部だけは水堀を配して防御したという。土塁は高さ9m、外周の堀は深さが6〜8m、堀の前後にはさらに柵が設けられ、矢倉や犬走りもあった。土塁の上には、2階建ての攻撃用の矢倉が周囲を取り囲み、上下2段から鉄砲での攻撃を可能とし、通常の2倍の兵数で銃撃できた。この矢倉は通路でつなげられ、不利な場所にはすぐに増員でき、臨機応変な対応も可能としていた。また、所々に敵軍を探るための物見が配置されていた。真田丸には大坂城との連絡用地下道もあり、5000人も配置されたという。城跡近くの心眼寺は、真田幸村・大助父子を弔うために創建されたもので、四天王寺に近い安居神社(大阪市天王寺区逢阪)は天王寺口の戦いによる幸村の最後の地であり「真田幸村戦死跡之碑」が建つ。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で天下を奪った徳川家康は、徳川家の天下を確かなものにするため、摂河泉66万石の大名に成り下がった豊臣右大臣家を滅ぼす必要があった。豊臣秀頼(ひでより)の側近である大野修理亮治長(はるなが)は、家康との決戦に備えて諸国の浪人を徴募し、真田左衛門佐幸村、後藤又兵衛基次(もとつぐ)、長宗我部宮内少輔盛親(もりちか)、毛利豊前守勝永(かつなが)、明石掃部助全登(たけのり)などがこれに応じた。

真田幸村は、諱(いみな)を信繁(のぶしげ)といい、少なくとも大坂城に入城するまでは真田信繁と名乗り続けており、真田幸村と名乗った資料は未だに発見されていない。永禄10年(1567年)頃に、謀将として名高い真田源五郎昌幸(まさゆき)の次男として生まれる。幼名を弁丸(べんまる)という。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、真田昌幸と次男の信繁は石田三成(みつなり)の西軍に属すが、長男の真田源三郎信幸(のぶゆき)は徳川家康の東軍に属した。信繁の正室である竹姫は、石田三成の盟友として知られる大谷吉継(よしつぐ)の娘であり、信幸の正室である小松姫は、徳川四天王として有名な本多忠勝(ただかつ)の娘なのである。通説では、西軍と東軍のどちらが勝利しても真田の家名を残すために敵味方に分かれたとされる。真田昌幸・信繁父子は、中山道を西に向かう徳川秀忠(ひでただ)が率いる3万8千の大軍を信濃上田城(長野県上田市)で迎撃、少ない兵力で秀忠軍を十分に足止めさせて、関ヶ原本戦に遅参させることに成功した。しかし、関ヶ原本戦で西軍は敗北しており、『上田軍記』などによると、昌幸と信繁は信濃国上田領の没収と死罪が下されたという。しかし、東軍に属した長男の信幸と、その舅である本多忠勝の助命嘆願で赦免され、紀伊国高野山への流罪となった。昌幸・信繁父子は従士16名を連れて高野山の蓮華定院(和歌山県伊都郡高野町)に蟄居、その後に九度山に移っている。真田信幸は通字(とおしじ)として「幸」という字を受け継いでいたが、家康に憚(はばか)り、西軍に付いた父との決別を表すために通字である「幸」を棄てて、諱を信之に改めている。このような経過があり、真田昌幸の意志を引き継いだ真田信繁は、本人もしくは、判官贔屓な江戸時代の庶民の思いとして、「幸」の字を用いなければならなかった。こうして、真田幸村が誕生したと考えられている。慶長19年(1614年)紀伊国九度山から大坂城に入城する。人目を忍んで山伏姿で入城したという史料もある。幸村は、大坂城内を巡検して城取りの名人と言われた豊臣秀吉の縄張りに感心したが、惣構えの南の平野口が薄装であるという欠陥に気がつく。大坂城の周囲は、北に天満川、東に平野川、西に木津川を配しているが、南側には空堀があるのみで、地続きとなり攻められやすい。大軍を自在に動かすことのできる南側が弱点となり、戦さに長けた徳川家康がこれを見逃すはずはなく、敵の主力が南から攻めてくることは間違いなかった。このため、二重要塞を構築することを考案し、外堀から城外に突き出すように独創的な真田流の出城を築城した。これが真田丸である。一方、兄の信之が関ヶ原の戦いの頃から家康に属しているため、大坂城内では幸村を内通者と疑う者もいた。このため、身の潔白を証明するために、あえて最前線に立つことを選んだとも考えられている。同年の大坂冬の陣では、真田丸の南方約2kmの茶臼山が家康の本陣となり、家康は前田利常(としつね)に土塁を築き大筒で大坂城を攻撃するように命じる。これを察知した幸村は、前面の前田隊を挑発するため、真田丸の南方にある小橋ノ篠山(ささやま)に鉄砲隊を置いて、眼下の前田隊を毎日狙撃した。業を煮やした前田家筆頭家老の本多政重(まさしげ)は、夜討をかけるため篠山を囲むが、この動きを察知していた幸村は、鉄砲隊を真田丸に引き揚げさせていた。もぬけの殻の篠山を占拠した政重は、真田兵の挑発に乗り真田丸に押し出した。隣接する松倉重政(しげまさ)隊、寺沢広高(ひろたか)隊、井伊直孝(なおたか)隊も前田隊の抜け駆けと思い真田丸に殺到する。

幸村は寄せ手を十分に引き付けたところで一斉射撃をおこなった。藤堂高虎(たかとら)隊や越前少将隊(松平忠直)も八丁目口や谷町口に押し寄せたが、長宗我部盛親隊などに迎撃され、さらに側面を真田丸から攻撃され大きな被害を受けた。敵の混乱に乗じて真田丸の門が開き、真田大助幸昌(ゆきまさ)、伊木七郎右衛門ら500人が出撃して、松倉隊、寺沢隊を蹴散らした。この真田丸での戦いは西軍の一方的な勝利となり、大坂冬の陣の総戦死者の8割がこの戦いで犠牲になったといわれ、真田幸村の名を天下に知らしめることになった。真田丸を含めた大坂城の守りは堅固であるため、まともに攻めれば東軍の被害は増大してしまう。このため徳川家康は、戦術を心理戦に切り替えて、大坂城の本丸にめがけて昼夜問わず大筒を撃ち込んだ。当時の大筒の弾は炸裂せず、鉄球を飛ばすだけであったが、徳川方の弾が大坂城の天守と千畳敷ノ間に命中、淀殿の侍女が死亡した。これには大きな効果があり、豊臣秀頼は徹底抗戦を主張するが、豊臣秀頼の母である淀殿は精神的に参ってしまい、恐怖した淀殿の一声で家康の和平勧告を受けることになる。これにより真田丸は破却され、大坂城の外堀を埋め立てる材料として使われた。さらに家康は大坂方の弱体化を謀るため、幸村のもとに叔父である真田信尹(のぶただ)を使者として派遣し、信濃に3万石を与えるので寝返るように説得している。幸村は家康の誘いを断るが、再び信濃一国という好条件で誘ってきた。これに対して幸村は、「一旦の約の重きことを存じて較ふれば、信濃一国は申すに及ばず、日本国を半分たまわるともひるがえし難し」と利よりも義を重んじた回答をしている。慶長20年(1615年)大坂冬の陣の和平によって大坂城を裸城にされた豊臣右大臣家は、必要以上に埋められた堀の掘り起こし等の復旧工事を手がけた。これが再軍備とみなされ、再び東西手切れとなり、大坂夏の陣が始まった。大坂の役における真田幸村隊は武器から甲冑まで赤一色で揃えたと言われている。赤色の原料は辰砂(しんしゃ)という希少な鉱石、これで釉薬(うわぐすり)を作り、甲冑などの表面を塗り上げた。赤色は膨張色であり進出色でもあるため、軍勢の数が実際よりも多く見える効果や兵士の体が大きく見える効果があったり、実際の距離感よりも近くに感じる効果があるので敵が目の前に迫ってきている印象を与える。このため、赤備(あかぞなえ)は僅かな戦力で最大の効果を得るための作戦だったと考えられている。一方で幸村は、真田家の定紋である有名な「六文銭」は一切使用していなかったようである。これは、徳川方に属している本家の信之に迷惑が及ばないように遠慮したものと考えられている。事実、『大坂夏の陣図屏風』に画かれている幸村隊は、旗指物をはじめ、甲冑のどこにも「六文銭」は見当たらないのである。道明寺の戦いの敗戦により後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだかねすけ)らを失い、八尾・若江の戦いの敗戦で木村長門守重成(しげなり)を失った。誉田(こんだ)方面に出撃していた真田幸村隊は、伊達政宗(まさむね)の鉄砲騎馬隊と銃撃戦の末に後退させている。火縄銃は筒先から弾丸を装填するため、銃口を下に向けられない。そのため、馬上で鉄砲を取り扱うには高い技術が求められた。そして、八尾・若江の敗報と退却の命令を受け、幸村は「関東勢百万も候へ、漢(おとこ)は一人もなく候よし」と挑発して天王寺方面へ退いた。真田幸村隊の3千5百は、天王寺口の茶臼山に布陣した。『武徳編年集成』には、「茶臼山には真田が赤備、つつじの花咲きたるが如く、堂々の陣をはる」とある。

さらに『武徳編年集成』によると、茶臼山に布陣する幸村隊は、四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)に布陣する毛利勝永隊の4千と、遊軍である明石全登隊の3百とで連携した作戦を準備していたという。その作戦は、茶臼山の幸村隊と四天王寺の毛利隊が、徳川軍の先鋒を引き付けて鉄砲で迎撃、家康はさらに援軍を派遣する。その戦いを横目に明石隊が迂回して家康本陣に近づき、合図の狼煙をあげる。この合図によって、幸村隊と毛利隊が突撃を開始、慌てた家康が本陣を守備する親衛隊も戦線に投入したところを、明石隊が家康の背後から襲いかかるというもの。しかし、この作戦はうまくいかず、四天王寺の毛利隊がいきなり突出して、連携が崩れてしまった。真田幸村は単独で家康の首を狙って突撃を開始する。幸村隊は、徳川軍の先鋒の本多忠朝(ただとも)隊を突破、その勢いで二陣の越前少将隊、三陣の水野勝成(かつなり)隊を突破し、家康の本陣に突入することに成功した。幸村が狙うのは「家康の首」ただ一つ。それが実現しかかったのは史実らしく、『真田三代記』などの軍記物のほか、『山下秘録』など、当時の記録類によると、真田幸村は家康の旗本衆を目指して真一文字に討ち入り、そのとき、家康の「厭離穢土欣求浄土」の旗や、「金扇」の馬印が幸村隊によって踏みにじられたという。また、徳川方であった薩摩国の島津家久(いえひさ)が国許に送った報告書『薩摩旧記』には「御所様の御陣へ真田左衛門かかり候て、御陣衆追いちらし討捕申し候、御陣衆三里づつ候衆は皆生き残られ候」とあり、家康の旗本衆は恐怖のあまり三里も逃げ去り、ようやく命拾いできたという。また、他の史料には「平野・久宝寺まで逃げた者がいた」と記されている。あまりの猛攻に旗本衆は総崩れとなり、馬廻衆まで逃亡した。『三河物語』にも家康を守るものは一人だけにて、他はちりぢりに逃げたとあり、逃れる家康は何度も死を覚悟したという。果敢にも三度に渡って敵陣を切り崩し、家康の本陣に突入しているが、ついに家康を討ち取ることはできず、手傷を負った幸村は疲れ果てて安居天神で休んでいるところを、越前少将隊の西尾仁左衛門宗次(むねつぐ)に不意をくらって首を討たれた。徳川方の細川忠興(ただおき)はその死を惜しみ、「左衛門佐、合戦場において討死、古今これなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候、さりながら、手負ひ候ひて草臥(くたび)れ伏して居られ候を取り候に付、手柄にも成らず候」と、拾い首同様に手に入れた西尾宗次を批判するような内容を国許へ書き送っている。幸村の見事な戦いぶりに徳川方の武将たちからも賞賛の声が上がったという。そのためか、幸村は全国各地に生存伝説を残している。それによると、西尾宗次が討ち取った幸村は影武者の穴山小助だったとされており、幸村と主君の秀頼は、島津氏の歩卒に変装して大坂城を脱出したという。そして、京都の童たちに「花の様なる秀頼様を、鬼のやうなる真田がつれて、退きものいたよ加護島(鹿児島)へ」と唄われた。『甲子夜話』にも薩摩逃亡説は掲載されており、現地の伝承によると、幸村は芦塚左衛門と名を変えて鹿児島県南九州市の雪丸部落に潜伏したという。百姓娘との間に子が生まれ、その子孫はやがて名字帯刀を許されて「真江田」姓となった。さらに、幸村が薩摩から諸国を行脚して出羽国大館にたどり着くという説まである。幸村に生きていて欲しいという想いによるものだと思われる。島津家久の『薩摩旧記』の続きには「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)、古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)、惣別これのみ申す事に候」と幸村を称えている。(2004.04.27)

真田幸村の像
真田幸村の像

真田の抜穴跡
真田の抜穴跡

幸村を弔う心眼寺
幸村を弔う心眼寺

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