逆井城(さかさいじょう)

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小田原北条氏の常陸方面進出の前線基地として飯沼の湖岸に築かれた境目の城

西二曲輪の復元された二層櫓
西二曲輪の復元された二層櫓

茨城県の西部には多くの湖沼の跡が存在する。かつて、利根川や鬼怒川などは大雨の度に氾濫を繰り返し、利根川と鬼怒川に挟まれた地域は、飯沼(いいぬま)、長井戸沼(ながいどぬま)、菅生沼(すがおぬま)、釈迦沼(しゃかぬま)、鵠戸沼(くぐいどぬま)、一ノ谷沼(いちのやぬま)などの沼沢地や湿地であった。中でも飯沼は、南北30km以上、東西幅1kmと長大で、戦国時代後期には小田原北条氏の勢力の国境線であった。現在、飯沼は干拓されて一部が西仁連川(にしにずれがわ)として残っているが、干拓地は水田(飯沼新田)となって飯沼の痕跡をとどめている。この飯沼の中央西岸、猿島台地先端の標高20mの微高地に逆井城があった。通称は天神山・城山(しろやま)という。厳密には河岸段丘上に築かれた台地城となるが、ほぼ平城であった。城の北から北東にかけて飯沼が、西側には人工的に水を引き入れた蓮沼(浮島沼)が広がっていたが、陸続きの南側や東側も泥湿地で、後ろ堅固な攻めにくい城だったと考えられる。飯沼を背にした一曲輪を囲むように東二曲輪、西二曲輪が配置され、西二曲輪の西側の堀は入り江(舟入)になっており、飯沼へ船を出すための船着場跡である。一曲輪は東西60m、南北80mで、これに東西二曲輪を足すと東西180m、南北320mの広さになる。東二曲輪の外側には三曲輪と外構が存在した。三曲輪は東二曲輪と空堀を隔てた東側にある狭小な曲輪である。その南に大きく広がる外構は曲輪というより、万単位の軍勢を駐留させられる駐屯地と考えた方がよく、土塁で囲まれていた痕跡はない。さらにその東に外堀を穿って、自然地形の谷を合わせて総構えとした。現在、逆井城跡の主要部分は整備された公園になっており、数次にわたる発掘調査の成果と入念な時代考証を踏まえて、史実に忠実な中世城郭建物群の再現が図られている。戦国時代の城郭建設までを含めた緻密な復元事業は、全国を見渡しても例が少ない。城山大権現が祀られている一曲輪には、大規模な土塁や空堀が完存し、一曲輪への唯一の虎口となる東二曲輪からの木橋と櫓門(二階門)が復元されている。木橋の遺構としては、礎石・男柱・支柱の柱穴、柱桁支柱の穴が見つかっている。また、櫓門の遺構では、東西に3個ずつ2列で方形に結べる柱穴と雨後溝(うごみぞ)が見つかっている。これら復元した建物は、遺構保存のために旧柱位置よりも西へ1m、北へ50cmずらして再建している。西二曲輪にある大手口の堀の折れに斜めに架けられた大手橋は、一本足橋脚の筋違橋(すじかいばし)で、発掘調査によって堀底から石塔転用の橋脚礎石が出土した。この大手橋の脇の櫓台には、橋を監視するように二層櫓(着到櫓)が存在する。これは平面が6m四方の規模で、礎石などの位置から大きさは確かであるが、外観は同時代史料などを元に復元したものである。入母屋造りの屋根に回縁を持つ望楼を載せ、下見板張という初期望楼型天守の原型となった戦国時代末期の櫓としている。西二曲輪には他にも井楼矢倉(せいろうやぐら)、平櫓、板塀など、戦国時代末期の逆井城を再現している。井楼矢倉は、井形に組んだ方形材を4本の支柱にはめ込んだ簡易な矢倉で、約12mの高さであるが、見た目よりも堅固であった。物見櫓として敵の動勢を監視する目的で使用された。この井楼矢倉については、専門家から軌道の上を車輪によって移動していく「車井楼」だったのではないかという指摘がなされている。車井楼は戦国時代末期に寄手側の攻城兵器として使われたという伝承はあるが、城方の防御用施設として使われた可能性も考えられる。

西二曲輪には逆井城以外の城郭遺構、復元建築も展示保存されており、常陸堀之内大台城(潮来市)の発掘遺構をもとに復元した主殿や枯山水庭園、関宿城(千葉県野田市)から移築保存されている薬医門形式の城門、古河城(古河市中央町)諏訪曲輪の書院礎石などである。主殿の構成は、正面から見て右側半分が主室で、左側半分がその控室的な部屋となっている。主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」と言われるもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものである。城址碑のある東二曲輪は、広大な芝生公園に整備されているが、横矢掛りや比高二重土塁など現存遺構によって、高度な北条流築城術を確認することができる。三曲輪から外構までは畑化しており、三曲輪には井楼矢倉がもう1基あったが、現在は撤去されている。飯沼は、享保9年(1724年)8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の命による新田開発で水田地帯に変わっており、西仁連川は飯沼干拓のときに開削された人工の川である。城跡近くには代官屋敷、家老屋敷、武家(ぶけ)、大(おお)どおり、馬乗場(うまのりば)、常使山(じようしやま)、香取山(かとりやま)、金久曾(かなくそ)など、南方には古木戸(ふるきど)、頭塚(こうべつか)、鬘房(かつらぼう)などの小字がある。下野国守護職で下野祇園城(栃木県小山市)を本拠とした小山義政(おやまよしまさ)の五男である常宗(つねむね)は、下総国猿島郡逆井の地を知行して逆井尾張守と称した。永享12年(1440年)鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)の残党や、結城氏朝(ゆうきうじとも)・持朝(もちとも)父子などが持氏の遺児を擁立して室町幕府に反乱を起こした。結城合戦である。結城氏と同族であった逆井常宗も結城城(結城市大字結城)に合流して戦うが、落城により退散している。文安3年(1446年)持氏の遺児である足利成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任すると、成氏は逆井常宗に法雲寺領となっていた逆井に復帰するよう命じた。この常宗を祖とする豪族・逆井氏の居城は、こんにち古逆井城と呼ばれているが、宝徳2年(1450年)頃に築城されたという。数次にわたる発掘調査の結果、現在の逆井城跡の一曲輪内部および南側の空堀外側周辺や東側より、逆井氏時代の古城の一部と推定される土塁や空堀、乱杭柱穴などが発見された。享徳5年(1456年)の大宝八幡宮の鐘銘に「奉行逆井尾張守沙弥常宗」と刻されている。常宗は沙弥(しゃみ)とあるので剃髪して仏門に入った武士であった。この年は康正2年(1456年)であるが古河公方は改元を認めず、享徳27年(1478年)まで使用させている。逆井氏は2代・佐渡守貫利(やすとし)、3代・右衛門四郎常繁(つねしげ)と続く。逆井常繁も古河城の古河公方に仕えたが、天文5年(1536年)北条氏3代当主・氏康(うじやす)の命を受けた大道寺駿河守の軍勢に攻撃され、この筑波合戦によって城主の逆井常繁は討死、古逆井城は落城したという。大道寺駿河守とは玉縄北条氏の重臣・大道寺盛昌(もりまさ)とされる。『逆井氏留系』に「北条氏康臣大道寺駿河守筑波合戦討死、于時天文五年三月三日、常繁妻城内ニテ自害」とあり、このとき常繁は19歳だったという。逆井常繁の弟・兵部少輔利光(としみつ)の項には「逆井兵部少輔、貫利二男、逆井城没落、関宿城主簗田出羽守晴助加関宿改(ママ)城之刻、逆井江引込田畑切開為農士、兄為菩提、一寺建立、常繁寺ト号ス、起立書ニハ所之城主右衛門四郎常繁帰依ニテ常繁寺号ト有」とある。逆井利光は逆井城が落城すると関宿城主・簗田晴助(やなだはるすけ)に仕え、天正2年(1574年)関宿落城後は逆井村に帰農した。

そして、兄の菩提を弔うために一寺を建立した。これが逆井城跡の近くにある常繁寺(じようはんじ)である。しかし、天文5年(1536年)時点では北条氏の勢力はこの地までおよんでおらず、扇谷上杉氏の武蔵河越城(埼玉県川越市)も奪取できていない。『喜連川家料所記』によると、永禄3年(1560年)頃の逆井(酒井)は簗田氏の知行地だったようなので、おそらく逆井氏の滅亡は「天文五年」ではなく、永禄年間(1558-70年)と考えられる。攻め寄せたのは、大道寺盛昌の嫡子の周勝(かねかつ)か孫の政繁(まさしげ)であろう。いずれにしても、この古逆井城の落城時に、討死した逆井常繁の奥方(一説には息女)である智御前(ともごぜん)が、先祖伝来の釣鐘を被って、城内の池に入水自殺したという伝承が残っている。後年、この釣鐘を探すために何度も池が掘り返されたことから鐘掘池(かなほりいけ)とか鐘掘井戸と呼ばれている。この鐘掘池は、現在も一曲輪跡の南側の空堀の中に存在し、どのような日照りでも池の水が枯れたことはなく、城内の水源として利用されたと考えられる。北条氏4代当主の氏政(うじまさ)は、天正2年(1574年)第三次関宿合戦で簗田晴助・持助(もちすけ)父子を降伏させると、栗橋城(五霞町)や関宿城を整備して、弟の北条氏照(うじてる)を栗橋城に配置、北方進出の拠点とした。天正2年(1574年)頃に飯沼まで勢力を伸ばした北条氏は、弓田城(坂東市弓田)を築き、逆井城とともに結城方面への前線基地とした。逆井城の南東3.8km、西仁連川の東側には出城の駒寄城(坂東市山)があり、逆井城と弓田城を結ぶ繋ぎの城であったという。この頃、玉縄北条氏が常陸方面の攻略を担当していたため、北条氏繁(うじしげ)が最前線の飯沼城こと逆井城に派遣された。逆井城の外構には八幡神社があり、相模玉縄城(神奈川県鎌倉市)の北条綱成(つなしげ)・氏繁父子が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、逆井城の守護神としたと伝わる。これは玉縄北条氏と逆井城の深い繋がりを示すものでもあった。この八幡宮の前には三曲輪か外構の空堀の一部が残り、ここが外構の大手口であったという伝承が残されている。父の北条綱成は、朽葉色に染めた練絹に「八幡」と墨書した旗を用いて「地黄八幡(じおうはちまん)」と呼ばれおり、常に北条軍の先鋒としてその無類の強さを見せつけて、敵に恐れられた北条家中随一の猛将である。また北条氏康の時代に北条五色備(ごしきぞなえ)と呼ばれる部隊編成で、赤備の北条綱高(つなたか)、青備の富永右衛門尉、白備の笠原康勝(やすかつ)、黒備の多目周防守とともに、筆頭である黄備を担当していた。長男の北条氏繁は、北条氏康からの信任も厚く、当初は氏康から一字を貰い康成(やすしげ)と名乗っており、下総方面の軍権を任された。元亀2年(1571年)北条氏康が病没すると、翌元亀3年(1572年)北条綱成は康成(氏繁)に家督を譲り、出家して道感(どうかん)と号している。天正3年(1575年)北条氏照は祇園城を攻略しており、前線基地を栗橋城から祇園城に北上させて北関東攻略の拠点とした。天正5年(1577年)北条氏繁は相模国藤沢の大鋸引(おがびき)職人の棟梁である森木工助(もくのすけ)ら職人衆を呼び寄せて、「新地という際限なき要所」である逆井城の大規模な改修工事をおこなっている。大鋸引とは製材技術者で、木材から角柱をつくる職人のことである。『北条氏所領役帳』によると、森氏は北条氏の職人衆のひとりで、関東各地の築城や修理のために大鋸引の集団を率いて赴いた。この改修によって、北関東の平城としては最大級の城郭に生まれ変わっている。

また大手口のある西二曲輪の空堀の発掘調査で、何層にもわたる多量の炭と焦土層が見つかっている。これは忍者集団の夜襲を警戒するために、空堀内に松明を投げ入れて焚き火をした跡である。地層の調査から、こうした焼け跡は小田原征伐がおこなわれた天正18年(1590年)のものまであったという。実際に『関八州古戦録』などによると、風魔小太郎の子である風魔孫右衛門や石塚氏などの忍者集団300人を逆井城に配置したという記録があり、忍者による警固体制が敷かれていたことを物語っている。逆井城が改修された天正5年(1577年)は、北条氏が常陸・下野勢力と最も激しい戦闘をおこなった年にあたる。下総国結城郡の戦国大名であった結城政勝(まさかつ)は、相模小田原城(神奈川県小田原市)の北条氏康と協調することによって勢力拡大を図っていた。しかし、元亀年間(1570-73年)になると、結城氏は次第に上杉謙信(けんしん)への傾斜を強め、ついに元亀3年(1572年)北条氏政と手を切り上杉謙信に属するようになった。このため北条氏は、離反した結城氏に対して報復の軍を発することになる。天正5年(1577年)祇園城の北条氏照は逆井城に駐屯し、飯沼の対岸に押し出して結城氏、山川氏の領内に攻め込んでいる。結城城の結城晴朝(はるとも)と山川城(結城市大字山川新宿)の山川晴重(はるしげ)は協力し、常陸下妻城(下妻市)の多賀谷重経(しげつね)、常陸下館城(筑西市)の水谷正村(みずのやまさむら)・勝俊(かつとし)兄弟の援護、さらには佐竹氏、宇都宮氏、那須氏の支援を得て、北条氏の大軍を相手に激しい合戦を繰り返した。北条氏繁の長男・氏舜(うじとし)は、陸奥国会津黒川の蘆名盛氏(もりうじ)に対して、父の氏繁が逆井城中で患っていることと、佐竹義重(よししげ)、宇都宮広綱(ひろつな)、那須資胤(すけたね)の軍勢が逆井城の近くに在陣し、決戦が近いことを報じている。上杉謙信の援軍はなかったものの、結城氏、山川氏、多賀谷氏、水谷氏、および佐竹氏、宇都宮氏、那須氏は結束して、北条氏の侵攻をよく防いだ。以後、この強力な反北条氏の体制は、天正18年(1590年)まで続くことになる。一方、天正6年(1578年)逆井城で病に臥せていた北条氏繁はそのまま病没した。父・綱成は玉縄城に健在で、逆井城の城代に長男の氏舜を据えており、天正8年(1580年)氏舜が没すると次男の氏勝(うじかつ)が代わった。その後の逆井城は北条氏の北進の拠点というより、常総の中原で爆発的に勢力を拡大していた多賀谷氏の南進に備える防衛拠点として機能したようで、飯沼を挟んで対峙した。天正17年(1589年)10月、北条氏5代当主の氏直(うじなお)は豊臣秀吉との戦いに備えて、逆井城の北条氏勝に伊豆山中城(静岡県三島市)の修築を命じている。同年11月24日には秀吉が北条氏直へ宣戦布告し、これを諸侯に示した。天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐が始まると、3月29日には北条氏勝ら4千の守る山中城を豊臣軍7万の大軍が総攻撃した。山中城は半日で落城、北条氏勝は相模玉縄城に脱出するが、玉縄城には徳川家康の軍勢が押し寄せて4月21日に無血開城となった。この前後、逆井城も開城したとみられる。この時の攻防戦の記録はなく、どのような経緯で豊臣方の手に落ちたのかは定かでない。この小田原の役において、結城晴朝、水谷勝俊、多賀谷重経らは小田原に参陣しており、秀吉から所領を安堵されている。そして、北条氏に代わって徳川家康が関東に移封した後も、逆井城が利用されることはなく、北条氏の滅亡とともに廃城となった。(2023.05.02)

忠実に復元された櫓門と木橋
忠実に復元された櫓門と木橋

蓮沼側から眺めた井楼矢倉
蓮沼側から眺めた井楼矢倉

常陸堀之内大台城の復元主殿
常陸堀之内大台城の復元主殿

一曲輪南の空堀にある鐘掘池
一曲輪南の空堀にある鐘掘池

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