坂本城(さかもとじょう)

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織田家臣団において初の城持ち大名となった明智光秀が琵琶湖畔に築いた水城

-72cmの水位で現れた本丸石垣
-72cmの水位で現れた本丸石垣

坂本城跡は琵琶湖の南湖西岸にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈が連なり、北陸道(西近江路)と湖上交通の要衝にあたる坂本の地に築かれていた。坂本地区は古くから延暦寺(大津市坂本本町)や日吉大社(大津市坂本)の門前町として、琵琶湖水運の港町として賑わった。坂本城は琵琶湖を背にした連郭式の縄張りで、もっとも東の琵琶湖側には本丸が配置され、その西側に二の丸、三の丸と続く。城内に琵琶湖の水を引き入れ、本丸を囲む内堀、二の丸を囲む中堀、三の丸を囲む外堀と3重の水堀で囲まれていたとされる。当時の琵琶湖は現在よりも大きく、坂本城の本丸跡と二の丸跡を分断する県道558号高島大津線は湖水の中であったと想定されるため、本丸と二の丸の一部は琵琶湖に突き出していた。坂本城址公園(大津市下阪本)は、実は城外に推定されており、本丸跡は約200m北方にある。現在、本丸跡は企業の所有地となって立ち入りはできず、二の丸跡と三の丸跡は市街地になっており、遺構は完全に消滅している。本丸跡東側の桟橋付近の湖底には、本丸石垣の根石部分や舟入跡が沈んでおり、普段は水面下のため見ることはできない。平成6年(1994年)、平成12年(2000年)の琵琶湖の異常渇水時に水位が下がり、湖畔に残る石垣跡が見られる時期があった。現在、琵琶湖の水位は管理調整されており、その時の規模で見られることはないが、琵琶湖の水位がマイナス50cm前後になると石垣(根石)の石列が水面に現れる。往時、坂本城の本丸には高層の大天主と、それに連なる小天主を擁した連結式天主があったと考えられる。通常は「天守」と表記するが、織田政権における安土城(近江八幡市)や坂本城など、ごく限られた城でのみ「天主」という表記が使用される。昭和54年(1979年)の本丸跡の発掘調査では、厚い焼土や城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組の井戸、土坑、溝、石垣の基礎石などが見つかっている。このとき暗灰色の瓦に混じって赤褐色の瓦も出土し、落城時に焼けて変色したものと判断された。しかし、破断した瓦の断面も赤いことや、出土量の約3割が赤瓦であることをふまえて、建物の一部に赤瓦が使用されたと考えられるようになった。下阪本の東南寺(とうなんじ)から旧道へ出る道筋に、坂本城跡の碑がある。ここは坂本城の二の丸跡とされている。坂本城の推定範囲とされる三の丸の西端は、浄戒口(じょうかいぐち)の小字から城界(城の境界)と推測していたが、発掘調査では城の遺構は見つからなかった。坂本城の規模は推定よりも狭い可能性もある。他に城跡には、城、城畔(しろくろ)、御馬ヤシキ、的場(まとば)などの字名が残っている。大津市比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)の表門は、坂本城の城門を移築したものである。解体修理に伴う学術調査によって、もとは櫓門であり、移築の際に2階部分を取り除き薬医門としたことが判明した。坂本城の城門という事は、日本最古級の城郭建築といえる。姉川の戦いで織田信長に敗れた浅井長政(あざいながまさ)は、元亀元年(1570年)9月に越前の朝倉義景(よしかげ)と協力して京都に侵攻する途中、織田勢に阻止されて坂本付近で戦いが起こった。この時の織田方の大将は宇佐山城(大津市南滋賀町)の城将・森可成(よしなり)で、浅井・朝倉軍の3万の大軍に対して、わずか1千の兵で応戦している。しかし多勢に無勢、この坂本の合戦は織田方の惨敗で、森可成は48歳で戦死を遂げた。このとき比叡山延暦寺も浅井・朝倉軍に加勢していたことが織田信長の怒りに触れ、比叡山焼き討ちの要因となっている。

聖衆来迎寺は延暦寺の中本山で浅井・朝倉方に味方する立場であったが、聖衆来迎寺の住職・真雄(しんゆう)上人は可成の死を悼み、夜陰に乗じて遺体を聖衆来迎寺に運んで葬っている。翌元亀2年(1571年)信長は3万の軍勢に命じて、延暦寺の里坊があった坂本の町家をはじめ、日吉山王二十一社から比叡山山上までの堂塔伽藍をことごとく焼き払い、3千人から4千人の僧侶や町人を殺戮したが、森可成を弔ったこの寺にだけは害を加えなかったという。境内には森可成の墓が今も残っている。西教寺(大津市坂本)は明智家の菩提寺で、明智光秀(みつひで)の供養塔や、妻の熙子(ひろこ)の墓がある。光秀の供養塔に光秀は葬られていないが、熙子の墓所には、熙子の亡骸が納められた歴とした墓である。『西教寺過去帳』によると、熙子は天正4年(1576年)に亡くなったとされ、西教寺で供養されているが、江戸中期に成立した『明智軍記』によると、天正10年(1582年)坂本城の落城時まで生きたという。光秀は愛妻家で側室を持たなかったというが、実際には側室がいたという伝承もあり、熙子が亡くなってからの側室であれば辻褄が合ってくる。近年、聖衆来迎寺の『仏涅槃図』の裏面に、天正9年(1581年)の熙子の戒名と成仏を願う文言が見つかり、天正4年没年説を補強している。光秀と熙子は三男四女をもうけ、仲睦まじく暮らしたと伝わる。西教寺の総門は高さ6.4m、幅5.6mで、天正年間(1573-92年)に明智光秀が坂本城の城門を移築したものと伝わる。また西教寺の梵鐘は、坂本城の陣鐘を寄進したものと伝わる。東南寺の北東約100m、県道558号線沿いの西側にある小さな塚が明智塚で、明智方将士首塚ともいう。ここは古い小字を「城」といい、坂本城の城内と推定される。この塚の由来については、様々な伝承が残っている。例えば、坂本城の築城に際して光秀が本家の美濃国守護職・土岐家から伝領した宝刀を城の主柱の下に埋めた跡だとか、光秀の脇差である名刀・郷義弘(ごうのよしひろ)を落城に際して娘婿の明智左馬助秀満(ひでみつ)が埋めた場所や、左馬助秀満の首を埋めた場所、他にも明智一族の墓所など、いろいろな伝承がある。この塚は明智一族の悲運もあり、触ると祟りがあると伝わって、壊されることもなく現在に至っている。明智光秀の前半生は、記録がなく不明である。最新の研究では『遊行三十一祖京畿御修行記』に「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺(しょうねんじ)門前に十ヶ年居住」とあることから、光秀は越前国長崎にある称念寺(福井県坂井市)の門前で10年くらい牢人生活を送っていたとされる。弘治2年(1556年)明智城の戦いで明智一族が離散し、そのまま美濃から越前へ逃れてきたとすれば、その10年後は永禄9年(1566年)となる。戦国大名・越前朝倉家への仕官を狙っていた光秀は、朝倉義景の家臣との連歌会の機会に恵まれた。しかし、牢人中の光秀には酒宴を用意する費用がないため、妻の熙子が自分の黒髪を切り、それを売って工面したという美談が『明智軍記』に記載されている。その後、光秀が朝倉家に仕えたとの説もあるが、よく分かっていない。ちょうどその頃、足利義昭(よしあき)と側近の細川藤孝(ふじたか)が越前に転がり込んでくるのである。永禄8年(1565年)5月19日、室町幕府13代将軍・足利義輝(よしてる)が三好三人衆らの襲撃を受けて殺害された。永禄の変である。この時、義輝の弟・覚慶(かくけい)も命を狙われて大和一乗院(奈良県奈良市)を脱出、還俗して足利義秋(よしあき)を名乗った。

永禄9年(1566年)9月に朝倉義景を頼って越前に入り、足利義昭に改名した。明智光秀は、永禄9年(1566年)から永禄11年(1568年)まで義昭と共に越前に滞在していたという。永禄11年(1568年)光秀は足利義昭の足軽(側近)になっていた。義昭は朝倉氏の援助で上洛して将軍になろうとしたが、朝倉義景は越前一向一揆との戦いが本格化して動くに動けなかった。このとき足利義昭と細川藤孝に、美濃まで勢力を伸ばしてきた織田信長を頼るよう提案したのが光秀だった。信長の正室・帰蝶(きちょう)と光秀は従兄弟だったので、信長に関する情報を得ていたものと思われる。光秀が使者となって交渉し、永禄11年(1568年)7月に義昭は信長に迎えられて岐阜に移り、9月26日には上洛を果たして、10月18日に15代将軍となった。永禄12年(1569年)本圀寺(京都府京都市下京区柿本町)の仮御所にいた義昭は、三好三人衆の襲撃を受けた。この時、明智十兵衛(光秀)は義昭を警護しており、光秀が『信長公記』に初めて登場している。元亀元年(1570年)志賀の陣では「穴太の在所是又御要害仰付けられ」とあり、明智十兵衛は信長の命により穴太(あのう)に要害(場所不明)を築いて、比叡山延暦寺に布陣する浅井・朝倉軍と2か月間に渡り対峙した。同年9月に宇佐山城将・森可成が戦死しており、元亀2年(1571年)正月に明智光秀が宇佐山城将となった。信長は元亀2年(1571年)9月の山門(比叡山)焼き討ちで抜群の働きをみせた光秀に対して近江国滋賀郡(5万石)を与えて、比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権確保のために、交通の要衝である浜坂本(三津浜)の地に築城を命じた。これにより光秀が織田家臣団における初の城持ち大名になった。光秀は合戦が巧みなだけでなく、行政官としても抜群の能力を発揮しており、信長は光秀の戦闘能力、領国経営能力を高く評価していた。宿老の柴田勝家(かついえ)・丹羽長秀(にわながひで)・佐久間信盛(のぶもり)、それにライバルの羽柴秀吉を追い抜いての大抜擢であった。坂本城は、元亀3年(1572年)閏正月から築城に着手し、翌元亀4年(1573年)に完成したようである。元亀3年(1572年)12月24日の公卿・吉田兼見(かねみ)の『兼見卿記』には、「明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了」との記載がある。注目されるのは、この坂本城に天主(天守)を建てていることである。坂本城には大天主と小天主があり、12月頃には天主の作事はかなり進捗していたようである。信長の安土城天主の完成より6年も前のことであった。築城にも造詣の深かった光秀は、琵琶湖の湖岸、東南寺川の河口に連結式天主をもつ水城を築き、後に宣教師ルイス・フロイスの『日本史』に「明智は琵琶湖の辺りの坂本に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長の安土城に次ぎ、明智の城ほど有名なものは天下にない」と記した。『永禄以来年代記』には「明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取」とある。山領というのは延暦寺のことである。光秀は山門焼き討ちで焼失した西教寺の檀徒となり、西教寺の復興に尽力して、3年後の天正2年(1574年)には仮本堂を完成させている。元亀4年(1573年)5月には、さきの今堅田の戦いで戦死した部下18名の供養を西教寺に依頼している。光秀は坂本で善政をおこない、領民から敬慕されたと伝えられている。それまで連戦戦勝の光秀であったが、天正4年(1576年)1月に波多野秀治(はたのひではる)の裏切りにより、第一次黒井城の戦いで敗走している。

光秀の敗戦は非常に珍しく、この戦いと最期となる山崎の戦いの2度のみである。信長から高く評価されていた光秀は、信長の命令により転戦につぐ転戦を続けたが、天正4年(1576年)4月11日、過労により倒れている。これには信長も心配して、医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)を派遣した。妻の熙子は献身的に介護し、その甲斐あって光秀は回復するが、逆に熙子が病に倒れてしまい、同年11月7日に亡くなった。天正6年(1578年)光秀は丹波を平定して丹波一国29万石が与えられた。近江国滋賀郡5万石はそのままなので、計34万石となっている。天正8年(1580年)には坂本城を改修している。天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は1万3千の大軍を率いて織田信長を急襲した。本能寺の変である。信長の「是非に及ばず」という言葉は、相手が光秀ならば諦める他ないという意味とされる。動機は分かっておらず、信長は非業の最期を遂げた。しかし、謀反人の光秀に呼応する武将はおらず、6月13日の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、後方の山城勝龍寺城(京都府長岡京市)に退却した。光秀は再起を期して勝龍寺城を脱出、坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)で飯田一党の襲撃を受けた。竹槍で突かれ深手を負った光秀は、家臣の溝尾庄兵衛の介錯により自刃する。明智光秀が最期を遂げた竹藪を明智藪(京都府京都市伏見区)といい、刺さった竹槍を引き抜いた時、脇腹から鮮血と内臓が飛び出した場所を「ワタ出」という。明智光秀の天下はわずか11日間で、のちに「三日天下」と呼ばれるほど短命に終わった。その夜、柴田勝家や滝川一益(かずます)らの備えとして安土城を守備していた明智秀満のもとに山崎の戦いの敗報がもたらされると、翌14日未明に300の軍勢で安土城を発して明智軍の救援に向かった。しかし、途中で光秀の討死を知り、進路を坂本城に変更した。ところが、大津で秀吉方の先鋒・堀秀政(ひでまさ)隊8千と遭遇、この名人久太郎の猛攻により窮地に陥った秀満は、打出浜から愛馬・大鹿毛(おおかげ)で琵琶湖に飛び込んだ。これを見た敵兵は溺れるだろうと笑ったが、琵琶湖の遠浅を知る秀満は簡単に唐崎または柳が崎に上陸した。こんにち「明智左馬助の湖水渡り」と呼ばれる逸話である。やがて坂本城に近づくと十王堂という寺に立ち寄り、大鹿毛を繋いで「明智左馬助に湖水を渡せし馬なり」と札に書き残して愛馬と別れた。この名馬は後に秀吉が手に入れて曙(あけぼの)と名付け、賤ヶ岳の戦いでこれに乗って大垣大返しを成功させている。秀満は14日の午前10時頃に坂本城に入るが、追撃する堀秀政隊に城を包囲されると、既に逃亡する者も多く籠城戦は不可能と判断した。明智家に蔵する刀や茶器などの名物が失われることを憂い、目録を作って秀政らに届けたのち、6月15日の夜に城に火を放って一族と共に自刃、坂本城は焼け落ちた。羽柴秀吉は、明智秀満の手腕を讃えて、その死を惜しんだという。6月27日、織田家の継嗣問題および領地再分配を決める清洲会議で、丹羽長秀は若狭国を安堵のうえ、近江国の滋賀と高島の2郡が加増された。天正11年(1583年)丹羽長秀は秀吉の命により坂本城を再建している。同年4月、秀吉が越前国北庄で柴田勝家を破ると、長秀には若狭国、越前国と加賀半島が与えられた。坂本城には秀吉の家臣・杉原家次(いえつぐ)が入り、さらに浅野長政(ながまさ)に代わった。天正14年(1586年)秀吉の命を受けた長政が大津城(大津市浜大津)を築城して居城を移したことにより坂本城は廃城になった。石垣等の資材は大津城築城に転用されたため、遺構は何も残っていない。(2023.03.24)

連結式天主が存在した本丸跡
連結式天主が存在した本丸跡

坂本城の櫓門を改築した表門
坂本城の櫓門を改築した表門

各種伝承が残る城内の明智塚
各種伝承が残る城内の明智塚

西教寺に移築現存する城門
西教寺に移築現存する城門

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