佐賀城(さがじょう)

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龍造寺隆信の右腕として北九州制覇に活躍した鍋島直茂を藩祖とする佐賀藩の政庁

櫓門に続櫓を組合せた鯱の門
櫓門に続櫓を組合せた鯱の門

肥前国は、五畿七道のひとつである西海道の上国(じょうこく)のひとつである。『肥前国風土記』によれば、肥前国は11郡、70郷、187里からなり、このうち佐嘉(さが)郡は6郷、19里からなる。佐賀という地名の由来は諸説あるが、『肥前国風土記』にある日本武尊(やまとたけるのみこと)が楠(くすのき)の茂り栄えているのを見て「此の国は栄(さか)の国と謂うべし」と言ったことから栄郡(さかのこおり)となり、後に佐嘉郡(さかのこおり)になったという説が一般化している。中世以降は佐賀の表記も用いられるようになり、佐嘉が佐賀に統一されたのは、明治2年(1872年)のことであった。起伏が少ない佐賀平野は水田に適しており、古代より順次開墾されて稲作地帯となった。また佐賀平野は筑後川などの土砂運搬により急速な自然陸化が進み、1年に10mの割合で干潟が発達して、海岸線は年々南下した。平野部に水路(クリーク)が多いのは、かつての有明海の澪筋(みおすじ)が縦横に残存してクリークになったといい、佐賀平野に網の目のように張り巡らされたクリークは総延長2000kmとされ、独特な景観となっている。JR佐賀駅から南方へ約2kmの場所に佐賀城跡がある。佐賀城は、龍造寺氏の居城であった村中城(佐賀市城内)を、慶長13年(1608年)から慶長16年(1611年)まで鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子がおこなった佐賀城惣普請によって拡張・整備された城である。佐賀城は江戸時代を通して佐賀藩の政庁であった。佐賀藩の知行高は支藩も含めて35万7千石の大封で、全国で10番目に大きな藩であった。城跡は一辺が約800mの方形で、周囲を幅約70mの外堀が囲んでいた。現在も東側を除く三方の水堀は現存しており、城内町がそのまま城内に相当する。その南東角に本丸と二の丸が位置する。藩政の中心となる本丸は方形で、その北側と東側を二の丸がL字型に取り巻き、それら主郭部を内堀が囲んでいる。主郭部の西方には三の丸、西の丸が続き、現在の佐賀県立博物館のあたりが三の丸跡、佐賀大学教育学部附属中学校のあたりが西の丸跡となる。それらの北側には重臣屋敷が配置された大規模な城域で、輪郭梯郭複合式の平城である。現在、本丸跡にある佐賀城本丸歴史館の建物は、天保6年(1835年)から天保9年(1838年)にかけて10代藩主・鍋島直正(なおまさ)が再建した佐賀城本丸御殿の一部(約1/3)を復元したものである。復元にあたっては発掘調査、古写真、現存する建物、江戸時代の絵図や記録等をもとに、正確な位置に遺構を保護しながら再建している。木造復元建物としては全国最大規模の広さを誇り、御玄関(おげんかん)・御式台(おんしきだい)・御料理間(おりょうりのま)・御納戸(おなんど)・外御書院(そとごしょいん)・御三家座(ごさんけざ)・御仕組所(おしくみどころ)・屯之間(たまりのま)・御小書院(ごこしょいん)が復元建物で、御座間(ござのま)・堪忍所(かんにんどころ)が現存建物である。御座間は鍋島直正の居間で、堪忍所は警護の家臣が詰めた場所である。移築現存していた建物を、本丸御殿の復元にともない元の場所に再移築した。「御三家座」は御三家の名代との面会の場であるが、御三家とは小城(おぎ)鍋島家・蓮池(はすのいけ)鍋島家・鹿島(かしま)鍋島家のことで、佐賀藩の支藩である小城藩(7万3千石)・蓮池藩(5万2千石)・鹿島藩(2万石)の藩主である。本丸の西側および天守台を含めた北側には石垣を組み、東側・南側は土塁を構えた。特に西側は外面が石垣で内面が土塁という珍しい防壁で、西側土塁石垣と呼ばれている。

本丸の北西部には、東西27m、南北31m、高さ約9mの規模の天守台が現存する。この天守台は、本丸側には階段がなく、外側となる二の丸側から登るという極めて珍しい構造になっている。慶長14年(1609年)天守台には4層5階の天守が建てられ、一部2層の付櫓と続櫓を伴っていた。『元茂公御年譜』によると、福岡藩の黒田如水(じょすい)から提供された豊前小倉城(福岡県北九州市)の4層5階天守の設計図に基づいて造られたとされているが、佐賀城天守と小倉城天守の関係性については諸説ある。高さは38mにおよび、破風のない素朴ながらも実戦向きの建物であったという。天保9年(1838年)に造営された本丸の門は、屋根の両端に青銅製の鯱(しゃち)が載ることから「鯱の門」と呼ばれる。2層2階の櫓門に、単層2階の続櫓を組合せたもので、明治7年(1874年)の江藤新平(しんぺい)らによる佐賀の乱のときの弾痕が今も残っている。現存する鯱の門と続櫓は国の重要文化財に指定されている。東西約16m、南北約13mの南西隅櫓台は、亀甲乱積みと呼ばれる積み方の石垣で、佐賀城内唯一の積み方であった。龍造寺季家(すえいえ)から始まる龍造寺氏は、平安時代末期に佐嘉郡小津東郷龍造寺村(佐賀市城内)のうち末吉名(すえよしみょう)の小地頭として土着し、のちに佐賀城の前身となる村中城を築いて本拠とした。戦国時代になると、20代当主となった龍造寺隆信(たかのぶ)が急速に勢力を拡大し、肥前・筑前・筑後・肥後・豊前・壱岐・対馬を支配して「五州二島の太守」と呼ばれ、島津氏・大友氏と肩を並べるまでの大大名に成長している。龍造寺村の中の城という意味であった村中城も、16世紀後半の龍造寺氏の急成長とともに大規模に拡張整備された。『北肥戦誌(九州治乱記)』に記載される龍造寺氏の居城の名称は、隆信以前は村中城で、村中城を継いだ隆信の頃から21代・政家(まさいえ)、22代・高房(たかふさ)までが龍造寺城や佐嘉龍造寺城、佐嘉城などになっている。当時の資料としては、慶長10年(1605年)から慶長12年(1607年)頃に龍造寺高房が制作した『慶長年中肥前国絵図』にも「竜造寺城」と記されている。村中城(龍造寺城)の遺構は、近世佐賀城の普請により1m程かさ上げされて、地中に埋まっており詳細は不明である。『佐賀県近世資料』によると、慶長13年(1608年)近世佐賀城の普請については、「龍造寺ノ御城ニ曲輪ヲ被相増、新ニ惣御普請アリ」と、龍造寺城の曲輪を拡張整備した事が記されている。その場所は「龍造寺ノ城跡ハ今ノ北ノ御門ヨリ一町計リ南ノ辺他」とあり、現在の県立佐賀西高等学校の付近にあたる。その曲輪は「龍造寺本丸ハ今ノ諫早屋敷、二ノ丸ハ多久屋敷也、泰長院ハ元ハ西ノ丸ニ在シ」とある。水ヶ江龍造寺家の初代で、龍造寺氏の中興の祖と称される龍造寺家兼(いえかね)は、享禄3年(1530年)北九州の覇権をめぐる大内氏と少弐氏との田手畷(たでなわて)の戦いで苦戦を強いられた。このとき龍造寺軍の陣中にあった鍋島平右衛門清久(きよひさ)・平助清房(きよふさ)父子が率いる鍋島党の活躍により、大内氏の軍勢を敗走させることができた。勝利を喜んだ家兼は、自分の孫娘を鍋島清房に嫁がせて姻戚関係を結び、鍋島氏を家臣として迎えた。この2人の間に誕生したのが、後に佐賀藩の藩祖となる鍋島直茂である。佐々木源氏を祖とする鍋島氏は、永徳年間(1381-84年)山城国北野の住人であった長岡伊勢守経秀(つねひで)・経直(つねなお)父子が肥前に下向して、佐嘉郡の鍋島村に住んだことに始まる。田手畷の戦いの後、少弐氏の家中における龍造寺家兼の影響力は大いに増した。

龍造寺氏の権勢を妬んだ少弐氏一門の馬場頼周(よりちか)は陰謀を企て、天文13年(1544年)龍造寺一族をことごとく謀殺、家兼だけは生き延びて筑後に逃れた。天文14年(1545年)家兼は馬場氏を討ち果たし、龍造寺氏を再興した。家兼は、天文15年(1546年)に93歳で死去するが、死に臨んだ家兼は僧籍にあった曾孫を還俗させて家督に据えた。のちの龍造寺隆信である。この龍造寺氏の後継者を決める評定には鍋島清房も列しており、鍋島氏が龍造寺家中で重要な地位を占めていたことが分かる。その後、隆信に仕えて厚い信頼を受けたのが、清房の次男・直茂であった。直茂は兄の信房(のぶふさ)とともに隆信の側近として、各地の戦場で武功をあげている。隆信の父・周家(ちかいえ)は馬場氏に謀殺されており、母・慶ァ尼(けいぎんに)は未亡人であった。『普聞集(ふもんしゅう)』によれば、慶ァ尼のことを「勇気アッテ常ニ短刀ヲタズサフ」と記している。鍋島直茂の資質を見抜いた慶ァ尼は、弘治2年(1556年)妻を亡くした鍋島清房のもとに、48歳で押しかけ女房として嫁いだのである。こうして、隆信と直茂は義兄弟となり、直茂は龍造寺家の老臣として活躍、隆信の北九州制覇は直茂のすぐれた戦略・戦術に負うところが大きかった。天正12年(1584年)有馬晴信(はるのぶ)が龍造寺氏から離反、島津氏がこれに加勢した。龍造寺隆信は島津・有馬連合軍との決戦を決意、龍造寺軍2万5千に対して島津軍は3千余で有馬軍を合わせても5千余と圧倒的な兵力差があった。しかし、島津軍を率いていたのは戦上手の島津家久(いえひさ)であった。勇猛で名を馳せた島津四兄弟の末弟で、日向佐土原城(宮崎県宮崎市)を治めていた。家久は地勢を視察して、島原北方の沖田畷と呼ばれる湿地帯を戦場に定めた。この地は大軍の進退に極めて困難な地形で、ここに龍造寺軍を引きずり込もうと考えたのである。一方、島津・有馬連合軍を小勢と侮った隆信は慢心により自ら出陣、危険を感じた直茂は先陣を願い出て、隆信の出陣を見合わせるように求めたが退けられた。太っていた隆信は6人担ぎの山駕籠で出撃する。こうして沖田畷の戦いにおいて、龍造寺軍は島津家久の「釣り野伏」という伏兵戦術に翻弄され、龍造寺隆信を始め、多くの重臣が討ち取られた。隆信の首級は、島津家の首実検の後、佐嘉に送られたが、龍造寺家に受け取りを謝絶されている。『直茂公譜』に「不運の首、この方へ申し請けても無益な事なり」とある。仕方なく隆信の首を八代へ持ち帰る途中、肥後国玉名郡の高瀬川にさしかかると、にわかに首が重くなり、「磐石の如く」にして川を越すことができず、奇異に恐れて首を願行寺(熊本県玉名市高瀬)に葬ったという。一方、戦場に残された隆信の胴体は、隆信が建立した龍泰寺(佐賀市赤松町)の太圭和尚が戦場に急行して収容している。島原での隆信の戦死によって龍造寺家の領国体制はたちまち揺らぐが、長男の政家が慶ァ尼と共に国政を担い、それを鍋島直茂が輔弼して勢力挽回に務めた。その後、龍造寺政家は島津氏に人質を出して降伏するが、鍋島直茂は豊臣秀吉に早くから誼を通じており、島津氏に恭順しつつも裏では秀吉に九州への出兵を促している。天正14年(1586年)秀吉の九州征伐が始まると、龍造寺勢は立花宗茂(むねしげ)とともに島津攻めの先陣を担って島津氏を屈服させた。天正15年(1587年)龍造寺家の働きを高く評価した秀吉は、龍造寺政家に肥前国7郡を安堵し、それとは別に直茂には養父郡の半分(5700石)と高来郡神代(4410石)が与えられた。しかし、政家はこの恩賞に不満を感じていた。

天正16年(1588年)肥後で国人一揆が起きた際、秀吉は諸大名に鎮圧を命じたが、政家は出兵しなかった。激怒した秀吉は政家を処分しようとしたが、直茂の弁解により事なきを得ている。政家は病を理由に隠居することとし、同年(1588年)鍋島直茂を政家の養子とし、実子の長法師丸(後の高房)を直茂の養子として、龍造寺家の存続を図った。これは慶ァ尼の提言であったといい、国政を直茂に譲り、家督を3歳の高房に譲ったのである。天正18年(1590年)秀吉は龍造寺政家の隠居を認め、龍造寺高房宛に肥前国30万9902石の朱印状を与えた。その内訳は、藤八郎高房が「在京の賄(まかない)」の3万石と「佐賀にての台所入」の1万1200石、民部大輔政家が「隠居分」の5000石、鍋島直茂が神埼郡の4万4500石、直茂の長男・勝茂にも9000石が割当てられており、直茂の石高が最も多かった。直茂には既に養父半郡と高来郡神代が与えられており、豊臣政権から重視されていたことが分かる。天正20年(1592年)に始まる文禄の役では、直茂に1万2千人の軍役が課せられ、直茂を総大将として龍造寺一門と家臣団を率いて参陣、加藤清正(きよまさ)率いる1万人らと第二軍として朝鮮半島に渡った。慶長2年(1597年)に再開する慶長の役では、鍋島勝茂を伴って渡海しているが、その前年に龍造寺一門と重臣たちは勝茂に忠誠を誓う起請文を差し出している。鍋島直茂の養子として龍造寺高房が存在し、その高房が龍造寺家の家督を相続しているにも関わらず、秀吉が勝茂を直茂の後継者として処遇しているため、龍造寺一門と重臣たちは直茂・勝茂父子による鍋島体制に従うことを誓っているのである。高房は12歳になると山城伏見城(京都府京都市)の秀吉のもとに出仕し、慶長3年(1598年)秀吉が没すると、慶長8年(1603年)江戸に赴いて徳川秀忠(ひでただ)に仕えた。これらは体のいい人質である。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、鍋島勝茂は西軍・石田三成(みつなり)に与し、伏見城や伊勢安濃津城(三重県津市)の攻撃に参加した。しかし戦局が西軍不利になると、勝茂は東軍・徳川家康に謝罪して従臣を誓い、西軍に応じた筑後柳川城(福岡県柳川市)の立花氏討伐に参加することにより罪を許されて本領安堵を得た。慶長12年(1607年)3月、22歳になった龍造寺高房は、鍋島氏から国政が返還されないことを悲観し、江戸桜田屋敷にて妻(直茂の養女)を殺害したうえで自殺を図るという事件を起こした。一命はとりとめたが、その傷がもとで9月に死去した。息子の非業の死を知らされた龍造寺政家も1か月後に後を追うように病没している。念のため江戸幕府は、龍造寺一門である諫早家晴(いさはやいえはる)、須古信周(すこのぶちか)、多久長信(たくながのぶ)を江戸に呼び、家督相続について意見を聞くと、3人とも鍋島直茂の功績をたたえ、勝茂を相続人に推挙した。こうして、龍造寺氏に替わり鍋島氏が名実ともに佐賀の大名となったのである。ただし、龍造寺氏への配慮からか直茂が藩主を名乗ることはなく、勝茂が佐賀藩の初代藩主ということになっている。高房には妾腹の子・伯庵(はくあん)こと龍造寺季明(すえあき)がいた。寛永11年(1634年)伯庵は龍造寺家嫡流を自称し、龍造寺家の再興を再三にわたって3代将軍の徳川家光(いえみつ)に訴えるが却下され、正保元年(1644年)伯庵は会津藩に預けられた。この「鍋島騒動」と呼ばれたゴシップは格好の話題となり、鍋島の化け猫騒動といわれる怪談にまで発展して芝居や講談にもなった。以後、鍋島家は佐賀藩主として続き、鍋島閑叟(かんそう)こと直正の時代に明治維新を迎えた。(2019.02.28)

復元された佐賀城の本丸御殿
復元された佐賀城の本丸御殿

二の丸側から登る本丸天守台
二の丸側から登る本丸天守台

現存する御座間および堪忍所
現存する御座間および堪忍所

亀甲乱積みが珍しい南西隅櫓台
亀甲乱積みが珍しい南西隅櫓台

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