大津城(おおつじょう)

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西軍最強の立花宗茂を釘付けにして関ヶ原の本戦で東軍に勝利をもたらした城

大津城本丸跡に設置の城址碑
大津城本丸跡に設置の城址碑

滋賀県の南西端に位置する大津は、飛鳥時代には天智天皇が大津宮を営み、短期間ながら日本の都だった時期がある。天智天皇6年(667年)中大兄皇子は飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)から近江国滋賀郡の大津宮に遷都し、即位して天智天皇となった。天智天皇の崩御後、天武天皇元年(672年)の壬申の乱を経て、5年余りで廃都となる。その後、延暦13年(794年)桓武天皇が長岡京(京都府向日市)から平安京(京都府京都市)に遷都して平安時代が始まると、大津はその外港として栄えた。琵琶湖と比良・比叡・長等(ながら)などの山並みに囲まれた大津は、その名が示すとおり大きな港(津)が特徴であった。大津市の代表的なお城である大津城は、関ヶ原の戦いの前哨戦である大津城の戦いによって、関ヶ原本戦の勝敗に大きな影響をおよぼした。そのような歴史的にも重要な城であるが、遺構はほとんど存在せず、縄張りを示すような当時の古絵図も残されていないため、実態は不明である。しかし、明治時代以降に大津城について考証された資料が3点ある。明治35年(1902年)堀田璋左右(ほりたしょうぞう)著『大津籠城』の「大津城廓図」、昭和4年(1929年)『京都連隊区将校団郷土戦史』第二巻付図の「大津城攻防戦闘要図」、昭和14年(1939年)田中宗太郎著『大津城の研究』の「大津城考証図」である。その後、これらの資料や江戸時代の絵図などを参考に、昭和55年(1980年)発刊『新修大津市史』第三巻の「大津城復元図」によって大津城の縄張図が復元された。それによると、本丸は琵琶湖に島のように浮かび、本丸を守るように南側に奥二の丸、二の丸、三の丸、伊予丸、香集丸を配置し、内堀・中堀・外堀と3重の堀を巡らせた水城である。外堀の南半分は、琵琶湖よりも標高が高いため水は入らず、空堀だったと考えられている。外堀を挟んだ城下町とは、尾花川口、三井寺口、京町口、浜町口の4箇所でつながっていた。城の規模は東西約700m、南北約600mで、大規模な城と想定されている。本丸には4層5階の望楼型天守が存在した。発掘調査により、本丸跡では石垣や礎石建物跡などが発見され、その範囲もほぼ復元できる。しかし、本丸跡を含めた全域が市街地化されており、本丸以外はほとんど判っていないのが現状である。大津城の遺物としては、土器類や貴重な金箔瓦などが出土している。この金箔瓦は、山城聚楽第(京都府京都市上京区)の金箔瓦と同じ製法で作られていた。現在、本丸跡の北端あたりに大津城跡の石碑が置かれ、凹字形の三の丸跡の東側に、出土した石垣を模した植込が設置されている。埋め立てられた中堀(川口堀)は、堀跡が川口公園(大津市浜大津)として残る。また、大津祭曳山展示館(大津市中央)横の駐車場周辺に残る石垣が、現存する外堀の石垣であるといわれる。永禄11年(1568年)織田信長の武力を背景に足利義昭(よしあき)は上洛を果たし、室町幕府15代将軍に就任することができた。義昭は最大の功労者である信長を「天下武勇第一」と称えるとともに、足利氏の家紋である桐紋と二引両の使用を許可している。また、3つ年上の信長に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。実際、義昭が信長に宛てた10月24日の感状では、「御父織田弾正忠殿」と宛てている。さらに義昭は、信長に対して副将軍か管領への就任を打診したが、信長は固辞している。代わりに信長は、堺・大津・草津を直轄領として代官を置くことを要望した。義昭は信長の無欲さに感心して許可したというが、信長としては権威を失った室町幕府の要職などに魅力はなく、それより流通の拠点を押さえる方が有益であった。

和泉国堺は瀬戸内海を経由した国際貿易で繁栄しており、鉄砲の生産量でも日本一である。大津と草津は琵琶湖の水上交通の要衝で、草津は東海道と中山道が分岐する東国への要衝でもある。これら流通拠点を押さえることで莫大な関税収入が手に入った。また流通拠点を押さえることにより、敵対する戦国大名への経済封鎖が可能になるという戦略的メリットもあった。信長は新たな居城として琵琶湖岸に安土城(近江八幡市安土町)を築城し、同じく琵琶湖岸に築いた明智光秀(みつひで)の坂本城(大津市下阪本)、羽柴秀吉の長浜城(長浜市公園町)、津田信澄(のぶずみ)の大溝城(高島市)と連携して、この4つの城で琵琶湖水運を面で支配した。特に比叡山延暦寺(大津市坂本本町)の外港として栄えた坂本、そして琵琶湖の最狭部に位置し、漁業権や湖上交通を握っていた堅田が長らく重要な位置を占め、それらを管轄下に置いた坂本城主の明智光秀が琵琶湖水運を主導していた。天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が横死すると、羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち破った。天正11年(1583年)秀吉の命により丹羽長秀(ながひで)が坂本城を再建するが、天正14年(1586年)坂本城2万石の城主であった浅野長吉(ながよし)が、秀吉の命により大津城を築いて居城を移した。坂本城の石垣等の資材は大津城築城に転用され、城下町ごと移転したという。大津城下には「坂本町」という坂本城下からの移転にちなむ町名が最近まで存在した。こうして大津は琵琶湖水運の重要拠点となった。浅野長吉の次の城主は、天正17年(1589年)から増田長盛(ましたながもり)で、後に豊臣政権の五奉行を務める人物である。その後、天正19年(1591年)新庄直頼(しんじょうなおより)が1万2千石で大津城主となり、文禄4年(1595年)京極高次(きょうごくたかつぐ)が八幡山城(近江八幡市宮内町)から大津城に6万石で入城した。京極氏は、鎌倉時代の仁治2年(1241年)近江の守護大名・佐々木信綱(のぶつな)の四男・氏信(うじのぶ)が、愛知川以北の北近江六郡(愛知・犬上・坂田・浅井・伊香・高島)を与えられたことに始まる名家である。南北朝時代の婆娑羅(ばさら)大名・京極道誉(どうよ)を輩出するなど、鎌倉時代から戦国時代中頃まで北近江を支配した。しかし、戦国時代後期に家臣の浅井亮政(すけまさ)が台頭し、京極高延(たかのぶ)・高吉(たかよし)兄弟の家督争いを経て衰退してしまう。永禄11年(1568年)京極高吉は柏原の成菩提院(米原市)で、上洛途上の織田信長に謁見、長男の小法師(京極高次)を人質に差し出し、京極氏の復興を託した。小法師は元服後に高次と名乗り、そのまま信長に仕えた。京極高次は、天正10年(1582年)山崎の戦いで明智光秀に味方し、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(かついえ)に味方するなど、結果的に羽柴秀吉に敵対している。その後、秀吉の側室となった妹・京極龍子(たつこ)の嘆願により、逃亡していた高次は許されて秀吉に仕えることになった。後に龍子は山城伏見城(京都府京都市伏見区)の松の丸に移ったことから松の丸殿で知られる。高次は、天正12年(1584年)高島郡内2千5百石から始まり、天正14年(1586年)5千石に加増、天正15年(1587年)九州征伐の軍功で大溝城1万石の大名に累進して、浅井三姉妹の次女・初(はつ)を正室としている。初の姉は茶々(淀殿)である。天正18年(1590年)小田原征伐の軍功で八幡山城2万8千石に加増した。注目すべきは、高次が後の大津城を含めて琵琶湖水運を掌握する重要な城主を歴任していることである。

この頃の高次は武功ではなく、妹や妻など、血縁の女性たちの尻の七光(ななひかり)で出世したと嘲られ、「蛍大名」と揶揄されていた。慶長5年(1600年)6月18日、徳川家康は会津征伐に向かう途上、大津城に立ち寄って京極高次・高知(たかとも)兄弟に協力要請している。弟の高知は、義父・毛利秀頼(ひでより)の遺領を相続して信濃国飯田10万石の大名であった。京極高知はそのまま家康の軍勢に従って出発する。7月17日、家康の会津征伐の間隙を突いて石田三成(みつなり)ら西軍が挙兵した。いわゆる関ヶ原の戦いの勃発である。家康から大津城を死守するようにとの書状が高次に届いていたが、周囲を西軍が取り囲む状況では難しかった。京極高次は嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として西軍に差し出し、大津城を訪れた三成と面会している。ただし、西軍の動向は、常に家康に知らせていたようである。8月10日、西軍の石田三成隊と小西行長(ゆきなが)隊の1万5千が美濃大垣城(岐阜県大垣市)に入り、美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)、尾張犬山城(愛知県犬山市)も西軍に属した。この大垣・岐阜・犬山が西軍の最前線となった。8月10日、高次は2千の兵を率いて、西軍の大谷吉継(よしつぐ)等の北陸方面軍に属し、東軍の加賀前田氏を攻めるため出陣した。9月1日、東軍に岐阜城を落とされ、集結しつつある東軍に備えるため、北陸方面軍は敦賀から関ヶ原へ転進することになった。京極高次はこの殿軍として1日遅れで行軍中、9月2日に東野(長浜市余呉町)で西軍から離脱、海津から船で琵琶湖を渡り、9月3日朝に大津城へ帰還した。高次は籠城戦の準備のため、粟津と逢坂に防柵を設け、西軍の利用を避けるために城下町と三之丸侍屋敷をおよそ14時間かけて焼き払ったという。この突然の裏切りに三成は、伊勢方面へ向かう予定だった毛利元康(もとやす)を大将とし、その弟の小早川秀包(ひでかね)を副大将として大津城攻略に向かわせ、立花宗茂(むねしげ)、桑山一晴(かずはる)、筑紫広門(つくしひろかど)、伊東祐兵(すけたけ)、宗義智(そうよしとし)らがこれに加わった。この大津城攻撃軍は1万5千という大軍であった。また琵琶湖側からは増田水軍が大津城を包囲した。立花宗茂は西軍最強ともいわれる筑後国柳川の大名で、かつて秀吉から「東の本多忠勝(ただかつ)、西の立花宗茂、東西無双」と、武将としての器量を高く評価された人物である。宗茂は三成から求められた兵数1千3百を大きく超えて4千の軍勢を率いて上洛していた。9月7日から西軍の大津城攻めが始まった。大津城は1万5千の西軍に包囲され、高次以下わずか3千の城兵で迎撃した。西軍は大津城の背後にある長等山中腹の三井寺観音堂(大津市園城寺町)の近辺に大筒を据えて、大津城内に砲撃したといい、大筒を使用した攻城戦はこの大津城の戦いが初めてであった。長等山から大津城まで約1km、当時の大砲としては十分に届く距離であった。この前代未聞の攻撃に大津城内は阿鼻叫喚となった。12日の戦いで、宗茂は養父・立花道雪(どうせつ)の発案した「早込」を用いた鉄砲射撃をおこなわせた。立花宗茂隊は他家の鉄砲隊の3倍速で射撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じたという。13日には西軍の総攻撃が始まり、堀を埋められ、三の丸・二の丸を落とされて、本丸に閉じ込められた。かつての大津城主であった増田長盛は、一門の増田作左衛門を陣代として水軍を派遣しており、大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃している。このとき、増田氏の家臣・中村金六が京極方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちして功名をあげた。

毛利元康は14日に降伏を勧めたが、京極高次は徹底抗戦の構えを見せた。この時、立花宗茂が城兵の助命を保証する書状を矢文で放たせると、城内の高次の馬印に命中、その書状を読んだ高次は宗茂の配慮に感じ入り降伏を決意した。大津城は西軍の猛攻に1週間も持ちこたえるが、9月15日朝についに降伏・開城した。京極高次は三井寺に入って剃髪染衣の姿になり、宗茂によって高野山へ移送された。ところがこの日、関ヶ原では東軍7万5千と西軍8万が激突する関ヶ原本戦が開戦していた。緒戦は一進一退の攻防が続いたが、西軍の小早川秀秋(ひであき)隊1万5千が寝返り、友軍の大谷吉継隊に襲い掛かった。西軍は総崩れとなり、半日で東軍の勝利となる。大津城の籠城戦で立花宗茂以下、西軍の精鋭部隊1万5千を釘付けにして、関ヶ原本戦に参加させなかったことで、東軍は勝利したといわれる。高次は蛍大名の汚名を返上した。この時、大津城にいた宗茂はこの事実を知らなかった。『立斎旧聞記(りつさいきゅうぶんき)』によると、翌16日に大津城の宗茂に西軍敗北の急報が届き、さらに東軍が石田三成の佐和山城(彦根市古沢町)を攻めているという情報も入った。17日に大津城を撤収した立花宗茂隊は、摂津大坂城(大阪府大阪市)に籠城して東軍と戦うために大坂に向かった。さっそく、西軍総大将の毛利輝元(てるもと)に使者を派遣したが、輝元は決断できず「評議を究め是より可申入との返事也」とのこと。宗茂は呆れて「今評議せんなどとは殊外なる遅智慧かな迚(とて)も成まじき事」と柳川に退却している。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、20日に大津城へ入って戦後処理をおこなうが、そこへ捕縛された石田三成が連行された。三成はすぐに家康との対面を許されず、大津城の城門前に敷いた畳一帖の上で晒し者にされた。登城する東軍諸将の反応は様々で、罵倒・嘲笑する者、慰めの言葉をかける者など、小早川秀秋に至っては逆に三成から「この卑怯者め」と一喝されたという。石田三成は六条河原で処刑された。京極高次はこの功績により若狭一国を与えられ、若狭国小浜8万5千石の大名となった。弟の京極高知は、関ヶ原本戦で東軍左翼第二陣として藤堂高虎(たかとら)隊とともに宇喜多秀家(ひでいえ)隊と交戦し、午後には大谷吉継隊を撃破しており、丹後一国12万3千石を拝領している。こうして、高次・高知兄弟は、若狭・丹後の国持大名として並び立ち、京極氏の復興を果たしている。大津城主には戸田一西(かずあき)が任命された。しかし、9か月後には家康の命により軍事的に不利な大津城を廃し、膳所に新城を築くこととなった。大津城の建築物は、膳所城(大津市本丸町)や彦根城(彦根市金亀町)に移築された。彦根藩主井伊家の『井伊年譜』に「天守ハ京極家ノ大津城ノ殿守也、此殿守ハ遂ニ落不申目出度殿主ノ由、家康公上意ニ依て被移候由、棟梁浜野喜兵衛恰好仕直候テ建候由」とあり、大津城の天守は戦禍を免れた目出度(めでた)い天守なので、家康の命により彦根城に移築されたとある。その際、大工の棟梁・浜野喜兵衛が改造して建てたことも付記されている。昭和32年(1957年)からの彦根城天守の解体修理において、建物の部材の多くに、部材どうしの組み合わせ方を示した番号や符号が見つかり、4層5階の天守を移築して3層3階に縮小して建てられていることが明らかになった。そのとき発見された建築材に「慶長十一年六月二日大工喜兵衛」という墨書があり、慶長11年(1606年)大工の棟梁・浜野喜兵衛によって建てられたものであることが分かった。大津は江戸幕府の直轄領となり、大津城跡に大津代官所が置かれた。(2023.12.17)

中堀跡の形状が残る川口公園
中堀跡の形状が残る川口公園

唯一現存する三の丸外堀の石垣
唯一現存する三の丸外堀の石垣

砲撃のあった観音堂からの遠景
砲撃のあった観音堂からの遠景

彦根城に移された大津城天守
彦根城に移された大津城天守

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