大坂城(おおさかじょう)

[MENU]

豊臣秀吉の権威と権力を象徴する天下統一の拠点

大坂城の復興天守
大坂城の復興天守

大坂城の位置する上町台地は、西と南が緩やかな斜面となり、摂津平野の淀川河口に渡辺津があった。瀬戸内交通と京を結ぶ要衝であった渡辺津は、熊野、高野、四天王寺、そして南都(奈良)を結ぶ中継基地であった。織田信長をてこずらせた石山本願寺は、この大坂の丘にあった。石山という地名は、ここが巨大な前方後円墳であったことに由来する。往時の大坂は今より海が深く食い込み、城地の辺りは大阪湾に岬状に突き出した小高い丘で、築城の適地であった。大阪城公園には復興天守が築かれているほか、乾櫓、千貫櫓、大手口多聞櫓、一番櫓、六番櫓、大手門、金明水井戸屋形などが現存する。珍しいところでは、火薬庫である焔硝蔵(えんしょうぐら)や、金蔵(きんぞう)も残る。そして、桜門、青屋門が復元されている。大坂城の天守は、昭和6年(1931年)に鉄筋コンクリート造で再建され、平成15年(2003年)には国の有形文化財に登録された。天守を再建する際、現存していた徳川時代の天守台に徳川時代の天守を築くのが自然であるが、1層から4層までを徳川時代風の白漆喰とし、5層目を豊臣時代風の黒漆に金箔といった両時代の折衷という非常に残念なのものになってしまった。黒い5層目の壁4面には、それぞれ2頭の黄金の伏虎(ふせとら)が身構えている。これは『大坂夏の陣図屏風』(通称黒田屏風)の天守に虎のレリーフが描かれていたことから再現された。豊臣時代、天守の3階は「錦蔵」や「宝物蔵」と呼ばれ、解体した「金の茶室」などを保管していた。4階は銀の蔵で、伏虎に守られた5階は金の蔵だったという。二の丸南面の屏風折れの石垣、かつてここには東から順に一番から七番まで7基の櫓が林立した。幕末の大火や太平洋戦争の空襲により、現存するのは一番と六番の2基のみとなっている。大坂城の石垣の特徴として、巨石が数多く使われていることがあげられる。城内で巨石が特に集中しているのは大手口枡形、京橋口枡形、本丸桜門枡形である。その中でも桜門枡形の蛸石(たこいし)は城内最大の巨石である。およそ36畳敷の大きさで推定重量は130t、表面の模様がタコに見えることが名称の由来という。大手口枡形にある城内で4番目に大きな大手見付石(縦5.1m、横11m、厚さ0.9m、推定重量108t)と、左に並ぶ5番目に大きな大手二番石(縦5.3m、横8m、厚さ0.9m、推定重量85t)は、元和6年(1620年)に始まった江戸幕府による再築工事で肥後国熊本藩主の加藤忠広(ただひろ)によって築かれた。近年の調査によって、2つの巨石は1つの石を分割したものであることが分かり、約30箇所の矢穴(やあな)の位置もほぼ重なった。2つの巨石は観音開きのような形で石垣に配置されているため、表面の模様が左右対称に見えるという。大坂城は豊臣秀吉のイメージが強いが、現在に残る遺構は徳川氏の築城のもので、秀吉の大坂城は地中に埋められている。豊臣家を滅ぼした徳川家康は、より巨大な権力が新しく誕生したことを周知する必要があった訳で、地上から豊臣の痕跡を抹殺するといった意味合いがあった。現在の本丸の地表面から地下10mの地点で、豊臣時代の野面積みの石垣が発見されている。オーストリアのエッゲンベルク城という古城に、「インドの間」という部屋があり、この部屋の壁には8枚の東洋の絵画のパネルが埋め込まれていた。この8枚の絵画の修復作業によって注目が集まり、これが八曲一双の豊臣期の大坂図屏風であることが分かった。秀吉が築いた大坂城は三国無双とうたわれながらも、わずか30年で灰塵に帰した幻の城、そのため史料は極めて少なく貴重である。この屏風には、大坂城の堀に掛かる2階建てで極彩色の廊下橋が描かれている。これは極楽橋であるが、橋全体に屋根が掛けられ、2階部分には廻縁を備えた小さな櫓が載っている。壁には彫刻が施されており、日本建築には珍しい豪華で大きな橋である。この極楽橋についての記録は、日本側にはあまり残されていないが、宣教師ルイス・フロイスの『1596年度日本年報補遺』という記録に詳細が記されている。慶長元年(1596年)に完成した極楽橋が大坂城に掛かっていた期間はわずか5年で、秀吉の死後、京都の豊国神社(京都府京都市)に極楽門として移築された。さらに、慶長7年(1602年)徳川家康によって琵琶湖に浮かぶ竹生島に移築された。竹生島の宝厳寺(滋賀県長浜市)に国宝の唐門が存在するが、これが大坂城の極楽橋の遺構であるという。他にも『豊臣期大坂図屏風』には、秀吉が愛用した鳳凰丸という御座船も描かれていた。屏風は8枚のパネルとして切り分けられて、順序はバラバラとなり壁に埋め込まれてしまった。しかし、この際に屏風の裏側にカンバスを張って補強されたおかげで劣化から守られた。それだけでなく、第二次世界大戦末期にソ連軍がオーストリアに侵攻した際、エッゲンベルク城はソ連兵の略奪に遭った。この時、美術品のほとんどは持ち去られているが、壁に埋め込まれていた屏風は災難から逃れることができたのである。

元亀元年(1570年)11世法主顕如(けんにょ)こと本願寺光佐(みつすけ)は、石山本願寺の破却と大坂退去を要求する織田信長に抵抗して、11年にわたって攻防戦を繰り返した。いわゆる石山合戦である。天正8年(1580年)顕如は信長と和議を結び紀伊国鷺森へ移り、その子の教如(きょうにょ)はなおしばらく抵抗したが、ついに開城となる。石山本願寺は退去時の混乱で出火し、ことごとく焼亡してしまった。信長は石山本願寺の跡を整備し、「大坂之御城」として丹羽長秀(にわながひで)を留守城代に置いた。天正10年(1582年)織田三七信孝(のぶたか)を総大将とする四国遠征の直前に本能寺の変が起こる。このとき、丹羽長秀とともに大坂城で四国遠征の待機をしていた織田七兵衛信澄(のぶずみ)は、信長が誅殺した弟の信勝(のぶかつ)の子で、妻が明智光秀(みつひで)の娘であった。疑心暗鬼にとらわれた信孝と長秀によって攻められた信澄は、大坂城二の丸の千貫櫓で防戦するが討ち取られる。千貫櫓の名称は、信長の石山本願寺攻めの時、この隅櫓からの横矢に悩まされ「あの櫓さえ落とせるなら銭千貫文与えても惜しくはない」と話し合ったことに由来する。

天正11年(1583年)豊臣秀吉の大規模な大坂城の築城工事は、越前北ノ庄城(福井県福井市)の柴田勝家(かついえ)を滅ぼした頃から始まる。縄張りは石山本願寺の曲輪を利用して、本丸、二の丸、櫓や殿舎などがつぎつぎと築かれた。天正18年(1590年)小田原の役で見た相模小田原城(神奈川県小田原市)の惣構えにならって、大名や家臣団の屋敷など広範囲を惣構えで囲った。秀吉の晩年にはおよそ2km四方にも及ぶ大城郭が完成し、五層八階の天守をはじめ、天下人の居城にふさわしく広大かつ堅固であった。秀吉は300名の側室を抱えていたといい、フロイスの書状に「秀吉は諸侯貴賢の娘300人を側室とし、大坂城は一大遊郭化している」と残されている。秀吉が大坂城に家康を招いたとき、自慢げに語ったという逸話が残る。この大坂城は何万という軍勢が押し寄せてもたやすくは落ちないが、城攻めには2つの術があるという。それは大軍で包囲する兵糧攻めか、いったん和を入れ、堀を埋め、塀を壊し、重ねて攻めれば落ちるだろうと教えた。家康は秀吉がみずから明かした大坂城の攻略法を、やがて実践することになる。豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)8月18日に、山城伏見城(京都府京都市)で病没した。62歳であった。『豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草(えいそう)』は秀吉が死の直前に詠んだ辞世の句といわれる。「つゆ(露)とをち(落ち)、つゆ(露)ときへ(消え)にし、わかみ(我が身)かな、なにわ(浪花)の事も、ゆめ(夢)の又ゆめ(夢)」という内容であった。文末の「松」は秀吉の雅号である。秀吉の心残りは、当時まだ6歳の秀頼であった。豊臣家を繁栄させようにも、秀吉は年を取りすぎ、秀頼は幼すぎた。秀吉は秀頼の将来を家康らに頼んで息を引き取った。しかし、慶長4年(1599年)天下を狙う徳川家康は大坂城西の丸に入城し、天守を築き上げ威勢を示す。家康は謀略を駆使して、秀頼を盛りたてて豊臣家の安泰を図ろうとする石田三成(みつなり)を関ヶ原合戦に持ち込んだ。

関ヶ原の戦いで勝利をおさめたのち、征夷大将軍に任じられた家康は、慶長19年(1614年)20万の大軍で大坂城を囲んだが、城の守りは鉄壁であった。そこで家康は、大坂城にめがけて昼夜問わず大筒を撃ち込むこととした。徳川方はイギリスから4門のカルバリン砲を購入しており、2km近い射程から大坂城の本丸を砲撃している。大筒の弾は大坂城の天守と千畳敷ノ間に命中、豊臣秀頼の母である淀殿は精神的に参ってしまい、家康の和平勧告を受けることになる。和議の条件として、徳川方が惣構えを取り払い、豊臣方が三の丸と二の丸の塀と柵を撤去することで合意していた。しかし、徳川方は惣構えを壊すだけでなく、機に乗じて三の丸の堀を埋め、石垣を崩し、さらに二の丸の堀まで埋めてしまった。そして翌慶長20年(1615年)大坂夏の陣で裸城となった大坂城天守は内応者により炎上、山里曲輪に逃れた秀頼と淀殿は助命嘆願が叶わず籾蔵の中で自刃し豊臣右大臣家は滅亡した。その後、徹底した落ち武者狩りがおこなわれて、秀頼の忘れ形見の国松(くにまつ)も捕えられ、市中車引き回しのうえ、長宗我部盛親(もりちか)と共に六条河原で斬首となった。大坂の陣によって大坂城が灰燼に帰すと、大坂城は家康の外孫である松平忠明(ただあきら)に与えられたが、元和5年(1619年)には幕府直轄領に編入された。その翌年から、2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)によって大坂城の再築が進められ、寛永6年(1629年)に完成した。この徳川時代の大坂城は、西国雄藩に睨みをきかす防衛の拠点であった。城内には櫓を張り巡らし、それぞれの櫓は小さな城の天守に匹敵するほどの規模を誇っていた。豊臣時代の城地に10mほど盛土して、まったく新しい石垣、用材をもって新しい大坂城を築いた。再築に際しては、豊臣時代よりも石垣は倍高くし、堀は倍深くするように指示があったという。幕府直轄の城である大坂城の城主は徳川将軍家の将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が城を預かった。これは2名の大坂定番と4名の大坂加番、大番2組による大坂在番が警備を担当した。寛文5年(1665年)落雷によって天守を焼失しており、以後は天守が再建されることはなかった。幕末になると、14代将軍・家茂(いえもち)、15代将軍・慶喜(よしのぶ)が相次いで入城するなど、政治拠点としての存在感を急速に高めている。慶応3年(1867年)王政復古の大号令の後、京都二条城(京都府京都市)から追われた徳川慶喜が大坂城に入城した。しかし、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が惨敗すると、1月6日深夜に慶喜は兵卒を大坂城に置き捨てて、密かに軍艦・開陽丸で江戸へ退却してしまった。翌日に主君の不在を知った兵士たちは戦意を失い、次々に撤退を始めた。混乱に乗じて野次馬が大坂城に入り込み、めぼしいものを見つけては略奪するという光景も見られた。1月9日に大坂城は新政府軍に開け渡されたが、そのさなかに火災が発生したのである。当時、大坂市中に出回った瓦版をはじめとする摺物(すりもの)には、「正月九日卯之刻、御城筋がね御門ノ内火の手上ル。次ニ京ばし御門内、夫(それ)より玉造御門外小家、夫より火の手三ツに成。追手御門の内火の手二つになり、十日辰の刻ゑんしよぐら(焔硝蔵)やける」や「十日辰ノ刻ゑんしよう蔵やけはぜる。其音あたかも天地のくずるるがごとし。遠国までもひびきけりとかや。辰正月十一日夜御火鎮り」などと報じる。9日の朝6時頃に筋鉄門の内側から火の手があがり、ついで外堀をはさんだ二の丸側の京橋門内が燃え、やがて玉造門外の小屋からも出火して火の手が3つになり、さらに大手門の内側でも火の手が2つあがったとある。そして、10日の朝8時頃の焔硝蔵の爆発を驚きとともに伝える。鎮火は11日夜である。ちなみに爆発したのは焔硝蔵ではなく火薬製造施設の焔硝場(大阪市中央区城見)である。この出火により本丸御殿や外堀の四番、五番、七番櫓など、城内の建物の多くを焼失している。(2004.03.11)

極楽橋と復興天守
極楽橋と復興天守

千貫櫓と大手門
千貫櫓と大手門

六番櫓と南外堀
六番櫓と南外堀

[MENU]