大野城(おおのじょう)

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小督の最初の輿入れ先であり、伊勢湾を掌握した佐治水軍の本拠地

本曲輪跡に建つ2層の模擬櫓
本曲輪跡に建つ2層の模擬櫓

伊勢湾が一望できる比高30mほどの青海山(せいかいざん)の山頂に築かれた大野城は、別名を宮山城という。山頂の本曲輪を中心として、北側の斜面に曲輪が階段状に配置され、四方に二重の空堀が巡っていた。大野城は、戦国時代に知多半島西部に勢力を張った佐治氏4代の居城である。現在はほとんどが住宅地となっているが、主郭部が城山公園として整備され、2層の模擬櫓と城門が建てられている。本曲輪の一段高くなっているところが物見櫓のあった櫓台であり、この物見櫓跡には大野城主であった佐治氏を祀る佐治神社が鎮座する。本曲輪北側の一段下がった二曲輪は児童公園となっているが、東側の高さ2mほどの土塁など、周囲には遺構がよく残っている。佐治家の菩提寺である斉年寺(常滑市大野町)は、享禄4年(1531年)佐治駿河守宗貞(むねさだ)の開基である。佐治宗貞の嫡子である上野守為貞(ためさだ)は、雪舟(せっしゅう)が明応5年(1496年)に描いた国宝『慧可断臂図(えかだんぴず)』を斉年寺に寄進したことで知られている。元々、斉年寺は大野城の城内にあったのだが、大野城が廃城になると、佐治氏の家臣である粟津九郎兵衛によって現在地に移された。大野城の周辺には、城山、屋敷、東屋敷、大屋敷、城下、大門、堀田といった地名が残る。堀田とは、大野城の堀を兼ねた田んぼのあった場所である。知多市南部から常滑市北部かけての大野谷と呼ばれる地域には、大野庄という荘園があった。しかし、この荘園の成立時期は分かっておらず、史料の初見は鎌倉時代であるが、平安時代後期には存在したと考えられる。鴨長明(かものちょうめい)が「生魚の御あへもきよし酒もよし、大野のゆあみ日数かさねむ」という歌を詠んだのは、応保2年(1162年)というので、その頃には存在していた。大野城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代に尾張源氏の大野氏が居城したとも、観応元年(1350年)知多半島に勢力を伸ばした三河国守護職の一色五郎範光(のりみつ)が築城したともいう。八條院判官代の大野頼清(よりきよ)が京都から来て、大野庄を領して居城したとあり、それは大野城と考えられている。『吾妻鏡』によると、承久3年(1221年)の承久の乱において、大野頼清の嫡子である頼時(よりとき)は朝廷側について敗北、所領は没収された。大野庄は六波羅探題の支配下に入り、金澤貞顕(かねざわさだあき)が地頭として配置された。北条方の領地となった大野庄は、大佛氏や金澤氏が治めて兵糧所となった。この地域には一色氏に所縁の神社・仏閣が多く残っており、貞和元年(1345年)三河国の一色二郎範氏(のりうじ)が大興寺(知多市大興寺町)を再興したというので、この頃に一色氏が知多半島へ進出したと考えられる。同年、範氏は大興寺城(知多市大興寺町)を築いて勢力を拡大した。一色氏は清和源氏の流れを汲む足利氏の支流である。足利義氏(よしうじ)が鎌倉幕府より三河国守護職に任じられ、三河国幡豆郡吉良荘を拠点としていたことから、三河各地に一族が配された。義氏の次男である足利泰氏(やすうじ)は名越流北条氏の名越遠江守朝時(ともとき)の娘を娶っており、その長男が斯波氏の祖となる家氏(いえうじ)で、次男が渋川氏の祖となる義顕(よしあき)であった。嫡子となる足利頼氏(よりうじ)の他に、石塔頼茂(いしどうよりしげ)、加古基氏(かこもとうじ)、上野義弁(ぎべん)、小俣賢宝(おまたけんぽう)など多くの男子を儲けている。そして、七男の公深(こうしん)が一色氏の祖であり、範氏の父にあたる。

一色公深は吉良荘の地頭の身分を譲り受け、吉良荘一色郷(西尾市)に住んだという。観応元年(1350年)頃、範氏の次男である一色範光が青海山に大野城を築いて、大野湊を中心とした伊勢湾の海運を掌握している。康暦元年(1379年)一色範光は三河・若狭国の守護に任じられ、一色氏の繁栄の基礎を築いた。嘉慶2年(1388年)一色範光が没すると嫡子の左京大夫詮範(あきのり)が家督を継ぎ、三河・若狭国守護職となっている。南北朝時代の末期、明徳2年(1391年)以降には知多郡が、また明徳5年(1394年)以降には海東郡が、尾張守護の管轄から外されて、三河守護の一色詮範の支配下に移されている。その時期や理由についての確証はないが、一色氏による知多郡支配の初見史料は、嘉慶2年(1388年)から明徳2年(1391年)まで尾張守護を務めた土岐満貞(みつさだ)の時代であること、一色氏が足利一門であること、さらに両郡は三河・伊勢を結ぶ海上交通上、きわめて重要な位置にあることなどから、室町幕府による政治的な配慮があったと考えられている。さらに、一色詮範の嫡子である修理大夫満範(みつのり)は、明徳3年(1392年)丹後守護職にも補任され、3ヶ国を有する守護大名となる。応永16年(1409年)一色満範が没すると嫡子の五郎義貫(よしつら)が家督を継ぐ。室町幕府4代将軍の足利義持(よしもち)に仕えて侍所所司を務め、応永25年(1418年)には山城の守護にも任じられ、三河・若狭・丹後、そして山城の4ヶ国の守護と尾張国海東郡・知多郡の分郡守護を兼ねる有力守護大名となった。しかし、6代将軍足利義教(よしのり)の代になると、供奉を放棄するなど次第に将軍と対立し、一時は幕政から遠ざけられた。これについては、管領の畠山満家(みついえ)らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰しているが、永享4年(1432年)海東郡は没収となり尾張国守護職の斯波氏に返された。しかし、知多郡は一色氏の領国として続いている。永享10年(1438年)関東公方の足利持氏(もちうじ)が永享の乱を引き起こすと、関東の一色時家(ときいえ)は伯父の一色直兼(なおかね)とともに関東公方方の大将として幕府軍と戦っているが敗北した。一色直兼は相模国の称名寺(神奈川県横浜市金沢区)で自害したが、一色時家は同族の一色義貫を頼って三河国に逃れている。ところが、永享12年(1440年)義貫は、室町幕府に対して挙兵した足利持氏の残党を匿った罪により、足利義教の密命で謀殺された。大和国の越智氏らを討伐するため出陣していた義貫は、武田信栄(のぶひで)の陣所に招かれるが、そこで襲われて自害したのである。これは、義貫の勢力が大きくなりすぎたため、足利義教に警戒されたことが原因と考えられている。この結果、一色氏の領国のうち、若狭と知多郡は武田信栄に、本貫地の三河は細川持常(もちつね)に、丹後は傍流の一色教親(のりちか)に与えられた。この教親は義貫の弟である持信(もちのぶ)の子であるが、足利義教の寵臣であったため一色氏の惣領となった。しかし、宝徳3年(1451年)教親は33歳の若さで没し、嗣子がなかったため、嫡流で義貫の嫡子である修理大夫義直(よしなお)が家督を継いだ。義直は教親の領国のうち、丹後、伊勢半国、尾張国知多郡を受け継ぎ、三河国渥美郡なども手に入れる。その後、応仁の乱によって、丹後および伊勢の守護職を解かれるが、旧領回復のため細川成之(しげゆき)の領する三河に、知多郡から弟である一色兵部少輔義遠(よしとお)の軍勢に侵攻させ、三河国内で激戦が続いた。

この頃、知多郡の分郡守護は一色義遠であったようで、八社神社(知多市金沢)の棟札には、寛正4年(1463年)義遠によって八社神社が再建されたことや、文明2年(1470年)義遠が戦勝祈願のため、千疋と太刀一振りを寄進したことが記されている。結局、文明10年(1478年)一色義直が三河を放棄する旨を文書で表明し、三河で戦闘していた一色軍は撤退しているが、これ以降、三河守護も知多郡の分郡守護も補任されていないようで、三河国と知多郡は国人領主が勃興する戦国時代に突入している。一色氏という大きな勢力が去ると、知多半島の北西部および南西部は一色氏の代官であった佐治氏が領有し、南東部には戸田氏、中央部には岩田氏、北東部には水野氏が割拠した。室町時代後期、近江国から移住してきた佐治氏は、平安時代末期の康平5年(1062年)平維時(これとき)の子である業国(なりくに)が近江国甲賀郡の佐治郷に住して小佐治氏を名乗ったことに始まるという。佐治宗貞は一色氏の家臣から台頭し、主家の内紛に乗じて大野城を奪って3万石を領した。以後、佐治氏が大野・内海を拠点に、2代の為貞、3代の信方(のぶかた)、4代の一成(かずなり)と居城する。佐治氏は緒川城(東浦町)の水野氏と知多半島を二分するほどの勢力を持ち、大野衆と呼ばれる佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握していた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後に織田信長に臣従した3代城主の佐治八郎信方は、信長の上洛軍に従って功績を上げて領地を拡大、信長の妹である於犬(おいぬ)の方を正室としていた。天正2年(1574年)信長に従い伊勢長島の一向一揆鎮圧に参戦するが、願証寺軍の反撃に遭い22歳で討死する。信方と於犬の間には、長男の与九郎一成、次男の中川久右衛門秀休(ひでやす)がいた。天正10年(1582年)本能寺の変で信長が斃れると、羽柴秀吉は明智光秀(みつひで)や柴田勝家(かついえ)らを次々と倒し、天下統一を進める。天正12年(1584年)4代城主の佐治一成は、秀吉のすすめで柴田勝家の越前北ノ庄城(福井県福井市)から救出された小督(おごう)の方を正室とした。小督は、北近江の戦国大名である浅井長政(ながまさ)と、織田信長の妹であるお市の方の間にできた三姉妹の末娘で、母のお市は於犬の妹なので、いとこ同士である。三姉妹の長姉はのちに淀殿と呼ばれ豊臣秀頼(ひでより)を産む茶々(ちゃちゃ)であり、次姉は京極高次(たかつぐ)の室となるお初(はつ)であった。これらの政略結婚から、中央の支配者が、6万石とはいえ佐治氏および佐治水軍を重要視していたかが分かる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにて、羽柴秀吉と徳川家康の直接対決が起こり、秀吉は家康に局地戦で敗北するなど、戦況は織田信雄(のぶかつ)・徳川家康連合軍に有利な状況で推移していた。しかし、同盟軍である信雄が単独で秀吉と講和してしまったため、家康は戦いの大義名分を失い兵を引いている。この状況の中で佐治一成は信雄の頼みにより、佐屋の渡しにおいて三河へ帰陣する家康の軍勢に船を提供するなど便宜を図っている。ところが、この行動が秀吉の怒りを買ってしまい、大野城の小督のもとに、長女の茶々が病気になったという偽りの手紙が届いた。小督は茶々の見舞いのために摂津大坂城(大阪府大阪市)に向かうが、小督の留守のあいだに佐治一成は改易となっており、小督はそのまま離縁させられて、再び大野城に戻ることはなかった。そして、秀吉は信雄に大野城の攻略を命じて、信雄の軍勢が大野谷に攻め込んできた。しかし、佐治一成は戦わずして大野城を退去したと伝わる。

地元には、史実にない織田信長による大野城の落城伝説が伝わるが、この信雄による大野城攻略の出来事から生まれたのかも知れない。その伝説とは、あるとき信長が南の城を攻めようと大野湊に立ち寄った際、佐治一門は大野城が攻められると早合点して信長に武力で抵抗した。信長は怒り、小林村にあった光明寺(常滑市小林町)を焼き、その明かりで大野城に攻め寄せた。佐治氏は城壁に竹の皮を敷いて敵兵が城へ登るのを防いだが、信長軍がこれに火を付けたので、大野城が火の海になったというものである。一方、改易された一成は、師崎の千賀家へ厄介になったという説がある。これによると、一成と小督には「おきた」と「おぬい」という2人の娘がいて、千賀家で養育されていたが、一人は盲女であったという。地元の伝承では、長女の「おきた」は悲しみのあまり、伊勢湾に入水自殺したという話が残る。正和3年(1314年)一色左京大夫道秀(どうしゅう)によって創建された蓮台寺(常滑市小倉町)には、佐治宗貞の墓である寿山塚がある。この寺には、小督の伝説が残っている。大野城が信長によって落城したとき、小督は佐治家の守り本尊である阿弥陀如来の掛軸を持って蓮台寺に逃げ込んだという。小督は寺の松に着物を掛け、追手に対して井戸に飛び込んで死んだと装って、大興寺に落ち延びたと伝わる。着物を掛けた松の木は「衣掛けの松」と呼ばれ、小督が落ちていった門は「開かずの門」とされ、それ以来開けたことがない。戦国時代から大野一帯で行われる伝統行事「大野谷虫供養」は、小督の持ち込んだ掛軸を大興寺に住んでいた土井傳右衛門が拾い祀ったことから始まると伝わる。伊勢国に蟄居した一成は、伯父で伊勢安濃津城(三重県津市)の織田信包(のぶかね)に5千石で仕える。のちに渡辺小大膳の娘と再婚し、一男三女を儲ける。嫡男の為成(ためなり)は、弟の中川秀休の養子になっている。一成は剃髪して巨哉(きょさい)と号した。妻と死別すると、慶長17年(1612年)頃に信包の命により信長の娘である於振(おふり)と再々婚した。その後、会津藩の蒲生家、加藤家に仕えるようになったが、懇意であった溝口秀勝(みぞぐちひでかつ)の新発田藩に来て、3代藩主の溝口宣直(のぶなお)に仕えた。そして、寛永11年(1634年)京都にて65歳で死去したという。母である於犬の方の菩提寺である龍安寺(京都府京都市)に佐治一成、中川秀休、於振の墓が並んでいる。一成の子孫は新発田藩の武頭や軍奉行等を務め、家老職や御城代に就くなど新発田藩の中枢で藩政を支えた。一方、秀吉によって一成と離縁させられた小督は、関白秀次(ひでつぐ)の弟で、岐阜宰相と呼ばれる羽柴秀勝(ひでかつ)のもとへ嫁いだ。秀勝が朝鮮の役に従軍して巨済島で病没すると、のちに江戸幕府2代将軍となる徳川秀忠(ひでただ)に嫁いで、千姫(せんひめ)、3代将軍家光(いえみつ)、忠長(ただなが)、和子(まさこ)などを産んでいる。さらに、元和6年(1620年)和子が後水尾天皇の女御(にょうご)として入内(じゅだい)し、寛永元年(1624年)女御から中宮(皇后)に立てられて、寛永7年(1630年)に即位する明正(めいしょう)天皇の生母となっている。小督は、戦国時代の三英傑である織田信長を伯父に、豊臣秀吉を義兄に、徳川家康を義父に持ち、そのすぐそばで歴史の転換を目撃してきたのである。秀吉によって改易させられた佐治氏の旧領は、大草の織田源五郎長益(ながます)の領地に加えられた。長益は水利の悪さから大野城を廃し、海運の要衝である大野湊に面した地に大草城(知多市)を新たに築城している。(2004.01.01)

模擬櫓の脇にある大野城址碑
模擬櫓の脇にある大野城址碑

櫓台に鎮座している佐治神社
櫓台に鎮座している佐治神社

二曲輪を取り囲む土塁の遺構
二曲輪を取り囲む土塁の遺構

衣掛けの松と後方の開かずの門
衣掛けの松と後方の開かずの門

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