奥沢城(おくさわじょう)

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世田谷吉良氏の重臣である大平氏が配置された世田谷城の有力支城

浄真寺の周囲に残る土塁の遺構
浄真寺の周囲に残る土塁の遺構

世田谷には、代沢、松沢、北沢、引沢、駒沢、深沢、奥沢という7つの沢があり、このうち奥沢は最も奥にあることから名付けられたという。「お面かぶり」で知られる奥沢の浄真寺境内は、小田原北条氏の属将であった世田谷吉良氏の重臣として知られる大平出羽守が守備した奥沢城の跡地である。奥沢城は武蔵野の平野部に南側の台地から北方に突き出した舌状台地上に占地しており、比高は5mまたは6mほどあり、東、北、西を低地としていた。城跡となる浄真寺の周囲には、一辺が150mほどの方形の土塁の遺構が見事に残されている。この土塁は、内側から1.7mの高さがあり、外側からは2.7mあるが、周囲に堀跡は存在しない。また、東側の土塁は楼門(仁王門)を造るために切り崩されたと考えられる。寛政5年(1793年)に建立された仁王門(紫雲楼)の脇には、土塁とともに「奥沢城跡」と刻まれた小さな城址碑が存在する。天正18年(1590年)に奥沢城が廃城になると、寛文5年(1665年)当地の名主七左衛門が寺地として請い受け、延宝6年(1678年)珂碩(かせき)上人が九品山唯在念仏院浄真寺を開山した。本堂の対面に三仏堂があり、この三仏堂は、中央に上品堂(じょうぼんどう)、北側に中品堂(ちゅうぼんどう)、南側に下品堂(げぼんどう)が配置されている。三仏堂の中には、それぞれ3体ずつ阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これを合わせて九品(あるいは九品往生)といい、九品仏と呼ばれる由来になっている。これらは第2世の珂憶(かおく)上人によって元禄11年(1698年)に上棟し、大工は河内国の五平衛福吉によってなされたことが棟札から分かっている。浄真寺には「お面かぶり」と呼ばれる行事があるが、正式には「二十五菩薩来迎会(にじゅうごぼさつらいこうえ)」といい、3年に1回(8月16日)本堂と上品堂の間に渡された36間の架け橋を菩薩の面をかぶった信者らが渡るというものである。これは菩薩の来迎を表すものといい、東京都の無形文化財に指定されている。浄真寺の周囲は急激な宅地化によって、かつての景観を失いつつある。現在は開発が進んで失われたが、舌状台地の周囲の低地部には湿地帯が拡がっていた。この湿地帯を作り出していたのは九品仏川であったが、九品仏川はかつて谷沢川の方から流れていたので、舌状台地の形はその流路であり、これらを利用して城郭とした。奥沢の周辺にあった田は奥沢城の湿地帯を埋め立てた跡で、深さ4mから5mの「底なしの田圃」と呼ばれ、昭和初期までは田下駄を要するほどの深田であったという。湿地帯を通る道は、ヘドロの上に乾いた細長い土が被せてあるようなもので、子供が数人で暴れるとゆらゆら揺れたという。また、大正末期の陸軍の演習で、騎兵斥候の3騎が等々力の中丸方面から駆けて来て、水田の中を渡る道路の中央で3騎とも路面を踏み抜き、深くはまり込んでしまい、引き上げるのに苦労したという。浄真寺の北側に存在した大沼も、現在ではすっかり埋め立てられて消滅しており、ただ一条の小川にその跡を留めている。奥沢城の大手門は九品仏交番のあたりにあった。九品仏駅前あたりの「城前(しろまえ)」、浄真寺の東側の「城向(しろむこう)」という小字がかつての奥沢城の縄張りを偲ばせる。奥沢城は南側が唯一の攻め口となり、防御のための「千駄丸」が存在した。千駄丸は多摩川で陸揚げされた荷物を集積する場所ともいわれているが、砦らしきものがあったという。

浄真寺の南東の奥沢小学校のあたりは地形がやや高くなっており、東方に向かって開けてゆく谷の根のような場所で、中世土豪の屋敷に向いた地形である。ここから東玉川にかけて「出張り」という小字が残り、大平氏の砦跡といわれている。東京都教育委員会の遺跡データでは大平砦と記載されているが、等々力城とも呼ばれており、奥沢城を守る砦が存在したと考えられる。この地区は荏原郡等々力村の飛び地で、諏訪社が存在したことから「諏訪分(すわぶん)」と呼ばれていた。また、天文年間(1532-55年)大平氏によって土地開発が行われ、大平氏の所領になったことから「大平分」とも呼ばれた。大平氏が諏訪分を開発する際に、開墾のための本拠として根小屋を置き、浅い谷の湧水を頼りとしながら、用心のために柵を廻らせたともいう。大平砦から、北東に約500mの距離にある大音寺(世田谷区奥沢)にも奥沢城を守る砦(大音寺砦)があったと伝わる。山頂に見張り小屋を作って、野武士を集めてホラ貝を吹き鳴らさせたことから大音山という。また、別名として朝鮮山、朝鮮丸ともいうようである。奥沢城の西方にある「中丸」という地名も、奥沢城の縄張りに関連するものと考えられており、北側にある産業能率大学のあたりは「塀の裏」と呼ばれ、裏門があったと考えられている。世田谷城(世田谷区豪徳寺)を本拠とする吉良氏は、室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府において、公方、管領に次ぐ御一家に列し、足利一門として格別の処遇を受けていた。相模小田原城(神奈川県小田原市)を本拠とする北条氏綱(うじつな)は、相模国を平定して武蔵国への侵攻を本格化すると、吉良氏の地位の高さを利用している。天文元年(1532年)頃、氏綱の娘である崎(さき)姫と、吉良成高(しげたか)の嫡子である頼康(よりやす)との婚姻を成立させ、吉良氏を北条一門に取り込んでいる。吉良氏の本拠である世田谷城から南東に5km離れた奥沢城は、天文年間(1532-55年)に世田谷城主の吉良左衛門頼康によって築かれており、世田谷城の南方の支城として機能した。吉良氏は、世田谷郷とその周辺の開発事業を積極的におこなっているが、奥沢城もその事業の一環として、奥沢の開拓拠点にすることを目的としていた。そして、重臣の大平出羽守を奥沢城に配置して、開拓の運営を任せている。世田谷区指定の有形文化財である『大平家文書』の大平家の家系図によれば、大平氏は高階(たかしな)氏の出で、足利尊氏(たかうじ)の執事であった高師直(こうのもろなお)の子孫と伝える。大平出羽守は、大平左馬允師氏(もろうじ)とも名乗ったようで、妻は江戸摂津守入道浄仙(じょうせん)の娘である利(とし)姫という。嫡男に清九郎がおり、他にも常盤(ときわ)姫という娘がいたと伝わる。かつて、世田谷区には大規模な鷺草(さぎそう)の自生地が存在したため、区の花には鷺草が指定されている。また、世田谷区には鷺草に関する昔話も残っている。世田谷城主であった吉良頼康は、家臣で奥沢城の大平出羽守の娘である常盤を側室として迎えた。やがて、常盤は子供を身ごもったため、頼康は常盤を寵愛するようになった。一方、頼康には12人もの側室がいたため、他の側室たちは常盤を妬み、常盤の子供は家臣の内海掃部(うつみかもん)との密通による懐妊であると讒訴した。内海掃部とは、常盤の母の妹の子供なので親戚にあたる。怒り狂った頼康は内海一族を討伐し、妊娠している常盤を世田谷城から追放した。常盤は実家に戻ることもできず自害を決意し、父親に宛てて遺書を書き、飼っていた白鷺の足に結び付けて奥沢城の方角に放った。

常盤の白鷺は奥沢城を目指して飛んでいたが、ちょうど衾村(ふすまむら)で狩りをしていた頼康が、この白鷺を見つけて射落としてしまった。頼康は白鷺の足に結び付けてある文に気がついて開けてみると、なんと常盤の身の潔白を証明する遺書であった。驚いた頼康が常盤を探し当てたときには自害し果てた後であった。傍らには胎児の遺体があった。この男の子の胞衣(えな)には、吉良家の紋所が浮かびあがったとも伝わる。悔やんだ頼康は、常盤を弁財天として、胎児を若宮八幡として、駒留八幡神社(世田谷区上馬)に祀り、常盤を葬った塚に松を植えて常盤塚とした。そして、讒言した12人の側室をことごとく処刑して埋めた。村人は、常盤塚と12人の側室の塚を十三塚と呼んで信仰の対象としたが、現存するのは常盤塚(世田谷区上馬)だけである。その後、白鷺が射落とされた多摩川の河原一帯には白鷺の飛翔する姿そのままの花が咲くようになったという。現在、世田谷区に鷺草の自生地は残っていない。後年、大平出羽守の死去により、清九郎が家督を継いでいるが、その後の出世は目覚ましい。弘治3年(1557年)吉良頼康は、世田谷領のうち等々力村、小山郷(尾山台)を領する大平清九郎に大蔵村も下している。永禄4年(1561年)北条氏康(うじやす)は、頼康に丁重な書状を送り、清九郎を北条家に属させることについて了解を求めている。この引き抜きは清九郎だけでなく、江戸氏、長崎氏、新井氏(塩野氏)など、吉良家の中でも有力者が引き抜かれた。北条氏は吉良氏を姻戚として利用することで権威を高め、吉良氏の家臣団を北条家の直臣として編入した。そして、吉良氏の存在は名目だけとなっている。永禄3年(1560年)長尾景虎(上杉謙信)は、北条氏康を討伐するため関東に出陣、年が明けて武蔵国に南下するが、北関東の諸将が景虎のもとに馳せ参じたため、軍勢は膨らみ10万を超えたという。この永禄4年(1561年)に、氏康は大平清九郎に対して、足立郡内の望みの地の恩賞を約束し、相模玉縄城(神奈川県鎌倉市)において忠勤に励む事を命じている。長尾景虎の大軍勢は相模国へと押し寄せて小田原城を囲むが、このとき玉縄城にも来襲している。しかし、清九郎以下、城方はよく戦い、寄せ手の攻撃から玉縄城を守り抜いた。永禄12年(1569年)大平清九郎は、北条氏政(うじまさ)から江戸刑部少輔、江戸近江守と共に駿河興国寺城(静岡県沼津市)の守備を命じられたことが知られている。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐において、南下してきた前田利家(としいえ)ら北国軍に攻められ、世田谷城や奥沢城などは開城した。世田谷に伝わる話によると、大平氏の主君である吉良氏朝(うじとも)は、姫たちに守られて品川の港から下総国に夜舟でそっと落ち延びたという。北条氏が滅亡すると、奥沢城は廃城となり、大平氏は帰農して名主になったと伝わる。世田谷区の吉良氏ゆかりの城館として、世田谷城や奥沢城の他にも、大蔵館(おおくらかん)、赤堤塁(あかづつみるい)、三宿塁(みしゅくるい)、烏山塁(からすやまるい)、深沢城、兎々呂城などがある。大永年間(1521-28年)京都から石井良寛(りょうかん)という者が大蔵館(世田谷区大蔵)に移り住んだ。大蔵館跡にある大六天社は、この良寛を祀った社という。石井氏は吉良氏に仕え、天正18年(1590年)徳川家康の入封後は土着して名主になった。現在、大蔵館跡は東名高速道路に分断されて大きく変貌しているが、大六天社の鎮座する場所は村域の中でも最高地にあり、ここからの遠望は優れる。かつて多摩川は村の中央、築山の下を流れており、要害をなしていた。

戦国時代、大蔵館は多摩川東岸に築かれた吉良氏の城砦群の一環を構成していたと考えられる。一方、豪徳寺(世田谷区豪徳寺)の北方約1kmの小高い場所に六所神社(世田谷区赤堤)が鎮座している。いつごろ勧請されたのか定かでないが、近世初頭より赤堤村の鎮守となっていた。神社の麓には西から南に目黒川の支流が回流している。赤堤村は戦国時代、吉良氏によって開発されており、六所神社の場所は、もと吉良氏が世田谷城の北方を守るために赤堤塁を築いた所であったという。豪徳寺から六所神社へ至る道はしだいに高まり、その頂上あたりに六所神社がある。かつて、ここから武蔵野の原野が遠望できた。目黒川とその支流の合流点と、矢倉沢往還を扼す台地上にある三宿塁(世田谷区三宿)は、北・東・南を目黒川に守られ、西に空堀を穿ち要害とした。この城の歴史は明らかになっていないが、室町時代には吉良氏の勢力下に組み込まれ、世田谷城の東方を守る砦として位置付けられていたと考えられる。神奈川県川崎市の泉澤寺は、初めは梅沢寺殿吉良頼高(よりたか)の菩提所として、延徳3年(1491年)吉良氏によって多摩郡烏山の地に創建されたもので、当時から城砦化されていたようである。天文6年(1537年)扇谷上杉方の深大寺城(調布市)に対する備えとして、焼失した泉澤寺の跡地に北条氏によって烏山塁(世田谷区南烏山)が築かれ、家臣の高橋民部少輔氏高(うじたか)を守将として入れた。このため、この地は民部谷と呼ばれる。天文18年(1549年)吉良頼康は橘樹郡小田中村に泉澤寺を再興し、弘治2年(1556年)民部谷を泉澤寺に寄進しているので、この頃には既に砦としての必要性がなくなっていたと考えられる。烏山塁は現在の烏山神社の並びの高台一帯に存在したが、現在では全てが破壊され何の遺構も残っていない。深沢村名主の谷岡氏の祖である南条右京亮重長(しげなが)は北条氏に仕える伊豆衆で、永禄7年(1564年)下総国の第二次国府台合戦で功を立てた。南条重長は北条氏康から感状を授けられ、深沢村兎々呂城(とどろき)を賜った。そして、村の東境に掻揚(かきあげ)の城を築き、この深沢城(世田谷区中町)を本拠に深沢郷の領主となった。永禄2年(1559年)の『北条分限帳』によると、南条重長は騎馬50騎、足軽200人を賜わる侍大将である。『大平家文書』によると、この頃の兎々呂城はまだ原野で、ようやく開発が始められたばかりであったという。氏康は、永禄初期に吉良氏の重臣で、この地の領主でもあった大平清九郎を直臣にしており、また伊豆衆の南条氏をこの地に入部させることにより、吉良氏の支配に楔を打とうとした。南条氏は本城である深沢城を村の東端に置き、出丸を兎々呂城に置いた。また村の西方の神明社(現在の天祖神社)のある場所も古塁跡といわれ、南条氏の支塁があったと考えられている。深沢城の位置については、都立園芸高等学校付近、あるいは玉川警察署付近と諸説あって確定しがたい。園芸高校の校門脇に「史跡兎々呂城」の石碑が立ち、この兎々呂城(とどろじょう)が深沢城の出丸と伝わる。南条重長は武勇に優れていたようで、天正2年(1574年)簗田晴助(はるすけ)との第三次関宿合戦、天正8年(1580年)武田勝頼(かつより)との駿河浮島ヶ原の戦い、天正10年(1582年)滝川一益(かずます)との金窪原の戦い(神流川合戦)などで感状を授けられている。天正18年(1590年)小田原の役の敗戦により、南条重長は城を壊して平地とし、そのままこの地に蟄居したという。浄真寺の梵鐘は、宝永5年(1708年)深沢城主の子孫である谷岡又左衛門が寄進したものである。(2013.02.10)

奥沢城跡に建つ三仏堂の上品堂
奥沢城跡に建つ三仏堂の上品堂

奥沢城の西方にある中丸跡の碑
奥沢城の西方にある中丸跡の碑

今に残る常盤姫を葬った常盤塚
今に残る常盤姫を葬った常盤塚

園芸高校に立つ兎々呂城の石碑
園芸高校に立つ兎々呂城の石碑

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