岡崎城(おかざきじょう)

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天下人・徳川家康を生み出した松平惣領家累代の居城

外観復興された複合連結式天守
外観復興された複合連結式天守

三河国に栄えた城下町・岡崎は、矢作川と乙川(おとがわ)が合流する物資輸送路の要(かなめ)であり、東海道で3番目に大きな宿場町でもあるこの地は、江戸時代から大きな賑わいを見せていた。岡崎城は伊賀川と菅生川(乙川)の合流地点にある独立丘陵の竜頭山に築いた梯郭式平山城である。往時は本丸、持仏堂曲輪、二の丸、東曲輪、隠居曲輪、菅生(すごう)曲輪、坂谷曲輪、風呂谷曲輪、三の丸、白山曲輪、稗田曲輪、浄瑠璃曲輪、備前曲輪などを設けていたが、現在は本丸、持仏堂曲輪、二の丸、隠居曲輪等の一帯が岡崎公園として保存されている。昭和34年(1959年)に再建された本丸の天守は、3層3階の複合連結式望楼型という様式で、2層の井戸櫓と単層の附櫓を連結している。これは、元和3年(1617年)岡崎城主の本多康紀(やすのり)が造営した天守の外観を復元したものである。本丸には他に2層の辰巳櫓と月見櫓があったが、現在は模擬の辰巳櫓(単層)と、徳川家康と本多忠勝(ただかつ)を祀った龍城(たつき)神社が鎮座する。平成22年(2010年)東曲輪の南東角に望楼式二重櫓の東隅櫓が復元された。この櫓は菅生曲輪から二の丸・三の丸に通じる切通しを監視する位置に建つ。天守北側の本丸と持仏堂曲輪の間の空堀は清海堀といわれ、西郷稠頼(つぎより)時代の遺構とされている。この清海堀には廊下橋の跡が存在する。本丸から風呂谷曲輪を経た南から東にかけては、龍城堀という水堀が広がる。また、岡崎城の西方には矢作川が南流しており、西隣の尾張からの敵に対して外堀の役目を果たした。岡崎公園には他にも、家康が生まれた時に産湯に使用した「産湯の井戸」や、家康の胎盤を埋めた「えな塚」が現存しており、徳川家康の銅像や、名槍「蜻蛉切」を携える本多忠勝の銅像も存在する。また、岡崎公園の入口には模擬大手門と城壁が造られたが、本来の大手門は現在の浄瑠璃寺の南にあったという。岡崎城は松平惣領家の居城として、また家康の時代になり本拠を東に移していった後も格別な存在として、徳川氏の最重要拠点であった。その後の田中吉政(よしまさ)の時代に近世城郭に改修され、城下町の整備や、田中堀と呼ばれる総延長4.7kmにおよぶ惣構えを巡らし、乙川の南岸を通っていた東海道を岡崎城下に導きいれ、防衛上の必要から岡崎宿三十六町二十七曲りと呼ばれる屈折の多い道路の建設をおこなった。慶長6年(1601年)田中吉政が筑後国柳川に移ると、上野国白井より本多康重(やすしげ)が5万石で入封した。この康重から彦三郎系本多氏が4代続き、正保2年(1645年)から水野氏が7代、宝暦12年(1762年)から松平康福(やすよし)が7年、明和6年(1769年)から本多忠勝を祖とする平八郎系本多氏が6代続き明治に至る。本多氏の藩主時代は2度あるが系統は異なり、前者の彦三郎系本多氏を前本多、後者の平八郎系本多氏を後本多と称した。江戸時代における岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、家格の高い譜代大名が代々城主を務めている。石高は5万石と少なかったが、岡崎城主であることを誇りにしたと伝わる。乙川の河畔には帆掛け舟が積荷をあげおろした舟着き場跡が存在する。江戸時代に「五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く」と唄われた。享徳元年(1452年)または、康正元年(1455年)大草城(幸田町)を本拠とする西郷弾正左衛門稠頼が北方に進出し、菅生川南岸の明大寺(みょうだいじ)の地に岡崎城の前身となる明大寺城(岡崎市明大寺町)を築いて居城とした。また、対岸の龍頭山(現在の岡崎城の場所)には、居城を防衛するための砦を築いた。

西郷氏の出自についてははっきりしておらず、この頃の大草の地は東の郷、西の郷に分かれて繁栄しており、この地の豪族の館が西の郷にあったため西郷姓を名乗ったのではないかという説もある。これより以前、足利一族の仁木義長(にっきよしなが)が三河国守護職(伊賀・伊勢・志摩・遠江の守護も兼務)であった観応2年(1351年)から延文5年(1360年)には、この西郷氏が守護代を務めていたという。現在の月星山正楽寺(幸田町)のあたりは、大草城跡といわれており、西郷氏時代の壕跡が境内に残っている。また、西郷氏の墓も存在する。ところで、現在の岡崎城の本丸北側にある空堀は築城者の西郷稠頼にちなんで清海堀と呼ばれる。この清海とは、稠頼が旧岡崎城(明大寺城)を嫡男の弾正左衛門頼嗣(よりつぐ)に譲って大草に戻り、剃髪入道したときの法号であった。文明年間(1469-87年)旧岡崎城の西郷頼嗣は、安祥城(安城市)の松平信光(のぶみつ)に攻められて降伏した。松平信光は名家であった西郷氏を滅ぼさず、五男の松平紀伊守光重(みつしげ)を西郷頼嗣の娘婿として継がせて、頼嗣の隠居によって岡崎松平氏(のちの大草松平氏)が成立する。この光重には子がなく、旧岡崎城は光重の弟・左馬允親貞(ちかさだ)を経て、またその弟・弾正左衛門信貞(のぶさだ)が城主となった。岡崎松平氏の3代信貞は西郷氏を称しており、西郷頼嗣の子であるという伝承もある。いずれにしても、岡崎松平氏は純然たる松平の分家ではなく、もとは西郷氏であった。大永3年(1523年)庶家の中でも実力があり惣領家を凌ぐほどに台頭していた岡崎松平信貞は、13歳の若さで松平惣領家の7代当主となった松平次郎三郎清康(きよやす)に反旗を翻して争ったが、大永4年(1524年)松平清康の夜襲によって信貞の軍事拠点である山中城(岡崎市舞木町)が一夜で攻め落とされた。降伏した信貞は、娘の於波留(おはる)を清康の正室として嫁がせ、旧岡崎城とその所領を譲り渡して大草の地に退いた。この時に松平惣領家に服属した岡崎松平氏の家臣は、のちに山中譜代と呼ばれることになる。松平清康は居城を安祥城から旧岡崎城に移し、享禄4年(1531年)龍頭山の砦を改修して、こちらを岡崎城と呼び替えた。岡崎城を本拠とした松平清康は、近隣の抵抗勢力を斬り従えて、20歳までに三河一国を統一しており、三河では伝説的な英雄であった。ついに清康は、尾張国の織田信秀(のぶひで)と対決すべく尾張東部にまで侵攻する。しかし、天文4年(1535年)24歳の清康は、守山の陣にて乱心した家臣の阿部弥七郎正豊(まさとよ)によって殺害されてしまう。30歳代まで生きれば天下を統一したと言われる名将であっただけに、この「守山崩れ」による松平氏の弱体化は避けられなかった。松平惣領家を継いだ嫡男の広忠(ひろただ)はわずか9歳であり、桜井松平氏の松平信定(のぶさだ)に岡崎城を奪われてしまい諸国を放浪する。天文6年(1537年)松平広忠は東条吉良氏や駿河今川氏の助力と、家臣の酒井正親(まさちか)、大久保忠俊(ただとし)兄弟などの活躍によって岡崎城の回復に成功するが、隣国の織田信秀の脅威に耐えられず、今川義元(よしもと)の傘下に入って松平氏の存続を図った。天文11年(1542年)松平広忠に嫡男の竹千代(のちの徳川家康)が岡崎城二の丸にて生まれる。竹千代が誕生したときに、本丸の龍ヶ井(たつがい)から龍が立ち昇ったという伝説が残る。龍城神社の社記にも「英雄児の生まれ出づるを待つが如く、城楼の上に雲を呼び風を招く金鱗(きんりん)の龍を見たりと云う」とある。

この頃の松平家というのは半独立国で、駿河今川氏を後ろ楯として頼み、尾張織田氏の脅威をしのいでいた。この今川氏との従属関係を強化するため、6歳になった竹千代が駿河国府中(駿府)に人質として送られることになった。ところが駿府へ行く途中、渥美半島の戸田康光(やすみつ)に竹千代を奪われ、織田信秀に青銭百貫文で売られてしまう。織田信秀は竹千代を人質として尾張へ連れて行き、この人質時代に8歳年上の織田信長と知り合ったという。天文18年(1549年)岡崎城で松平広忠が24歳で殺害されたため、人質の竹千代は本国不在のまま松平家9代当主となった。不幸なことに松平氏の当主は2代続けて家臣に殺害されている。松平清康の場合は誤殺で、陣中で突然馬が暴れる騒ぎを見た阿部弥七郎は、これを謀反の疑いのあった父の阿部定吉(さだよし)が処刑されたものと勘違いして清康を殺した。また、松平広忠は家臣の岩松八弥(はちや)に暗殺されており、これは織田信秀の武将・佐久間全孝(ぜんこう)が送り込んだ「片目の八弥」という刺客であった。どちらも凶器は村正の刀であったため、のちに徳川家では村正を嫌悪するようになり、世間的にも妖刀といわれ忌避されたという。この頃より今川氏は三河を属領として扱い、岡崎城は今川氏の前線要塞として今川氏の城代が管理した。今川氏が織田氏と戦うとき、三河岡崎衆は必ず先手として使われ、「三河馬鹿」と呼ばれるほど死に働きした。天文18年(1549年)今川義元の叔父である太原雪斎(たいげんせっさい)が安祥城を攻め、信長の庶兄で安祥城主の織田信広(のぶひろ)を生け捕りにして、8歳の竹千代と人質交換が成立、今度は今川氏の人質になった。このように家康は、尾張の織田家で2年、駿河の今川家で11年という長い人質生活を送っている。駿府で元服した竹千代は松平次郎三郎元信(後に元康と改名)と名乗り、今川一族の関口親永(ちかなが)の娘(築山殿)を娶って、長男の信康(のぶやす)を儲けている。永禄3年(1560年)今川義元が2万5千の兵を率いて尾張に侵攻した際、松平元康も今川氏の客将として従軍した。元康は、織田氏の勢力圏に深く食い込んだ尾張大高城(名古屋市緑区)への兵糧入れに成功、続いて佐久間盛重(もりしげ)が守る尾張丸根砦(名古屋市緑区)を攻め落としている。元康の働きぶりに今川義元は喜び、鵜殿長照(うどのながてる)に代わって大高城を守備するように命じた。しかし、桶狭間にて今川本隊が織田信長の奇襲を受け、総大将の今川義元が討たれてしまう。桶狭間の戦いの敗戦により、元康は故郷・岡崎の大樹寺(岡崎市鴨田町)に命からがら逃げ帰った。このときに従った近臣はわずかに18名だったという。元康は大樹寺に眠る先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉(とうよ)上人に諭されて思い留まった。このとき登誉上人は「苦悩の多い穢(けが)れたこの世を厭(いと)い離れたいと願い心から欣(よろこ)んで平和な極楽浄土を冀(こいねが)うこと」を説き、感銘を受けた元康は、この「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」を元康の旗印として使用するようになった。そして、岡崎城代の武田上野介、山田新右衛門らが放棄した岡崎城についに復帰している。この混乱に乗じて、元康は織田領に攻め込む大義名分のため、今川義元の嫡男の氏真(うじざね)に弔い合戦の出陣要請をするが、氏真は軍勢を出そうとしない。このため元康は独力で、挙母、梅坪、広瀬など織田方の城砦を落とし、さらに中島郷や刈谷まで攻略、東尾張に勢力圏を広げた。さらに覇気に乏しい氏真からの独立を考えるようになった。

永禄4年(1561年)元康は板倉重定(しげさだ)の守る西三河の中島城攻略を皮切りに、次々と今川方の城砦を落としていき、ついに西三河を制圧した。永禄5年(1562年)今川氏から自立した松平元康は、隣国の織田信長と軍事同盟(清洲同盟)を結ぶ。この際、元康は織田方から奪った城砦は返さなかった。織田氏との同盟により今川家で人質となっている築山殿や信康の命は危うくなったが、今川方の上之郷城(蒲郡市)を攻略した元康は、今川氏の親戚である鵜殿長照の2人の子を生け捕り、妻子との人質交換に成功している。永禄6年(1563年)元康は、今川義元からの偏諱である元の字を返上して松平家康と改め、永禄9年(1566年)までに三河一向一揆を鎮め、三河国を統一した。ちなみに、大草松平信貞の嫡子である七郎昌久(まさひさ)は一揆方に加わって戦い、敗れて追放の身となり、大草松平氏の名は一旦消える。同年、朝廷から従五位下三河守の叙任を受け、家康個人のみ徳川に改姓する。永禄10年(1567年)長男の信康と信長の娘である五徳姫との結婚が成立、織田氏と徳川氏の同盟は固くなった。この同盟は戦国期には珍しく20年間という長期に渡って成立し、律儀者といわれた家康は信長の天下統一事業をよく助けた。永禄11年(1568年)遠江国を平定した家康は、元亀元年(1570年)岡崎城を信康に譲り、敵対する甲斐武田氏に備えるため、前線に近い遠江浜松城(静岡県浜松市元城町)に本拠を移した。この本拠移転には三河譜代の家臣だけでなく、信長も反対したという。しかし、移転後も徳川家の重要な行事は岡崎城で催しており、浜松城への移転は甲斐武田氏からの徳川領防衛が最大目的であった。一方、岡崎城では築山殿と五徳姫の確執があり、五徳姫と信康の仲もうまくいってなかったようで、天正7年(1579年)五徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪(唐人医師との密通、武田氏との内通など)を訴える十二ヶ条の訴状を書き送った。これを読んだ信長は、家康に築山殿と信康の処刑を命じている。家康は強大な武力を持つ信長には逆らえず、正室の築山殿を家臣に殺害させ、無実であったが信康も切腹させた。岡崎城には筆頭家老の石川数正(かずまさ)が城代として入城する。ところが、天正10年(1582年)織田信長が斃れ、羽柴秀吉の世になると、天正13年(1585年)石川数正が徳川家を出奔し、敵対する秀吉の許に奔った。この時、羽柴秀吉が大挙して三河を襲うという風説が流れ、家康は三河の諸城を大改修させ、岡崎城代に「鬼作左(おにさくざ)」の異名を持つ本多作左衛門重次(しげつぐ)を任命して秀吉軍の襲来に備えた。しかし秀吉は家康に上洛を要請するために、母の大政所を人質として岡崎城に送ってきた。これにより家康も上洛を決意するが、大政所の世話役となった作左衛門は、上洛中の家康の安全を確保するため、大政所の屋敷まわりに薪を積んで火を放つと脅迫し続けた。また天正18年(1590年)小田原北条氏の征伐に向かう秀吉が岡崎城に入った際も、秀吉との面会を拒絶し続けたため、ついに秀吉の怒りに触れる。作左衛門は小田原の役で戦功を立てるも、家康が秀吉によって関東に移されると、上総国古井戸に蟄居となった。天正18年(1590年)家康の関東移封後、岡崎城には秀吉の武将である田中吉政(よしまさ)が近江国八幡から6万石(のちに10万石に加増)で入封した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、田中吉政は主力決戦の戦功だけでなく、石田三成(みつなり)の居城である近江佐和山城(滋賀県彦根市)の攻略や、伊吹山中を逃亡中の三成を捕縛するという大功を挙げ、筑後一国32万5千石が与えられている。(2007.01.01)

東曲輪に復元された2層の東隅櫓
東曲輪に復元された2層の東隅櫓

西郷氏時代の遺構となる清海堀
西郷氏時代の遺構となる清海堀

現存する徳川家康の産湯の井戸
現存する徳川家康の産湯の井戸

坂谷曲輪跡に残る坂谷門石垣
坂谷曲輪跡に残る坂谷門の石垣

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