小田原城(おだわらじょう)

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小田原北条氏の滅亡後、大久保氏から始まる小田原藩の政庁

外観復興された小田原城の天守
外観復興された小田原城の天守

近世の小田原城は本丸を中心に、東に二の丸、三の丸を配置し、西に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪(雷曲輪)、北に御用米曲輪を設けていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に南曲輪、二の丸南側に御茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁財天曲輪と、計4つの小曲輪が設けられ、馬出として機能した。本丸に複合式層塔型3層4階の天守を置き、往時には8基の櫓と13棟の城門が造られた。江戸末期には海防のため、海岸の3ヶ所に台場が建設され、32門の和・洋式大砲が配備されている。元禄16年(1703年)の大地震により小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまうが、天守は宝永3年(1706年)に再建されて、小田原城の象徴として明治時代までそびえていた。しかし、明治3年(1870年)から明治5年(1872年)にかけ、城内のほとんどの建物は破却された。さらに、大正12年(1923年)関東大震災により、唯一現存していた二の丸平櫓は石垣とともに倒壊、それ以外の石垣もことごとく崩壊し、本丸周囲の鉢巻土塁もすべて失われている。昭和25年(1950年)関東大震災で崩れたままになっていた天守台の石垣が修復され、昭和35年(1960年)その天守台に宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や天守模型を参考に、鉄筋コンクリート造りの天守が外観復興された。しかし、観光用ということで最上階に本来存在しなかった高欄が取り付けられている。続いて、昭和46年(1971年)明治初期に撮影された古写真などを参考に、常盤木門(ときわぎもん)が木造で復元された。本丸の正面に位置する常盤木門は、多聞櫓と渡櫓から枡形を形成し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことが判明している。常盤木とは常緑樹の意味である。平成9年(1997年)発掘調査や古写真、絵図などを基に、銅門(あかがねもん)が当時の工法で忠実に復元された。二の丸の表門である銅門の名称は、大扉などに使われた飾り金具に銅が用いられたことに由来する。枡形門形式であるが、一の門が埋門と珍しく、二の門は櫓門となる。平成21年(2009年)には馬出門が復元された。馬出門は大手筋となる馬屋曲輪に位置し、二の丸を守るため高麗門形式の馬出門と内冠木門から枡形を成す。昭和10年(1935年)二の丸南東隅の二の丸平櫓が復興されたが、予算の関係で半分の規模となっている。小田原城の三の丸への出入口は、大手口、幸田口、箱根口があり、それぞれ大手門、幸田口門、箱根口門を設けていた。当初は箱根口の付近にあった大手門を、稲葉氏が小田原藩主であった寛永10年(1633年)に、3代将軍の徳川家光(いえみつ)の上洛に備えて、江戸に向く地に大手門を移し、東海道から大手門までの道は将軍家が小田原城に入るための御成道として整備された。現在、この大手門の北側の櫓台のみが現存している。そして、この北櫓台の石垣の上には鐘楼が建てられている。この鐘楼はもともと三の丸の浜手御門にあったものだが、大正年間(1912-26年)この場所に移された。貞享3年(1686年)の『貞享三年御引渡記録』に「小田原の時の鐘は昼夜撞いている」という記事があり、現在も朝夕6時に撞かれて時を知らせている。南方の箱根口門から入城すると、小峰橋と銅門に架かる住吉橋を経て二の丸に入ることができる。江戸時代、将軍家にお茶を献上するために、宇治から御茶壺道中と呼ばれる行列によって御茶壺が運ばれた。小田原城内には運搬されてきた御茶壺を保管するための御茶壺蔵が設置されており、この御茶壺が小峰橋を往復したため御茶壺橋とも呼ばれた。

幸田口は、北条氏時代から江戸時代前期にかけての中世小田原城の大手口であったと考えられている。現在も幸田口門跡の周囲には、三の丸の土塁が残されている。現在の小田原城址公園は、近世小田原城の主郭部である。戦国時代に関八州に覇を唱えた小田原北条氏の本城である中世小田原城の主郭部は、裏手となる標高69mの八幡山にあった。現在の県立小田原高等学校のある一帯で、八幡山古郭と呼んで近世小田原城と区別している。北条氏の5代当主の氏直(うじなお)は、従臣を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ有力支城を強化して総動員体制を整えていた。特に小田原城と城下町をまるごと囲む全長9kmにおよぶ長大な大外郭(だいがいかく)を構築して決戦に備え、これにより中世城郭史上類のない戦国期最大の城郭が完成した。そして、秀吉との交渉は決裂、氏直は国境線を固めるとともに、小田原城に6万の主力部隊を投入し、領内100ヶ所におよぶ支城群の防備を固めて防衛体制を整えた。一方、秀吉の軍勢は水陸あわせて22万といい、徳川家康、織田信雄(のぶかつ)、蒲生氏郷(うじさと)、羽柴秀次(ひでつぐ)、宇喜多秀家(ひでいえ)、池田輝政(てるまさ)、堀秀政(ひでまさ)などが小田原城を包囲した。そして、3ヶ月におよぶ籠城戦を展開する。北条氏は各地の支城に籠って防戦し、機会を見計らって反撃に転じる作戦であったが、主力部隊の籠る小田原城を大軍勢で封鎖されている間に、各地の支城が個別撃破され、次第に孤立していった。ついに氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出ている。しかし、秀吉はこれを認めず、主戦派であった氏直の父で4代当主の氏政(うじまさ)、その弟の氏照(うじてる)に切腹を申し付け、氏直は高野山に追放となった。そして、氏政、氏照の介錯役を2人の弟である氏規(うじのり)が務めた。そして役目を終えた後、その太刀を自らの腹に突き立てようとしたところ、徳川家康により派遣されていた榊原康政(やすまさ)、井伊直政(なおまさ)らが駆け寄って取り押さえ、説得して思い留まらせた。家康は氏規が自害する可能性を危惧していたのである。家康と氏規は、幼少時にともに今川氏の人質として駿河今川館(静岡県静岡市)で過ごしており、旧知の仲であったとされる。こうして小田原北条氏は滅亡した。戦後、北条氏の領土であった関東250万石は徳川家康に与えられ、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から転封となった。家康は武蔵江戸城(東京都千代田区)を居城とし、小田原城には豊臣秀吉の指示もあり4万5千石で大久保忠世(ただよ)を配置した。このとき、城の規模は三の丸以内に縮小された。徳川家の中でも勇将として知られる大久保忠世は、かつて三河一向一揆で家康の家臣の半分以上が一向一揆軍に加わり、家康が窮地に立たされているとき、大久保一族をあげて家康に味方して活躍した。そして、一揆が鎮圧されると、一向一揆軍に付いた本多正信(まさのぶ)や渡辺半蔵などの帰参を助けている。忠世は病が重くなり死期を悟ると、三河一向一揆の際に徳川家康から賜った感状を取り出し、後世に伝えるべきものではないとして破り、家臣に命じて柩に入れさせた。これは、一揆に参加して、忠世のとりなしで帰参した者たちへの思いやりであったという。文禄3年(1594年)忠世が没すると長男の忠隣(ただちか)が6万5千石に加増されて跡を継ぎ、慶長15年(1610年)には老中として幕閣に入った。ところで、かつて小田原城内には「氏康柱」というものがあった。

北条氏3代当主の氏康(うじやす)のとき、家臣の荒川某という者が逆心を企てたため、氏康は家臣がいる前でこれを手討ちにした。このとき太刀は、勢いあまって鋒書院(ほこしょいん)の柱に大きく切り込んだという。この柱に付いた刀傷は北条家にとって重要な遺産となり、柱に蓋を取り付けて、氏康の死後も大切に保管された。そして、ときどき蓋を開けては不心得の懲戒のために見せしめたという。ある時、徳川家康が上洛の途中で小田原に立ち寄り、かの有名な「氏康柱」を見せるよう城主の大久保忠隣に命じた。これに対して忠隣は、鉾書院の老朽化が激しく柱根も朽ち果てたため、近ごろ建て直しをおこない、その柱も捨ててしまったという。しかし、その昔に鈴木大学が使っていた弓ならば、今も玄関にかけてあるので、こちらを見てもらおうとした。すると、家康はたちまち不機嫌になり、忠隣に説教を始めた。北条家は初代早雲(そううん)、2代氏綱(うじつな)の時代には伊豆と相模の2ヶ国のみを領したが、氏康の代になると次第に版図をひろげて、ついに関八州に覇を唱えた。しかも氏康といえば、まだ若年の頃、河越夜戦にてわずか8千の兵で上杉氏の8万3千の大軍を切り崩し、天下に武名を轟かせた英傑である。その氏康の名を背負った柱なのだから、朽ちたとしても根を継ぐなどして保存しておけば、後々までも見る人の武道の励みになるものを、勝手に捨ててしまうなど軽率なおこないである、と言うのである。そのうえで、「大学の弓などは叩き折って捨ててしまえ」と怒鳴った。家康から叱責された忠隣は、全身に汗をかいて退席したという。江戸幕府が成立すると、幕府内部では大久保忠隣とその与力であった大久保長安(ながやす)を中心とした武断派と、家康の謀臣として権勢を振るう本多正信(まさのぶ)・正純(まさずみ)父子を中心とした文治派が互いに派閥を形成し、政治的な確執によって激しく対立した。大久保派には本多忠勝(ただかつ)、榊原康政が与し、本多派には土井利勝(としかつ)、酒井忠世(ただよ)が与した。慶長17年(1612年)岡本大八事件が発生すると、本多派の権勢は衰退し、大久保派が優位に立つこととなった。大久保長安とは「天下の総代官」といわれた人物で、慶長5年(1600年)大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、慶長6年(1601年)甲斐奉行、石見奉行、美濃代官の兼務を命じられている。さらに、慶長8年(1603年)佐渡奉行、所務奉行、慶長11年(1606年)伊豆奉行にも任じられ、全国の金銀山の統轄の一切を任されていた。もともとは、武田信玄(しんげん)に仕えた大蔵太夫十郎信安(のぶやす)という猿楽師の次男であり、信玄に見出されて家臣として取り立てられ、武田領国における鉱山開発などに従事したという。甲斐武田家が滅亡すると、長安は家康の家臣として仕え、大久保忠隣の与力に任じられて、大久保姓に改めた。天正19年(1591年)には家康から武蔵国八王子に8千石の所領を与えられるが、北条氏照の旧領をそのまま与えられたらしく、実際には9万石あったという。まったくの外様でありながら、慶長8年(1603年)には老中となり、異例の昇進を遂げている。しかし、晩年になって各地の鉱山からの金銀採掘量が低下すると家康からの寵愛を失い、美濃代官をはじめとする代官職を次々と罷免されていった。慶長18年(1613年)大久保長安は卒中で死去する。このとき、派手好きであった長安は、自分の遺体を黄金の棺に入れるように遺言したという。大久保派の主要人物である長安の死により、本多派の反撃が始まった。

本多正信・正純父子は、大久保長安が不正に金銀を着服し、謀反を計画していたと讒言、黄金の棺の存在を知った家康は激怒した。埋葬されていた長安の遺体を掘り起こし、安倍川河原で斬首して晒し首とした。さらに長安の7人の息子は全員処刑され、姻戚関係にある諸大名も連座して処分された。長安の寄親であった大久保忠隣は、2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)からの信任も厚かったため、この大久保長安事件での処分は免れている。しかし、本多派の陰謀はその後も続き、慶長19年(1614年)ついに改易となった。忠隣失脚に連座して大久保派の全員が改易され、忠隣の居城であった小田原城も大部分が破却された。小田原城には小田原北条氏が築いた大外郭という惣構えがあり、『北条五代記』などに「めぐり五里」と記載されるように、城下町全体を包み込む外郭の周囲は総延長9kmにおよび、戦国期には日本最大の城郭であった。徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて、この小田原城の惣構えを撤去させている。結局、本多正信は、大久保忠世から三河一向一揆の際に受けた恩を、その息子である忠隣に仇で返したことになる。以後5年間は小田原城は幕府直轄の番城となった。家康の死後、井伊直孝(なおたか)は徳川秀忠に対して、冤罪により井伊家預かりとなっていた大久保忠隣の赦免を嘆願しようとしたが、忠隣は家康に対する不忠になるとして固辞した。ただし、大久保忠隣の嫡孫に当たる大久保忠職(ただもと)は、外祖母が家康の長女である亀姫であり、家康の曾孫にあたるため、武蔵国騎西藩2万石に蟄居させるだけに留めて、特別に大久保家の存続が許されている。元和5年(1619年)阿部正次(まさつぐ)が上総大多喜藩3万石から5万石で小田原へ入封したが、4年後には武蔵岩槻藩5万5千石に転封となり、小田原城は再び番城となる。寛永9年(1632年)稲葉正勝(まさかつ)が下野真岡藩4万石から8万5千石で入封した。正勝は春日局の実子である。春日局が3代将軍の徳川家光の乳母であったことから、正勝も乳兄弟として幼少時より小姓として家光に仕えていた。春日局は、明智光秀(みつひで)の筆頭家老であった斎藤利三(としみつ)の娘で、お福といった。元和9年(1623年)お福は大奥総取締役になり、家光のために大奥の組織を作り上げた。そして、家光に世継ぎが誕生し、それが4代将軍の家綱(いえつな)、5代将軍の綱吉(つなよし)である。幕府内で絶対的な権力を持ったお福は、寛永6年(1629年)将軍の名代として後水尾天皇に拝謁した。官位のない者が天皇に謁見するということは前代未聞の出来事であった。この時に朝廷から与えられた称号が春日局であった。春日町という地名が残る現在の東京都文京区全体が春日局の領地であったという。寛永11年(1634年)には徳川家光が小田原城の天守に登り、武具を見たり、展望を楽しんだという記録が残っている。稲葉氏は、正則(まさのり)、正往(まさみち)と3代続き、いずれも幕府の老中に就任している。現在に残る近世小田原城の遺構は、寛永10年(1633年)の大地震の後、稲葉正則によって大々的に改修したものである。貞享2年(1685年)稲葉正往は越後高田藩10万3千石に転封を命じられ、翌貞享3年(1686年)大久保忠朝(ただとも)が下総国佐倉藩9万3千石から10万3千石で入封した。忠朝は大久保忠隣の三男である教隆(のりたか)の次男で、寛文10年(1670年)本家の大久保忠職の養子となり、延宝5年(1677年)幕府老中、天和元年(1681年)老中首座と昇進し、忠隣の改易で失った旧領小田原への復帰を果たした。以後は大久保氏が10代続き明治維新を迎えている。(2011.03.03)

本丸の正面に位置する常盤木門
本丸の正面に位置する常盤木門

当時の工法で復元された銅門
当時の工法で復元された銅門

二の丸の平櫓と馬屋曲輪の馬出門
馬屋曲輪の馬出門と二の丸の平櫓

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