小田城(おだじょう)

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強大な敵勢にも果敢に挑戦する「戦国最弱の武将」と呼ばれた小田氏治の本城

要害展望所からの小田城全景
要害展望所からの小田城全景

茨城県つくば市の北東部に、通称「小田山」と呼ばれる標高461mの宝篋山(ほうきょうさん)がある。山頂に鎌倉時代中期のものと推定される宝篋印塔(ほうきょういんとう)があるのが名前の由来である。この筑波山地から続く宝篋山の南西麓に小田城が存在した。東西約1.5km、南北約1.3kmの輪郭式平城で、桜川東岸の低位段丘上に立地している。小田城は本丸を中心に3重の水堀と曲輪に囲まれており、本丸は東西約130m、南北約145mのほぼ正方形となる。発掘調査によって、鎌倉時代の武士の館である単郭方形館を起源としており、これを改修しながら戦国時代末期まで使用し続けたことが分かっている。本丸北側は市街地化により旧状を留めないが、水田となっている本丸南側からは曲輪等の遺構がかなり良好に検出されている。現在、発掘調査に基づいて、本丸と東曲輪、南西馬出曲輪が復元されており、平成28年(2016年)に小田城跡歴史ひろばとして公開された。本丸を囲む水堀は、14世紀頃は幅4m程度であったが、戦国時代末期の最終期には幅約20mから30m、深さが4mから5mに拡張された。本丸の周囲全体が格子状の障子堀であったようで、発掘調査により各所で障子堀が確認されている。堀底の障壁(畝)は1m以上の高さがあった。現在、堀は埋まっていた部分を除去して最終期を復元しているが、堀底は障壁を保護するために浅くしている。鎌倉時代から室町時代にかけて本丸に土塁はなかったが、最終期には幅10mから15mの土塁が構築された。土塁の高さは不明であるが、南東櫓台の脇では約3mの土塁が残っていた。現在は地面から2mの高さに復元している。本丸の南東隅には涼台(すずみだい)という小田城の象徴となる櫓台があり、北東隅には鐘楼台という丸みを帯びた櫓台がある。鐘楼台の上には鐘撞堂が建てられていたようである。曲輪内の遺構は約1mの盛土で保護し、発掘調査で確認された建物跡や池跡などをその真上に平面表示している。本丸跡の四阿(あずまや)は、発見された建物跡の柱位置や大きさをもとに建てたものである。庭園の池は東池と西池の2か所で、東池の池底には石を敷き、州浜(すはま)もあった。本丸内部は区画されており、北西部が城主の屋敷などがあった建物域である。本丸の建物など施設の配置が、足利将軍家の御所や管領邸に類似する格式高いものであった。小田城は戦闘よりも家の格式や伝統を重視しており、城よりも館の趣が強い。本丸の虎口は東・北・南西の3か所あった。本丸と東曲輪を結ぶ東虎口が小田氏時代の大手口と考えられ、大きな門の礎石が見つかっている。東堀の東橋は、最終期となる木橋と土橋状の張り出しの組合せで復元されている。それ以前は木橋であったが、2回以上造り替えられていた。北堀の北橋は、裾に石積みを使用した最終期の土橋で復元されているが、それ以前は木橋であった。北橋の先には丸馬出しがあった。南西虎口(臆病口)は戦国時代末期に新設されたもので、検出された低い石垣などをレプリカで再現している。南西虎口の構築にともない、西池が大幅に縮小されるなどの変更があった。この南西虎口の門は櫓門であった。南西虎口から南堀を経て約50m四方の南西馬出曲輪と木橋で繋がっていた。小田城の曲輪には、南館(みなみだて)、丹後屋敷、新左衛門屋敷、太郎左衛門邸、志田(信太)郭、田土部(たどべ)郭などがある。宝篋山の山中には小田城に関連する城跡として、前山城や舟ヶ城、古館が残されている。これらは、小田城の外郭の一部を形成する山城であるといい、小田城の最終期では、これら山城と長大な堀で囲む全長3km以上にもおよぶ外郭があったという説もある。

かつては筑波鉄道筑波線の線路が小田城本丸跡の南東部から北西隅にかけて斜めに貫通していた。小田城が国指定史跡となるのは昭和10年(1935年)のことであり、大正時代には中世城郭を保存しようという意識は低かった。昭和62年(1987年)筑波線は廃線となり、廃線敷を活用したサイクリングロードを整備する際、小田城本丸跡を避けるように本丸土塁外側の犬走りに沿って西に迂回するよう改められた。しかし、本丸北西隅の土塁の欠損はそのまま残され、本丸を見学する際の通路および土塁断面の遺構展示室として利用されている。なお、小田城跡歴史ひろば内の案内所は筑波線常陸小田駅の駅舎跡地であり、筑波線のホームは現存している。鎌倉時代の建久3年(1192年)小田城は小田氏の祖となる八田知家(はったともいえ)によって築かれた。知家は、下野国の名族・宇都宮家の2代当主・八田宗綱(むねつな)の次男で、治承4年(1180年)治承・寿永の乱にて源頼朝(よりとも)に従い、文治元年(1185年)初代の常陸守護に任じられて、常陸国の南半分を勢力下においた。知家の長男・知重(ともしげ)が小田城と常陸守護を引き継いでおり、この知重から小田姓を名乗っている。他説としては、4代・小田時知(ときとも)が小田城を築城したともいわれる。14世紀以降、常陸に進出する北条得宗家の勢力に圧迫され、小田氏の所領は縮小しており、守護職も正和4年(1315年)までに完全に失っている。元弘3年(1333年)鎌倉幕府滅亡時、7代・小田治久(はるひさ)は上洛して後醍醐天皇に仕えており、南北朝分裂時には南朝方に属した。延元3年(1338年)治久が南朝の参謀役だった北畠親房(きたばたけちかふさ)を小田城に迎え入れたことで、小田城は関東地方における南朝の一大拠点となる。北畠親房は小田城に在城しているときに『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』を執筆して、南朝の正統性を主張したことで知られている。北畠親房は小田城を拠点に南朝の勢力挽回を図った。しかし、延元4年(1339年)高師冬(こうのもろふゆ)率いる北朝の軍勢が、宝篋山の山頂にある宝篋城(つくば市小田)を本陣として小田城を攻撃、興国2年(1341年)小田治久は降伏開城しており、北畠親房は城を脱出して関城(筑西市関館)に逃れた。北朝方として活躍した8代・小田孝朝(たかとも)は旧領のほとんどを回復するが、元中4年(1387年)鎌倉府に反乱した小山若犬丸を匿ったため討伐を受け、その勢力は後退している。応永6年(1399年)小田氏は旧来の名族として、鎌倉公方を支える有力大名である関東八屋形に定められた。これは宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏の八家を指す。戦国時代になると、13代・小田治孝(はるたか)が弟の顕家(あきいえ)に殺されるという内訌を経て、小田氏中興の祖とされる14代・小田政治(まさはる)が再び領土を拡大させた。この政治が堀越公方・足利政知(まさとも)の四男という説に従うと、室町幕府11代将軍・足利義澄(よしずみ)の弟にあたる。小田顕家も追討されて当主不在になったため、小田家の養子に入ったという。天文17年(1548年)小田政治は57歳で死去、跡を継いだのは15代当主の小田氏治(うじはる)である。後に出家して天庵(てんあん)と号した。同姓(漢字違い)の第六天魔王・織田信長とは同い年であるが、こちらは果敢に戦いに挑むも連戦連敗という弱さで、生涯20回以上も負けたことから「戦国最弱の武将」と呼ばれている。また、本城の小田城は9回も落城しているが、その奪回に執念を燃やして8回も奪い返したことから「常陸の不死鳥」との異名を持つ。

氏治の初陣は、天文15年(1546年)の河越夜戦の敗戦で、とにかく合戦には弱い武将であるが家臣や領民からは慕われた人物であった。弘治2年(1556年)4月、氏治は海老ヶ島の戦い(第一次山王堂合戦)で、北条氏康(うじやす)から援軍を得た結城政勝(まさかつ)の大軍に敗れ、支城の海老ヶ島城(筑西市松原)だけでなく本城の小田城まで落とされてしまい、土浦城(土浦市中央)に落ち延びた。先祖伝来の本城を失うことは最大の恥辱である。しかし『結城政勝書状』に「小田氏治八月廿四日古地(小田城)へ被罷移候」とあるように、氏治は小田城をすぐに奪回している。弘治3年(1557年)佐竹義昭(よしあき)・多賀谷政経(たがやまさつね)との黒子の戦いで小田城は落城(2回目)、再び土浦城に敗走した。この時は、家臣の土浦城主・菅谷政貞(すげのやまささだ)が小田城を奪回してくれた。永禄3年(1560年)上杉謙信(けんしん)が関東に出兵すると、氏治など関東諸将は謙信に従った。謙信に味方した255名の武将を記した『関東幕注文』に「小田中務少輔(氏治)」の名がある。ところが、永禄5年(1562年)氏治は謙信から離反して北条氏康と結んでいる。これに激怒した謙信は、永禄7年(1564年)関東の有力大名に動員を発して小田氏の討伐に押し寄せるが、氏治はこれを単独で迎え撃っている。戦国最強の軍神・上杉謙信と戦国最弱の小田氏治の第二次山王堂合戦である。泥田を挟んでの激戦が展開し、菅谷政貞の嫡子・彦次郎政頼(まさより)は群がる敵中に斬り込んで討死している。氏治は小田城に退却する際、疲れている馬に水を飲ませていたところ、上杉軍に追い付かれて矢を射掛けられた。この矢は見事に氏治に命中するが、「札(さね)よき鎧」だったので裏まで貫通せず小田城に帰還した。小田軍は善戦するも小田城が炎上、1千余人の死者を出して4回目の落城を迎えた。この時、信太頼範(しだよりのり)が氏治を落として自害している。上杉側の記録には捕虜が2千人、溺死者や焼死者が多数出たとある。小田氏の家臣団は勇猛で忠義に厚く、「譜代の家人に覚の者多く、家名を保ち続けり」とあり、氏治を支え続けた。氏治は領民にも慕われており、小田城に入った新しい領主には年貢を渡さず、逃亡先の氏治に届けた。小田城の奪回戦には領民達も参加したと伝わる。この時、小田城の城代となったのは佐竹氏一門の佐竹北家4代当主・佐竹義斯(よしつな)であった。信太頼範の長男・掃部助範勝(のりかつ)は佐竹氏に降伏しており、その後は無二の忠臣を装うが、翌年に突然夜襲をかけて小田城を奪い返した。この計画は妻子にも知らせず、嫡子の喜八は父の夜襲と知らずに佐竹義斯のもとに駆けつけており、佐竹軍に捕らえられて処刑された。その後、小田城は佐竹軍に奪われるが(5回目)、佐竹義昭が没した混乱に乗じて回復する。しかし謙信は、喪が明けぬうちに攻めたことを不義と怒り、永禄9年(1566年)2月、再び上杉・佐竹連合軍が来襲すると、氏治は小田城から逃げ出して6回目の落城となった。同年5月、本領の武蔵国岩付を追われた太田資正(すけまさ)と次男の梶原政景(まさかげ)父子は、氏治の家臣・上曽氏俊(うわそうじとし)を介して小田家への仕官を望んだ。氏治は高名な太田父子を召し抱えることとし、それぞれ1千貫の知行を与えて、資正に片野城(石岡市根小屋)、政景に柿岡城(石岡市柿岡)を守備させた。ところが太田父子は、佐竹義重(よししげ)の誘いに応じて6月には佐竹氏の客将となっている。佐竹義重は家臣・真壁氏幹(ひさもと)の娘を政景に嫁がせ、資正の娘を義重の側室に迎えた。

佐竹氏は旧小田領の片野城と柿岡城に太田父子をそのまま配置して小田氏に備えた。永禄11年(1568年)氏治は結城晴朝(はるとも)を通じて上杉謙信に降伏、城を修復しないとの条件付きで小田城への復帰が許された。元亀4年(1573年)元旦に小田城は太田資正ら佐竹軍の奇襲に遭う。前夜の大晦日からの連歌会(酒宴)で油断していた小田勢は、為す術もなく城を追われた(8回目)。しかし、この時は落城からわずか3日後に支城の木田余城(土浦市木田余)で軍勢を整えるとすぐさま小田城を奪い返している。手這坂(てばいざか)の戦いは、永禄12年(1569年)とも、天正元年(1573年)ともいわれる。小田氏治は3千の軍勢を率いて、梶原政景が3百で守備する柿岡城の周辺を焼き払った。政景は佐竹義重に援軍を求め、太田資正の3百、真壁久幹の6百と合流すると、両軍は手這坂で対峙した。氏治は坂を駆け下りて優勢に戦うが、真壁勢が最新兵器の鉄砲30丁で応戦、根来法師大蔵坊(根来衆)の射撃により谷田部城主の岡見治資(はるすけ)が胸板を撃ち抜かれ即死した。鉄砲を初めて見た小田勢は驚き、総崩れとなって大敗を喫した。氏治は小田城に向け撤退したが、梶原政景が先回りして小田城を占拠しており(9回目)、土浦城に逃れるしかなかった。政景は小田城を陥落させた恩賞として小田城代となった。この政景によって伝統と格式の小田城は大規模改修され、戦闘本位の最新式城郭に造り替えられてしまった。小田城を奪われた氏治は、小田城奪回のために佐竹氏との戦いを繰り返すが、佐竹氏の攻勢に圧迫され続け、天正11年(1583年)ついに佐竹氏に降伏した。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、佐竹義重をはじめ関東の諸将は秀吉の命により小田原に参陣した。氏治は佐竹義重の不在を好機と捉え、手薄になった小田城を奪回するため佐竹氏に反旗を翻して、小田城外郭の南東にあたる樋ノ口表に布陣した。これに対し小田城からは梶原政景・太田資武(すけたけ)兄弟が迎え撃った。この樋ノ口の戦いで小田勢は優勢に戦いを進めて佐竹勢を撃破した。急報を受けた太田資正が片野城から駆け付け乱戦となるが、それでも小田勢は優勢で、佐竹勢は城内に逃げ込んだ。ところが、梶原政景が改修した小田城は堅固で攻略できなかった。氏治は北条氏政(うじまさ)に援軍を頼んだが、北条氏はそれどころではなく、秀吉の大軍を相手に籠城していたのである。同年7月に北条氏は滅亡した。時勢を読み誤った氏治は小田原に参陣せず、豊臣大名となった佐竹氏の小田城を攻撃した惣無事令違反のため、改易となり所領は没収された。関八州のほとんどは徳川家康の領地となるが、常陸国の大部分は佐竹義重に配分された。小田氏治は浅野長政(ながまさ)を介して秀吉に謝罪しており、家康の次男で結城氏に養子入りした秀康(ひでやす)の客分として300石が与えられ、小田家の存続が許された。氏治の娘が結城秀康の側室という縁もあった。小田城跡の北西にある龍勝寺(つくば市小田)の大門は、小田城の城門を移築したものである。梶原政景の時代に寄進された。慶長元年(1596年)小田城は梶原政景に代わって佐竹氏一門の佐竹西家7代当主・小場義成(おばよしなり)に5万石で与えられる。慶長5年(1600年)結城秀康が越前国北ノ庄68万石余に加増移封されると、小田氏治も従って越前国浅羽に移り、慶長6年(1601年)68歳で死去した。慶長7年(1602年)佐竹氏の出羽国秋田への転封に伴って小田城は廃城となった。元和2年(1616年)から元禄11年(1698年)まで旗本の横山氏3代が小田を知行して陣屋が置かれ、その後は土浦藩領となる。(2024.05.06)

小田城本丸内部と背後の宝篋山
小田城本丸内部と背後の宝篋山

本丸北東隅の鐘楼台(櫓台)
本丸北東隅の鐘楼台(櫓台)

本丸側から望む南西馬出曲輪
本丸側から望む南西馬出曲輪

龍勝寺に現存する小田城城門
龍勝寺に現存する小田城城門

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