飫肥城(おびじょう)

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伊東氏と島津豊州家が長期間にわたり攻防を繰り返した日明・琉球貿易の拠点

復元された櫓門型式の大手門
復元された櫓門型式の大手門

宮崎県の近世城郭としては、延岡城(延岡市)が石垣を多用した典型例である。それ以外の佐土原城(宮崎市佐土原町)や高鍋城(高鍋町)、そして飫肥城は、一部に石垣を用いて近世城郭に仕立てているが、実態としては中世城郭の一部を改修したものである。宮崎県南部に位置する日南市は、その大部分が山地で構成される。市域の北寄りを北西方向から南東方向に貫流する広渡川を境として、東半分には鵜戸山地が、西半分には日南山地が尾根を連ねている。飫肥城は、広渡川に合流する酒谷川が凹状に大きくうねる内側に位置し、東・西・南の三方を酒谷川の流れが囲む天然の要害であった。江戸時代は飫肥藩伊東家の藩庁として繁栄した。飫肥城は、飫肥市街北部の丘陵に幾つもの曲輪を並べた群郭式の平山城であった。東西約750m、南北約500mの城域に大小10以上の曲輪群からなる広大な城である。各曲輪はシラス台地を空堀で区切った壮大な規模で、中世における南九州型城郭の特徴がよく残っている。主郭部は、本丸(旧本丸)、松尾丸、中ノ丸(新本丸)、今城、犬ノ馬場(二曲輪)からなる。主郭部の北側には中世以来の旧式な曲輪が配置され、西ノ丸、小城、松ノ丸、中ノ城、北ノ丸、御倉、北宮、八幡城(二曲輪)などが存在した。主郭部の南側は三曲輪となる。新本丸(飫肥小学校グラウンド)が完成するまでは旧本丸に藩主の御殿があった。寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、貞享元年(1684年)の3度の大きな地震で旧本丸に地割れが発生、これを契機に中ノ城を大きく拡張して近世城郭としての体裁を整え、その新本丸に移転することとなった。新本丸に建てられた御殿は、元禄6年(1693年)に完成し、大書院、小書院、松ノ間、小座敷、大広間、舞台の間、後宮からなり、ここで藩政が執りおこなわれた。飫肥城に天守は造営されなかったが、新本丸には東南の隅櫓と東の隅櫓の2基の櫓が築かれた。絵図によると2層の櫓であった。東南の隅櫓の櫓台が現存しており、現在は釣鐘堂が建っている。飫肥城の大手門は明治時代初めに取り壊されたが、周辺の石垣遺構や主柱の根石などを検証して、昭和53年(1978年)に木造渡櫓2階建で復元された。搦手側の旧本丸北門(薬医門)も復元されている。松尾丸には、江戸時代初期の書院造りの御殿が想定復元されている。ここは飫肥藩の家老を務めた長倉家の屋敷があった場所である。建物内には、御座の間、御寝所、涼櫓(すずみやぐら)、茶室など20室以上の部屋がある。三曲輪の振徳堂(しんとくどう)は飫肥藩の藩校で、天保2年(1831年)13代藩主・伊東祐相(すけとも)によって創建された。2mを超える高い石垣に囲まれた広い敷地内に長屋門と主屋が保存されている。教授には安井滄洲(そうしゅう)・息軒(そっけん)父子が任じられ、小倉処平(しょへい)や小村寿太郎などの人物を輩出している。飫肥城の南側には城下町が、東西850m、南北900mの範囲で存在した。南北三街路、東西七街路で方形に区画されており、江戸時代始めの絵図に描かれた街路が現在もそのまま使用されている。飫肥城近くから上級家臣、中級家臣、町屋、下級家臣の屋敷地となっていた。飫肥藩役所の物産方の長倉が郷土料理屋として現存する。日南市飫肥地区は、中世以来の飫肥城を中心に発展してきた城下町で、古くは長谷場(はせば)氏と水間(みずま)氏、後に伊東氏と島津氏が利権を求めて争奪を繰り返してきた。飫肥城は、いつ築城されたのか明らかでない。宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神官出身で、日向の地で武士団として勢力を伸ばした土持氏が、南北朝時代に築城したのが始まりとも伝わるが確証はない。

古代の律令制導入後の飫肥は、承平年間(931-38年)の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』にある宮崎郡飫肥郷に属しており、飫肥郷の有力な集落であったと考えられる。平安時代末期になると、日向でも荘園公領制が発達しはじめ、日南市域は島津荘のうち北部が飫肥北郷、南部が飫肥南郷に属した。島津荘は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて拡大していき、薩摩・大隈・日向の3ヶ国にまたがる日本最南端で最大の荘園に発展した。しかし鎌倉時代になると、日向周辺は鎌倉幕府の強い影響下にあったことが知られており、文治元年(1185年)源頼朝(よりとも)の側近・惟宗忠久(これむねただひさ)が島津荘の下司職に補任されていたことが、建久8年(1197年)の『日向国建久図田帳』で分かる。この史料には、島津荘として飫肥北郷400町、飫肥南郷110町と記されている。惟宗忠久は島津左衛門尉と称し、薩摩島津氏の祖となる。頼朝による守護・地頭の設置に伴って、島津忠久は薩摩・大隅・日向の3ヶ国の守護と、島津荘の地頭に就くことになるが、頼朝没後の主権争いで比企能員(ひきよしかず)が北条氏に敗れると、その縁者であった忠久も任を解かれることになり、以後の日向守護は北条氏一族が就くことになった。そして、鎌倉時代末期になると諸県郡南郷の長谷場氏などが勢力を増してきた。建武3年(1336年)光明院(こうみょういん)と足利尊氏(たかうじ)はそれぞれが興福寺一乗院(奈良県奈良市)の覚実(かくじつ)に島津荘の領家職を安堵しており、同時に長谷場鶴一丸(つるいちまる)に対して島津荘の「日向方飫肥」の管理と武士の違乱の停止を命じている。もともと飫肥北郷の収納使・弁財使は水間栄証(えいしょう)・忠政(ただまさ)父子であったが、年貢を納めずに横領していた。このため、領家一乗院の政所は、康永3年(1344年)に水間氏の両職を解任し、長谷場鶴一丸を収納使・弁財使に任命した。さらに、一乗院給主である琳乗(りんじょう)も鶴一丸に両職を安堵している。この出来事を契機として、長谷場氏と水間氏の争いに展開していくことになる。貞和2年(1346年)水間父子が周辺の悪党を味方に加えて飫肥を私領とし、「城郭」を構えて狼藉を続けたとして、一乗院から室町幕府に水間氏の排除を願い出ている。これが飫肥に城が築かれたことを示す最も古い記述である。さらに、長谷場方では鶴一丸を中心に飫肥南郷に展開した一族の長谷場久純(ひさずみ)・実純(さねずみ)や野辺盛政(のべもりまさ)らによって一揆を形成して水間氏への包囲網とし、貞和5年(1349年)室町幕府は飫肥北郷の押妨を停止するよう足利一門の畠山直顕(ただあき)に命じている。一方、南北朝の争乱を機に室町幕府による日向支配は強化されており、14世紀初頭頃には幕府の重要拠点とされ、日向国守護職も足利一門で占められるようになった。そして、幕府の権力が飫肥地方にも浸透し、次第に一乗院の荘園領主としての権限が武家によって奪われていった。後に守護に就いた畠山直顕は、次第に日向での領国形成を強めるようになり、観応の擾乱期(1350-52年)には足利直義(ただよし)方の鎮西管領・足利直冬(ただふゆ)方に立って、将軍家直轄領である島津荘などに対して押妨・押領行為を広げ始めた。飫肥方面では、観応2年(1351年)に、足利尊氏方の所領である飫肥北郷300町の地頭職を足利直冬から木脇伊東祐胤(すけたね)に宛がっている。そして、文和4年(1355年)には、長谷場鶴一丸が実純に飫肥北郷山西弁分内の田10町を譲るなどしていたが、これを境に長谷場氏の動向は分からなくなる。

『延陵世鑑(えんりょうよかがみ)』には、康安2年(1362年)飫肥の城に兇徒が立て籠ったので、応安2年(1369年)土持豊前守頼宣(よりのぶ)が攻め落とすとある。この城や水間父子が構えた城郭が、飫肥城と同一であるか判断できないが、14世紀中頃には、飫肥地区に城郭が存在したことは確実である。享徳元年(1452年)薩摩・大隅・日向国守護職の島津宗家9代当主・忠国(ただくに)が島津豊州家初代当主の島津季久(すえひさ)に飫肥・櫛間を与えているので、飫肥城はそれ以前の築城と考えられる。応永4年(1397年)島津宗家6代当主・氏久(うじひさ)が伊東氏の清武城(宮崎市清武町)を攻撃した。これが伊東氏と島津氏との本格的な抗争の始まりとされ、以後、伊東氏と島津氏との争いは天正5年(1577年)まで180年間も続くこととなる。その間、伊東氏の飫肥城攻撃は、文明16年(1484年)から永禄11年(1568年)まで、大きく分けて9回おこなわれた。伊東氏が飫肥に執着した大きな理由は、飫肥が外ノ浦や油津などの天然の良港を持ち、日明貿易や琉球貿易の寄港地として栄えていたことが考えられる。伊東氏は、祐堯(すけたか)・祐国(すけくに)父子の頃から次第に強大になり、戦国大名・伊東氏の基礎がつくられた。これに対して島津氏は、長禄2年(1458年)島津季久を大隅帖佐(ちょうさ)城(鹿児島県姶良市)に移して、新納忠続(にいろただつぐ)を飫肥に配した。また、文明5年(1473年)伊作久逸(いさくひさとし)を櫛間に配して、共に伊東氏への備えとした。ところが、文明16年(1484年)飫肥城の新納忠続が島津宗家11代当主・忠昌(ただまさ)に請うて、櫛間の伊作久逸を他所に移そうとした。これに反発した久逸は、伊東祐堯や豊後大友氏に援軍を求めて飫肥城の忠続を討とうとし、南九州を巻き込む合戦にまで発展した。6代当主・伊東祐堯は伊作久逸の要望に応えて嫡男・祐国とともに出陣、飫肥城を攻撃している。これが第一飫肥役である。ところが、この陣中において祐堯は急死してしまった。翌文明17年(1485年)7代当主を継いだ伊東祐国は弟・祐邑(すけむら)とともに、再び飫肥攻めの陣を起こした。これに対して島津忠昌はみずから軍勢を率いて出陣、両軍は楠原で激突し、乱戦のなかで祐国は戦死しており、伊東軍は多数の戦死者を出して敗退した。これによって久逸は詫びを入れて降伏している。文明18年(1486年)伊東氏の本格侵攻を恐れた島津忠昌は、伊東氏への領土の割譲と戦の原因となった新納忠続を志布志に戻し、一方の当事者である伊作久逸も薩摩国伊作に戻して、飫肥と櫛間には島津豊州家2代当主の島津忠廉(ただかど)を配置した。伊東氏については、祐国の死後の家督相続をめぐって混乱が続き、日向南部への進出は中断していた。しかし、天文5年(1536年)祐国の孫にあたる伊東義祐(よしすけ)が11代当主になると、天文12年(1543年)より日向南部一円を領する島津豊州家と激しく衝突することになる。こうして伊東三位入道義祐による飫肥攻めの25年戦争が始まるが、島津豊州家は防戦に終始している。嫡子を失った豊州家4代当主・島津忠広(ただひろ)は、都之城(都城市)の北郷氏8代当主・忠相(ただすけ)に嫡子・忠親(ただちか)を養子に迎えたいと申し入れた。天文15年(1546年)北郷忠相は忠親の長男・時久(ときひさ)を跡継ぎとし、北郷忠親を豊州家の養子として送り出している。豊州家5代当主となった島津忠親は、永禄3年(1560年)島津宗家15代当主・貴久(たかひさ)の次男・島津義弘(よしひろ)を養子として飫肥城の守備を任せた。

永禄5年(1562年)島津宗家が飫肥から手を引いて義弘が飫肥城を去ると、伊東義祐は飫肥城を攻略、しかし半年程で豊州家が奪還するなど、一進一退の攻防が続いていた。永禄11年(1568年)飫肥城の攻略を目指す義祐は、総勢2万という大軍を率いて佐土原城を出陣、島津忠親の籠る飫肥城を包囲した。第九飫肥役である。伊東軍の猛攻に飫肥城内では兵糧が不足し始め、豊州家の軍勢7千に北郷時久の援軍6千を加えた1万3千の軍勢が酒谷城(日南市酒谷乙)から飫肥城の救援に向かった。これに対して伊東軍は、小越で島津軍を包囲して攻め掛かり、壊滅状態に陥った島津軍は酒谷方面へ敗走した。この小越の戦いの敗北により島津宗家は飫肥を放棄することを決定、島津忠親は都之城に逃れ、伊東氏は島津豊州家の勢力を日向南部から駆逐することに成功した。伊東義祐は、飫肥城に三男の伊東祐兵(すけたけ)を入れて支配を固め、日向国内に伊東四十八城(計5380町)を配置するなど最盛期を迎えた。元亀3年(1572年)伊東氏が木崎原の戦いで島津義弘に大敗すると、これを契機に伊東氏は勢力を失い、島津軍に追われて豊後に亡命する。飫肥も再び島津氏の支配下となり、上原長門守尚近(なおちか)が地頭として配置された。伊東氏の没落によって両者の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵が羽柴秀吉に仕え、秀吉の九州征伐で黒田官兵衛の軍に属して先導役を務めた功績により、再び飫肥の地を取り戻して大名として復活することになる。島津氏が秀吉に降伏すると、伊東祐兵には臼杵郡515町余と宮崎郡清武・諸県郡本庄1479町余、諸県郡八代30町の計2024町が与えられることになった。この頃、黒田官兵衛は秀吉から警戒されており、そのため大封を得られなかったともいう。しかし祐兵が飫肥を強く望んだため、旧領の飫肥・曽井・清武など宮崎・那珂両郡で計1736町に変更された。ところが、飫肥城を守備する上原長門守が城から退去せず、伊東氏の説得にも従わず戦闘におよんだ。この事件の報告を受けた豊臣秀吉は、土井九右衛門尉を上使として飫肥城に差し下した。九右衛門尉は豊臣家の朱印を持ち、騎乗のまま一の城戸を通り、二の城戸を通ろうとしたところ、飫肥城の門卒たちが無礼であると腹を立て、九右衛門尉の一行を惨殺した。上原長門守は門卒たちの悪行を聞いて驚愕した。上使を殺すという事は、上原長門守を殺すのと同じことであった。秀吉は激怒し、上原長門守を召喚した。悔やんだ上原は嫡子・城之介を名代として大坂に上らせ、この嫡子が上使を殺した罪により斬首となった。天正16年(1588年)閏5月3日、飫肥城は伊東氏に引き渡された。それから280年余、江戸時代を通して伊東氏が飫肥藩の藩主として14代に渡り治めることになる。当初、飫肥藩の領地石高は2万8千石であったが、飫肥藩は家格を上げるために検地を繰り返して、慶長10年(1605年)には5万7千石余を自力で捻出した。のちに分家に分知して5万1千石に定まる。藩政の初期は、島津氏との緊張関係により、清武、曽井、酒谷、南郷の4外城に譜代の重臣を地頭職として配置して藩境の備えとし、本城である飫肥城下には家臣団の主力を置いた。飫肥藩の家臣団は、伊東三家(左門家・主水家・図書家)である一門から給人、中小姓、歩行(かち)、外座間、土器(かわらけ)、足軽、小人(しょうにん)が士分格として構成される。一門から中小姓までは飫肥城下に集住しており、歩行から小人までの下級家臣は、藩境の警備も兼ねて藩内諸郷の各村に在住した。明治6年(1873年)飫肥城の建物は、大書院から櫓に至るまで全て取り壊されている。(2015.03.15)

犬馬場側からの新本丸の城壁
犬馬場側からの新本丸の城壁

現存する東南の隅櫓の櫓台
現存する東南の隅櫓の櫓台

三曲輪跡に残る藩校・振徳堂
三曲輪跡に残る藩校・振徳堂

活用される飫肥藩役所の長倉
活用される飫肥藩役所の長倉

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