延岡城(のべおかじょう)

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高橋元種が築城した千人殺しの石垣で知られる日向国最大の近世城郭

二ノ丸からの千人殺しの石垣
二ノ丸からの千人殺しの石垣

宮崎県の最北端、大分県に接して延岡市がある。東は日向灘に面し、その他は山に囲まれている。延岡市の中心部、五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた中州には、比高50mほどの独立丘陵である城山が存在し、ここに延岡城が築かれていた。延岡城は県内最大となる近世城郭であり、当初は縣(あがた)城と呼ばれていた。延岡城は、大きく本城と西ノ丸から構成され、天守台、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなる本城と、西方の少し離れた高台に藩主の居館である西ノ丸を設けていた。本城は現在の城山公園にあたり、西ノ丸は内藤記念館と亀井神社(延岡市天神小路)にあたる。城山の山頂部が天守台と呼ばれる曲輪で、そこから西側に向かって本丸、二ノ丸が形成されている。天守台は長軸が50m程ある楕円形の曲輪で、天守台としては大きく、いわゆる天守曲輪であったと考えられる。ここに天守が建てられていたかは不明で、一説に5層天守があったというが、存在しなかった可能性の方が高いという。この天守台には枡形状の虎口の跡が残されている。天守台にある鐘楼は「城山の鐘」として有名である。これは国内唯一の手突きの時報鐘として、鐘守が毎日6回の時刻を告げている。明治10年(1877年)それまで使われた天守台の太鼓櫓が西南戦争で焼けてしまったので、今山八幡宮(延岡市山下町)の梵鐘を城山に運び、明治11年(1878年)から太鼓に代わって時を刻んでいる。この鐘の様子を、歌人の若山牧水(ぼくすい)が「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ、をさなかりし日聞きしごとくに」と詠み、その歌碑が城山に残る。初代の鐘は昼夜を問わず1時間ごとに撞き、昭和38年(1963年)音色が悪くなり引退、現在は2代目となる。初代「城山の鐘」は、内藤記念館に展示されている。天守台の北東側下の本丸帯郭には、後に天守代用の三階櫓が築かれ、櫓台の石垣が現存する。本丸の南西側には正門となる二階門櫓が築かれており、現在は枡形を形成する石垣が残る。延岡城の最大の見どころは、二ノ丸にそびえる「千人殺し」の石垣である。高さ22m、総延長70mもある高石垣で、基底部の特定の石を外すと石垣が一気に崩れ落ち、一度に千人の敵兵を殺せる仕掛けと伝えられる。千人殺しの石垣の前面の虎口には、北大手門が発掘調査や絵図等をもとに復元されている。大手口となる北大手門に対して、搦手口に相当する石御門跡が三ノ丸の脇に存在する。そして北大手門のすぐ脇には、旧藩主内藤家の墓所がある。西ノ丸の御殿は、廃城後に内藤記念館として利用されたが、昭和20年(1945年)太平洋戦争の空襲によって焼失した。城下町は西側の低地部に発展していたと考えられる。延岡城の西側には多くの石垣が築かれており、千人殺しの石垣を含め、城下からの眺めを意識しているようである。延岡の地は、古くは臼杵(うすき)郡の縣といい、県や吾田、英多、安賀多とも書いた。もともと縣は、古代氏族の田部(たべ)氏から分かれた土持(つちもち)氏が支配していた。鎌倉時代初期の『日向国図田帳』によると、建久8年(1197年)臼杵郡には、浮目(うきめ)、田貫田(たぬきだ)、富田(とんだ)、塩見、富高、岡富、縣、大貫、伊富形(いがだ)、新名(にいな)といった荘園が存在した。このうち、浮目・大貫・伊富形・新名荘は島津領だが、他は全て宇佐宮領であり、臼杵郡の耕地面積(490町)のうち7割にあたる340町が宇佐宮領であった。田部氏は、宇佐氏、大神氏、漆間氏に次ぐ宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の有力な神官の家柄であった。欽明天皇31年(570年)宇佐八幡宮を造営する際、田部氏が運んだ土が崩れなかったので、欽明帝より「土持」姓を賜ったと伝わる。

土持氏は、宇佐八幡宮の日向進出によって、宇佐宮領の荘園管理のために派遣されたとみられる。そして、日向における荘園領主として勢力を築き、荘園の周辺にも勢力を拡大していった。土持氏が確実に臼杵郡に入部するのは、臼杵荘司・臼杵郡司であったとされる土持信村(のぶむら)からで、平安時代後期の11世紀末から12世紀初め頃と考えられる。その3代あとの宣綱(のぶつな)が土持氏興隆の祖というべき人物で、12世紀後半から13世紀初めにかけて、ちょうど鎌倉幕府が成立する頃に活躍している。『日下部氏系図』によると、文治3年(1187年)宣綱は養子縁組によって、奈良時代以来の名族である日下部盛平(くさかべもりひら)から、日向の在国司職など一切を譲与されている。国司職を代行する日下部氏の権益全てを獲得することにより日向全域に勢力を伸ばし、日向最大の荘園である島津荘(3837町)に次ぐ、1436町を支配する日向第2の勢力となった。その後、土持宣綱の子孫が各地に展開し、縣、財部(たからべ)、大塚、清水(きよみず)、都於郡(とのこおり)、瓜生野(うりゅうの)、飫肥(おび)で勢力を持ち、土持七頭(ななかしら)と呼ばれた。宣綱の子の通綱(みちつな)が縣土持氏の祖となり、そこから大塚土持氏、清水土持氏などが派生している。しかし、14世紀半ばから15世紀半ばにかけて、各地の土持氏は都於郡城(西都市)の伊東氏や島津氏に吸収されていった。こうして日向全域で勢力を伸ばしていた土持七頭は、現在の延岡市付近を本拠とする縣土持氏と、高鍋町付近を本拠とする財部土持氏が残り、日向北部に土持氏、中央部を伊東氏、南部に島津氏が割拠した。文安3年(1446年)縣土持氏は、伊東氏に備えて西階(にししな)城(延岡市西階町)から松尾城(延岡市松山町)に居城を移している。松尾城は縣城ともいった。また、現在の延岡城の地には、縣土持氏の別の城館があったと考えられている。康正2年(1456年)縣土持氏と財部土持氏は、小浪川の合戦にて伊東祐堯(すけたか)と戦闘におよぶが敗北、この合戦で財部土持氏は没落している。その後、伊東氏の勢力は門川まで北上し、縣土持氏と伊東氏は門川・日知屋をめぐる争奪戦を繰り返すことになる。天正5年(1577年)伊東義祐(よしすけ)が島津氏に南から攻められると、土持氏は北から伊東氏への攻撃を強めたため、義祐は日向を逃れて豊後大友氏のもとに亡命した。この頃になると、南九州を支配する島津氏と、北九州を支配する大友氏が九州の覇権をかけて争うようになり、両者に挟まれた土持氏はそれぞれに誼を通じている。天正6年(1578年)大友宗麟(そうりん)は土持攻めを決し、嫡子の義統(よしむね)を総大将に3万とも4万ともいわれる大軍を率いて日向への遠征をおこなった。当主の土持親成(ちかしげ)は、居城を捨て高城(木城町)の島津氏に合流する選択肢もあったが、1千余の城兵とともに松尾城に籠城した。養子の高信(たかのぶ)に松尾城を守らせると、親成はわずかな兵を率いて近くの行縢山(むかばきやま)に陣取り、大友軍を迎え撃った。しかし、衆寡敵せず松尾城は落城しており、親成は捕らえられて処刑、縣は大友領となった。記録には「天正六年卯月十日(4月10日)、土持要害松尾落去之刻」とある。この戦闘において、キリスト教による理想国建設を目指していた大友軍は、縣領内の神社仏閣をことごとく焼き払った。このため宮崎県北部地域の中世以前の一次史料はほとんどが失われている。9月6日、大友宗麟はイエズス会宣教師らを連れて海路で縣に入り、務志賀(延岡市無鹿町)に仮の司祭館と教会を建ててミサをおこなった。

しかし、11月9日から12日にかけての高城川原の戦い、いわゆる耳川の戦いで、大友軍は島津軍に大敗して豊後に潰走した。11月14日、縣土持氏は島津氏に被官し、縣は島津領となっている。こうして、天正7年(1579年)島津義久(よしひさ)配下の縣地頭として、土持高信が松尾城に在城した。天正12年(1584年)高信は、島津義久から「久」の字を賜り、久綱(ひさつな)と改名している。劣勢となった大友宗麟は豊臣秀吉に救援を求め、天正14年(1586年)8月より秀吉の九州征伐が始まった。10月の島津氏の豊後侵攻戦において、島津家久(いえひさ)を総大将とした日向口の1万余の軍勢の侍大将のひとりとして土持久綱の名が記されている。ところが、天正15年(1587年)秀吉の弟・秀長(ひでなが)を総大将とする日向方面軍が圧倒的な物量と人員で進軍した。須佐神社(延岡市須佐町)の「伝豊臣秀吉陣跡」は、この時の秀長に関連する臨時の陣跡と考えられる。島津領北方の最前戦として重要な位置にあった土持久綱の松尾城は、蜂須賀家政(いえまさ)、毛利輝元(てるもと)、吉川元長(もとなが)、小早川隆景(たかかげ)、黒田孝高(よしたか)など総勢9万の大軍に包囲された。この戦いに敗れた久綱は、島津家久を頼って佐土原に去った。天正16年(1588年)秀吉は島津征伐に従った功績で、豊前香春岳(かわらだけ)城(福岡県田川郡香春町)から17歳の高橋元種(もとたね)を縣に封じている。元種は、元亀2年(1571年)筑前の戦国大名・秋月種実(あきづきたねざね)の次男として生まれ、天正6年(1578年)大友氏の家臣から島津方に裏切った高橋鑑種(あきたね)の養子となる。天正15年(1587年)九州征伐にて秀吉に降伏し、肥後方面軍の一番隊の将として従軍、この功により松尾・門川・塩見・日知屋・宮崎の5城を与えられ、松尾城を居城とする5万3千石の領主となった。また、兄の秋月種長(たねなが)は財部(高鍋)と串間を与えられ3万石の領主となっている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、高橋元種は秋月種長と行動を共にしており、美濃大垣城(岐阜県大垣市)に籠城した。関ヶ原本戦で西軍が敗れると、東軍の水野勝成(かつなり)の勧めで兄とともに東軍に内応、同じく籠城していた相良頼房(よりふさ)を誘って、熊谷直盛(なおもり)、垣見一直(かきみかずなお)、木村由信(よしのぶ)・豊統(とよむね)父子らを城中で殺害した。そして、大垣城の守将・福原長堯(ながたか)を降伏させ、徳川家康から所領を安堵されている。慶長6年(1601年)から2年余の歳月をかけて縣城を築城し、松尾城から居城を移した。『慶長日向国絵図』の縣城には、3層の建築物や複数の櫓建築などが描かれており、数少ない高橋氏時代の史料となっている。縣藩が成立すると、縣城はその政庁として機能した。その後、縣藩に罪人が逃れてくる出来事が2度あった。猪熊事件と水間勘兵衛事件であるが、これが原因で高橋氏は改易になってしまう。最初の事件は、慶長12年(1607年)宮廷にて、左近衛少将猪熊教利(のりとし)を筆頭とする公家らと、宮中の女官らによる複数人の乱交が露顕し、激怒した後陽成天皇は処分を徳川家康に一任した。猪熊少将は行方をくらまし、幕府が諸藩に命じて指名手配している。慶長14年(1609年)猪熊少将は縣藩の領内で捕らえられて京都で処刑された。一説によると、猪熊少将は現在の延岡市北方町八峡に隠れていたが、供の阿少という者が猪熊に不平を持ち、領主である高橋家に訴え出たので、中村太郎右衛門を遣わし逮捕したという。

次の事件は、石見国津和野藩主の坂崎直盛(なおもり)の甥に水間勘兵衛という者がおり、殺人を犯して逃亡した。勘兵衛は縁者である伊予国宇和島藩の富田信高(のぶたか)を頼った。しかし勘兵衛は幕府から手配される罪人なので、信高も長くは隠しておけず、肥後国熊本藩の加藤清正(きよまさ)の所に送って庇護を依頼した。ところが、清正も危険を感じて、そのまま隣国の高橋元種に送った。元種の妻は坂崎直盛の妹であり、富田信高の妻も直盛の妹で、元種の妻の姉にあたる。従って、坂崎直盛、富田信高、高橋元種は義兄弟であり、水間勘兵衛はその甥ということになる。元種は快く引き受けて、勘兵衛を高千穂に匿った。古文書よると、その隠れ家は鞍岡の原小野(はるおの)にあったとされる。しかし、勘兵衛は短気者であり、身の回りの世話のために付けてあった下男を斬り殺してしまった。下男の息子は恨み、石見国津和野まで行って坂崎直盛に訴え出た。坂崎氏は直ちに幕府に報告、幕府は縣藩に対して勘兵衛を捕縛して差し出すよう命じた。この水間勘兵衛事件に関わった高橋元種、富田信高は、慶長18年(1613年)罪人を匿った罪により改易、所領は没収されてしまう。一方、この事件は表向きの理由であり、本当の改易の原因は、慶長18年(1613年)の大久保長安事件にあったとする説もある。元種は嫡子・左京とともに陸奥国棚倉藩の立花宗茂(むねしげ)に預けられるが、翌年44歳で死去した。慶長18年(1613年)12月から慶長19年(1614年)7月までの間、縣城は幕府預かりとなり、幕府上使の豊後国臼杵藩稲葉氏と肥前国人吉藩相良氏の管理下に置かれた。その後、慶長19年(1614年)7月、肥前国日野江(ひのえ)藩より有馬直純(なおずみ)が5万3千石で入封した。元和2年(1616年)直純の嫡子は、駿河駿府城(静岡県静岡市)で徳川家康に謁見、母の国姫が家康の曾孫であったことから「康」の偏諱を賜り、蔵人康純(やすずみ)と称した。寛永18年(1641年)父の死去により家督を継ぎ、承応元年(1652年)から明暦元年(1655年)にかけて縣城を大修築し、天守代用の三階櫓、二階門櫓などが造営され、それに伴って近世城下町としての町割りが整備された。明暦2年(1656年)有馬康純は縣城の完成を記念して今山八幡宮に梵鐘を奉納、これが内藤記念館にある初代「城山の鐘」で、そこに記された「日州延岡城主有馬左衛門佐従五位藤原朝臣康純」が延岡の地名の初見である。実はこの鐘は2つ造られており、光勝寺(延岡市中央通)にも奉納された。延岡城の象徴であった三階櫓は、天和3年(1683年)に焼失してしまい、その後再建されることはなかった。有馬氏は、3代清純(きよすみ)の代で悪政を敷き、元禄3年(1690年)領内で1500人の百姓が逃散するという山陰(やまげ)・坪谷村(つぼやむら)一揆が起こり、元禄4年(1691年)その責任を問われて越後国糸魚川藩に左遷、無城大名に格下げとなった。元禄5年(1692年)下野国壬生藩から三浦明敬(あきひろ)が2万3千石で入封し、この頃から延岡という藩名が多く使用されるようになる。正徳2年(1712年)明敬が三河国刈谷藩に移封になると、三河国吉田藩から牧野成央(なりなか)が8万石で入封、延享4年(1747年)2代貞通(さだみち)のとき常陸国笠間藩に移封となった。同年、陸奥国磐城平藩から内藤政樹(まさき)が7万石で入封、内藤氏は8代続いて明治維新を迎えた。明治10年(1877年)西南戦争において、薩摩軍は延岡で武器・弾薬を製造するために金属類を供出させており、光勝寺の鐘は持っていかれた。一方、今山八幡宮の鐘は今山の谷に落とし、そこに隠して難を逃れている。(2015.03.13)

天守台にある枡形状の虎口跡
天守台にある枡形状の虎口跡

天守代用となる三階櫓の櫓台
天守代用となる三階櫓の櫓台

忠実に復元された北大手門
忠実に復元された北大手門

御殿があった西ノ丸跡の塁壁
御殿があった西ノ丸跡の塁壁

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