西尾城(にしおじょう)

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全国的に珍しい二之丸に天守が存在した城

三層三階の丑寅櫓
三層三階の丑寅櫓

西尾城は矢作川南岸の台地に本丸を構え、その四隅に櫓を配し、本丸の北側に二之丸を設けていた。二之丸の北西隅に三層四階の天守が築かれ、全国の近世城郭のなかでも珍しく天守が本丸ではなく二之丸に建てられいた。また、城下町の外周を土塁や堀で囲む「惣構え」の設計であった。現在の西尾神社のあたりが本丸跡で、西尾城の城址碑が立ち、本丸隅櫓のうち一番高かった三層三階の丑寅櫓(うしとらやぐら)が復元されている。また本丸跡には野面積みの石垣の一部や堀、土塁などが残っている。二之丸跡は錦城体育館や庭園となり、鍮石門(ちゅうじゃくもん)という櫓門が再建されている。鍮石門は二之丸御殿に至る表門で、門扉に真鍮を用いたことから、鍮石門という名が付いたと言われる。他にも発掘調査によって丸馬出の存在が明らかになっている。西尾小学校が東之丸跡、西尾市資料館が姫丸跡である。

西尾市域は、古くは吉良庄西条と呼ばれ、平安時代末期には皇嘉門院(こうかもんいん)領であった。貞応元年(1222年)鎌倉幕府の有力御家人であった足利義氏(よしうじ)は、承久の乱の戦功により三河国守護職を任ぜられる。義氏は、吉良庄西条に西条城(のちの西尾城)を築いて長男の長氏(ながうじ)を、吉良庄東条に東条城(西尾市吉良町)を築いて三男の義継(よしつぐ)を配置し、次男の泰氏(やすうじ)には下野国足利庄で足利氏を継がせた。この長氏の系統が西条吉良氏の祖となり、長氏の次男である国氏(くにうじ)が今川氏の祖となった。現在、西尾城の本丸跡にある御剱八幡宮は、義氏が西条城の城内鎮護のために八幡社を遷座したもので、源氏相伝の宝刀「髭切丸(ひげきりまる)」を奉納したことから御剱八幡宮と名付けられたという。西尾城の西方には吉良長氏が隠居したと伝えられる丸山御所(西尾市上町)や屋敷地名が多く存在(堀ノ内屋敷、横町屋敷、善兵衛屋敷等)すること、また西尾城には「松山越し」といわれる移転の伝説もあることから、初期の西条城は現在の場所よりも西方にあった可能性もある。いずれにせよ、西条城は名族吉良氏の居城として戦国時代まで続いた。

戦国時代になると、吉良氏は三河に進出してきた駿河の今川氏に属し、永禄3年(1560年)西条城には今川氏より派遣された牧野成定(なりさだ)が城主として入城する。ところが同年、桶狭間の合戦において今川義元(よしもと)が織田信長に討ち取られると、松平元康(のちの徳川家康)が自立して、三河の平定を開始した。永禄4年(1561年)松平氏の家老であった酒井雅楽助正親(まさちか)は、西条城を攻めて牧野成定を降伏させ、その後の東条城主吉良義昭(よしあき)との藤波畷の戦いなどの戦功により、元康から西条城を賜わり、これを西尾城と改めた。酒井正親は元康の直臣で最初の城主ということになり、その後も三河一向一揆平定、遠江掛川城攻め、三方ヶ原の戦い等に軍功があった。天正4年(1576年)酒井正親が死去すると、嫡男の重忠(しげただ)が跡を継ぐ。『家忠日記』によると、天正13年(1585年)羽柴秀吉との決戦に備えた徳川家康は、諸将に命じて酒井重忠が城主を務める西尾城の大改修をおこなったとあり、実際に西尾城には天正期の改修と思われる遺構が確認されている。近くの刈谷城(刈谷市)が亀城と呼ばれていたことから、鶴亀の縁起によって、西尾城は鶴城とも呼ばれた。

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封にともない、西尾城主酒井重忠も武蔵国川越に移り、代わって豊臣秀吉の武将である田中吉政(よしまさ)が岡崎城(岡崎市)に10万石で入封し、西尾城はその支城となった。吉政は三之丸を拡張して、本丸の三層天守を二之丸に移築、櫓門などを増築するなどの改修をおこなった。慶長5年(1600年)田中吉政が関ヶ原合戦の戦功により筑後国柳川に32万5千石で移ると、慶長6年(1601年)本多康俊(やすとし)が西尾2万石の城主として入封した。その後の城主は、松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と、譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明和元年(1764年)出羽国山形から6万石で大給松平乗祐(のりすけ)が入封すると、西尾城は大給松平氏5代の居城として明治維新まで続いた。明治の廃藩置県では、天守をはじめ、隅櫓などは櫓台とともに破壊されたが、本丸丑寅櫓の櫓台だけは城内の御剱八幡宮境内であったためか残され、平成8年(1996年)その櫓台の上に三層の丑寅櫓が木造で再建された。(2006.08.20)

二之丸鍮石門
二之丸鍮石門

二之丸の丸馬出跡
二之丸の丸馬出跡

姫丸辰巳櫓台跡
姫丸辰巳櫓台跡

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