二条古城(にじょうこじょう)

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織田信長が室町幕府15代将軍である足利義昭のため京都御所西側に築いた城館

城跡に立つ二条古城の城址碑
城跡に立つ二条古城の城址碑

かつて、京都御所の西側、現在の平安女学院大学の一帯には、織田信長が築いた二条城が存在した。その範囲は、北側が出水通、南側が丸太町通付近、西側が新町通付近、東側が烏丸通あるいは東洞院通付近(現在の京都御苑の中)までと推定されている。平安女学院大学の敷地の一角には、「旧二條城跡」と彫られた小さな石碑が建てられている。歴史的にみて二条城はいくつもあった。当時の二条通は都でいちばん大きな通りであり、足利尊氏(たかうじ)から義満(よしみつ)まで、3代の将軍が二条に屋敷を構えたため、足利将軍家の屋敷を「二条陣」または「二条城」ともいった。その後、二条通に面していなくても将軍家の屋敷を二条陣または二条城と呼ぶようになった。主な二条城の1つ目は、永禄2年(1559年)室町幕府の13代将軍である足利義輝(よしてる)が造営した二条御所(武衛陣)である。この場所は、応仁の乱で焼失した斯波武衛家邸の跡地で、室町幕府の政庁として機能した。2つ目は、永禄12年(1569年)15代将軍である足利義昭(よしあき)の居所として信長が築いた二条城である。足利義輝の二条御所と同じ場所であるが、大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観であった。3つ目は、天正5年(1577年)信長の在京屋敷として築いた二条御新造(京都市中京区二条殿町)で、これは誠仁(さねひと)親王に献じて二条御所と称された。4つ目は、慶長7年(1602年)徳川家康が築いた現在に残る二条城(京都市中京区二条城町)である。このため、混同を避けるために、織田信長が築いた二条城を二条古城や旧二条城として区別している。昭和50年(1975年)から昭和53年(1978年)まで、京都市営地下鉄烏丸線の建設工事にともなう烏丸通の発掘調査が行われ、出水通、下立売通、椹木町通、丸太町通付近の4箇所で堀をともなう東西方向の石垣が見つかった。このことによって、織田信長が築いた二条古城は3重の堀に囲まれた立派な城郭であったことが判明している。発掘された石垣の石材には、河原石など自然石の他に、石仏、五輪塔などの供養塔、礎石等が転用されていた。これらの石仏の中には、歴史的に貴重な仏像もあったという。イエズス会宣教師のルイス・フロイスが著した『日本史』の中にも「信長は多数の石像を倒し、頸に縄をつけて工事場に引かしめた、都の住民はこれらの偶像を畏敬していたので、それは彼らに驚嘆と恐怖を生ぜしめた」とあり、洛中・洛外の石仏、五輪塔、庭石、石灯籠等を集めて石材として石垣に積み込んだといい、それを裏付ける発掘結果であった。また、この石垣には「犬走り」というテラス状の防御施設をともなっており、石垣の周囲には犬走りが巡っていたことも分かった。堀を埋め立てた土からは多くの陶磁器や瓦が出土しているが、その中には刀で打ち落とされた頭蓋骨も含まれていた。ルイス・フロイスはたびたび二条古城の築城現場を訪れており、その記録によると、築城工事には日々1万5千人から2万5千人の人役が従事し、居館となる建築物は法華宗本山であった本圀寺の荘厳・華麗なものを選んで解体し、調度品とともに運んで再建したとある。この二条古城は急ごしらえにしては四方に石垣を高く築き、内装には金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと記されている。この石垣に転用されていた石仏群が、西京区の洛西竹林公園に安置されている。また、発掘された石垣の一部が京都御苑の椹木口(さわらぎぐち)付近、および現在の二条城内に復元展示されている。特に二条城内に展示されている遺構からは、犬走りをはさんで石垣が上下二段に分れている様子がよく確認できる。

永禄8年(1565年)三好三人衆と松永久秀(ひさひで)の襲撃により、室町幕府13代将軍の足利義輝が二条御所で討ち取られるという事件が起きた。義輝は剣豪として知られており、このときも足利家秘蔵の刀剣を畳に複数本刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて多くの敵兵を切り伏せた。しかし、最後は畳を盾とした敵兵が四方から同時に突きかかり、衆寡敵せず殺されている。辞世の句は「五月雨は露か涙か時鳥(ほとどきす)、わが名をあげよ雲の上まで」である。この永禄の変では、義輝の弟で相国寺鹿苑院(京都市上京区相国寺門前町)の院主である周ロ(しゅうこう)も殺害され、もう1人の弟で興福寺一乗院(奈良県奈良市登大路町)の門跡である覚慶(かくけい)は興福寺に幽閉された。しかし、2か月後に幕臣の一色藤長(ふじなが)、細川藤孝(ふじたか)らの手引きにより脱出、約3年間にわたる漂流生活が始まった。永禄9年(1566年)覚慶は還俗して足利義秋(よしあき)と名乗り、近江国野洲郡矢島に仮御所を構えた。一時は近江国の六角義治(よしはる)を頼ろうとしたが、三好三人衆と通じていることを察知すると、若狭国の武田義統(よしずみ)を頼り、次に越前国の朝倉義景(よしかげ)を頼った。越前で元服して義昭と改めるが、義景に上洛の意志がないことが分かると、尾張国の織田信長を頼った。この時、義昭側の仲介役を務めたのが明智光秀(みつひで)である。信長は越前にいた義昭を美濃の立政寺(岐阜県岐阜市)に迎え入れ、義昭のための上洛準備をおこない、ついに「天下布武」に向けて動き出した。永禄11年(1568年)9月7日、信長は6万の上洛軍を率いて岐阜を発ち、美濃国不破郡平尾(岐阜県不破郡垂井町)に着陣した。翌8日には近江国に入り、犬上郡高宮(滋賀県彦根市高宮町)に陣を敷いている。ここに2日間滞在して、軍勢を整えて近江攻略作戦を開始、11日に愛知川近辺まで進出して野陣を張った。そして、六角承禎(しょうてい)・義治父子が立て籠もる主城の観音寺山と、支城の箕作山に主力を集中させることとし、12日に佐久間信盛(のぶもり)、丹羽長秀(ながひで)、木下藤吉郎らが向かった近江箕作山城(滋賀県東近江市五個荘山本町)は、夕方から夜にかけての猛攻で陥落、その夜のうちに信長は箕作山城に入った。翌日は夜明けとともに近江観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)に攻め上る予定であったが、六角承禎・義治父子が城を捨てて逃げ出し、残党は降伏して無血開城、岐阜を発してからわずか7日間で近江国を制圧するという迅速さであった。織田軍の勢いは緩まらず、22日に桑実寺(滋賀県近江八幡市安土町)、24日に野洲郡守山(滋賀県守山市)、25日に栗太郡志那(滋賀県草津市)と進軍し、ここで船待ちして、26日に琵琶湖を渡り三井寺(滋賀県大津市園城寺町)の極楽院に陣を構え、大津周辺に兵を展開させた。28日には入京して東福寺(京都市東山区)に着陣し、柴田勝家(かついえ)、蜂屋頼隆(よりたか)、森可成(よしなり)らに三好勢の拠点である勝竜寺城(長岡京市)攻めを命じた。城将の岩成友通(ともみち)は耐えきれず、29日に降伏している。30日には乙訓郡山崎(乙訓郡大山崎町)に着陣、この怒涛の進撃に、摂津芥川城(大阪府高槻市)、摂津越水城(兵庫県西宮市)、摂津滝山城(兵庫県神戸市)を守る三好勢は戦わずに退散した。10月2日に摂津池田城(大阪府池田市)を攻撃、城将の池田勝正(かつまさ)は善戦するが、ついに降伏した。そして、ここが最後の激戦地となった。こうして五畿内(大和・山城・河内・和泉・摂津)とその周辺は、信長の勢力圏に収められている。

足利義昭は10月18日に征夷大将軍に就任し、室町幕府15代将軍となった。戦後処理を終えた信長は、10月24日に帰国の途につくことを報告すると、義昭は謝意を込めた感状を贈っている。「今度国々の凶徒等、日を歴(へ)ず時を移さず悉(ことごと)く退治せしむるの条、武勇天下第一なり、当家の再興これに過ぐべからず、弥(いよいよ)国家の安治偏(ひとえ)に憑入(たのみい)るのほか他なし、なお藤孝・惟政(これまさ)申すべきなり」とあり、さらに「今度の大忠により、紋桐・引両筋遣わし候、武功の力を受くべき祝儀なり」と追加している。これら感状の宛名には「御父織田弾正忠殿」とあり、3歳年上の信長に対して「御父」と奉っている。当初、義昭は本圀寺(京都市下京区)を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)信長の不在を突いて三好三人衆が本圀寺を包囲、明智光秀を筆頭に近江・若狭国衆の奮戦によって防ぎ、翌日には細川藤孝、三好義継(よしつぐ)、摂津国衆の伊丹親興(ちかおき)、池田勝正、荒木村重(むらしげ)らの援軍が到着して、三好三人衆を撃退している。急報に接し岐阜から救援に駆けつけた信長は、これを教訓として防備の整った城館の必要性を認識し、義昭のために二条古城の築城に着手した。足利義輝の二条御所跡を中心に拡張して、約400m四方の敷地に3重の堀や3層の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。信長は築城現場で指揮にあたり、周辺の寺院等の堂宇を壊して建築資材として利用し、御殿などの建築を統括する大工奉行に村井貞勝(さだかつ)と島田秀満(ひでみつ)を任じた。『信長公記』には、このとき東山殿(慈照寺銀閣)にある九山八海の名石をはじめ、洛中・洛外より庭を形づくる銘木・名石を集めさせたとある。そして、幕臣の細川藤賢(ふじかた)の屋敷の庭にあった「藤戸石」を、3千人の人夫を使って、笛や太鼓で囃しながら搬入した。この石を運ぶ作業の指揮は信長が自らおこなっている。ちなみに藤戸石は源平藤戸合戦に由来する名石で、次の天下人である豊臣秀吉が聚楽第(京都市上京区多門町)の庭に移し、現在は醍醐寺三宝院庭園(京都市伏見区)でその存在感を示している。『言継卿記』によると、二条古城の築城は70日あまりという短期間で一応の完成をみており、本圀寺の変が発生した年の4月には義昭の本拠を二条古城に移している。発掘調査により、二条古城は南北約390m、堀幅16.7m、石垣の高さ3.8mで、周囲を堀と石垣で囲んでいたことが分かっている。周辺からは金箔瓦も発掘されており、将軍の居所であり室町幕府の政庁として、豪壮な殿舎であったと考えられる。二条古城は二条新第ともいい、烏丸中御門第(からすまなかみかどてい)ともいう。これに入城した義昭は、山科言継(やましなときつぐ)、烏丸光康(からすまみつやす)、烏丸光宣(みつのぶ)、久我入道(くがにゅうどう)を呼んで、南櫓で納涼の宴を張ったという。このことから、南櫓は望楼式の天守様式の建築だったことが判る。このほか、南御門の櫓、西の門の櫓、東のダシ、巽のダシなどの存在、堀は3重で、濠には桔橋(はねばし)が3ヶ所あり、門は細工を凝らした建築だったと伝わる。将軍の義昭は、信長を和泉国守護職に、池田勝正を摂津国守護職に、畠山高政(たかまさ)と三好義継をそれぞれ河内半国の守護職に任じた。さらに義昭は信長懐柔のため、朝廷を介して信長を副将軍とし権力を掌握しようとしたが、信長はこれを辞退、官位昇進も辞退した。逆に信長は将軍の後見人として権勢を振るい、義昭に対して『殿中御掟』、『殿中御掟追加』を突きつけて将軍の行動を制限した。

将軍の権威を剥奪された義昭は不満であったが、両者の関係が悪化した訳ではなく、お互いを利用し合う関係が続いた。しかし、元亀元年(1570年)信長は『五ヶ条の条書』を送りつけた。これは将軍を傀儡とするもので、義昭には我慢のできない内容であった。義昭は信長討伐の御内書を各地の有力大名・寺社に対して密かに送り、これにより、浅井長政(あざいながまさ)、朝倉義景、石山本願寺(大阪府大阪市)、比叡山延暦寺(滋賀県大津市坂本本町)、三好三人衆、六角承禎らによる反信長の動きが活発化して、第一次信長包囲網が形成された。信長はこの窮地を脱することに成功しているが、義昭の行動は信長に察知されていたため、両者の関係修復は絶望的なものになった。再び義昭は、浅井氏、朝倉氏、石山本願寺、比叡山延暦寺、三好氏、六角氏、甲斐の武田信玄(しんげん)らと連携し、第二次信長包囲網を形成した。義昭の暗躍は止まらず、元亀3年(1572年)信長は『異見十七ヶ条』を突きつけた。義昭はそれでも抵抗をやめず、天正元年(1573年)信玄の上洛開始に呼応して挙兵、近江国石山・今堅田などに砦を築き、二条古城に籠城した。信長は岐阜を発進し、石山・今堅田の砦を落として洛外に放火。講和に応じなければ洛中も放火すると脅したが、義昭は和議に応じなかったため、上京を焼き払った。京都が焼け野原になる事を恐れた正親町天皇は信長に講和を求め、信長は二条古城の囲みをいったん解いた。しかし、義昭は幕臣の三淵藤英(みつぶちふじひで)を二条古城の守将に任じて城を脱出、宇治の槙島城(宇治市)に立て籠り信長に抵抗している。ところが、頼みの武田信玄はすでに病死していた。上洛した信長は三淵藤英の守る二条古城を降伏させ、槙島城の攻撃にかかった。義昭は実子を人質に差し出して降伏すると、京都より退去を命じられており、約240年続いた室町幕府はここに滅亡した。『言継卿記』によると、天正4年(1576年)の近江安土城(滋賀県近江八幡市安土町)の築城にあたって、二条古城の南の御門や東の御門が移築されたとある。この当時、押小路通と烏丸通の交差点の南西側に二条家の邸宅(二条殿)があった。その庭園は名園として知られており、『洛中洛外図屏風』にも描かれている。天正4年(1576年)信長が妙覚寺(京都市中京区上妙覚寺町)に宿泊した際、隣接するこの庭の眺望が気に入った。同年に安土城の普請と並行して、この関白二条晴良(はるよし)邸の跡地に信長の在京屋敷として二条御新造(二条殿御池城)の造営を起工する。『信長公記』によれば、「二条殿御屋敷幸空間地にてこれあり、泉水・大庭眺望面白く思食させられ、御不審の様子条々村井長門守に仰せ聞けられる」と記されている。しかし、『言経卿記』、『言継卿記』などでは、二条晴良の報恩寺の新邸への移転に触れており、実際に「空地」であったかは疑問で、二条晴良を退去させたとも考えられる。天正5年(1577年)二条御新造は信長の京都政庁として機能し始めた。この二条御新造には、松永久秀の大和多聞山城(奈良県奈良市法蓮町)から移築した多聞櫓が周囲を巡っていたという。しかし、天正7年(1579年)には誠仁親王に献上された。そのため、天正10年(1582年)の入京の際、信長は本能寺(京都市中京区元本能寺南町)を宿舎としており、本能寺の変が発生している。このとき、隣の妙覚寺を宿舎としていた信長の長男・信忠(のぶただ)は、京都所司代の村井貞勝の進言に従い、より堅固な二条御新造へ移って明智軍と戦った。しかし力およばず、織田信忠をはじめ村井貞勝ら60余名は討死し、二条御新造は放火され焼失している。(2004.03.12)

椹木口付近に復元された石垣
椹木口付近に復元された石垣

隣接する京都御所南の建礼門
隣接する京都御所南の建礼門

二条御新造の跡地に立つ石碑
二条御新造の跡地に立つ石碑

斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址
斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址

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