二条城(にじょうじょう)

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防御性よりも格式を重視し、徳川政権の始まりと終わりを見とどけた上洛時の宿所

二の丸御殿の車寄と奥の遠侍
二の丸御殿の車寄と奥の遠侍

京都市街地にある二条城は、城内全域が国の史跡に指定されており、国宝の二の丸御殿(6棟)、特別名勝の二の丸庭園をはじめ、重要文化財の建造物は22棟を数える。また、平成6年(1994年)ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「古都京都の文化財」のひとつとして登録されている。二条城の縄張りは、本丸の周囲を二の丸で取り囲む輪郭式に分類されるが、本丸が西寄りに配置されている。東西約600m、南北約400mの二の丸に対して、本丸は約150m四方のほぼ正方形で、本丸と二の丸の間に内堀を、二の丸の周りには外堀を構える。最初の二条城は、慶長8年(1603年)徳川家康によって築城された。この慶長期の二条城の規模は小さく、本丸のみで構成される単郭式の城郭であり、現在の二の丸東側部分のみであった。寛永3年(1626年)後水尾天皇が二条城に行幸(ぎょうこう)するという出来事があり、これを寛永行幸という。行幸を迎えるにあたって、その2年前から二条城を大改修して西側に1.5倍ほど拡張し、天守や行幸御殿、本丸御殿なども新たに造営された。また、狩野派の見事な障壁画も新たに描かれたといわれる。二条城にとって寛永行幸は大きな画期であった。二条城の本丸南西隅には5層の天守が造営され、本丸と二の丸のそれ以外の四隅と、外堀北面の中央部に櫓が計8基あった。その多くが2階建てであるが、本丸北西隅だけが3層櫓であった。現存しているのは二の丸の東南隅櫓と西南隅櫓の2基だけである。これらも寛永行幸の時に造営された隅櫓である。東南隅櫓は、西南隅櫓と比べひと回り大きく、1層目の屋根に千鳥破風が載せられているのが特徴である。西南隅櫓は1層目の屋根に優美な曲線を描く唐破風が載せられているのが特徴である。寛永期の二条城に存在した天守は、寛永行幸に際して伏見城(京都市伏見区桃山町)から移築されたものと考えられている。5層の天守は地上5階、地下1階で、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようである。寛永行幸にて、後水尾天皇は2回も天守に登っており、これ以外に天皇が天守に登った例はない。寛延3年(1750年)落雷により天守は焼失し、その後も再建されることなく、現在は天守台のみが残されている。この天守台の高さは約21mである。なお、築城当時の慶長期の二条城では、本丸の北西隅(現在の清流園の北西あたり)に天守が置かれた。『洛中洛外図屏風』にも5層の天守として描かれている。もとは大和郡山城(奈良県大和郡山市)の天守と考えられており、寛永行幸に際しては淀城(京都市伏見区淀本町)に再移築されている。二の丸の中心的建造物である二の丸御殿は、慶長8年(1603年)徳川家康によって造営されたもので、寛永行幸に備えて改修された。玄関にあたる車寄(くるまよせ)に続き、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が南東から北西にかけて雁行型に立ち並び、内部の部屋数は33室、約800畳の規模で、室町時代から江戸初期に成立した書院造りの代表例となる。内部を飾る障壁画は、幕府御用絵師であった狩野探幽(かのうたんゆう)が一門の総力を挙げて作成した寛永期のものを含む3600面が残され、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されている。まさに将軍の御殿にふさわしい豪華絢爛な空間となっている。二の丸御殿で最も格式の高い大広間は、一の間(上段の間)が48畳、二の間(下段の間)が44畳の規模であった。ここは将軍が諸大名と対面したところで、慶応3年(1867年)15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が諸藩の重臣を集めて大政奉還(たいせいほうかん)の発表をおこなった歴史的な場所でもある。

遠侍の北側には、御清所(おきよどころ)と台所と呼ばれる現存する建物があるが、通常は非公開となる。二の丸御殿を囲む築地塀(ついじべい)の南側に唐門がある。切妻造り桧皮葺の四脚門である唐門は、寛永行幸の際に建てられた最も格式が高い門で、屋根の前後に唐破風が付けられていることから唐門と呼ばれる。柱から上の空間すべてに彫刻が入っており、鶴や亀、松竹梅、蝶に牡丹など長寿や吉祥を象徴する彫刻や、唐獅子など聖域を守護する霊獣の彫刻である。築地塀の東面の長さは110mで、石垣上に立つため高さ6mと稀にみる大きさとなる。白線の数は、皇室との関係性を示すもので、二条城の5本線は最高格である。外部との出入口としての城門は、二条城の東西南北に1つずつある。ただし、南門は二条城の城郭遺構ではなく、大正4年(1915年)大正大礼(大正天皇の即位)の際、天皇の入城口として新たに造られたもので、もともと二条城の南側に城門はなかった。正門は堀川通に面した東大手門である。東大手門は入母屋造り本瓦葺の櫓門で、築城当時も2層の櫓門であったが、寛永行幸に際して天皇を2階から見下ろさないための配慮から一重の門に建て替えられ、行幸後に再び櫓門に戻している。東大手門を入ると右手に正面10間(約20m)、奥行3間(約6m)の細長い建物がある。この建物は、寛文3年(1663年)に建てられた番所である。将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された二条在番によって警備されており、1組50人の在番が2組常駐して毎年4月に交代した。この番所は二条在番の詰め所のひとつで、他に唐門前、北大手門周囲、西門周囲等、計9棟の番所があったが、現存するのはここだけである。全国的にも番所が現存する城は、江戸城や丸亀城などと少なく貴重な建物である。北大手門は、正門である東大手門に対する控えの門として、それにふさわしい威容を備えている。また、北大手門の道を挟んだ向いに京都所司代屋敷が存在したので、その連絡門としても使われたと考えられる。京都所司代とは、主に朝廷・公家の監察、西日本の諸大名の監視をおこなった江戸幕府の出先機関である。京都所司代屋敷は二条城の北に隣接して3ヶ所あり、上屋敷・堀川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていた。北大手門は、慶長8年(1603年)の築城時からこの場所にあるが、現在の建物が築城当時のものか、寛永行幸時に建て替えられたものかは分からない。規模は、横幅が東大手門より3間(約6m)短く、門構えも一回り小さいが、奥行きや高さは同じで、正面の出格子窓に「石落し」を備えるのも同じである。飾金物に金箔や座金を使わないなど装飾性に違いは見られるが、外観や構えに遜色はない。西門は寛永行幸の際に建設され、二条城の通用門として使われた。天明8年(1788年)の大火で隣接する櫓門等が焼失し、明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、現在では西門だけが残る。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれることから埋門と呼ばれるが、屋根だけを見れば高麗門である。その他、城内には5つの城門がある。二の丸を東西に分ける北中仕切門と南中仕切門、二の丸と本丸を結ぶ通路への入り口となる鳴子門(なるこもん)と桃山門、その通路から内堀を渡り本丸への入り口となる本丸櫓門である。北中仕切門と南中仕切門は対になっており、規模もほぼ同じで、寛永行幸時の建築である。本丸西櫓門(焼失)への通路を塞ぐ、防御上重要な門であった。門は小振りで西門より少し小さく、背面の屋根だけが延びるという変わった構造となっている。門の上に立つ土塀と石垣に囲まれていることから、こちらも埋門と呼ばれる。

二の丸と本丸の間にある南北の通路の北端を守ったのが薬医門形式の鳴子門で、慶長8年(1603年)頃に造られ、寛永行幸時に改修された。南端を守る桃山門と比べると小型で、防備性よりも格式を重視している。鳴子門と対になる桃山門は、南を向いて本丸櫓門への通路を塞いでいる。寛永行幸時の絵図には大きな建物として描かれているが、それを改造して現在の門になったと考えられている。現在は長屋門形式で、中央に門を設け、両脇をそれぞれ門番所としている。本丸櫓門は寛永行幸時の建築で、本丸西櫓門とともに本丸を防御する重要な門であった。戦時には木橋を落して敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えた。二の丸の西側、本丸西橋を挟んで2つの土蔵が南北に対で存在する。両方とも寛永行幸頃の建築で、建物の横幅は南が18間(約35m)、北が17間(約33m)と長い。現在、城内には3棟の土蔵(米蔵)が現存するが、江戸時代には10棟も存在した。城跡に土蔵が残るのは、二条城だけである。二条城は、天明8年(1788年)に発生した大火により、寛永行幸で造営された本丸御殿や多くの櫓が焼失してしまう。その後、しばらく本丸御殿の再建はならず、幕末になって徳川慶喜の住居として、本丸御殿が建てられたが、明治14年(1881年)に撤去された。現在の本丸御殿は、明治26年(1893年)京都御所の今出川御門内にあった桂宮(かつらのみや)家の御殿の一部を移築したもので、二条城の遺構ではない。しかし、この旧桂宮御殿は、京都御所にあった当時、公武合体の象徴として14代将軍・徳川家茂(いえもち)の正室となった仁孝(にんこう)天皇の皇女・和宮(かずのみや)が、江戸に向かうまでの約1年8か月にわたって暮らした建物であり、嘉永7年(1854年)内裏が焼失した際には、孝明(こうめい)天皇の仮御所に使用された歴史的な建物でもあった。二条城の歴史は、関ヶ原の戦いの翌年にまで遡る。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年(1601年)5月に京都御所の守護と上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、5000軒もの町屋の立ち退きを開始させた。造営総奉行は京都所司代に就任した板倉勝重(かつしげ)が、作事(建築)の大工棟梁は中井正清(まさきよ)が務め、西国諸大名を動員して天下普請で築城に取り掛かった。慶長8年(1603年)2月12日、家康は伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月12日に征夷大将軍の拝命に合わせて竣工した二条城に入城、3月25日に「拝賀の礼」をおこなうため御所に行列を発した。続いて3月27日には、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を盛大におこなった。この将軍に就任すると二条城から天皇のもとに参内する習慣は、慶長10年(1605年)の2代将軍・秀忠(ひでただ)、元和9年(1623年)の3代将軍・家光(いえみつ)と続く。慶長16年(1611年)二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において、徳川家康と豊臣秀頼(ひでより)の会見がおこなわれた。この二条城会見において、家康は秀頼の成長ぶりに危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したともいわれる。そして、慶長19年(1614年)大坂冬の陣が勃発、二条城は大御所(家康)の本営となり、伏見城から出撃する2代将軍・秀忠の軍勢に続き、家康も二条城から大坂へ軍勢を進めた。慶長20年(1615年)大坂夏の陣において、徳川方である古田織部の家臣・木村宗喜(そうき)が豊臣氏に内通し、二条城に放火して混乱の中で家康の暗殺を企てた疑いにより、京都所司代の板倉勝重に捕縛された。これにより古田織部は自害、織部の子も江戸で斬首され、古田家は断絶となっている。

元和6年(1620年)6月18日、秀忠の五女・和子(かずこ)が二条城から長大な行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内した。入内に際し、濁音発音を嫌う宮廷風習にならい、和子(まさこ)と改めている。寛永3年(1626年)9月、上洛中の徳川秀忠・家光父子の招きに応じ、後水尾天皇が二条城に行幸した。いわゆる寛永行幸である。後水尾天皇は中宮・和子らと5日間滞在し、能や和歌などの会が賑々しく催された。『寛永行幸図』や『二条城行幸図屏風』などには、寛永行幸の壮麗な行列が描かれている。その舞台となった二条城は、徳川政権の京都支配の象徴として、二条城の歴史の中で最も輝いていた。4代将軍・家綱(いえつな)以降は、将軍就任時に二条城から天皇のもとに参内する習慣は途絶え、将軍の上洛もしばらくおこなわれなかった。二条城を築城する際、京都御所よりも大きな城を建てることを憚っており、二条城は戦うための城というよりは、優美な迎賓館のような位置付けであった。しかし、いざ戦いになった場合も想定しており、見えないかたちで出城を準備した。それが、浄土宗の知恩院(京都市東山区林下町)と金戒光明寺(京都市左京区黒谷町)で、家康によって城構えに構築されていた。事実、幕末の文久2年(1862年)京都守護職に任命された会津藩主・松平容保(かたもり)は、黒谷の金戒光明寺を本陣とした。文久2年(1862年)幕府の公武合体構想から、和宮親子(ちかこ)内親王は14代将軍・徳川家茂に降嫁、文久3年(1863年)家茂は3千人を率いて上洛し、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を約束した。これは約230年ぶりとなる将軍の上洛で、寛永11年(1634年)の家光上洛時の30万人の行列に比べると百分の一の規模である。元治元年(1864年)朝廷は幕府に対して長州藩追討の勅命を発しており、幕府は尾張藩・越前藩および西国諸藩による征長軍を編成した。この第一次長州征討では薩摩藩の西郷隆盛(たかもり)が交渉役となって戦闘を回避している。慶応2年(1866年)第二次長州征討において、徳川家茂は金の馬印を掲げ、大軍を率いて再び上洛する。幕府側の諸藩は開戦に消極的だが、薩摩藩と同盟した長州藩の士気は高く、幕府軍は敗戦を重ねた。その状況の中、家茂は摂津大坂城(大阪府大阪市)で心労から病に倒れた。この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師を大坂へ派遣して治療に当たらせるが、その甲斐なく家茂は21歳の若さで世を去った。第二次長州征討の失敗により、幕府の権威は失墜した。慶応2年(1866年)二条城内において一橋慶喜が15代の将軍職を継ぐ。武力倒幕を目指す長州藩・薩摩藩などの大義名分を削ぐため、慶応3年(1867年)10月13日、二条城において在京諸藩重臣に大政奉還を諮問、翌10月14日には朝廷に大政奉還を上表した。さらに10月24日には征夷大将軍職の辞任も申し出ている。大政奉還は、約260年続いた江戸幕府の終焉を意味する。しかし慶喜にとって、大政奉還は起死回生の一手であった。政権を朝廷に返上しても、朝庭にはそれを担う力や体制が整っておらず、実質的に権力を取り戻せると計算していたのである。これに焦ったのが、西郷隆盛や大久保利通(としみち)である。このまま慶喜が新政府に加われば、江戸時代の古い習慣を取り除くのが難しくなるため、王政復古の大号令というクーデターを起こして慶喜を排除した。慶応4年(1868年)1月2日、鳥羽・伏見の戦いが勃発、こののちに起きた戊辰戦争の中で、二条城は明治新政府軍に接収され、明治維新後は皇室の二条離宮となった。そして昭和になって宮内省より京都市に下賜されると、恩賜元離宮二条城として一般公開されている。(2018.01.28)

最も格式が高い桧皮葺の唐門
最も格式が高い桧皮葺の唐門

5層天守を載せていた天守台
5層天守を載せていた天守台

並び立つ東南隅櫓と東大手門
並び立つ東南隅櫓と東大手門

小ぶりな二の丸の西南隅櫓
小ぶりな二の丸の西南隅櫓

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