新納院高城(にいろいんたかじょう)

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大友宗麟による高城合戦や豊臣秀吉による九州征伐でも落城しなかった不落の城

主郭跡とメロディー時計台
主郭跡とメロディー時計台

児湯(こゆ)郡の木城町(きじょうちょう)は宮崎県のほぼ中央部にあり、明治22年(1889年)町村制の施行に伴い、当時の椎木(しいのき)村の「木」と高城(たかじょう)村の「城」を組み合わせて木城村としたのが由来である。木城町の南部、小丸川とその支流の切原川に挟まれた東西方向に細長くのびる丘陵の端部に高城が存在した。小丸川と切原川の浸食によってできた高台に構築されていて、北・東・南の三方が崖となり、平坦な西側は複数の空堀で防御していた。最高所の標高は約60m、低地との比高差は約40m、城域は湯屋坂から東の範囲で、南北約200m、東西約750mにおよぶ。丘陵の東端部に主郭と考えられる曲輪があり、その周囲に数段の帯曲輪が巡っている。現在は城山公園として城郭風のメロディー時計台などが整備されている。主郭の西側は駐車場となり破壊されているが、馬出にあたる曲輪とみられ、土塁も残存している。主郭の虎口は枡形を形成していたというが、現在は確認できない。主郭の中央付近にも空堀を設け、中程を上橋でつないでいる。そして、それらの曲輪群と西側の丘陵基部との間は、4本から5本の空堀により切断される。空堀の先端は斜面を降り、そのまま竪堀となる。さらに西方の湯屋坂付近にも人工的に切断した痕跡がある。平成4年(1992年)主郭跡の時計台建設に伴い発掘調査が実施され、竪穴状遺構、柱穴、石列などの遺構が確認された。日向国の始まりは、薩摩国や大隅国を含む大きな国であった。大宝2年(702年)に起こった薩摩・多禰(たね)の叛乱を契機に唱更国(後の薩摩国)が分立し、和銅6年(713年)に肝杯(きもつき)郡・贈於(そお)郡・大隅郡・姶羅(あいら)郡の4郡が大隅国として分立した後、臼杵(うすき)郡・児湯郡・宮崎郡・那珂(なか)郡・諸県(もろかた)郡の5郡で日向国は確定された。この5郡の行政区画とは別に、租税区画として土持(つちもち)院・新納(にいろ)院・穆佐(むかさ)院・真幸(まさき)院・三俣(みまた)院・飫肥(おび)院・櫛間(くしま)院・救仁(くに)院の8院に分けられ統治されていた。これを「五郡八院」という。このうち新納院の領域は、現在の児湯郡東部の都農町、木城町、川南町、高鍋町、新富町にあたると考えられる。新納院の場合、租税の半分は藤原摂関家に進納され、残り半分は国の倉院に納められた。新納院の倉院が置かれた場所は、小丸川流域で交通の要衝という点からすると、今の木城町高城あたりと考えられ、少なくとも中世期にはここに新納院を治める役所が置かれたとされる。高城もこの要所に存在した。日向国内に高城という城は、この新納院高城の他にも、三俣院高城(都城市)、穆佐院高城(宮崎市)と2つ存在したため「日向三高城」と呼ばれた。高城の地には古代より砦が存在したといい、大宝元年(701年)には城の役割を果たしていたとの記録が残るという。平安時代後期、新納院の地頭には中原親能(ちかよし)が任ぜられ、この親能は豊後大友氏の初代当主である大友能直(よしなお)の養父にあたる。その時期は、文治2年(1186年)から建久7年(1196年)頃と考えられる。建武2年(1335年)薩摩島津氏4代当主・島津忠宗(ただむね)の四男・四郎時久(ときひさ)は、足利尊氏(たかうじ)から新納院の地頭に任じられた。島津時久は新納院の要地に高城を築いて居城とし、新納(にいろ)氏を名乗っている。しかし、正平5年(1350年)観応の擾乱に際して、新納時久の上京中を狙って足利直義(ただよし)方の日向国守護職・畠山直顕(ただあき)が高城に攻め込んで落城、時久は尊氏から与えられた救仁院に本拠を移した。

延文2年(1357年)畠山直顕が懐良親王(かねよししんのう)を推戴する南朝方の菊池武光(たけみつ)に大敗すると、日向国守護職となった一色範親(いっしきのりちか)は「兵粮料所」として守護代の土持冠者(つちもちかじゃ)に新納院地頭職を与えた。南北朝争乱の末期頃には、土持七頭(ななかしら)のひとりに数えられる財部(たからべ)土持氏が財部城(高鍋町)を本拠として新納院を支配、高城はその支城となった。日向全域で勢力を伸ばしていた土持七頭であったが、縣(あがた)土持氏と財部土持氏だけが残り、日向北部に土持氏、中部に伊東氏、南部に島津氏が割拠した。康正2年(1456年)財部土持高綱(たかつな)と縣土持宣綱(のぶつな)は連合して、伊東氏6代当主・伊東祐尭(すけたか)との合戦におよぶが、小浪川(こなみがわ)の戦いに敗れ、高綱をはじめ多くの将兵が討死、長禄元年(1457年)財部土持氏は伊東氏の軍門に降った。伊東氏の家伝『日向記』では、財部を始め、高城・日知屋・塩見・門川・新名・野別府・山陰・田代・神門の10箇所の城を伊東氏が請け取ったとある。以後、高城は伊東氏の城となる。伊東祐尭は高城に家臣の野村蔵人佐を配置して、伊東四十八城のひとつとして機能させた。戦国時代になると、伊東氏11代当主・伊東義祐(よしすけ)が日向南部の権益をめぐって島津氏と長期にわたる攻防を繰り返すことになる。元亀3年(1572年)義祐は3千余の兵力で島津領に侵攻するが、島津氏16代当主・島津義久(よしひさ)の弟・島津義弘(よしひろ)にわずか3百の兵力で撃退された。この木崎原(きざきばる)の戦いを契機に伊東氏は衰退していく。天正5年(1577年)伊東義祐は島津氏の攻勢に耐えられず、本拠である佐土原を捨てて大友氏を頼りに豊後国に逃亡した。天正6年(1578年)伊東氏没落後の高城には島津氏家老の山田新介有信(ありのぶ)が城主および地頭に任じられて入った。それまで島津氏と大友氏の関係は良好であったが、天正6年(1578年)大友宗麟(そうりん)は伊東氏を日向に復帰させるために6万余の大軍を率いて日向に攻め込んだ。大友軍は肥後口と豊後口の二手に分かれ、志賀道輝(しがどうき)、朽網鑑康(くたみあきやす)、一萬田鑑実(いちまたあきざね)らが肥後口を、大友宗麟・義統(よしむね)父子は豊後口を進軍した。2月21日、大友軍の先鋒は門川城(門川町)に入っている。島津氏に投降していた伊東氏旧臣で門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内が挙兵し、大友義統率いる本隊とともに島津方の松尾城主・縣土持親成(ちかしげ)を攻めた。3月18日には田原紹忍(たわらじょうにん)、佐伯宗天(さえきそうてん)、田北鎮周(たきたしげかね)らが松尾城(延岡市松山町)攻撃に参加し、大友軍による日向侵攻が本格化した。土持親成には高城の島津勢に合流する手段もあったが、本城を捨てては世の嘲りは必定と松尾城に籠城した。4月15日に松尾城は落城、行縢山(むかばきやま)から撤退中に捕らえられた土持親成は豊後への移送中に自害させられた。大友軍は耳川以北の制圧に成功し、島津氏の勢力は耳川以南に後退した。大友宗麟は務志賀(延岡市無鹿町)を本陣として高城の攻撃を命じた。田原紹忍が率いる5万の大軍は耳川を渡河して南下、10月11日に高城近くに着陣し、周囲の民家を焼き払って山田有信の守備する高城を包囲した。当初、高城の城兵は500名ほどであったが、援軍の島津家久(いえひさ)が高城に入り1500余名になった。10月20日、大友軍は高城への攻撃を開始、外垣を破って外垂に侵入、下拵を全て焼き払った。

松山塁(川南町大字川南字湯迫)からは「国崩(くにくずし)」と名付けられた2門のフランキ砲で高城を砲撃している。大友軍は高城の最初の城門を突破し、次の門の城戸まで迫るが、鉄砲による一斉射撃を受けて一時退却、守りの堅い高城は3度の攻撃にも落城することはなかった。大友軍は高城から切原川を挟んだ東約700mの国光原台地に、西から野久尾陣、松山陣(惣陣)、田間陣、河原陣、松原陣の5つの陣を構えて持久戦となった。翌21日には大友軍の包囲を避けて、都於郡城(西都市)から鎌田出雲守政近(まさちか)の率いる200名余りの援兵が高城に入ったとの記録がある。この籠城戦の最中、大友軍の志賀勘六という使者が高城に陣中見舞いとして酒樽と菓子を差し入れた。これに対して、島津家久も返礼の使者に酒樽と鱸(すずき)を持たせたが、大友の陣と高城の間の平原で使者同士が酒を酌み交わし始めた。舞の名手である家久配下の妹尾仁介の舞により両軍は盛り上がったという。この時、筑後国の星野長門守鎮種(しげたね)と高良大社(福岡県久留米市)の座主・良観(りょうかん)から島津家久へ内応の矢文が渡った。10月24日、島津義久は乾坤一擲の戦いのため薩摩・大隅の軍勢を動員して出陣し、日向の軍勢もあわせて4万の軍になった。11月11日、島津義弘が財部城から大友の陣近くに接近して伏兵部隊を配置、松原陣に奇襲をかけて500人を討ち取り、これを陥落させたという。この夜10時頃には、島津義久の率いる本隊が到着し、高城から小丸川を挟んだ南約4kmの茶臼原台地に根白坂本陣(木城町大字椎木字陣の内)など3つの陣を構えて大友の陣に対峙した。同じ日、大友軍の総大将・田原紹忍らが和平交渉のために高城に赴き、そこから大友軍の使者が根白坂本陣に案内され和議が結ばれた。しかし、大友軍には和議に反対する者もおり、11月12日の早朝、主戦派である田北鎮周の軍勢は独断で戦闘を開始し、小丸川北岸の前衛・北郷蔵人久盛(ひさもり)、川上左京亮忠堅(ただかた)の陣に襲いかかった。これに佐伯宗天の軍勢も続き、他の軍勢もやむなく続いた。北岸の島津勢は壊滅し、北郷久盛は討死、生き残りの兵は味方のいる小丸川南岸へ逃げ散った。これを大友軍が猛追する。南岸の島津義弘、島津歳久(としひさ)、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が大友軍と正面から激突し、そこへ島津征久(ゆきひさ)や島津忠長(ただなが)、上井覚兼(うわいさとかね)ら伏兵部隊が側面から襲い掛かった。島津軍の得意とする「釣り野伏」である。これに呼応して高城からも島津家久、山田有信が出撃した。たまらず崩れた大友軍は敗走、竹鳩ヶ淵(だけくがふち)では多くの兵士が溺死した。田北鎮周、佐伯宗天、角隅石宗(つのくませきそう)など大友氏の重臣が討死しており、星野鎮種らは戦わずに投降した。島津軍の追撃は激しく、高城から美々津の耳川まで約7里に横たわる死体は数え切れない程になっていた。耳川でも戦闘があり、増水した耳川での溺死者も多かった。これら第一次高城合戦からの一連の戦いを耳川の戦いという。戦死者の数は、大友軍4千、島津軍3千といわれる。大友軍が布陣した国光原台地には山田有信によって建立された宗麟原供養塔(川南町大字川南字湯迫)が存在する。これは七回忌にあたる天正13年(1585年)に、山田有信が敵味方の区別なく戦死者の霊を慰めるために建てたものである。耳川の戦いに勝利した島津軍は九州制圧のために北上を続け、天正12年(1584年)肥前国を本拠とする大大名・龍造寺隆信(たかのぶ)を討ち取るなど快進撃を続けた。

滅亡寸前まで追い詰められた大友宗麟は、天下統一を進める豊臣秀吉に助けを求めており、秀吉の停戦命令を無視した島津氏は討伐されることとなった。天正14年(1587年)12月12日、秀吉の先発隊は豊後国で島津軍と激突するが、この戸次川の戦いで豊臣軍は惨敗して長宗我部信親(のぶちか)や十河存保(そごうまさやす)らが討ち取られた。天正15年(1587年)秀吉が率いる本隊20万が九州に上陸すると、秀吉は肥後口から、弟の豊臣秀長(ひでなが)、黒田官兵衛は日向口より南下した。島津義久は豊後から都於郡城まで引き、山田有信はわずか1千5百名の兵力で再び高城に籠城した。豊臣秀長の率いる日向方面軍15万は、耳川を越えて松山陣を本陣とし、周囲に51箇所の陣地を築いて高城を完全に包囲した。また、島津軍の後詰に備えて根白坂本陣跡に砦を構築し、ここを要塞化して島津軍を迎え撃つ戦略とした。この根白坂砦には宮部善祥坊継潤(けいじゅん)ら1万の軍勢が配備された。堀を深さ2間(約3.6m)、幅3間(約5.4m)に拡張し、土塁を盛り上げ、柵を築いて多数の鉄砲を配置し、島津軍の攻撃に備えた。現在、根白坂砦跡に遺構等は残っていないが、付近に「陣の内」という字名が残る。『日向地誌』によれば、根白坂砦の東方に古塁が2箇所あったとされる。いずれもこの豊臣軍と島津軍の攻防の際に築かれたものという。根白坂砦の東方には藤堂高虎(たかとら)と尾藤甚右衛門知宣(とものぶ)が、さらにその東方には黒田官兵衛が陣を構えたと伝えられる。4月17日、高城の救援に向かう島津軍は根白坂砦の防衛ラインを一気に突破するため、左翼に島津義弘、北郷一雲(ほんごういちうん)、島津忠隣(ただちか)、右翼に島津家久、伊集院忠棟を配し、島津義久を本隊とした3万5千の軍勢で夜襲をかけた。一方、根白坂砦の宮部継潤は圧倒的な火力で防戦に努め、これを島津軍が突破できずに戦線は膠着状態に陥る。島津軍の左翼が一部突破するも連携なく、根白坂砦を攻めあぐねた。豊臣秀長の本隊が援軍に向かったが、戦況を見た軍監の尾藤知宣は宮部勢の救援は不可能と判断して、進軍を中止させた。尾藤知宣は、積極策による戸次川の敗戦で改易された仙石秀久(せんごくひでひさ)の後任として軍監に就任したため、慎重論を訴えたのである。しかし、藤堂高虎の500名と宇喜多秀家(ひでいえ)麾下の戸川達安(みちやす)などの小勢が根白坂砦の救援に向かって島津軍を翻弄、ここに小早川・黒田勢が挟撃を仕掛けたため、島津軍は大将格の島津忠隣、猿渡信光(さるわたりのぶみつ)等を失った。夜が明けて敗走する島津軍に対して、ここでも尾藤知宣が深追いは危険として追撃をおこなわせず、島津氏討伐の好機を逃した。これら尾藤知宣の消極策を聞いた秀吉は激怒、知宣の所領を没収して追放している。この根白坂の敗戦で、もはや抵抗しがたい事を悟った島津義久は薩摩に戻り、5月8日に剃髪して秀吉へ降伏を申し入れた。しかし、その後も高城では山田有信が大敵を恐れず抗戦していた。義久は籠城を続ける有信を説得したが、従わずに戦闘態勢を崩さなかった。再三急使を立てて開城を促したが聴き入れず、ついに親戚にあたる町田久之(ひさゆき)を使者に立て、義久の厳命によりようやく開城したのである。有信は第二次高城合戦の戦いぶりにより、秀長から肥後国に4万3千石の領地で誘われたが断り、島津家から離れることはなかった。慶長14年(1609年)義久が病を患った際、山田有信はその身代わりを神仏に願い、同年に死去する。高城は財部城の秋月種長(たねなが)の所有となるが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。(2015.03.14)

主郭の南側下段にある帯曲輪
主郭の南側下段にある帯曲輪

主郭西側の空堀跡に架かる橋
主郭西側の空堀跡に架かる橋

空堀跡から斜面を下る竪堀跡
空堀跡から斜面を下る竪堀跡

広大な畑地の根白坂古戦場跡
広大な畑地の根白坂古戦場跡

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