練馬城(ねりまじょう)

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名族豊島氏の有力な支城

練馬城の櫓台跡
練馬城の櫓台跡

石神井川の南岸、二つの支谷にはさまれた半島状台地の先端に土塁と空堀に囲まれた方形の城跡がある。この練馬城は堀幅を含めて東西約110m、南北約90mの規模であった。現在のとしまえん正面入口にある花壇が居館跡、入って右手の稲荷神社のある丘が櫓台跡、その脇の池が水堀跡である。

鎌倉時代末期、石神井城の城主豊島泰景(やすかげ)の弟景村(かげむら)が築城したとされる。豊島氏は平安時代末期から続いた桓武平氏(かんむへいし)の名族と言われ、その祖豊島清光(きよみつ)は源頼朝の武蔵入りに貢献。豊島次郎常家(つねいえ)が武蔵国豊島、足立、多摩、児玉、新座、5郡を領する。石神井川流域に石神井城、練馬城、平塚城などを築城して、かなり広大な所領をもつ国人領主であった。室町時代の豊島氏は山内上杉氏の麾下として、鎌倉公方の守護役や関東管領の守護役を務めるなどの名声を得た。

文明8年(1476年)長尾景春の乱が勃発し、豊島氏も山内上杉顕定(あきさだ)から離反し反乱に加担する。鎮圧軍である太田道灌(どうかん)は扇谷上杉家の家宰として江戸城を中心に勢力を伸ばし豊島氏の豊島郡支配を脅かしていた。豊島氏は道灌の江戸城と河越城の連絡を遮断するため石神井城、練馬城、平塚城の三城で蜂起した。道灌は、文明9年(1477年)4月13日に江戸城より打って出て豊島家当主豊島泰経(やすつね)の弟泰明(やすあき)の籠る平塚城を攻めた。その報を受けた泰経は平塚城の救援には向かわず、道灌不在の江戸城を攻めるべく石神井・練馬両城から出兵した。しかし、道灌は泰経の動向を察知し、平塚城外を放火するだけにとどめ、軍をまとめて泰経の迎撃に向かった。両軍は江古田原・沼袋で衝突。平塚城から救援に来た泰明と挟み撃ちにしたが、野戦を得意とする道灌は足軽を駆使して勝利。この江古田・沼袋の戦いで豊島軍は豊島泰明や板橋・赤塚氏ら150人の討死を出し敗北を喫した。その後、練馬城は石神井城と同時期に攻め落とされ廃城となる。(2002.10.14)

練馬城の居館跡
練馬城の居館跡

天然の堀である石神井川
天然の堀である石神井川

練馬城水堀跡の池
練馬城水堀跡の池

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