根古屋城(ねごやじょう)

[MENU]

正丸峠から伸びる秩父街道を監視するための鉢形衆の城郭

根古屋城の西郭にある城址碑
根古屋城の西郭にある城址碑

横瀬町の中央部にある二子山(ふたごやま)は雄岳と雌岳の双耳峰よりなり、二子山から張り出す尾根が、横瀬川と生川の合流地点に達する場所に根古屋という地名がある。この場所には戦国時代まで根古屋城という山城があり、その物見櫓を二子山の山頂に置いたことから、二子山には物見平の別名があるという。横瀬川、生川、小島沢、城谷沢(しらやさわ)に囲まれた根古屋城は、正丸峠から伸びる秩父街道を監視するための城郭であったと考えられている。城域は大きく3つの区域に分けられ、西郭、東郭、山頂郭で構成された。当初、小型の郭を並べた東郭に居館を置いて、山頂に詰城を備える単純な形態であった。その後時代が下ると、東郭から水の手郭を挟んだ場所に、広大な西郭を新造して御殿を置き、山頂郭を含めて改修したことが、西郭と山頂郭に技術的な時間差がないことと、東郭の形式が古いことから伺える。御殿跡といわれる二段の西郭は、根古屋集落のすぐ裏手の尾根上に造られており、高い城壁には二ヶ所の折が加えられ、横矢掛り(よこやがかり)を可能にし、虎口は枡形となる。南西斜面には本城の特色となる大規模な構堀(かまえぼり)が腰郭とセットになって築かれている。山頂郭は、見事な土橋で連結された本郭と二ノ郭を中心にいくつかの腰郭を配置する。山頂の本郭は、北半分が石灰石の採掘により破壊されていて、南半分が残るのみなので、その規模や構造を知ることはできない。だが、秩父地方の特色である「出枡形虎口」は、本郭、二ノ郭ともによく残っている。二ノ郭の尾根の裾部には東郭や水の手郭などがあるが、極めて貧弱な備えであり、構築された時代が古いことが分かる。江戸時代の文化・文政期(1804-30年)に編まれた『新編武蔵風土記稿』の秩父郡横瀬村の項によると、北西の方角に九十九(つづら)折りの坂道があり、これが搦手と考えられ、大手は南側であるという。江戸時代末期から明治時代にかけて成立した『秩父志』にも、「退手口(追手口)は南西を表と為して一丁(約109m)ばかり登り」とあり、「根古屋口というは乾方(北西)互折の坂曲ありてこれは搦手口ならんといえり」とある。南の愛宕山と呼ばれる所に一反(約1千平方メートル)ほどの平地があり、ここも根古屋城の物見櫓が設けられた跡という。その谷は城谷沢と呼ばれる。根古屋城の築城年代や城主については諸説あり、はっきりしたことは分からない。一説によると、平安時代に桓武平氏流の平良文(よしふみ)を祖とし、坂東八平氏のひとつである秩父別当の平武基(たけもと)が築き、平武綱(たけつな)、秩父重綱(しげつな)、秩父重弘(しげひろ)、秩父重能(しげよし)まで、5代にわたり居住したと伝わる。5代目の重能は、男衾郡畠山郷に所領を得て移り、畠山氏を称した。この畠山庄司重能は、父の太郎大夫重弘が長男でありながら家督を継げず、次男で惣領となっていた次郎大夫重隆(しげたか)に敵意を抱いていた。秩父重隆は河越氏の祖となる人物で、武蔵国留守所惣検校職を継承しており、武蔵国で最大の勢力を有していた。この頃、河内源氏の5代棟梁である六条判官源為義(ためよし)は、京都で藤原摂関家を後ろ盾としていた。長男の義朝(よしとも)は東国へ下って南関東で勢力を伸ばし、仁平3年(1153年)父の官職を超えて下野守に任じられ、関東を基盤に地位を高めている。そして、源為義・義朝父子の関係は悪化していた。為義は義朝への対抗策として、義朝の勢力が及んでいない北関東に、義朝に代わって嫡子に定めた次男の義賢(よしかた)を下向させている。

秩父重隆はこの源義賢に娘を嫁がせ、比企郡大蔵郷の大蔵館(比企郡嵐山町)に養君(やしないぎみ)として迎え入れて推戴している。これは重隆が、甥の畠山重能や、父である権守重綱の後妻との間で家督を巡って対立しており、また近隣の新田氏、藤姓足利氏とも利根川を挟んで抗争を繰り返していたことから、周囲の勢力に対抗するための手段であったと考えられる。義賢は秩父氏の武力を後ろ盾として北関東に勢力を拡大していた。これを苦々しく見ていたのが、相模国鎌倉を本拠にしていた源義朝の長男の義平(よしひら)であった。秩父重隆と対立していた重綱の後妻というのは、義平の乳母という関係もある。義朝が京都に復帰すると、その南関東の基盤を受け継いだ義平であったが、叔父である義賢と秩父重隆の勢力が上野・武蔵の武士団を糾合して南下する動きを見せたため、両勢力は武蔵国で衝突する事になる。畠山重能は源義朝・義平父子と結び、久寿2年(1155年)義平が義賢討伐の軍勢を催すと、重能もこれに加わって大蔵館を急襲した。このとき重能は、曽祖父の秩父十郎武綱が後三年の役で八幡太郎義家(よしいえ)より賜わった白旗を指物にしていたという。この大蔵合戦によって、畠山重能の叔父である秩父重隆と、その婿である源義賢は討ち果たされた。わずか15歳の義平は、この戦いで大いに武名をあげ、鎌倉悪源太と呼ばれるようになった。『源平盛衰記』によると、義平は義賢の次男で大蔵館から逃れた駒王丸を探し出して殺すよう畠山重能に厳命した。しかし、2歳の子供を殺害することに躊躇した重能は、駒王丸とその母を密かに斎藤別当実盛(さねもり)に託しており、駒王丸は乳母夫である信濃国木曾の中三権守こと中原三郎兼遠(かねとお)へ預けられた。この木曾へ逃れた駒王丸が、のちに木曾冠者源義仲(よしなか)に成長することになる。一方、畠山重能の次男が、源平合戦で大いに活躍し、知勇兼備の武将として「坂東武士の鑑」と称された畠山次郎重忠(しげただ)である。その後、根古屋城には武蔵七党の丹党横瀬氏が拠ったようである。丹三冠者経房(つねふさ)の次男である中村時親(ときちか)が横脛(よこはぎ)悪三郎と名乗った。横脛は横瀬ではないかともいわれている。その次男の時綱(ときつな)が秩父郡横瀬村に居住し、横瀬馬允と称して横瀬氏の祖となった。そのあとは九郎左近時久(ときひさ)と続いた。根古屋城の南西約800mに古御嶽城(横瀬町横瀬)がある。根古屋城の物見であったという。地元の伝承によれば、関東管領山内上杉憲政(のりまさ)の家臣である永田外記(げき)という者が居住していたと『新編武蔵風土記稿』に記されている。そして、河越夜戦のことだと考えられるが、天文年中(1532-55年)小田原北条氏との戦いに敗れた山内上杉憲政が、根古屋城に落ち延びて、しばらく在城したとある。永田外記は根古屋の中野という場所で討死したという。江戸中期に成立した『増補秩父風土記』の武光庄横瀬村の項にも、「持山、上杉伊豆守憲政鎌倉より敗入り、少しの間忍居して根古屋へ移る」とある。一説には、北条氏康(うじやす)の三男である乙千代こと氏邦(うじくに)が天神山城主の藤田重利(しげとし)の養子となって天神山城(長瀞町)に移る前の短期間、この根古屋城に在城したという。その後、北条氏の勢力が拡大すると、鉢形城(寄居町)の北条氏邦が、甲斐武田氏に備えて根古屋城を改修し、二子山の山頂に見張りの櫓を置いた。元亀3年(1572年)北条氏邦は、家臣の朝見伊賀守慶延(よしのぶ)に対して横瀬の地を宛い、副将として渡辺監物(けんもつ)を指し添えた。

元亀3年3月5日の日付で、北条氏邦から朝見伊賀守宛として「上杉一揆名栗谷を通り都摩坂(妻坂峠)を越え、持山に立篭もりの由、右この抑えのため根古屋へ差遣わし候、これより東は小丸坂上、西は坂氷上、南は産川(生川)の水元、北は横瀬川を境に定め宛行の間知行為され候、並びに渡辺監物を指添え遣わし候」という文書が残っている。この朝見(あさみ)氏は、武蔵国児玉郡入浅見村から発祥した氏族で、武蔵七党のうち最大の武士団とされた児玉党に属した。児玉党の本宗家4代当主となる庄太夫家弘(いえひろ)の五男である庄五郎弘方(ひろかた)が、入浅見(浅見郷)に移住したことから始まり、庄氏から分派する。弘方の嫡子である阿佐美太郎右衛門尉実高(さねたか)の代になると、阿佐美氏は児玉郡だけではなく、上野国や越後国、加賀国にも所領を有するようになった。『吾妻鏡』によると、建久元年(1190年)源頼朝(よりとも)が上洛する際、先陣随兵の17番に阿佐美太郎の名が確認できる。児玉党の庄氏や四方田(よもだ)氏と共に将軍の上洛に従っていた。また、建久6年(1195年)将軍家の東大寺供養の際にも先陣随兵として淺見太郎(実高)の名が確認できる。正治2年(1200年)に左衛門尉に任ぜられ、建保4年(1216年)には右衛門尉に任ぜられた。実高は児玉郡の入浅見(児玉御庄)の他、上野国高山御庄、吾妻郡小中山村や越後国荏保・横曽根保、加賀国島田村などにも所領を有していた。これらの所領は、阿佐美実高の子息達が領有する事になったとされる。戦国時代になると、阿左美氏は鉢形城の北条氏邦の家臣として鉢形衆に属した。永禄11年(1568年)甲斐・相模・駿河の三国同盟が崩壊すると、甲斐武田氏との軍事的緊張が高まった。実際、永禄12年(1569年)から元亀2年(1571年)にかけて、秩父・児玉方面において武田軍による度重なる侵入を受けている。このとき、氏邦は武田軍の秩父侵攻に備えて、鷹谷砦(小鹿野町三山)に志賀坂峠を監視させ、女部田城(秩父市上吉田)に土坂峠を監視させ、高松城(皆野町下日野沢)に出牛峠を監視させていた。そして、日尾城(小鹿野町飯田)では三山谷の戦い、龍ヶ谷城(秩父市吉田久長)では石間谷の戦い、千馬山城(皆野町三沢)では三沢谷の戦いが繰り広げられたが、各城とも善戦しており落城することはなかった。このうち、永禄13年(1570年)の三山谷の戦いでは、山県三郎兵衛尉昌景(まさかげ)の率いる武田軍の先鋒部隊が日尾城を攻めているが、日尾城主で氏邦の筆頭家老である諏訪部(すわべ)遠江守定勝(さだかつ)は来客のもてなしのために泥酔しており、代わって奥方(妙喜尼)が武装のうえ城兵を指揮して防戦し、武田軍を追い払ったという。そして、これに反省した諏訪部定勝は酒を断ったという逸話が残っている。『武州文書』の「北条氏邦感状(写)」には、「甲州勢夜中土坂(ヲ)忍入阿熊(尓)屯(シ)候(ヲ)物見山(ヨリ)早朝見附之、即刻吉田之楯(江)駆付相固候条、感悦之至(ニ)候、依之苗字阿左美之字(ヲ)向後朝見之文字(ニ)書替誉(ヲ)可貽子孫(ニ)候、当座之為賞太刀一腰遣之候者也、仍如件」とある。これによれば、永禄12年(1569年)7月に女部田城(物見山)にいた阿左美伊勢守玄光(げんこう)は、武田信玄(しんげん)が派遣した武田氏の軍勢が、夜中に土坂峠から侵入して阿熊地区に駐屯しているところを早朝に発見して鉢形城や各支城に連絡、そして龍ヶ谷城に比定される吉田の盾に駆け付けて防御を固めたため、武田軍の攻撃に耐えることができたという。

このときの軍功により、阿左美玄光は北条氏邦から感状と太刀を与えられており、現在もこの感状が残されている。また、武田軍を朝見つけたことにより「朝見」姓も賜っており、阿左美から朝見に改めたという。永禄12年(1569年)10月には武田信玄がみずから出陣しており、武田軍本隊は直接鉢形城を目指して進軍し、別働隊は秩父郡内の鉢形城の支城攻撃をおこなった。その後、別働隊は武田軍本隊と合流して鉢形城を包囲したが落すことはできず、北条氏照(うじてる)が守る滝山城(東京都八王子市)に向かって南下している。朝見玄光の嫡子である伊賀守慶延は、元亀3年(1572年)上杉謙信(けんしん)の与党(上杉一揆)に対する備えとして、根古屋城の城代を任されて守りを固めている。一方、『新編武蔵風土記稿』によると、朝見伊賀守は元亀3年(1572年)まで根古屋城主であったが、その後に勢多の城(場所不明)に移ったため、副将の渡辺監物が城主になったとある。『鉢形北条家臣分限録』にも「上州勢田千五百貫侍大将淺見伊賀」とある。「勢多の城」というのは、上野国勢多郡のどの城なのかは分からない。それ以降の朝見氏に関する記録としては、『神流川合戦記』に「天正十年六月、鉢形城方戦奉行浅見伊賀守春長」というものや、『町田日記』に「天正十八年、鉢形留守居浅見伊賀守あり」、『鉢形古城記』に「根古屋の城に浅見伊賀守・同左馬助父子也」とある。『関東古戦録』の天正18年(1590年)3月2日の記述にも、「根古屋の城には渡辺監物、浅見伊賀守、同左馬介父子是を守れり」とある。正丸峠を監視する根古屋城は、天神山城を経由して鉢形城へ連絡する横瀬狼煙の開始地点でもある。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役に際し、北条氏邦が籠る鉢形城は、前田利家(としいえ)を総大将とする上杉景勝(かげかつ)、真田昌幸(まさゆき)ら北国軍に攻撃されて開城する。このとき根古屋城も開城して、その後廃城となった。天正18年(1590年)北条氏が滅亡すると、朝見慶延の息子である朝見左馬助は帰農し、下日野沢の地に郷士として土着して、日野沢村の里正(名主)を務める。朝見氏は代々「十左衛門」を称しており、村人や代官役所から別格の扱いを受け、江戸時代を通じて里正として続いた。江戸幕府の代官より賜った古文書にも「秩父領日野沢郷士阿左美十左衛門殿」と記されている。この朝見左馬助が構えた阿左美氏館(秩父郡皆野町)は、江戸時代初期に荒川の支流の日野沢川に沿って南面する山腹の斜面に築かれた居館である。『新編武蔵風土記稿』の下日野沢村にある阿左美氏に関する記述によれば、17世紀末の元禄7年(1694年)に普請された旨が記されている。山腹を利用しているため形状は不規則であるが、周囲には二重・三重の石垣がよく残されており、現在も朝見氏の子孫が居住している。「食違い門」が3箇所に設けられていたが、その礎石も原位置のまま残され、石垣が幾重にも設けられていて、往時の姿を忍ばせている。根古屋城の大手口を少し下ると武甲山御嶽神社(横瀬町横瀬)があり、神社の鳥居の東側、城谷沢沿いに大小2つの「城谷沢の井」がある。この井戸は、根古屋城主の朝見慶延が、豊富な湧水と水質のよさに目をつけて地元の産業として絹布の生産を奨励し、その染色に用いた井戸と伝わる。秩父地方は耕作可能な面積が少なく、古くから多くの農家で養蚕が行われていた。特に絹織物が盛んで、農家の副業として絹織物が作られて江戸の問屋に送られた。丈夫な「根古屋絹」は、おもに裏地として用いられ、のちに絹の無地の裏地のことを「根古屋」と呼ぶようになった。(2005.03.21)

西郭にある御殿跡の高い城壁
西郭にある御殿跡の高い城壁

北西側から見た根古屋城遠景
北西側から見た根古屋城遠景

朝見慶延ゆかりの城谷沢の井
朝見慶延ゆかりの城谷沢の井

[MENU]