無苦庵(むくあん)

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傾奇御免の前田慶次が米沢郊外の堂森にて悠々自適な生活を送った晩年の屋敷

無苦庵の南側に現存する堀跡
無苦庵の南側に現存する堀跡

無苦庵とは、傾奇者で有名な前田慶次郎利益(とします)が晩年を暮らした屋敷である。「傾く」とは異風の姿形を好み、異様な振る舞いや突飛な行動をさす。慶次の友人であった直江山城守兼続(かねつぐ)や志駄修理亮義秀(よしひで)らも、無苦庵を訪ねたといわれている。無苦庵は米沢城(米沢市丸の内)の郊外、堂森山の北東のほとりに位置し、屋敷が存在した周囲には土塁の一部や堀跡が残されている。畑の傍らに「無苦庵の堀跡」と書かれた小さな標柱が立っており、これがないと分からないほどの遺構である。発掘調査により、版築土塁で区画された東西109m、南北72mの江戸初期の武家屋敷跡と井戸跡が見つかり、堀は薬研堀(やげんぼり)であった。慶次の遺骸は一花院(米沢市中央)に葬られたとも、堂森善光寺(米沢市万世町堂森)に葬られたともいわれ、定かではない。一花院には江戸時代まで慶次の石塔が存在していたというが、幕末の火災により一花院が廃寺となっており、現在は何も残されていない。一方の堂森善光寺には慶次の供養塔があるが、これは昭和55年(1980年)に建てられたものである。堂森善光寺は、平安時代の大同2年(807年)に善光寺阿弥陀堂の別当として創建されたと伝えられるが、宝暦13年(1763年)と明治26年(1893年)の2度の火災によって古い記録を全て失い、寺歴を知ることはできない。堂森善光寺の阿弥陀像には、善光寺を中興したという益王姫(ますおうひめ)の伝説がある。長田庄司忠次(ただつぐ)が源頼朝(よりとも)との一戦に敗れ、妹の益王姫は家に伝わる阿弥陀像を背負って逃れた。苦難の末、出羽国までたどり着いたが、追手に追いつかれてしまった。すると、背中の阿弥陀像が突然振り返り、追手を睨んで倒した。難を逃れた益王姫は尼となり、振り返った姿になった阿弥陀像を祀って、堂森善光寺を再興させたというもの。堂森善光寺の境内には「慶次の力石」という安山岩の石も残り、これは慶次が村人との力比べで持ち上げたものと伝わる。裏手の堂森山の山頂には月見平と呼ばれる瓢箪型の平地があり、ここは慶次が村人や友人を招いて、たびたび月見などの遊山を楽しんだとされる場所である。また、堂森山の中腹には家型塔婆様式の志駄義秀の墓が存在する。八幡原野球場のスコアボードの裏側から雑木林に小道があり、そこから約100mほど進むと慶次清水が湧いている。江戸時代初期より慶次清水と呼ばれており、慶次が生活用水のために掘り、灌漑用水としても利用され、村人たちに感謝されたという。傍らにある祠は水神様を祀ったものである。慶次は文学を好み、和漢の書に通じ、『源氏物語』、『伊勢物語』などの古典にも通じ、連歌は里村紹巴(じょうは)に学び、茶道は古田織部に学び、乱舞にも長じていた。慶長7年(1602年)直江兼続の呼びかけにより、大国実頼(さねより)など上杉家の重臣ら27名が参加する歌会が亀岡文殊堂(東置賜郡高畠町)で催された。その席で、慶次は5首の和歌を詠んでおり、その時の色紙が残されている。また、宮坂考古館(米沢市東)には、慶次所用の甲冑「朱漆塗紫糸素懸威五枚胴具足南蛮笠式」が現存しており、展示されている。無苦庵の近くには太郎兵衛屋敷跡があり、ここには堂森の太郎兵衛という肝煎が住んでいた。太郎兵衛は屋敷を建て替えた際、親類や客人を招待して新宅祝いをした。慶次も一番の上客として招かれたが、「この家の新宅祝いに御家繁盛、無病息災の呪(まじな)いをする」と言い、床柱に斧を打ち込んだ。これには太郎兵衛も怒ったが、慶次は「月が満れば欠けるのは道理」と言って、有頂天にならないように諭したという逸話が残る。

前田慶次の諱は、利益の他にも、利太(としたか)、利大(としひろ)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。実父は織田信長の重臣である滝川一益(かずます)の一族であるが、比定される人物には諸説あり確定していない。養父は前田利久(としひさ)で、子のなかった利久が妻の実家である滝川家から慶次を引き取り養子にしたとも、慶次の実母が利久に再嫁したともいう。前田氏は尾張国海東郡荒子を支配する土豪であった。代々の当主が蔵人を称したことから前田蔵人家ともいわれる。しかし、前田氏初期の歴史は不明なところが多く、利久の父である利春(としはる)以前の系譜ははっきりしていない。前田蔵人利春は別名を利昌(としまさ)とも伝え、子に長男の利久、次男の利玄(としはる)、三男の安勝(やすかつ)、四男の利家(としいえ)、五男の良之(よしゆき)、六男の秀継(ひでつぐ)がいた。利春は織田家の直臣として仕えており、林秀貞(ひでさだ)の与力として2千貫を知行し、尾張荒子城(愛知県名古屋市)の城主を務める。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後に死去し、その跡は嫡男の利久が継いだ。利久には子がいなかったため、弟の安勝の娘を養女とし、その婿に妻の姻戚である滝川一益の甥とされる慶次を迎えて跡を継がせようとした。しかし、永禄12年(1569年)織田信長の命により、病弱で器量に欠ける利久は隠居させられ、武勇に優れた四男の利家が2450貫で家督を継いだ。信長は有力家臣の次男以下の者を馬廻り衆に抜擢している。この時代、一般的な家臣の長男は与力(寄騎)として重臣などの寄親の傘下に組み入れられ、織田軍団を支えていた。普通、次男や三男は長男の側近として支えたが、信長は彼らの中から優秀な人材を馬廻り衆に抜擢、さらに10〜20名を直属精鋭部隊の母衣衆として近侍させた。母衣衆には馬廻り衆から抜擢した黒母衣衆と、小姓衆から抜擢した赤母衣衆があった。前田利家は、天文20年(1551年)信長に小姓として仕え、幼名を犬千代といった。若い頃の利家は、短気で喧嘩早く、信長に憧れて異様な風体を好む傾奇者であった。翌天文21年(1552年)尾張下四郡を支配する織田大和守家の織田信友(のぶとも)との間に起きた萱津(かやづ)の戦いで初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てる。その後、元服して前田又左衛門利家と名乗った。血気盛んな利家は、槍の名手であったため「槍の又左」などの異名をもって恐れられた。永禄初年頃に新設された母衣衆の赤母衣衆筆頭に抜擢され、多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受けている。そして、前田利久の荒子城を相続するのだが、このとき、利久の重臣で荒子城代の奥村助右衛門家福(いえとみ)が荒子城の明け渡しを拒絶しており、利家に対して城主である利久の譲り状がなければ明け渡せぬと頑として抵抗した。このため、改めて利久から明け渡しの命があり、奥村助右衛門はようやく退去、前田家を辞して浪人する。一方、慶次とともに荒子城を出て前田家を去った利久は、その後に剃髪して蔵人入道と呼ばれ、しばらくは消息不明であった。この時、利久と慶次は、利久の妻の実家である滝川家に厄介になったという説があり、慶次は滝川一益に従って数多くの戦場を馳駆したという。他にも、荒子の地にとどまり、前田家の寄親であった林秀貞のもとに身を寄せたという説がある。熱田神宮には天正9年(1581年)に「荒子住人前田慶二郎」が奉納したと伝わる「末□」と銘のある太刀が残る。また、『乙酉集録』の「尾州荒子御屋敷構之図」には荒子城の南東に東西20間、南北18間の「慶次殿屋敷」が記されている。

一方、天正2年(1574年)柴田勝家(かついえ)の与力となった前田利家は、天正9年(1581年)信長より能登一国を与えられ、23万石を領有する大名となった。天正10年(1582年)能登小丸山城(石川県七尾市)を築いて本拠としている。天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が横死すると、滝川一益は柴田勝家に付いて羽柴秀吉と戦った。しかし、勝家が敗死し、味方を失った一益は秀吉に降伏した。一益は所領を全て没収されて隠居している。当然、利久・慶次父子は食い扶持を失った。天正11年(1583年)今度は前田利家を頼って、家来として仕える事になる。利家は羽柴秀吉に従属したことにより本領安堵のうえ加賀国の2郡を加増され、本拠地を小丸山城から加賀尾山城(石川県金沢市)に移した。利久・慶次父子には7千石が与えられ、利久2千石、慶次5千石という配分であった。天正12年(1584年)越中国の佐々成政(さっさなりまさ)が1万5千の兵を率いて能登末森城(石川県羽咋郡宝達志水町)を攻めた。末森城の城代は奥村助右衛門であった。助右衛門は天正元年(1573年)に利家に懇請されて前田家に帰参していた。利家の家臣として朝倉氏攻めなど各地で活躍、のちに利家が加賀国に入った際に要衝の末森城を預かったのである。佐々成政の攻撃により二の丸まで陥落したものの、助右衛門は寡兵で本丸を死守した。そこへ利家から派遣された前田慶次らの援軍が到着して、佐々成政の軍勢を潰走させている。天正13年(1585年)佐々成政に従っていた越中阿尾城(富山県氷見市)の菊池武勝(たけかつ)が前田方に寝返り、慶次が阿尾城の受け取りに赴くと、そのまま城代を命じられた。その後、阿尾城の奪還に向かった佐々方の神保氏張(じんぼううじはる)ら5千の軍勢が阿尾城を目指して侵攻、慶次は2千の軍勢で迎撃し、村井長頼(ながより)の加勢もあって大激戦のすえ撃退することに成功している。天正14年(1586年)越後国の上杉景勝(かげかつ)が初上洛して秀吉に謁見した。豊臣家の重臣筆頭である前田利家は、大坂屋敷に景勝をはじめ主だった大名を招いて宴を催した。このとき慶次は、無断で諸大名の前に出て猿を真似した小舞を始めた。そして、大名たちの膝の上に次々と腰掛けてからかった。しかし、上杉景勝の膝にだけは腰掛けなかった。景勝には威風凛然として侵すべからざるものが備わっており、どうしても膝に乗ることができなかったという。天正15年(1587年)義父の利久が没したことにより、慶次の嫡男である正虎(まさとら)が利家に仕え、利久の封地2千石をそのまま給された。天正18年(1590年)小田原征伐が始まると、前田利家が指揮する北国勢も別働隊として関東に進軍、慶次もこれに従った。その後、慶次は利家と仲違いしたため、前田家を出奔することになるが、これには逸話がある。ある極寒の日、改心したという慶次は利家を茶の湯に招待し、まず冷えた体を温めるよう風呂を薦めた。ところが、利家が湯舟につかると水風呂であった。利家は「痴(し)れ者、逃がすな」と叫ぶが、慶次は利家の松風という名馬を奪って前田家から出奔してしまった。この話は一級史料の『常山紀談』や、『武辺咄聞書』、『可観小説』などに紹介されている。なお、妻や正虎など家族は随行せず、その後も加賀藩前田家に仕えている。京都で浪人していた慶次は、自慢の松風を毎日川で馬丁(ばてい)に洗わせていた。この見事な馬を見た通行人は足を止めて、誰の馬なのか尋ねたという。そして、尋ねられた馬丁は、幸若舞の節まわしで「前田慶次が馬にて候」と唄い舞ったので、京都では評判となり慶次の知名度は上がった。

傾奇者の慶次の噂は秀吉の耳に入り、京都聚楽第(京都府京都市)に召し出された。異様な装束で現れた慶次は、髷を横に結っており、頭を横に向けて平伏した。これには秀吉も驚嘆し、傾奇御免のお墨付きを与えている。京都では穀蔵院瓢戸斎(こくぞういんひょっとさい)と称して文人と交流、そこで文武に優れた直江兼続と親交し、知遇を得て上杉家に仕官する。秀吉が没した慶長3年(1598年)から関ヶ原の戦いの慶長5年(1600年)の間、上杉家は新規に多くの浪人を召し抱えており、それらは組外衆として組織された。『会津御在城分限帳』、『直江支配長井郡分限帳』などに「一千石前田慶次」の記載があり、組外衆筆頭として1千石で上杉景勝に仕えていたことが分かる。そして、出羽長谷堂城(山形県山形市)からの撤退戦で殿軍を務めた直江兼続が、逃げ出す味方の将兵を見て怒りを露わにしたとき、異装の老人がその馬前に立った。「黒具足に猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織、金のひら高数珠を首に懸くるに、数珠の房、金の瓢箪、背へ下るやうに懸けて、河原毛の野髪(のがみ)大しだの馬に、金の兜巾(ときん)を冠らせて打乗り」という慶次である。傾奇者らしく華麗な姿を伝える一方、乗り換えの黒馬には2挺の種子島銃を取り付け、味噌、乾糒(ほしいい)を納めた袋を鞍壺にそなえ置く周到さであった。慶次は「ここは我にお任せあれ」と言って、鉄砲の銃弾が飛び交うなか、自慢の朱柄十文字の槍で奮戦、見事に敵の鉄砲隊を退けた。しかし、関ヶ原の本戦では西軍が敗北したため、上杉氏は30万石で米沢に移された。慶長6年(1601年)慶次は京都の伏見から米沢に向かった。この時の道中日記が『前田慶次道中日記』としてまとめられている。文中には慶次が詠んだ俳句・和歌なども挿入され、道中の風俗を詳しく書き残している。この日記は慶次の教養の高さを示す史料として評価されている。慶長7年(1602年)頃、米沢郊外の堂森に居を構え、花鳥風月を愛でながら悠々自適な生活を送った。この草庵は「苦しみの無い安住の場所」という意味で無苦庵と名付けられた。この無苦庵で記された『無苦庵記』には「抑も此の無苦庵は孝を勤むべき親もなければ憐れむべき子もなし、こころは墨に染めねども髪結ふがむづかしさにつむりを剃り手のつかひ不奉公もせず足の駕籠かき小物やとはず、七年の病なければ三年の蓬(もぐさ)も用ひず、雲無心にして岫(くき)を出るもまたをかし、詩歌に心なければ月花も苦にならず、寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る、九品蓮台に至らんと思ふ欲心なければ八萬地獄に落つべき罪もなし、生きるまでいきたらば死ぬるでもあろうかとおもふ」と記されており、慶次の晩年の心情が伝わる。慶長17年(1612年)前田慶次は堂森で没したとされる。一方、『加賀藩史料』では、関ヶ原の戦いの後も慶次の傾き癖は治まる事はなく、藩主の前田利長(としなが)の命によって大和国刈布で隠棲させられ、龍砕軒不便斎(りゅうさいけんふべんさい)と名乗ったという。これは利長から付けられた家来の野崎知通(ともみち)の遺書『前田慶次殿伝』によるもの。慶長10年(1605年)その地で生涯を終え、同地の安楽寺(奈良県宇陀市)に葬られて、「龍砕軒不便斎一夢庵主」と刻んだ高さ5尺の石碑が建てられたというが現存していない。これに従うと、慶次は慶長10年(1605年)に73歳で没したことになっているので、慶長5年(1600年)長谷堂城の戦いで活躍した頃は58歳ではなく68歳という年齢だったことになってしまう。慶次の生年も定かではなく、天文2年(1553年)から天文12年(1543年)までの11年の間で諸説ある。(2010.10.17)

無苦庵の北に残る土塁と堀跡
無苦庵の北に残る土塁と堀跡

堂森善光寺にある慶次の供養塔
堂森善光寺にある慶次の供養塔

現在も湧水を湛える慶次清水
現在も湧水を湛える慶次清水

長谷堂城の戦いの激戦地と城山
長谷堂城の戦いの激戦地と城山

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