水ヶ江城(みずがえじょう)

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肥前の国人領主から五国二島の太守にまで勢力拡大した龍造寺隆信の最初の居城

東館跡に建つ龍造寺隆信公碑
東館跡に建つ龍造寺隆信公碑

日本有数の稲作地帯である佐賀平野には、クリークと呼ばれる溝渠(水路)が網の目のように張り巡らされている。クリークは、中世には城館を守る水堀の役割を果たし、水運にも利用された。水ヶ江城は、標高2mから4m程度の低平地に築かれた平城で、佐賀平野における多くの低平地城館と同様に、クリークに囲まれた浮島の集合体のように数多くの曲輪により構成されていた。主要な曲輪としては、本館(小城)、東館、中ノ館、2郭構成となる西館の5つである。水ヶ江城の正確な範囲は分かっていないが、記録によると30町と広大な城域であったようである。本館が水ヶ江城の本丸に相当するもので、現在の乾亨院(佐賀市中の館町)のあたりとなる。乾亨院は、龍造寺山城守家兼(いえかね)が建立し、その弟である天亨(てんこう)和尚によって開山された臨済宗南禅派の寺院である。この乾亨院には、明治7年(1874年)に起きた佐賀の乱で戦死した明治政府軍の熊本鎮台第11大隊士官20名、兵卒75名、軍属9名など、計107名が葬られている。豪壮な大理石の墓碑3基には、戦死者107名の階級・所属・身分・氏名が刻まれる。境内には明治政府軍と戦った佐賀征韓党の幹部・朝倉弾蔵尚武(なおたけ)の墓碑もある。「中の館児童遊園」という児童公園のあたりが東館跡である。龍造寺家兼の隠居所があったとされる場所で、「龍造寺隆信公碑」と刻まれた巨大な石碑が建つ。肥前国の戦国大名・龍造寺隆信(たかのぶ)は、享禄2年(1529年)2月15日に東館の天神屋敷で生まれているので、ここが龍造寺隆信生誕の地とされている。巨大な石碑のかたわらに隆信の胎盤を納めた胞衣塚がある。中ノ館と2つの西館は、現在は赤松小学校の敷地となり、グラウンド側が中ノ館跡で校舎側が西館跡となる。中ノ館跡の近くにある光円寺(佐賀市中の館町)は、龍造寺家の重臣・木下氏の屋敷があった場所である。隆信の家臣であった木下伊予守入道覚順(かくじゅん)の次男が京都で3年の修行をおこない、天文23年(1554年)中ノ館前の木下氏屋敷の一部に光円寺を建てたという。西館前にあった円蔵院(佐賀市中の館町)も龍造寺家兼によって建立された寺院である。円蔵院の北東角を流れるクリークには古い石積みが残されている。龍造寺氏の出自には諸説あり、藤原秀郷(ひでさと)の後裔とするもの、藤原姓高木氏とするもの、藤原兼隆(かねたか)の後裔とするものなどがある。いずれにしても藤原姓であることは確実である。その発祥は佐嘉郡小津東郷龍造寺村(佐賀市城内)で、地名から龍造寺氏を称した。この地には龍造寺という寺があり、高台にあったため遠く有明海からも望めるほどなので高寺と呼ばれていた。慶長年間(1596-1615年)の近世佐賀城(佐賀市城内)の拡張に伴い、龍造寺は現在地(佐賀市白山)に移されている。龍造寺氏は佐嘉郡の国人であり、少弐(しょうに)氏の被官であった。少弐氏は、鎌倉時代初期から戦国時代において肥前を含む九州北部一帯に大きな影響力を持った名族である。一族が大宰府(福岡県太宰府市)の次官少弐職を代々世襲したことから少弐氏を称するようになり、大宰府の所在地である筑前を本拠とした。文安4年(1447年)少弐教頼(のりより)は周防大内氏に追われて佐嘉に逃れ、13代当主・龍造寺家氏(いえうじ)を頼った。家氏は教頼を城西の与賀荘に迎えた。教頼の子・少弐政資(まさすけ)も、文明14年(1482年)大内氏によって大宰府から肥前に追われた。龍造寺家氏の子・康家(やすいえ)は、かつて少弐教頼が住した小津東郷に土地と居館を与えた。この居館を与賀館あるいは与賀城(佐賀市赤松町)といった。

与賀城ちかくの与賀神社(佐賀市与賀町)は、社伝によると欽明天皇の代(539-571年)に創建されたとあり、文明14年(1482年)少弐政資が与賀城の鬼門の鎮守としたとされる。現在の神殿・拝殿は、宝暦8年(1758年)佐賀藩6代藩主の鍋島宗教(むねのり)・7代藩主の重茂(しげもち)父子の造営である。朱塗りの楼門は室町時代に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。ちなみに、永禄6年(1563年)龍造寺隆信は少弐氏の居館であった与賀城跡に龍泰寺(佐賀市赤松町)を建立している。寺名は「龍造寺安泰」による。本堂・位牌所は、佐賀城の本丸広敷を解体移築したもので、位牌所の2階の花頭窓は大書院の古材を転用したものである。庫裏も大書院の古材を転用している。隆信は龍泰寺の縄張りを自らおこない、開山には叔父にあたる龍文寺(山口県周南市)の住職・要室(ようしつ)を招いた。隆信は戦いの合間に頻繁に参禅に来ており、法門に対する質問も数度おこない、九州を島津氏・大友氏と三分し「肥前の熊」と恐れられた隆信が、法門に向う時は身の毛もよだち手足も震え「法は恐るべきなり」と言ったと伝えられている。14代当主・龍造寺康家は、延徳年間(1489-92年)龍造寺家の本城である村中城(佐賀市城内)の南東に隣接する槙村に別館として水ヶ江館を構えた。水ヶ江というのは「龍の家(龍造寺の館)」の意味を持つという。ちなみに村中城は、県立佐賀西高等学校の付近に存在したという近世佐賀城の前身となる城で、村中城から佐嘉龍造寺城を経て近世佐賀城に発展していく。水ヶ江館に対して龍造寺村の中にあることから村中城という。明応7年(1498年)千葉胤繁(たねしげ)の高田城(小城市)が筑紫満門(つくしみつかど)・東尚盛(ひさもり)に攻撃された。康家には6人の男子がいた。長男の胤家(たねいえ)は、自重論を主張する次男の家和(いえかず)らとの意見の対立から家督を捨てて出兵するが、敗れて筑前に逃れている。他の兄弟は、三男に宝琳院(佐賀市鬼丸町)の澄覚(ちょうかく)法印、四男の大炊助、五男の家兼、六男に万寿寺(佐賀市大和町)の天亨和尚がいた。家督は龍造寺家和が継ぎ、先祖伝来の佐嘉郡小津郷龍造寺80町、与賀本荘80町、与賀荘1000町を譲られた。永正2年(1505年)龍造寺康家は水ヶ江館の東に新館を造り、そこに隠居した。これを水ヶ江御茶屋と称した。永正7年(1510年)に康家が没すると、隠居所であった水ヶ江館を継いだ五男・家兼は分家を立て、館を改修して水ヶ江城とした。これが水ヶ江龍造寺氏の始まりであった。当初の水ヶ江城は、東館(ひがしんたち)、中館(なかんたち)、西館(にしんたち)で構成されていた。享徳3年(1454年)に誕生した龍造寺家兼は、龍造寺氏の中興の祖と称される。当初は水ヶ江龍造寺家を興していたが、本家である村中龍造寺家が内部分裂や当主の早逝で力を弱めたため、一門の長老である家兼が本家を補佐する事となった。ところが、剛腹かつ智勇に優れた家兼は、たちまち本家を凌ぐ勢いを持ち、主家である少弐氏の筆頭家臣にまで上り詰めた。享禄3年(1530年)北九州の覇権をめぐる大内氏と少弐氏との間で田手畷(たでなわて)の戦いが起きた。大内義隆(よしたか)は肥前一国に追い詰めた少弐資元(すけもと)を討つため、筑前守護代の杉興運(すぎおきかず)に1万の大軍を預けて勢福寺城(神埼市神埼町)へ向けて侵攻させた。少弐方は龍造寺家兼および子の家純(いえずみ)・家門(いえかど)兄弟、神埼郡蓮池の小田政光(まさみつ)、少弐氏譜代の江上武種(えがみたけたね)、馬場頼周(よりちか)等であった。

龍造寺家兼は大内軍の先陣を破り、朝日頼貫(よりつぐ)を討ち取ったが、第二陣の杉興運・筑紫尚門(なおかど)が追い立てて、両軍は神埼郡田手で対陣した。兵力で劣る少弐軍の敗色は濃厚であったが、赤熊(しゃぐま)の毛を被り鬼面をつけた異形の集団が大内軍の側面から乱入した。この龍造寺陣の中にあった鍋島平右衛門清久(きよひさ)・平助清房(きよふさ)父子が率いる鍋島党による赤熊奇襲隊の活躍もあり、筑紫尚門・横岳資貞(よこだけすけさだ)等を討ち取り、遠征してきた杉興連を敗走させた。田手畷の戦いでの勝利を喜んだ家兼は、自分の孫娘を鍋島清房に嫁がせて姻戚関係を結び、鍋島氏を家臣として迎えた。この2人の間に誕生したのが鍋島信昌(のぶまさ)で、後に佐賀藩の藩祖となる鍋島直茂(なおしげ)である。この戦いを機に、家兼は大内義隆からも認められるようになり、少弐氏から離反して大内氏に従うよう勧められる。こうして少弐氏からの自立が進み、戦国大名としての道を歩み始めた。天文3年(1534年)大内義隆が家臣の陶興房(すえおきふさ)に少弐資元を攻撃させた際、水ヶ江城も襲われたが、留守を守る龍造寺氏の将・福地家盈(ふくちいえみつ)がよく防戦して興房を撃退している。天文5年(1536年)大内義隆は再び陶興房に少弐資元を攻撃させ、資元は自害した。この時、家兼は積極的に救援しなかった。天文7年(1538年)家兼は剃髪して剛忠(ごうちゅう)と号している。水ヶ江龍造寺家の家督は、長男・家純が病気を理由に固辞したため、次男・家門が相続した。このとき、水ヶ江城の東館に剛忠が移り、本館には当主の家門、中ノ館には家純、西館には家純の次男・純家(すみいえ)と三男・頼純(よりずみ)をそれぞれ配置したことが江戸時代に編纂された史料に記されている。勢力が大きくなり過ぎた龍造寺氏は、天文14年(1545年)少弐資元を見捨てた謀反人として、資元の跡を継いだ少弐冬尚(ふゆひさ)や馬場頼周ら家臣達によって粛清された。剛忠の子の家純・家門、孫の周家(ちかいえ)・純家・頼純・家泰(いえひろ)など多くの一族が殺されたが、剛忠は水ヶ江城を開城して筑後国一ッ木(ひとつき)に逃れ、柳川城主・蒲池鑑盛(かまちあきもり)の保護を受けた。剛忠は90歳を超えた高齢であったため、厳しい追及を受けずに済んでいる。剛忠は筑後に逃れる際、出家していた曽孫の円月(えんげつ)を伴った。後の龍造寺隆信である。享禄2年(1529年)龍造寺周家と慶ァ(けいぎん)の間に生まれた長男で、幼名を長法師丸といい、幼い時より聡明なため、天文5年(1536年)7歳で剛忠の三男・豪覚(ごうかく)和尚の宝琳院に入って中納言円月坊と号した。天文14年(1545年)蒲池氏の支援を受けた剛忠は再起のため挙兵、鍋島氏の協力もあり、馬場頼周・政員(まさかず)父子を討って龍造寺氏を再興した。この時、小田政光が城番していた水ヶ江城を奪還している。天文15年(1546年)剛忠は93歳で死去するが、遺言により円月が還俗して胤信(たねのぶ)と称し、水ヶ江龍造寺家を相続した。天文17年(1548年)本家の龍造寺胤栄(たねみつ)が亡くなったため、胤信はその未亡人を娶り、村中龍造寺家の家督も継承した。胤信が村中城に入ると、水ヶ江城は一族の龍造寺鑑兼(あきかね)が継いだ。この頃、胤信の家督相続に不満を持つ家臣も少なくなく、胤信はこれを抑えるために西国随一の戦国大名であった大内義隆と手を結び、天文19年(1550年)義隆から偏諱を受けて隆胤(たかたね)と改め、次いで隆信と改名した。隆信は大内氏の力を背景に家臣らの不満を抑え込んだ。

ところが、天文20年(1551年)大内義隆が陶隆房(たかふさ)の謀反により自害すると、隆信は後ろ盾を失い、親大友派の家臣・土橋栄益(みつます)らが龍造寺鑑兼を擁立して反乱を起こし、再び肥前を追われて筑後柳川城(福岡県柳川市)の蒲池鑑盛のもとに亡命した。鑑兼の名は大友義鑑(よしあき)の偏諱を受けたものであった。天文22年(1553年)隆信は蒲池氏の支援により挙兵し、村中城の奪還を果たしている。鑑兼は若年の傀儡当主に過ぎなかったため助命されたが、水ヶ江城は隆信の弟・龍造寺長信(ながのぶ)に与えられ、水ヶ江龍造寺家の家督も譲っている。永禄2年(1559年)隆信は勢福寺城の少弐冬尚を自害に追い込み、名門少弐氏を滅ぼした。また、肥前の国人を次々と降し、永禄5年(1562年)までに東肥前の支配権を確立している。同年、隆信が多久氏を降すと、長信はその居城である梶峰城(多久市)に移った。のちに35万7千石の佐賀藩が成立して佐賀城が藩庁になると、藩祖・鍋島直茂は長信と相談のうえ、水ヶ江城の本館跡に乾亨院、玉峯軒、聴松軒、泰陽軒の4寺を建立したとされる。このことから、水ヶ江城は長信の移転後も、水ヶ江龍造寺氏(後の多久氏)の持ち城であったものと考えられる。永禄6年(1563年)肥前国島原半島の大名である有馬義貞(よしさだ)が東肥前に侵攻するが、隆信は丹坂峠の戦いで有馬軍を破り、西肥前にも勢威がおよぶようになった。永禄13年(1570年)3月、豊後の戦国大名・大友宗麟(そうりん)は、肥前で勢力拡大する龍造寺隆信を討伐するため、3万3千の兵を率いて龍造寺領に攻め込んでいる。高良山(こうらさん)の筑後吉見岳城(福岡県久留米市)を本陣として、北・東・西の3方面から村中城を遠巻きに包囲した。龍造寺側は村中城に戦力を集めて5千の兵で籠城、数ヶ月におよび頑強に抵抗した。8月になると宗麟は、甥とも弟ともいわれる大友八郎親貞(ちかさだ)に3千の兵を与えて、村中城北方の今山に布陣させ、20日をもって総攻撃と定めた。後詰めのない龍造寺氏に勝機はなかった。総攻撃の前夜、今山の本陣では酒宴を開き、大友軍の統率が緩んでいた。この状況を知った龍造寺氏の家臣・鍋島信生(後の直茂)は、敵本陣に夜襲をかけることを進言、隆信は否定的であったが、母の慶ァ尼が叱咤したためこれを容認した。19日夜半、鍋島信生は500名の兵で村中城を密かに出撃、卯の刻(午前6時)頃、法螺貝や釣鐘を鳴らさせ、鬨の声を上げて今山の本陣へ殺到した。不意を突かれた大友軍は逃げ惑い、同士討ちするなど混乱、その中で龍造寺四天王の成松信勝(なりまつのぶかつ)が寄せ手の大将である大友親貞を討ち取って、夜襲は成功している。これが「佐賀の桶狭間」とも称される今山の戦いである。この戦いの後も、大友宗麟による村中城の包囲は続き、9月になって中国地方を支配する毛利元就(もとなり)の仲介により和議が結ばれ、大友軍は撤退した。大友氏への帰属が和議の条件であったが、肥前中東部の領有が認められている。天正6年(1578年)耳川の戦いで大友宗麟が島津氏に大敗すると、龍造寺軍が大友氏の領内に侵攻するなど、大友氏を圧倒するに至る。龍造寺隆信は、短期間に戦国大名としての最盛期を築き、肥前・筑前・筑後の全て、肥後・豊前の大部分、壱岐・対馬を支配して「五州二島の太守」と呼ばれ、龍造寺氏を島津氏・大友氏と肩を並べるまでの大大名に成長させた。16世紀後半の龍造寺氏の急成長に伴い、村中城は大規模化していき、恐らく16世末頃には水ヶ江城や廃城になっていた与賀城跡が城下町に取り込まれて佐嘉龍造寺城に発展したものと考えられる。(2019.03.01)

乾亨院と佐賀の乱の墓碑3基
乾亨院と佐賀の乱の墓碑3基

木下氏屋敷跡の光円寺四脚門
木下氏屋敷跡の光円寺四脚門

円蔵院の北東角の古い石積み
円蔵院の北東角の古い石積み

与賀城跡に建てられた龍泰寺
与賀城跡に建てられた龍泰寺

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