都之城(みやこのじょう)

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都城という地名の起源となり、鎌倉時代から続く北郷氏(都城島津氏)累代の本城

公園入口付近に建つ模擬櫓門
公園入口付近に建つ模擬櫓門

宮崎県の南西部に位置する都城市は、東を鰐塚山系、西を霧島山系に囲まれた広大な都城盆地の中にある。都城盆地を流れる大淀川(おおよどがわ)、その川沿いに都之城が存在した。典型的な南九州型の城郭で、シラス台地を活かした大きな複数の曲輪で一つの城域を成立させている。現在の都城という地名は、この都之城から発祥しており、都城地方では最も大きく、築城から240年続いた重要な城であった。JR日豊本線の西都城駅から南西約1kmの場所にあった都之城は、大淀川に守られた東端に御本丸を置き、その西側に西城、南に中之城、南西に外城を配置、それら曲輪のさらに西側に池之上城、中尾城、中尾之城、北西側に新城、取添(とりぞえ)、南側に南之城、小城という規模の大きな曲輪が複数存在した。この都之城には、弓場田口、来住口、大岩田口、中尾口、鷹尾口という5つの出入口があり、警備のためそれぞれに城兵を配置していた。現在は本丸跡と西城跡が城山公園の一部として整備されている。東側に腰曲輪を伴った本丸の比高は20mほどで、城郭建築風の都城歴史資料館と静山亭という茶室が建てられている。静山亭の西側に入口の階段があるが、この付近が本丸虎口跡のひとつで、これ以外はL字やT字路で城内を直接見渡せないのに対し、この虎口は長い直線的な通路が特徴である。本丸内部は90m×60m程で、昭和63年(1988年)から平成2年(1990年)まで実施した発掘調査により、館跡、物見櫓跡、鍛冶工房跡、門跡、布掘り工法の塀跡などが見つかっている。本丸の中心となる館は、現在の資料館の位置にあたる本丸の北側に存在したことが明らかとなり、比較的大きな遺構が見つかった。資料館から橋を渡った狭野神社の境内が西城跡であり、南北に細長い曲輪で50m×120m程の規模がある。また資料館と狭野神社の間の通路が堀切跡となる。この堀切は幅20m、深さ7mほどあり、かなり幅広である。狭野神社の創立は不明であるが、初代天皇である神武天皇を祀り、都城でも相当な古社であるという。都島と呼ばれる当地は、神武天皇の宮居跡地として知られる。神武東征以前の話である。のちに神武天皇となる狭野命(さののみこと)は、幼年期にかつて山幸彦こと彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が住んでいた都島に宮居を移した。そして、青年期に父の鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の命により宮崎に向かうまでここで暮らしている。本丸北側の公園入口付近には、城山大手門という模擬櫓門が建てられている。これは都城産杉を使用した単層の脇戸附櫓門である。その他、周辺の曲輪の多くは宅地となったが、一部には土塁が残されているようである。都之城の城域の真ん中をJR日豊本線が貫通しており、本丸と中之城の間は線路で分断されている。日向・大隅・薩摩の3国にまたがり日本最大級の荘園といわれる島津荘は、万寿3年(1026年)大宰府(福岡県太宰府市)の役人であった平季基(すえもと)が諸県郡島津院(都城市郡元町付近)を開発して、関白の藤原頼通(よりみち)に寄進したことに始まる。渡来人系の秦氏の流れをくむ惟宗広言(これむねのひろこと)は、藤原摂関家筆頭である近衛家の島津荘の荘官(下司)となり、その養子とされる左衛門尉忠久(ただひさ)が薩摩島津氏の祖である。元暦2年(1185年)源頼朝(よりとも)から島津荘の地頭に任じられ、後に島津氏を称したのが始まりとなる。惟宗忠久の生母は、鎌倉幕府の有力御家人である比企能員(ひきよしかず)の妹・丹後局(たんごのつぼね)であった。比企能員は頼朝の乳母である比企尼(ひきのあま)の甥であり、のちに比企尼の養子になっている。

当時、西日本各地の荘園に派遣された御家人の大部分が東国出身の在地領主であったのに対し、惟宗氏のように近衛家の下級家司(けいし)は珍しかった。しかし、比企氏との関係から頼朝に重用されて、建久8年(1197年)薩摩・大隅・日向国の守護職に任ぜられている。このため、島津忠久には「頼朝の落胤説」もあるが、有力視されていない。建久8年(1197年)忠久は島津荘に入り、島津荘の中心地である祝吉(いわよし)に居館を構えたため、都城市は島津家発祥の地となっている。現在、その祝吉御所(都城市郡元町)跡と伝えられる場所には顕彰碑が立てられている。しかし頼朝が死去すると、建仁3年(1203年)比企能員の変が勃発、島津忠久も連座して島津荘の下司職や、薩摩・大隅・日向国の守護職を失っている。建暦3年(1213年)薩摩国守護職にのみ復帰し、2代忠時(ただとき)、3代久経(ひさつね)と続いた。島津氏4代当主である下野守忠宗(ただむね)には7人の男子がおり、南北朝の争乱においてそれぞれが北朝側に従い九州各地で戦った。長男・上総介貞久(さだひさ)が島津宗家の家督を継ぎ、6人の弟達は恩賞として各地の地頭に任ぜられた。次男・下野守忠氏(ただうじ)は和泉(いずみ)氏、三男・山城守忠光(ただみつ)は佐多(さた)氏、四男・近江守時久(ときひさ)は新納(にいろ)氏、五男・安芸守資久(すけひさ)は樺山(かばやま)氏、六男・尾張守資忠(すけただ)は北郷(ほんごう)氏、七男・九郎左衛門尉久泰(ひさやす)は石坂氏を興し、南九州の各地に蟠踞、のちに「七人島津」と呼ばれるようになる。六男の資忠は、筑前国金隈(かねくま)の合戦などで戦功をあげ、文和元年(1352年)室町幕府から島津荘日向方北郷300町を与えられて北郷氏を称した。北郷氏は島津氏の分家であったが、室町幕府から直接恩賞を与えられており、足利将軍家や幕府との関係は宗家と身分対等とされた。この関係は江戸末期まで変わらず、薩摩藩内の私領領主として徳川将軍に拝謁を許されるなど異例な立場にあった。北郷資忠は薩摩迫(さつまざこ)に入って薩摩迫館(都城市山田町中霧島)を築くが、庄内(都城盆地)には数多くの有力な在地領主が存在し、それらの勢力に押されていた。永和元年(1375年)北郷氏2代当主である讃岐守義久(よしひさ)によって、島津荘南郷の都島に都之城が築城された。同年(1375年)島津氏6代の氏久(うじひさ)が九州探題の今川了俊(りょうしゅん)と対立した際、永和3年(1377年)北郷義久の籠城する都之城が今川満範(みつのり)率いる5千の大軍に包囲され、永和4年(1378年)再び都之城が包囲されて籠城戦となっている。北郷氏はわずか80名の寡兵ながら奮戦、島津氏久も後詰として都之城南方の天ケ峯に陣取り、翌永和5年(1379年)都之城西方の本の原で島津軍と今川軍が激突、北郷義久も都之城から出撃して激戦となった。この蓑原(みのばる)の戦いでは大きな犠牲を払いながらも島津軍が勝利し、今川満範は都之城を落とすことができず敗退した。島津方と今川方の戦いは、応永2年(1395年)了俊が九州探題を罷免されるまで続き、明徳5年(1394年)梶山城の戦いでは北郷氏3代の久秀(ひさひで)が討死している。正長元年(1428年)室町幕府6代将軍を決めるくじ引きに外れた大覚寺門跡の義昭(ぎしょう)は、将軍に選ばれた足利義教(よしのり)から警戒されて命を狙われ、日向国に逃れて庄内中郷に潜伏した。北郷氏5代の持久(もちひさ)は義昭を匿ったが、義教の知るところとなり、薩摩・大隅・日向国守護職であった島津氏9代の忠国(ただくに)とともに義昭を討ち取った。

時は過ぎて、8代将軍の足利義政(よしまさ)の代になって、北郷持久が義昭を匿ったという過去の罪に問われることとなり、幕府による北郷氏追討の命令が下された。享徳2年(1453年)事態を憂慮した島津忠国は、北郷持久から都之城を没収し、三俣院高城(都城市高城町)に閉居を命じた。寛正6年(1465年)閉居を許された持久は薩摩迫に移り、応仁2年(1468年)安永城(都城市庄内町)を築き居城とした。そして、文明8年(1476年)北郷氏6代の敏久(としひさ)は、島津氏11代の忠昌(ただまさ)の命により都之城に復帰することができた。文明17年(1485年)伊作家の島津久逸(ひさやす)が佐土原城(宮崎市佐土原町)の伊東祐国(すけくに)と共謀して島津宗家に叛旗を翻した。伊東祐国らは新納忠続(ただつぐ)の守る飫肥城(日南市飫肥)に攻め寄せたので、島津忠昌は北郷敏久に先鋒を命じて救援に向かった。敏久は祐国を見事に討ち取り、褒賞として中郷300町を与えられている。戦国時代になると、島津宗家の弱体化により島津一族や国人領主は互いに抗争を始め、北郷氏は伊東氏、北原氏、新納氏、本田氏ら四方に敵を抱えて戦い続けて、次第に衰退していった。中興の祖といわれる北郷氏8代の忠相(ただすけ)は、伊東尹祐(ただすけ)の猛攻に対し、都之城と安永城の兵800名でかろうじて領地を維持している状態だったが、大永3年(1523年)尹祐の急死によって伊東氏と和議を結ぶ。これが転機となって、本田親尚(ちかなお)や新納忠勝(ただかつ)を攻撃、次第に領域を拡大していく。さらに都之城の大規模な改修を手掛け、南九州有数の規模で、堅固な城となった。天文元年(1532年)豊州家の島津忠朝(ただとも)、北原久兼(ひさかね)と密約し、三方から伊東氏の三俣院高城に侵攻、この不動寺馬場の戦いによって伊東氏に壊滅的な打撃を与えて撤退させた。天文3年(1534年)こうして三俣院の奪還に成功、その後も飫肥の豊州家と協力関係を続けて、志布志の新納氏を攻略して佐土原へと亡命させている。さらに北原・伊東連合軍と激突、長期におよぶ戦いは激化していった。その中で北郷忠相は勢力を拡大していき、庄内一円を統一するに至った。後に庄内十二外城と呼ばれる支城群を整備して、都城盆地全体を守る体制を整えている。一方、豊州家は伊東氏に領土を侵食されていった。嫡男を失った島津忠広(ただひろ)は、北郷忠相に驚くべき申し入れを伝えた。それは、忠相の嫡男である忠親(ただちか)に島津豊州家の跡継ぎを頼みたいというものである。天文15年(1546年)北郷忠相は、忠親の嫡男・時久(ときひさ)を跡継ぎとし、忠親を豊州家の養子として送り出した。北郷家の家譜では、忠親を9代当主として位置付けている。その後、北郷氏10代当主となった時久は、島津宗家、豊州家と協力して、伊東氏や大隅の肝付氏と戦いを続けた。その後、豊州家は衰退してしまうが、天正4年(1576年)島津宗家16代の義久(よしひさ)が調略によって伊東氏の弱体化に成功、伊東義祐(よしすけ)は佐土原、都於郡を捨てて、豊後の大友宗麟(そうりん)のもとに落ち延びた。これによって、島津義久は、薩摩・大隅・日向国を統一する。北郷氏も領地を広げ、大隅国恒吉(鹿児島県曽於市恒吉町)、外港の内之浦(鹿児島県肝属郡肝付町)など、日向国諸県郡から大隅国曽於郡の大部分を治めた。さらに島津宗家は、破竹の勢いで肥後・肥前・筑後と平定していき、豊後の大友氏を圧迫して九州統一まで目前に迫っていた。しかし、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐によって島津宗家は降伏、北郷時久は最後まで抵抗するがついに降った。

文禄4年(1595年)太閤検地により北郷氏は、それまでの6万9千石から薩摩国祁答院(けどういん)3万6千石に減封となり、代わって島津氏の筆頭家老で、親秀吉派である伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が大隅国鹿屋から都之城に入り、諸県郡庄内など8万石を領した。秀吉は忠棟を高く評価しており、石田三成(みつなり)ら奉行衆とも懇意になった。忠棟は豊臣家との関係を深めることにより、島津家内での権勢を高めていき、次第に主家からも危険視されるようになった。伊集院氏の伏見屋敷は、島津氏よりも遥かに大きく、島津氏の屋敷を見下す高台に築かれたという。そして、慶長4年(1599年)伊集院忠棟は、伏見島津邸で島津忠恒(ただつね)に斬殺された。これを知った忠棟の嫡子である源次郎忠真(ただざね)は、都之城をはじめ、庄内十二外城に軍勢を入れて徹底抗戦に出た。この庄内の乱では、旧領回復を目指す北郷氏の活躍が際立った。戦いは膠着し、慶長5年(1600年)徳川家康の仲介により忠真は降り、内乱は幕を閉じた。庄内の乱は関ヶ原の戦いの直前まで続いたため、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかったともいわれる。ちなみに伊集院忠真は、慶長7年(1602年)日向野尻での狩りの最中に島津忠恒の命によって射殺されている。庄内の乱の後、伊集院氏に代わって北郷氏12代の忠能(ただよし)が4万1千余石を領して都之城主に復帰した。島津忠恒は初代の薩摩藩主となり、北郷忠能はその家臣として従う。しかし北郷氏は私領領主として重きをなし、薩摩藩島津家の家臣の中で最大の石高を保持した。元和元年(1615年)一国一城令により、都之城は廃城となった。それと同時に、北郷氏やその家臣が政務をおこなう場所として、盆地底の扇状地面に新たに領主館(りょうしゅやかた)を建設した。この都城領主館(都城市姫城町)は、現在の都城市役所付近にあった。領主館の南側は川や崖となるため、城内への出入口は東口・北口・西口が設けられ、それぞれに番所が置かれた。そして、都之城の城下にあった侍屋敷や町屋も移して、領主館を中心とした新しい町を興しており、それが現在の都城市街地の原型となった。寛文3年(1663年)北郷氏17代当主となった忠長(ただなが)は、藩主の命により島津氏を称した。江戸時代の都城島津氏の知行地は、五口六外城制で管理されていた。これは領内を5つの口と6つの外城(郷)の11区画に分割して統治するもので、都城島津氏が江戸末期に編纂した『庄内地理志』によれば、口は弓場田口、来住口、大岩田口、中尾口、鷹尾口と都之城時代の出入口の名称を踏襲したもので、外城は安永(やすなが)外城(都城市庄内町)、山田(やまだ)外城(都城市山田町)、志和池(しわち)外城(都城市上水流町)、野々三谷(ののみたに)外城(都城市野々美谷町)、梶山(かじやま)外城(三股町長田)、梅北(うめきた)外城(都城市梅北町)と庄内十二外城の一部で構成されており、それぞれに地頭を置いて支配させていた。この他に領主館のある地域を麓(ふもと)と呼んだ。すなわち、麓を中心に周囲を五口が固め、さらにその外側を六外城が取り囲むように配置されており、外敵から領主館を防衛することを目的としていた。地頭の多くは北郷姓で、すなわち一門衆が配置されていたことも判る。これは島津宗家の薩摩鶴丸城(鹿児島県鹿児島市)を中心とした外城制度を、そのまま都城に取り入れたもので、4万余石におよぶ広大な私領を幕末まで支配するための特徴的な制度であった。領主館の北方、現在の摂護寺(都城市牟田町)の境内は、都城島津家の米蔵屋敷跡であり、通用門が現存している。(2015.03.12)

断崖となる本丸東側の城壁
断崖となる本丸東側の城壁

本丸西端の門跡から見る本丸跡
本丸西端の門跡から見る本丸跡

本丸南端に位置する物見櫓跡
本丸南端に位置する物見櫓跡

現存する島津家の米蔵屋敷門
現存する島津家の米蔵屋敷門

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