水戸城(みとじょう)

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徳川御三家のひとつ水戸徳川氏の簡素な居城

本丸跡に現存する橋詰門
本丸跡に現存する橋詰門

千波湖(せんばこ)と那珂川に挟まれた東西に長い水戸台地の東端に水戸城は築かれた。東から下之丸、本丸、二之丸、三之丸と続く連郭式平山城である。南側に大きく広がっていた千波湖と、北側を流れる那珂川を天然の外堀とし、東側は低湿地であったため、西側だけが陸続きになっていた。下之丸は東二之丸とも浄光寺曲輪ともいい、現在は水戸第一高校の運動場になっている。曲輪の東端に浄光寺門、その南側に物見櫓があった。水戸第一高校の校舎がある場所は本丸跡だが、城米の保管蔵と思われる板蔵が4棟あるのみで、近世水戸城の中心は二之丸であった。本丸の北西隅と南西隅にそれぞれ2層2階の物見櫓が存在、二之丸とは深い空堀で仕切られており、現在は堀底をJR水郡線が通過している。本丸と二之丸は本城橋で連結し、本丸側には薬医門形式の橋詰門が存在した。この橋詰門は安土桃山時代の建築様式が見られることから佐竹氏時代に造られたものと推定されており、そのまま水戸徳川氏に引き継がれ、現在は水戸第一高校の敷地に移築現存している。二之丸は、本城橋から西に伸びる道路の北側(現在の水戸第二中学校)に土木小屋、杉山口門、祠堂(歴代藩主御廟)、彰考館(しょうこうかん)などが建ち、南側(水戸第三高校、茨城大学附属小学校・幼稚園)に二之丸屋形(御殿)および御三階櫓が建造され、東側に柵町口門、南端には二之丸帯曲輪、南西隅に角櫓、西側には大手門が枡形を伴って存在した。水戸城には天守が造られなかったため、寛永年間(1624-44年)に造営された御三階櫓を天守の代用としており、水戸城のシンボル的存在であった。水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれるもので、当初は茅葺きであった。その後、明和元年(1764年)に焼失したが、明和3年(1766年)に再建されたものは実質上の天守であった。この御三階櫓は独立式層塔型3層5階の櫓で、石垣の櫓台ではなく地面の礎石の上に直接建てられていた。そして、初重下部を石垣の代わりに海鼠壁で覆い、あたかも石垣をイメージさせるもので、古写真によると非常に趣のある建物であった。三之丸に渡るための大手橋は、文禄5年(1596年)佐竹氏時代に架けられた橋がそのまま利用された。三之丸は北三之丸、中三之丸、南三之丸の3地区に分かれ、重臣屋敷が建ち並んでいたが、天保12年(1841年)中三之丸に藩校の弘道館(こうどうかん)が建設された。三之丸の西側には町屋地区とを区画する大規模な堀と土塁が現存し、古絵図から空堀であったことが確認できる。水戸城は関東地方の特徴である土塁、土堀の城郭で、近世になっても石垣は使用されなかった。石垣構築の計画は2度あり、慶長14年(1609年)徳川家康が水戸城代の芦沢信重(のぶしげ)に石垣構築を命じて、元和元年(1615年)本多正信(まさのぶ)、酒井忠世(ただよ)に準備をさせた。しかし、翌元和2年(1616年)家康が没したため実現しなかった。次に寛永13年(1636年)江戸幕府3代将軍の徳川家光(いえみつ)も石垣構築を命じ、石材の切り出しをおこなっていたが、慶安4年(1651年)家光が没したため結局実現しなかった。このため、徳川御三家のひとつ水戸徳川家の居城にしては非常に質素で、同じ御三家である尾張藩の尾張名古屋城(愛知県名古屋市)や紀州藩の紀伊和歌山城(和歌山県和歌山市)とは比べものにならない。徳川御三家の天守はそれぞれ昭和まで現存していたが、太平洋戦争の空襲によって全て焼失しており、水戸城の御三階櫓だけ再建されなかった。水戸藩は佐竹氏の居城をあまり改修しなかったため、水戸城には戦国時代の佐竹氏の築城術がよく残ると言われている。

水戸城の築城は古く、平安時代末期から鎌倉時代初期にまで遡る。平安時代中期に常陸国の大掾(だいじょう)職に任命された平国香(くにか)は、常陸国を本拠として桓武平氏国香流の祖となる人物である。承平5年(935年)一族間の争いから甥の平将門(まさかど)と戦い、石田館(筑西市)で敗死、これは承平天慶の乱(平将門の乱)に発展していく。天慶2年(939年)将門は常陸・下野・上野の国府を次々と占領、上野国で八幡大菩薩の使いという者の託宣を受けて、天皇に対して新皇を称し、常陸・下野・上野・武蔵・相模・伊豆・下総・上総・安房の関東9ヶ国を制圧して独立国を築いた。翌天慶3年(940年)平国香の長男貞盛(さだもり)は下野国押領使の藤原秀郷(ひでさと)とともに将門を相手に戦い、ついに将門を討ち取った。平貞盛は常陸国に多くの所領を得て、甥の維幹(これもと)を養子として継がせた。この平維幹は常陸国の大掾職に任命され、子孫は代々大掾職を世襲したため大掾氏と名乗るようになる。大掾氏は吉田、豊田、行方、鹿島、真壁、東条、下妻、小栗といった有力な8支族をはじめ多くの分家を輩出した。平安時代末期、大掾氏は常陸国の在庁官人の頂点に君臨し、嫡流は筑波郡多気に本拠を置いて多気氏を名乗って栄えた。大掾氏庶流の吉田太郎盛幹(もりもと)の子で、那珂川北岸の諸郷を領した長男の吉田太郎幹清(もときよ)と、那珂川南岸の諸郷を領した次男の石川次郎家幹(いえもと)は吉田郡内で勢力を伸ばした。この石川家幹の次男が馬場小次郎資幹(すけもと)と名乗り、水戸城の前身である馬場城(馬場館)を築いたと伝わる。この馬場資幹が築いた居館は、近世水戸城の下之丸あたりに存在したという。建久4年(1193年)大掾氏嫡流の多気義幹(たけよしもと)が、常陸国守護職の八田知家(はったともいえ)の讒言により失脚すると、庶流の馬場資幹(すけもと)が大掾氏の惣領となり大掾職に任官した。その後、馬場大掾氏は府中の府中城(石岡市)に移り、馬場城は一族が在城する水戸地方支配の拠点となる。室町時代初期、室町幕府3代将軍の足利義満(よしみつ)の頃に、惣領の大掾満幹(みつもと)が馬場城を改修した記録が残っている。応永23年(1416年)前関東管領の上杉氏憲(うじのり)が鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)に対して反乱(上杉禅秀の乱)を起こすと、大掾満幹をはじめとする大掾一族は上杉氏憲に味方した。結局、上杉氏憲は破れて鶴岡八幡宮で自害し、足利持氏によって上杉氏憲の残党狩りや、加担した豪族の処罰がおこなわれる。大掾氏も水戸周辺の所領を没収され、鎌倉公方派であった河和田城(水戸市河和田)の江戸但馬守通房(みちふさ)に与えられた。大掾満幹は馬場城の明け渡しを拒否し、城を占拠し続けたが、応永33年(1426年)大掾一族が青屋ノ祭事(青屋祭)に参列するため府中に集まり留守にしている隙に、江戸通房によって馬場城を急襲されて奪われた。その後、大掾氏はたびたび馬場城の奪回を企てたが成功せず、以後は江戸氏累代の居城となった。永享元年(1429年)大掾満幹父子は足利持氏の命により鎌倉で殺害され、常陸平氏嫡流の大掾氏は府中周辺の一勢力に没落する。江戸通房に占拠された馬場城は大掾氏時代から拡張されて、近世水戸城本丸部の内城(うちじょう)、二之丸部の宿城(しゅくじょう)、下之丸部の浄光寺の3曲輪より構成され、江戸氏7代の居城として164年間続く。また、この頃より水戸という地名が使われ始めた。江戸氏は藤原秀郷流那珂氏の一族と伝えられており、名目上は常陸国守護職の佐竹氏に属していた。

享徳元年(1452年)13代当主の佐竹義俊(よしとし)が弟の実定(さねさだ)に追放される事件が起こると、江戸通房は実定側に加担、佐竹氏の内訌を利用して独立性を強め、水戸周辺に領土を拡大する。延徳2年(1490年)佐竹義治(よしはる)が没すると、佐竹義舜(よしきよ)が15代当主を継いだ。ところが、有力支族の山入義藤(よしふじ)、氏義(うじよし)父子を盟主とする山入一揆と、それに加担する江戸氏らの攻撃によって、佐竹義舜は居城である太田城(常陸太田市)を奪われてしまう。この時、江戸氏は水戸北西部の佐竹領を押領している。明応元年(1492年)山入義藤が没すると、明応2年(1493年)磐城地方の岩城親隆(ちかたか)、常隆(つねたか)父子の斡旋により、孫根城(城里町)に逃れていた佐竹義舜と山入氏義の和議が成立し、江戸氏も押領地を返還した。ところが山入氏は太田城を明け渡さず、逆に孫根城の佐竹義舜を攻めた。これに対し江戸氏は佐竹義舜に協力して、永正元年(1504年)太田城を奪還して山入氏を滅ぼしている。これによって江戸通長(みちなが)、通雅(みちまさ)の勢力は佐竹領にも及ぶようになった。そして永正7年(1510年)佐竹義舜は江戸通雅、通泰(みちやす)父子に対して佐竹一族と同格の待遇(一家同位)とする起請文を与えて、江戸氏を独立した勢力と認め、江戸氏の戦国大名化が実現した。佐竹氏と江戸氏は協調して、佐竹氏が北方の陸奥南部、江戸氏が南方の常陸南部というように方向を定めて勢力を伸ばす。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、江戸重通(しげみち)は小田原北条氏の働きかけにより秀吉の動員令に応じなかった。一方、18代当主の佐竹義重(よししげ)は小田原に参陣して秀吉から常陸国に54万石の支配権を認められた。佐竹義重、義宣(よしのぶ)父子は秀吉の朱印状を後ろ盾に常陸国の平定に乗りだす。まず、江戸氏に馬場城の明け渡しを要求するが拒否されたため、総攻撃により馬場城を占拠、江戸重通は結城城(結城市)の結城晴朝(はるとも)を頼って逃れた。ついで府中城を攻撃して大掾氏を滅亡させている。翌天正19年(1591年)には南方三十三館と呼ばれる鹿島、行方郡の国人領主を太田城に招いて全員を謀殺した。全国屈指の大大名となった佐竹義宣は、居城をそれまでの太田城から馬場城に移して水戸城と改めた。そして水戸城の大改修をおこない、内城を古実城(こみじょう)と称して本丸に、宿城を天王曲輪と称して二之丸にして、さらに浄光寺曲輪、三之丸を設置した。また城の正面を東側から西側に移し、橋詰門や大手門を建て、城下町を整備するなど近世水戸城の基礎を作りあげた。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において、佐竹氏は旗色を鮮明にしなかったため、慶長7年(1602年)徳川家康によって出羽国久保田18万石に減封を命じられた。佐竹氏の水戸在城はわずか12年であった。佐竹氏が秋田に移るとき、領内の美人をすべて連れていったため、秋田には美人が多く、茨城には美人が少ないと言われている。他にも、佐竹氏が秋田に入封するとハタハタの漁獲量が伸び、一方の常陸では全く獲れなくなったため、ハタハタが佐竹氏を追って秋田に行ったと伝わる。また金銀などの鉱物資源についても同様な伝説が残っており、佐竹氏が領民から慕われていたことが伺える。佐竹氏家臣の車丹波守猛虎(たけとら)は接収された水戸城奪還のため、大窪兵蔵久光(ひさみつ)、馬場和泉守政直(まさなお)らと一揆を企て、300余騎で水戸城に押し寄せたが、徳川方の松平康重(やすしげ)らに鎮定され、車猛虎ら首謀者は吉田台(水戸市吉田町)で磔刑に処せられた。

車猛虎には嫡子がおり、この善七郎は徳川家康を父の仇として恨んだ。そして、植木職人となって家康暗殺のため武蔵江戸城(東京都千代田区)に潜り込み、植木バサミを家康の顔面めがけて投げつけた。しかし、ハサミは家康に命中せず暗殺は失敗、城内は騒然となったが、家康の寛大な措置で許されている。ところが善七郎は、再び家康暗殺を企てて失敗している。再度許された善七郎は江戸浅草の非人頭に任命され、車善七の名を代々世襲したという。家康の治世になると、水戸城には下総国佐倉より武田信吉(のぶよし)が15万石で封ぜられた。武田信吉とは家康の五男で、織田信長に滅ぼされた甲斐武田氏の断絶を惜しんだ家康が武田の名跡を継がせたものである。しかし、翌慶長8年(1603年)武田信吉は嗣子なく早世したため、家康十男の徳川頼宣(よりのぶ)を20万石で封じ、慶長14年(1609年)には徳川頼宣を駿河国駿府に移して、下妻から家康十一男の徳川頼房(よりふさ)を25万石(のちに28万石に加増)で封じた。この徳川頼房が徳川御三家のひとつ水戸徳川家の祖であり、初代の水戸藩主であった。2代藩主の徳川光圀(みつくに)は水戸黄門として有名で、明暦3年(1657年)より『大日本史』の編纂に着手、水戸藩および水戸徳川家の事業として引き継がれ、明治39年(1906年)の完成まで250年の歳月を費やしている。この『大日本史』の編纂が水戸学の源流となり、水戸藩に尊王思想が育ったと言われる。3代藩主の徳川綱條(つなえだ)の時代に35万石となるが、水戸城には天守はなく、櫓や多聞も極端に少ない。この質朴さが水戸徳川家の家風と言われている。三之丸跡に現存する国指定特別史跡の弘道館は水戸藩の藩校で、正門、正庁および至善堂が国の重要文化財に指定されている。9代藩主徳川斉昭(なりあき)によって天保12年(1841年)に開館し、文武両道の理念のもと儒教、剣術、槍術、数学、天文学、医学、薬学、蘭学など幅広い内容で人材育成した。江戸幕府15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)も5歳の時から弘道館において教育を受けたという。徳川斉昭は天保13年(1842年)に偕楽園も創設している。偕楽園の名称は『孟子』の「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」という一節から取ったもので、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三大庭園に数えられる。偕楽園は庭園という名目で造営されたが、有事の際の隠し砦でもあったという。江戸時代において大名庭園の名目で出丸が造られる例は少なくなく、水戸城の弱点である西側を補う出城としての側面も持っていた。偕楽園南側の崖の上に建つ2層3階の好文亭は、まるで櫓のようである。幕末の尊王攘夷という思想は水戸藩から始まった。安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結や安政の大獄によって、尊王志士達から恨まれていた大老の井伊直弼(なおすけ)は、安政7年(1860年)桜田門外の変によって水戸藩浪士に暗殺される。水戸藩内でも尊皇派の天狗党と佐幕派の諸生党が対立していた。元治元年(1864年)天狗党が尊王攘夷を旗印に筑波山で挙兵する事件が発生した。この天狗党の乱は諸藩を震撼させたが、武田耕雲斎の率いる天狗党の主要メンバーが越前国新保で加賀藩に投降して、幕府の命により全員処刑された。これにより水戸藩は諸生党に占拠されて完全な佐幕派となってしまう。明治元年(1868年)戊辰戦争において新政府軍が幕府勢力を一掃する中、会津戦争から敗走してきた諸生党は、水戸城にて天狗党と戦った。この時の弘道館の戦いによって弘道館の文館、武館、医学館、天文台や、水戸城の多くの建物を焼失している。(2007.01.27)

三之丸に現存する弘道館正庁
三之丸に現存する弘道館正庁

中三之丸の北側の土塁
中三之丸の北側の土塁

偕楽園の要害に建つ好文亭
要害に建つ偕楽園の好文亭

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