松任城(まっとうじょう)

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加賀一向一揆の松任組の本拠で、上杉謙信と織田軍による手取川の戦いの舞台となった平城

内堀石垣と太鼓橋の一部復元
内堀石垣と太鼓橋の一部復元

松任(まっとう)は加賀平野の中心に位置し、古くから北国街道の宿場町として栄えた。JR北陸本線の松任駅前にある松任城址公園は、松任城の本丸跡である。松任城址公園は、かつて「おかりや公園」という名前であったが、この「おかりや」とは、松任城二ノ丸の作食蔵(さくじきぐら)跡に、文政2年(1819年)若宮八幡宮(白山市若宮)の御仮屋(おかりや)が設けられ、遷座されたことに由来しており、本丸跡を含めて「おかりや」と呼ばれるようになった。松任城にどのような建物があったかを示す史料は確認されていないが、廃城から約60年後に描かれた『松任城古図』によれば、本丸、二ノ丸、三ノ丸、矢倉台、出丸等の郭を備え、それらは幅9-23mの水堀や、空堀、土塁により守られていた。往時の松任城は、古城町を中心に殿町、西新町にまたがって存在した。外堀で区画された地域は、南北305m、東西301m余の規模であったと推測される。松任城の北西端隅にあたる松任金剣宮(白山市西新町)は、松任城主であった鏑木(かぶらぎ)氏の社殿造営によって壮麗を極めたと伝える。昭和34年(1959年)松任城の区域を示すものとして、北東端隅碑(JR松任駅南)、北西端隅碑(松任金剣宮前)、南東端隅碑(信誠寺前)、南西端隅碑(聖興寺裏)、旧大手先前碑(北陸信用金庫前)が高さ1mほどの石碑で建てられた。現在、二ノ丸、三ノ丸、出丸跡には、松任文化会館、松任学習センター、千代女の里俳句館が建ち、松任城の面影は全く留めていない。城址公園内には「松任城本丸址」の石碑と、「松任城略年表」の石碑、松任城の縄張図を含む説明板が設置され、城址公園の南西隅の本丸櫓台跡に「櫓台跡」の石碑が置かれているのみである。この本丸櫓台は、寛政9年(1797年)時点で3.6mの櫓台が存在していたといい、現在も周囲より高くなっている。城址公園内にわずかに残っていた石垣は、本丸の周囲を取り囲む内堀の位置を示すものと推定され、平成22年(2010年)城址公園を再整備する際に、東側の内堀跡を芝生で表現し、内堀の石垣の一部を復元するとともに、当時の太鼓橋をイメージした高欄橋がバリアフリー化により設置された。松任城の廃城後は、加賀藩の中出蔵が設けられ、明治10年(1877年)に取り壊されると、次々と公共施設が建設された。二ノ丸と三ノ丸の調査では、断面形が逆台形状となる箱堀が検出されており、堀底からは多量の陶磁器、漆器、瓦などが出土したが、江戸中期から幕末までの中出蔵時代のものであった。加賀国は、令制国の中で最後にできた国である。平安時代の弘仁14年(823年)越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。同年に江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡はのちに河北郡と呼ばれる。石川郡は当初は八郷一駅であった。具体的には、中村郷、拝師郷、富樫郷、井手郷、椋部郷、笠間郷、三馬郷、味知郷、比楽駅である。その後、郡境の河川流域の変遷により、大桑郷、大野郷、玉戈郷が石川郡に加わるなどの変更があった。江戸期になると、金浦郷、湯涌郷、石浦庄、犀川庄、富樫庄、河内庄、林郷、大野庄、戸板郷、鞍月庄、長屋庄、押野郷、中奥郷、山島郷、笠間郷、中村郷、横江郷、米丸郷の十一郷七庄が記録されている。かつて、石川郡山島郷に属した松任は、朱雀天皇の承平5年(935年)国司の松木氏が石同村、四郎丸村、三丁町村の合併を勧奨したところ、村人達は「松木氏に任せた」ため、松任と称するようになったと伝わる。そして、松任城址公園にある石碑の碑文によると、安元2年(1176年)加賀介近藤師高(もろたか)の造営した館が松任城の起源だという。

近藤師高こと藤原師高とは、後白河法皇の側近であった西光(さいこう)の長男で、安元元年(1175年)加賀守となり、弟の近藤判官師経(もろつね)を目代として加賀に派遣している。近藤師経らは加賀国内の租税確保を徹底し、精力的に取り締まりをおこなった。そして、国衙の近くにあった鵜川涌泉寺(小松市鵜川町)に乗り込んでいったとき事件が発生した。涌泉寺の僧たちが風呂を沸かしていたところ、国衙の武士を従えて入ってきた師経は、湯屋(風呂)に立ち入るだけでなく、驚く僧たちを追い出して、乗ってきた馬を湯屋で洗い始めた。この当時、寺院の湯屋は宗教儀礼の場として非常に重要な場所であり、そこで馬を洗うなど宗教権威を汚したのと同じ行為であった。僧たちはあまりの傍若無人さに怒り出し、師経たちとの争いに発展、愛馬の脚を折られて打ち負かされた師経は、国衙の武士ら1千余人を使って涌泉寺を焼き払った。涌泉寺は白山宮加賀馬場中宮の末寺であり、これを焼き払ったことに抗議した白山三社八院の衆徒2千人が蜂起、恐れをなした師経は京都に夜逃げしている。怒りの収まらない白山衆徒は、武装したまま神輿を担いで本山である比叡山延暦寺(滋賀県大津市)に入った。そして、比叡山の僧兵・大衆が神輿を担いで強訴する騒動に発展したため、安元3年(1177年)加賀守師高は官位を全て剥奪されて尾張国井戸田に流罪、目代師経は禁獄となった。その後、鹿ケ谷の陰謀によって、首謀者の一人である西光は捕縛のうえ斬首、息子の師高は小胡麻郡司維季(おぐまのぐんじこれすえ)に討たれ、師経も六条河原で斬首された。加賀の近藤師高の館跡は、寿永2年(1183年)松任十郎範光(のりみつ)が居館として利用している。松任範光は、加賀斎藤氏の流れをくむ林氏の一族で、のちに加賀最大勢力であった林氏に代わって勢力を伸ばし、加賀国守護職を歴任する冨樫(とがし)氏も、加賀斎藤氏の流れをくむ同族であった。林氏の庶流には、能美郡の板津氏、白江氏、石川郡の倉光氏、松任氏、横江氏、安田氏、宮永氏、加賀郡の豊田氏、大桑氏、石浦氏、弘岡氏、近岡氏、能登国鹿島郡の豊田氏、飯河氏、藤井氏など、かなりの規模の同族武士団がいた。林氏はこれらの惣領として、加賀武士団の棟梁の地位にあった。石川郡拝師(はやし)郷を本拠とした林貞宗(さだむね)が林氏の祖であり、『尊卑分脈』によると3代当主の林大夫光家(みついえ)の子供として、長男の林六郎光明(みつあき)、次男の大桑三郎利光(としみつ)がおり、他にも豊田五郎光成(みつなり)、松任十郎範光がいた。『美濃国諸家系譜』によると、松任範光は15人の兄弟姉妹のうち九男であったという。他説によると、松任範光は、2代当主の林加賀介貞光(さだみつ)の次男であったという。十郎範光の跡は嫡子の与一範利(のりとし)が継ぎ、さらに二郎利家(としいえ)と続いて、松任氏が4代に渡って松任の地を治めた。松任氏は室町幕府奉公衆としても名を連ねている。松任氏の後は、鏑木源五左衛門繁治(しげはる)の子である兵衛尉繁常(しげつね)が松任城主として知られる。鏑木氏は松任氏の一族とも伝わるが、新田義貞(よしさだ)に従った結城三郎の末裔が、丹後の海賊衆を越前甲楽城(かぶらぎ)浦で破った戦功により蕪木(かぶらぎ)氏を名乗り、この蕪木氏が越前朝倉氏との抗争に敗れて加賀へ逃れ、これが松任城主鏑木氏の祖であるともいう。そして、鏑木繁常は加賀国守護職である冨樫政親(まさちか)の姉婿という。文明6年(1474年)の文明の一揆をきっかけに本願寺門徒は急速に勢力を増していき、その行動は次第に過激化していく。

本願寺門徒のおかげで加賀国守護職に復帰できた冨樫政親であったが、門徒衆の横行を黙認できなくなり、一向宗を保護するという約束を反故にして、門徒衆の弾圧に踏み切った。文明7年(1475年)門徒衆は一向一揆と化し、一大武装集団となって猛威を振るった。同年6月、鏑木繁常は冨樫家の武将として一揆鎮圧に奔走したが、多くの戦死者を出して、松任城内の持仏堂に籠って敵味方の追善をするうちに、本願寺の蓮如に帰依した。蓮如は奉公衆の一人である繁常の帰依に喜び、徳善(とくぜん)の法名を与えている。鏑木氏は加賀一向一揆の旗本衆として松任組を束ねて勢力を拡大、松任城は一向一揆の拠点として本格的な城郭に整備された。長享2年(1488年)能登や越中の門徒衆の助力を得た加賀一向一揆は、高尾城(金沢市高尾町)に籠もる冨樫政親を包囲、鏑木繁常らを将とした20万もの一向一揆軍により政親を自害に追い込んだ。鏑木繁常の跡は繁時(しげとき)が継ぐが、この鏑木繁時は、篠田七郎という人物である。長享年間(1487-89年)越前浪人の篠田七郎が、本誓寺宗誓(そうせい)の婿養子(鏑木繁時)となり、出家して鏑木右衛門大夫入道常専(じょうせん)と称したという。しかし、徳善(鏑木繁常)と本誓寺宗誓の関係など、よく分からない。松任本誓寺(白山市東一番町)は松任城の近くに存在する。鏑木常専も松任城を本拠としており、以降は右衛門尉頼信(よりのぶ)、右衛門勘解由と鏑木氏の居城となった。享禄4年(1531年)享禄の錯乱(大小一揆)により、加賀一向一揆は本願寺から直接支配されるようになった。そして、天正元年(1573年)本願寺から派遣された中級坊官の七里頼周(しちりよりちか)は、粗暴な振る舞いが目立ったためか、加賀の一揆衆とはうまくいかなかった。天正3年(1575年)織田信長は筆頭家老の柴田勝家(かついえ)を越前国へ侵攻させ、越前一向一揆を掃討して、加賀国まで勢力を伸ばしていた。室町幕府15代将軍である足利義昭(よしあき)の要請に応じて、本願寺はそれまで敵対していた越後国の上杉謙信(けんしん)と和議を結ぶという方針転換をおこなう。この方針に従って七里頼周が上杉氏との和平交渉を進めていたが、在地勢力である加賀の旗本衆に相談なく進めたため、今まで法敵と信じて上杉氏と戦ってきた旗本衆から強い反発を買ってしまう。さらに、鏑木頼信・奥政堯(おくまさたか)と七里頼周の間で対立は深まり、天正4年(1576年)頼信は下間頼廉(しもつまらいれん)に頼周の無法を訴えた。そのため、頼周は山内衆に命じて、松任城主の鏑木頼信に叛意ありとして攻撃させており、このときに頼信を討ち取ったとも伝わる。一揆衆は頼周の行為に激怒し、加賀一向一揆は内乱状態となった。上級坊官である下間頼純(らいじゅん)は、本願寺11世法主の顕如(けんにょ)の命を受けて加賀に赴き、七里頼周と加賀門徒との仲裁に当たっている。天正4年(1576年)上杉謙信は上洛を目指して本願寺の顕如と和睦、信長との同盟関係を絶ち、織田方の能登七尾城(七尾市)を包囲した。天正5年(1577年)七尾城から援軍要請を受けた信長は、柴田勝家を総大将として3万の先発隊を急行させた。一方、既に七尾城を攻略した謙信は、織田軍が迫っていることを知り、加賀国に侵入して太平寺(野々市市太平寺)に陣を張り、手取川(てどりがわ)付近にある松任城を攻撃した。城主の鏑木右衛門(頼信または勘解由)はよく防戦したため、松任城の外城である成村出城(白山市成町)は攻め落されるが、松任城は攻略されることなく守り抜き、1万貫の知行安堵を条件に謙信との和睦に持ち込んだ。

上杉謙信の和睦については、松任城の南約6kmの水島(みじしま)付近に、七尾城を目指す織田軍が既に到着して陣を構えていたからと考えられる。成村出城跡となる出城城址公園には特に遺構はなく、「加賀国松任城 出城之址」の碑が置かれているのみである。かつて、成村の住人は、成村出城を上杉謙信陣屋跡とも伝えているという。『亀尾記』によると、謙信は灯明寺(場所不明)を介して鏑木氏との和議を成立させたが、太平寺の本陣と松任城の途中にて両者が対面する際に、鏑木氏と灯明寺の者が謀殺されたと『松任本誓寺記』にあるという。一方の柴田勝家は、手取川を全軍が渡河し終えたときに七尾城の落城と、上杉軍が松任城まで来ていることを知り、慌てて撤退命令を出した。夜半に退去し始めるが、この時の手取川は数日来の雨で氾濫していた。謙信はこの機を逃さず、松任城より水島へ兵を進める。そして謙信が率いる上杉軍の猛攻に突き崩されて、織田軍は敗走した。当時、加賀では「上杉に逢(お)うては織田も手取川、跳ねる謙信、逃げるとぶ長」という落首が張り出された。この手取川の戦いは、謙信と信長の最初で最後の戦いとして有名である。勝家は2千の兵が討ち取られ、溺死者は数え切れないという惨状で、謙信は能登から加賀の大半を支配下に置くこととなった。松任城には加賀一向一揆方の武将である若林長門守が配置されている。天正6年(1578年)上杉謙信が没し、天正8年(1580年)石山本願寺と信長が和睦すると、柴田勝家を総大将とする織田軍は抵抗を続ける加賀一向一揆を攻撃、松任城を攻め落とした。勝家は配下の徳山五兵衛則秀(のりひで)を石川郡松任の代官として在城させている。さらに勝家は、同年11月に和議締結の祝いと称して若林長門守、鈴木出羽守など加賀一向一揆の首謀者19名を松任城に誘い出して謀殺している。野々市の布市神社(野々市市本町)は、戦国時代の国人領主である木村九郎左衛門孝信(たかのぶ)の居館であり、境内には樹齢500年といわれる大公孫樹(おおいちょう)の巨木が存在するが、これは木村孝信の墓標と伝えられている。木村孝信は松任城主の鏑木右衛門の婿であり、織田信長の家臣となって野々市に在住し、不破河内守光治(みつはる)に属した。また、大坂の陣で活躍した木村長門守重成(しげなり)の伯父とされる。天正11年(1583年)織田信長亡きあとの勢力争いにより、羽柴秀吉は柴田勝家を滅ぼしており、この賤ヶ岳の戦いの恩賞として前田利長(としなが)を越前国府中から松任4万石に転封させた。その2年後、利長は越中国射水郡の守山城(富山県高岡市)に転封し、佐々成政(さっさなりまさ)の旧領である越中三郡(砺波・射水・婦負)を拝領している。松任は秀吉の直轄領となり寺西治兵衛が代官として入城、天正15年(1587年)には丹羽長重(ながしげ)が松任に4万石で入封する。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで長重は西軍に加担し、東軍の利長と小松城(小松市丸内町)近くの浅井畷で戦った。戦後、丹羽氏は改易、旧領は前田氏に与えられ、利長は加賀・能登・越中の合わせて122万石を領することになる。再び前田氏の持城となった松任城には城代として赤座備後守直保(なおやす)を置くが、慶長20年(1615年)の一国一城令に先んじて、慶長19年(1614年)頃に廃城となった。加賀藩領の松任には、元和(1615-24年)の初年頃には町奉行が置かれ、明暦2年(1656年)金沢町奉行が松任町奉行を兼帯することになり、寛文5年(1665年)には町奉行は廃止されて郡奉行の支配下となった。廃城後の城跡は畑地となり、承応元年(1652年)には加賀藩の中出蔵が建てられている。(2013.05.27)

「松任城本丸址」とある石碑
「松任城本丸址」とある石碑

松任城の本丸南西隅の櫓台跡
松任城の本丸南西隅の櫓台跡

「松任城址大手先」の石碑
「松任城址大手先」の石碑

成村出城跡にある出城之址碑
成村出城跡にある出城之址碑

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