松坂城(まつさかじょう)

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智勇兼備の名将と謳われた蒲生飛騨守氏郷によって築かれた総石垣造りの居城

織豊期の特徴を有する天守台
織豊期の特徴を有する天守台

松阪市(まつさかし)は、三重県のほぼ中央に位置し、東は伊勢湾に面して、西は台高山脈と高見山地を境に奈良県と接するなど、東西に長く延びた形をしている。山岳地・低山地の占める割合が高く、北東の平野部に市街地がある。この松阪の市街地は松坂城の築城とともに誕生した町である。松坂城は智勇兼備の名将とうたわれる蒲生氏郷(がもううじさと)によって築かれた総石垣造りの平山城である。北を流れる阪内川(さかないがわ)を天然の外堀とし、四五百森(よいほのもり)と呼ばれた標高38mの独立丘陵を切り通して南北に分断、北丘を城地とし、自然のまま残した南丘には八幡宮を勧請して城の鎮守とした。北丘の最頂部に本丸を置き、本丸を中心に西側にきたい丸、東側に二ノ丸、南側に隠居丸を配置、両丘の周囲を三ノ丸としている。この本丸から渦巻き状に曲輪を巡らせた配置は、渦郭式(かかくしき)と呼ばれるもので、三ノ丸、二ノ丸、本丸と階段状に高くなる典型的な一二三段(ひふみだん)の城であった。本丸は上下2段に分かれており、本丸上段の西隅には3層4階の望楼型天守が付櫓を伴って存在した。本丸内に一段小高く天守台を築くなど、織豊期の古式の特徴を有している。この蒲生氏郷が築いた天守は、正保元年(1644年)の台風で倒壊しており、その後に天守は再建されなかった。天守と隣接して2層の敵見櫓(てきみやぐら)、対角となる東隅に2層の金の間櫓があり、これらは天守と多聞櫓で連結していたため連結式天守と呼ばれる構造である。天守は本丸御殿(兵部屋敷)とも付櫓経由で接続しており、天守と御殿が連結した構造は近江安土城(滋賀県近江八幡市)と共通している。氏郷は織田信長の安土城の築城にも関わっており、松坂城は安土城を手本に築かれたとされ共通点も多い。本丸上段の発掘調査では金箔瓦が見つかっている。金の間櫓は、ひときわ規模の大きな櫓で、その名が示すとおり金箔を貼った黄金の間があった。本丸下段には、南隅に太鼓櫓、東隅に月見櫓、北隅に遠見櫓を構え、同様に多聞櫓で連結されていた。二ノ丸へ通じる北東の大手筋には表二ノ門(助左衛門御門)、南の搦手筋には裏二ノ門(中御門)があった。きたい丸は、文禄4年(1595年)に松坂城主となった古田重勝(しげかつ)の子・重恒(しげつね)の幼名・希少丸(きたいまる)にちなむ。表二ノ門を挟んで遠見櫓の向かいに鐘ノ櫓、北隅に藤見櫓、西隅に角櫓、南隅とその他にそれぞれ無名の櫓を配置している。二ノ丸は、南隅に無名の櫓を構え、中央に二ノ丸御殿(徳川陣屋)があった。また、表門と裏門を構えている。裏門は2層の櫓門であったが、正保3年(1646年)の台風で2階部分が破損し、この破損部分を茅葺屋根に置き換えた奇妙な古写真が残されている。二ノ丸西側にある松阪市立歴史民俗資料館(松阪市殿町)の前方には城内最古の井戸が存在し、これ以外にも本丸上段と隠居丸に江戸時代以来の井戸が現存する。隠居丸は、古田重勝が隠居するために設けたものと伝えられる。埋御門を構え、道具蔵が2棟と宝蔵、米蔵が1棟ずつ存在した。この米蔵は三ノ丸の御城番屋敷に移築現存する。現在の隠居丸には、江戸時代中頃の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)の旧宅である特別史跡「鈴屋(すずのや)」が移築現存している。三ノ丸は、当初は上級武士の侍屋敷であったが、紀州藩統治下では侍屋敷は城外へ移され、役所や馬屋などが置かれた。北丘の本丸、きたい丸、二ノ丸、隠居丸は野面積みを主体とした高石垣を積み上げているが、三ノ丸の周囲は土塁であり、その外側は幅15mから30m、総延長2.1kmにおよぶ水堀および深田堀を巡らせていた。

現在、本丸、きたい丸、二ノ丸、隠居丸は松阪公園となっている。松坂城の建物遺構としては、二ノ丸の裏門から続く三ノ丸に、松坂城の警護のため紀州藩伊勢領に派遣された40石取りの紀州藩士20人とその家族が住んだ組長屋の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)が現存する。松阪公園の東側に東棟10戸、西棟9戸の2棟が並んで建っている。もとは西棟も10戸であったが、明治期に1戸が切り詰められた。文久3年(1863年)に建てられ、主屋2棟、前庭、畑地、南龍神社、土蔵からなり、周囲に槇垣を巡らしている。松坂御城番の祖先は、徳川家康の先鋒隊として活躍した横須賀党で、家康の十男・徳川頼宣(よりのぶ)の家臣として紀州藩の田辺に遣わされる。有事の際は紀州徳川家の御付家老であった安藤家を助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣で、田辺与力と呼ばれた。それから230年余り後、安藤家の家臣となるよう通達を受けるが、紀州徳川家の直臣であることに誇りを持っていた彼らはこれを不満に思い、藩士の身分を捨てて浪人となる。そして紀州藩への復帰を嘆願し続け、6年後の文久3年(1863年)に松坂御城番として帰藩が叶い、彼らとその家族の屋敷として御城番屋敷が建てられた。現存する武家組屋敷としては全国で最大規模のものである。現在も子孫の方が暮らしているが、西棟北端の1戸を復元修理して、内部を公開している。御城番屋敷の東棟北側にある平屋白壁の土蔵は、江戸時代末期に隠居丸にあった米蔵で、明治初期に現在地に移築されたと伝わる。桁行12間半、梁行3間の切妻造(きりづまづくり)、桟瓦葺き(さんがわらぶき)で、建築様式からも城内にあった建物と判断でき、御城番屋敷とともに現存する建造物と考えられている。それ以外では、寛永2年(1625年)に造られた松坂城の中門が来迎寺(松阪市白粉町)に移築現存しており、転輪寺(明和町)にも城門が移築されている。龍泉寺(松阪市愛宕町)には松ヶ島城(松阪市松ヶ島町)の裏門が移築されているが、これは松坂城の城門だったという説もあるという。中世の松坂の地は南伊勢地方の軍事・交通の要衝の地であり、櫛田川の河谷を遡ると高見峠を経て吉野に至るため、南北朝時代には南朝方の有力拠点が築かれ、しばしば南北両勢力の戦闘が展開される場所であった。伊勢国司であった北畠氏の勢力下におかれた松阪市内には、大河内(おかわち)城(松阪市大河内町)や阿坂(あざか)城(松阪市大阿坂町)などの城郭が築かれている。北畠氏からは大河内、木造、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称した。なかでも大河内城の大河内御所は代々筆頭とされ、宗家が絶えたときはこれを継ぐ立場であった。松坂城は蒲生氏郷によって築かれたことで知られるが、元亀元年(1570年)北畠氏の家臣である潮田長助(うしおだながすけ)が飯高郡矢川庄の四五百森に城を築いており、この四五百森城が松坂城の前身にあたる。潮田氏は、大河内氏の庶流ともいわれるが、詳細は不明である。永禄10年(1567年)美濃国を平定した織田信長は、それに前後して北伊勢侵攻を開始、神戸具盛(かんべとももり)、長野具藤(ながのともふじ)を次々に降して北伊勢八郡を手中に収め、残る南伊勢五郡を支配する北畠具教(とものり)と対立していた。一方、永禄11年(1568年)信長は観音寺城の戦いで近江六角氏を滅ぼしており、六角氏重臣・蒲生賢秀(かたひで)は三男・鶴千代(のちの蒲生氏郷)を人質として差し出して信長に臣従した。13歳の鶴千代は、近江日野城(滋賀県蒲生郡日野町)から美濃岐阜城(岐阜県岐阜市)に送られ、小姓として信長に仕えた。

このとき信長は鶴千代の非凡な才能を一目で見抜いており、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず、我婿にせん」と言ったという。翌年には信長が烏帽子親となり、元服して忠三郎賦秀(やすひで)と名乗る。永禄12年(1569年)8月、織田信長は総勢7万といわれる大軍勢で南伊勢に侵攻、北畠具教・具房(ともふさ)父子は一志郡多気(たげ)の霧山城(津市)から大河内城に本拠を移し、兵8千で籠城して臨戦態勢をとった。この戦いでは14歳の蒲生賦秀が初陣を飾っている。信長は配下の木下秀吉に支城の阿坂城を落城させ、大河内城の周囲を2重3重に鹿垣で囲んで包囲している。大河内城の搦手には魔虫(まむし)谷と呼ばれる本丸と西の丸を断ち切る堀切があり、防御のために数百匹のマムシを放ったために付いた名ともいわれる。織田軍の滝川一益(かずます)は、西方の魔虫谷から攻撃をおこなうこととした。滝川勢3千は大河内城に攻撃を仕掛けるが、守備する城兵は鉄砲や弓矢に加え、竹槍、石、木材など、あらゆるものを投げ込み、滝川一益の突入を阻んだ。城兵の必死の防戦によって滝川勢は総崩れとなり、さらに谷の横合いに身を潜めた潮田長助ら1百名ほどの小隊が一気に襲い掛かったため、滝川勢は痛打を浴びて撤退したという。『勢州軍記(せいしゅうぐんき)』によると、魔虫谷は人馬の屍で埋まったと記される。大河内城の守りは予想以上に固く、織田軍は突破口を見出せずにいたが、10月になって両軍は和睦した。和睦の条件は、信長の次男である茶筅丸(のちの織田信雄)を北畠具房の養嗣子とすることと、北畠具教・具房父子は大河内城を茶筅丸に明け渡して退去することという信長に有利なものであった。和睦は結ばれたものの、この条件に納得できない北畠家臣も多かった。潮田長助もそのひとりで、元亀元年(1570年)信長に反旗を翻すために築城したのが四五百森城である。この城に岸江又三郎、星合左衛門尉らとともに立て籠もった。四五百森は名山であったといい、古歌にも「伊勢の国、四五百の森の時鳥(ホトトギス)、名乗り捨てたる去年の古声」と読まれている。しかし、前年の大河内城の戦いの時には城を造らず、今頃になって築城したので、「後の祭りよ」と多くの人に笑われたという。その後、潮田長助がどうなったのか不明であるが、大した抵抗はできなかったものと考えられている。大河内城の戦いの後、蒲生賦秀は信長の次女・冬姫を娶って織田一族となり、近江国日野に帰国した。その後、天正4年(1576年)織田信長・信雄(のぶかつ)父子は北畠一族をことごとく抹殺し、信長による南伊勢の簒奪は完了している。織田信雄は大河内城から田丸城(玉城町)に本拠を移したが、天正8年(1580年)田丸城の焼失を機に伊勢湾に面する海沿いの城として三渡川の河口部に松ヶ島城を築いて居城とした。天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が斃れると、蒲生賦秀は安土城二の丸の留守居役であった父・賢秀とともに安土城に残された信長の妻子を日野城に匿い、明智光秀(みつひで)に対して徹底抗戦の構えを示した。光秀は近江国の長浜・佐和山・安土の各城を攻略し、次に日野城を攻撃する手筈であったが、羽柴秀吉との山崎の戦いで敗死している。同年、賦秀は家督を相続し、その後は秀吉に従って、飛騨守に補任された。天正12年(1584年)信長の跡目をめぐって秀吉と信雄は不和になり、小牧・長久手の戦いが勃発、賦秀は秀吉本隊に従軍して尾張方面に向かい、羽柴秀長(ひでなが)を総大将とする伊勢方面の軍勢には家臣・坂源次郎(のちの蒲生郷成)の率いる別動隊を従軍させた。

羽柴秀長は信雄の家老・滝川雄利(かつとし)が籠城する松ヶ島城を攻略して伊勢を平定した。蒲生賦秀は小牧・長久手の戦いの戦功により近江国日野6万石から伊勢国松ヶ島12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城している。29歳であった。天正13年(1585年)蒲生賦秀は紀伊国の平定戦でも活躍し、氏郷と改名した。居城の松ヶ島城は城地が狭く拡張性がないため、同年より四五百森において新城の築城を開始した。天正15年(1587年)秀吉の九州征伐に従軍し、前田利長(としなが)と共に豊前巌石城(福岡県田川郡添田町)の攻略戦で武功をあげ、羽柴姓を下賜されている。天正16年(1588年)新城の完成にともない松ヶ島から本拠を移して、吉祥の「松」と、秀吉の大坂から一字をもらい、矢川庄を「松坂」と名付けた。氏郷は城下町の建設も積極的に進めた。楽市楽座を取り入れて商業を保護し、松ヶ島、大湊、近江国日野などの有力商人を誘致し、のちの商都松阪の基礎を築いている。かつての居城・松ヶ島城には妹婿の田丸直昌(たまるなおまさ)を配置した。氏郷は、同年に正四位下左近衛少将に任じられ、松坂少将と呼ばれる。天正18年(1590年)小田原の役において、相模小田原城(神奈川県小田原市)の東側に陣を張っていた氏郷は、北条方の太田十郎氏房(うじふさ)の夜討ちを受けた。突然の事だったので、氏郷は家臣・北川平左衛門の甲冑を借りて出撃、乱戦の中で敵の背後に回り込み、たった1騎で北条勢の後方を突き崩して何とか撃退できた。これを聞いた豊臣秀吉は、氏郷が戦功を立てるのはもはや珍しくないが、夜襲を受けたにも関わらず敵の背後に回り込んだとっさの機転を絶賛している。氏郷は一軍の大将ながら、たった1騎で先陣を駆け抜けて、敵軍に突撃する戦い方ばかりをおこなった。秀吉は、もしも5千の兵を率いる信長公と、2万の兵を率いる蒲生氏郷のどちらかと戦うならば、氏郷を選ぶと言った。それは蒲生軍は先鋒を百人も倒せば、その中に氏郷が混じっている筈で、信長公は軍を全滅させても1人生き残っているからである。氏郷は小田原の役の戦功により、会津黒川に42万石で加増移封となった。この国替えには、出羽国米沢の伊達政宗(まさむね)を監視させる意味合いと、有能で危険な氏郷を畿内から遠ざけたいという秀吉の意志も含まれていた。大幅な加増であったが、氏郷は落胆したという。天正19年(1591年)松坂城には、後任として服部一忠(かずただ)が3万5千石を与えられて入城した。服部一忠とは、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元(よしもと)に一番槍をつけたことで知られる服部小平太のことである。小平太は抵抗する義元の反撃を受けて右膝(ひざ)を斬られ、毛利新介が助太刀に入って義元の首を落とした。服部小平太は、はじめ織田信長に馬廻として仕え、本能寺の変後は秀吉に仕えて黄母衣衆の一員となる。小田原の役の戦功により松坂城主に抜擢された。しかし、文禄4年(1595年)豊臣秀次(ひでつぐ)事件に連座して所領を没収され、上杉景勝(かげかつ)に身柄を預けられた後、切腹を命じられた。その後、古田重勝が近江国日野から3万5千石で入封し、関ヶ原の戦いでは松坂城に籠城して西軍を引き止めた功により2万石が加増された。重勝の跡を継いだ弟の重治(しげはる)は、元和5年(1619年)大坂夏の陣の軍功により石見国浜田に転封して松坂藩は廃藩となった。同年、徳川頼宣に紀伊一国と伊勢南部の55万5千石が与えられ、徳川御三家のひとつ紀州徳川家の祖となる。松坂城には勢州三領(松坂・田丸・白子)と呼ばれた紀州藩伊勢領18万石を統轄するために松坂城代が置かれた。(2019.08.24)

二ノ丸表門と本丸下段の石垣
二ノ丸表門と本丸下段の石垣

隠居丸から移築現存する米蔵
隠居丸から移築現存する米蔵

三ノ丸跡の御城番屋敷全景
三ノ丸跡の御城番屋敷全景

移築城門と伝わる来迎寺裏門
移築城門と伝わる来迎寺裏門

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