松前城(まつまえじょう)

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松前氏によって築かれた天守を備える最後の日本式城郭

復元天守と現存する本丸御門
復元天守と現存する本丸御門

北海道南西端に位置する松前城は、大松前川と小松前川に挟まれた福山台地上にある平山城で、津軽海峡に面して海防を重視した城郭であった。安政元年(1854年)に完成した松前城は、我が国で最後に築かれた天守を備える日本式城郭である。そして、天守建築を備えた城郭は、北海道では唯一の存在であった。日本式城郭は、文久3年(1863年)に肥前石田城(長崎県五島市)が築かれているが、こちらには天守は造られず、本丸の二重櫓を代用とした。松前城は三の丸から本丸までを松前湾に向けて雛壇式に築いて、三重櫓(天守)1基、二重櫓3基、渡櫓2基、城門16棟を構え、さらに三の丸には7座の砲台を備えている。これ以外にも城外9ヶ所に砲台が構築されて、32門の大砲が海に向けて配備された。従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。本丸南東隅にあった独立式層塔型3層3階の天守は、昭和16年(1941年)国宝に指定され、太平洋戦争による被害も受けず、日本に現存する13天守のひとつに数えられた。しかし、昭和24年(1949年)城跡の松前町役場から出火した火事が原因で焼失してしまった。昭和36年(1961年)この天守は松前城資料館として鉄筋コンクリート造で外観復興されている。城内の石垣には緑色凝灰岩が使用されおり、緑色の石垣という珍しい城郭であった。寒冷地のため石垣の裏側の凍った土が融ける際に流れ出さないよう、隙間なく石垣が積まれている。これが亀の甲羅に似ていることから亀甲積みといわれる。また、天守や諸櫓の屋根には、寒さで凍みて割れる瓦ではなく銅板を葺いた。天守に付随する本丸御門は現存する築城当時の建物で、国の重要文化財に指定されている。近くには本丸表御殿玄関も残るが、それ以外の建物は、明治6年(1873年)の廃城令により、解体され競売にかけられた。箱館戦争で焼失した寺町の阿吽寺(松前町松城)の修復のため、松前城の堀上門を山門として移築しており現存する。平成12年(2000年)二の丸に搦手二ノ門が復元され、平成14年(2002年)三の丸に天神坂門が復元された。北海道が文献に初見されるのは、養老4年(720年)に成立した『日本書紀』で、渡島(わたりしま)と記述されていた。平安時代末期には蝦夷ヶ千島(えぞがちしま)と呼ばれ、その後は蝦夷ヶ島(えぞがしま)の呼称が一般化したとみられる。江戸時代には蝦夷地と呼び、樺太や千島列島も含んでいた。蝦夷ヶ島に住む人を蝦夷(えぞ)という。ちなみに、古代の蝦夷(えみし)は、大和朝廷への帰属を拒否していた本州東部からそれ以北の集団を指す。一方、中世以後の蝦夷(えぞ)はアイヌを指すといわれ、これらは同じ字を使うが明確に区別する必要がある。『福山旧事記』によると、文治5年(1189年)源頼朝の奥州征伐に敗れた奥州藤原氏の残党の多くが蝦夷ヶ島に逃れたという。また、『吾妻鏡』によると、建保4年(1216年)京都東寺の凶賊や強盗、海賊を蝦夷ヶ島へ流したとあり、鎌倉時代の北海道は朝廷との合意により罪人の流刑地と定められ、多くの罪人が蝦夷ヶ島に送られていた。こうして蝦夷ヶ島に和人の移住者が増えていったと考えられる。鎌倉幕府は津軽安藤氏を蝦夷沙汰代官職に抜擢、幕府の命を受けて流刑地である蝦夷ヶ島への罪人の送致、監視をおこなった。安藤氏は津軽地方の豪族で、十三湊(とさみなと)を本拠として成長している。蝦夷(えみし)の系譜に連なるといわれ、安部貞任(さだとう)の第二子である高星丸(たかあきまる)の後裔と称している。安倍姓安藤氏は蝦夷を代表する氏族であった。それゆえに、蝦夷沙汰代官職に任じられたものと考えられる。

延文元年(1356年)の『諏訪大明神絵詞』では安藤太郎堯秀(あきひで)が初めて蝦夷管領(蝦夷沙汰代官職)になったと記されている。そして、蝦夷は日の本(ひのもと)、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)の3種に分類されるという。日の本は北海道の太平洋側と千島に分布する集団で、唐子は北海道の日本海側と樺太に分布する集団である。渡党は北海道の渡島(おしま)半島を中心とする地域に住んでいた集団のことで、髭が濃く多毛であるが、和人に似ているとある。和人の言葉が通じて、本州との交易に携わったと記録されている。渡党は本州から移住した者と考えられるが、中世の蝦夷にはこれらを含める意見もあり、蝦夷の概念自体が固まっていない。安藤氏は蝦夷ヶ島南部の渡党を被官とし、これを統轄するために一族を代官として派遣していた。代官は大館(松前町神明)を政庁にしていたと推定される。そして、蠣崎(かきざき)氏ら有力な渡党を道南十二館に配置していた。永享8年(1436年)安藤康季(やすすえ)は、勅命により「莫大之銭貨」を寄進して、若狭国の羽賀寺(福井県小浜市)を再興した。『若州羽賀寺縁起』に「奥州十三湊日之本将軍」と記され、安藤氏が日の本将軍と称し、これを後花園天皇も認めていたことが分かる。諸史料によると、室町時代中期までは「安藤」と表記し、それ以降は「安東」と表記する。安藤氏は室町時代も蝦夷管領を世襲しており、松前藩の記録である『新羅之記録』によると、康正2年(1456年)安東政季(まさすえ)は、茂別館(北斗市矢不来)の安東家政(いえまさ)を下国守護、大館の下国定季(さだすえ)を松前守護、花沢館(上ノ国町勝山)の蠣崎季繁(すえしげ)を上国守護に任じ、道南十二館の他の館主(たてぬし)を統率させたとある。康正2年(1456年)コシャマインの戦いが勃発、これは和人とアイヌによる初めての大規模な武力衝突であった。アイヌ軍は道南十二館を次々と襲い、10館まで占拠した。この戦いで花沢館の客将であった武田信廣(のぶひろ)が総指揮を任されて、奇策によりコシャマイン父子を討ち取っている。この武田信廣は松前藩松前氏の始祖となる人物で、清和源氏武田氏流の傍流である若狭武田氏の出身とされる。花沢館の蠣崎季繁は、武田信廣を婿養子として家督を譲った。蠣崎家を継いだ信廣は、寛正3年(1462年)夷王山麓に勝山館(上ノ国町勝山)を築いて本拠を移している。明応5年(1496年)松前家2世の蠣崎光廣(みつひろ)は渡党の各館主と共に、大館の下国恒季(つねすえ)の悪政を主家の安東忠季(ただすえ)に訴え出た。安東忠季はただちに軍勢を差し向けて恒季を自害させている。光廣は松前守護職を望んだが、後任は光廣ではなく、補佐役の相原季胤(すえたね)が補任された。永正10年(1513年)東部アイヌが蜂起して大館が陥落、松前守護の相原季胤、補佐役の村上政儀(まさよし)が自害した。これは光廣が大館を奪取するために、アイヌに攻めさせたという陰謀説もある。当時の大館館主には、安東氏の代官として蝦夷ヶ島の各館主を統轄する権限が与えられていた。永正11年(1514年)光廣は小舟180隻で松前に上陸、大館に入って本拠とし、これを改修して徳山館と名付けた。その後、永正12年(1515年)ショヤコウジ兄弟の戦いが起こると、光廣は和睦を申し入れ、徳山館に兄弟を招いて酒宴を開き、そこで酒に酔わせて斬殺している。待機していたアイヌ軍は蠣崎氏の軍勢により皆殺しにされて、徳山館近くの夷塚と呼ばれる塚に埋めらた。のちに蠣崎氏がアイヌとの戦いに出陣する際、塚からかすかな声が聞こえるようになったと伝わる。

享禄2年(1529年)西部アイヌのタナサカシが蜂起した際は、松前家3世の蠣崎義廣(よしひろ)が和睦を申し入れ、館前に広げた宝物を受け取ろうとしたタナサカシを討ち取っている。さらに天文5年(1536年)タナサカシの女婿タリコナが攻撃してきた際も、和睦を装い酒宴を開いてタリコナ夫婦を討ち取っている。アイヌは紛争解決手段として、非のあった集団が相手に宝物(イコロ)を差し出すという習俗があった。蠣崎氏はこれを逆手に取ってだまし討ちにした。このように兵力で劣る蠣崎氏は謀略のみで対処してきた。このため、アイヌの不信はつのるばかりであった。天文19年(1550年)松前家4世の蠣崎季廣(すえひろ)はこの関係を断ち切るため、夷狄商船往還法度を制定した。これは瀬田内首長のハシタインを西夷尹、知内首長のチコモタインを東夷尹に任じて支配権を認め、松前に来航する商船から徴収した税を両代表に配分した。また、両代表の居所の沖を通る商船は、帆を下して一礼するよう定めた。このように季廣はアイヌとの関係回復に努めたため、アイヌの不信も次第に解消したという。蠣崎氏は檜山安東氏の蝦夷地における代官という地位を築いていたため、季廣は安東氏旗下の武将として、奥州北部の戦いに積極的に参加しなければならず、経済的な消耗が激しかった。天正18年(1590年)松前家5世の蠣崎慶廣(よしひろ)は奥州仕置に派遣された前田利家(としいえ)に面会して、豊臣秀吉への取り成しを依頼している。そして、主家の安東実季(さねすえ)の合意のうえで上洛し、聚楽第(京都府京都市)において秀吉に謁見して、諸侯と同格の待遇を得ることに成功した。これにより宿願であった檜山安東氏の臣下を脱することができた。天正19年(1591年)九戸政実の乱が発生すると、豊臣家諸将と共に慶廣も従軍している。しかも蠣崎氏の部隊にはアイヌの一隊があり、戦場では神出奇没で、毒を塗った附子矢(ぶしや)の威力も凄まじく一躍有名になった。文禄2年(1593年)朝鮮出兵のため肥前国名護屋に滞陣中の豊臣秀吉を訪ねた慶廣は、志摩守に任ぜられ、蝦夷島主として知行を安堵された。これにより、蝦夷島主という肩書きではあるが、豊臣政権下で大名に準ずる地位を獲得した。志摩守も島(志摩)をもじったものといわれている。この時、慶廣は徳川家康にも謁しており、家康が山丹錦の唐衣(サンタンチミブ)を珍しがったため、これを脱いで献上している。慶長4年(1599年)蠣崎慶廣は姓を松前に改めた。一説によると、松平(徳川)氏と前田氏から一字づつ拝領したともいう。慶長5年(1600年)松前慶廣は関ヶ原の戦いに参加しなかったため、外様大名の待遇を受けることになった。同年、徳山館南方の福山台地に築城を開始し、慶長11年(1606年)に完成した。その規模は東西93間、南北126間で、南東隅に櫓が1基、城門が3箇所に開かれており、のちに物見櫓が2基追加されている。松前氏は城持大名とは認められていないので福山館(ふくやまだて)と称した。慶長9年(1604年)徳川家康は諸侯に黒印状を発し、その領知を確定したが、慶廣に対しては異例のものであった。所領は米の生産力に換算して石高で表現し、江戸幕府はその所領が1万石以上の者を大名と定義していた。しかし、当時の北海道では米がとれなかったため、他藩のように石高をもって大名格付する領知方法が当てはまらず、特例として交易権と徴役権を認めることにより1万石待遇とした。松前氏は石高のない「無高の大名」として、大名の最末席に位置付けられた。こうして日本最北の松前藩が立藩して、渡党は明確に和人とされて松前藩士になった。

寛政11年(1799年)江戸幕府はロシアの南下政策に対抗し、北辺警護のため松前藩の東蝦夷地を直轄地としている。さらに文化4年(1807年)松前藩は西蝦夷地も召し上げられ小名に降格、陸奥国伊達郡梁川に9千石で転封となった。文政4年(1821年)幕府の政策転換により松前藩は蝦夷地に戻されて旧領を回復、再び松前に復帰している。嘉永2年(1849年)江戸幕府は外国船に備え、12代藩主の松前崇廣(たかひろ)を城持大名とし、松前城の築城を命じている。松前城の縄張りは、長沼流兵学者で高崎藩の市川一学(いちがく)に一任した。当初、一学は海防上の理由から福山ではなく、箱館の臥牛山(函館山)への築城を勧めたが、予算の問題もあって福山館の場所に築城することになった。松前城は安政元年(1854年)に完成、本丸御殿、太鼓櫓等は福山館時代の建物をそのまま利用したという。安政元年(1854年)江戸幕府は箱館奉行を設置し、安政2年(1855年)松前藩は松前・江差周辺を除く蝦夷地すべてを召し上げられ、替地として陸奥国伊達郡梁川、出羽国村山郡東根などに4万石の領地を宛がわれた。そして、蝦夷地は、松前、津軽、南部、仙台、秋田、庄内、会津の7藩に分担警備させ、防衛力の強化を図った。元治元年(1864年)崇廣は外様ながら老中となって陸軍兼海軍総裁に任命されている。慶応3年(1867年)大政奉還によって、箱館奉行所は明治新政府の箱館裁判所(箱館府)に引き継がれることになった。ところが、榎本武揚(たけあき)率いる旧幕府脱走軍は、9艦の軍艦で蝦夷地に上陸、箱館府の守備兵を撃破して五稜郭(函館市五稜郭町)に入城した。そして、捕虜として捕らえた松前藩士に、松前藩の協力を要請する書簡を持たせて松前城に返している。13代藩主の松前徳廣(のりひろ)は、この藩士を節義に反するとして死罪に処した。当初、松前藩は奥羽越列藩同盟に加盟していたが、藩内の勤皇派である正議隊のクーデターによって藩論が転換し新政府に与していた。箱館を占拠した脱走軍の行動は早く、土方歳三(としぞう)を総大将に彰義隊、額兵隊、陸軍隊、衝鋒隊など700人余が松前城に向けて雪中を進軍した。そして、知内村に宿陣した脱走軍へ松前藩兵が夜襲をかけることにより戦端が開かれた。脱走軍の軍艦「回天丸」が、沖から松前城に艦砲射撃を加えており、松前城の天守台に残る弾痕はこの時のものか、翌年の新政府軍による松前城奪還の際、軍艦「甲鉄」、他4艦からの艦砲射撃のものと考えられる。脱走軍は防衛線を敷く松前藩兵を各所で撃破しながら、松前城東方の台地にある法華寺(松前町豊岡)を占拠して野砲を配置、城代家老の蠣崎民部および松前藩兵400が籠城する松前城への砲撃を繰り返した。同時に天神坂、馬坂より続く搦手門への進撃を開始した。松前藩兵は搦手門を固く閉ざすが、脱走軍が接近すると突然城門を開いて大砲を撃ち掛けたため、土方歳三は攻めあぐねた。しかし、松前藩兵の「砲弾の装填は城内で行い、大砲を撃つ時だけ城門を開く」戦法を読み取り、搦手門の開門と同時に城内に突入する。松前城は数時間の戦闘で落城しており、脱走軍によって占拠された。松前藩兵は城下に火を放ち江差へ退却している。市川一学による松前城の縄張りは、大手口からの通路は複雑に曲げて効果的な構えとしていたが、搦手側は敵の攻撃を想定しておらず、防御力の低いものになっていた。外国からの侵略を想定して築城した松前城は、内戦により簡単に落城してしまった。明治2年(1869年)脱走軍は新政府軍に降伏して松前城は松前氏に帰すが、明治4年(1871年)廃藩置県により明治政府の領有となる。(2010.11.22)

二の丸に復元された搦手二ノ門
二の丸に復元された搦手二ノ門

二の丸と三の丸を仕切る内堀
二の丸と三の丸を仕切る内堀

天神坂と復元された天神坂門
天神坂と復元された天神坂門

阿吽寺に移築現存する堀上門
阿吽寺に移築現存する堀上門

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