松ヶ崎城(まつがさきじょう)

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香取海と呼ばれた太平洋につながる広大な内海の西の端に位置する水辺の城郭

主郭部の北西面の土塁と空堀
主郭部の北西面の土塁と空堀

千葉県柏市について、江戸時代初期に成立した『下総之国図』には、柏(かしわ)の地名は載っていない。これは柏という地名が江戸時代初期には無かった事を意味する。かつての柏村は、水戸街道が17世紀に開通・整備されたのに伴い成立した村と考えられる。水戸街道は日光街道に付随して、江戸と水戸を結ぶ脇街道である。柏という地名は河岸場(かしば)が転じたものといい、これは手賀沼(てがぬま)から荷揚げした物資の運搬に関わる地名となる。千葉県北西部、利根川の南岸にある狭長な手賀沼は、近世以降に干拓が行われて縮小しつつあるが、中世までは手賀沼・印幡沼・霞ヶ浦・北浦などが一体の内海を形成していた。これを香取海(かとりのうみ)と呼ぶ。常総に広がる香取海は、関東において江戸湾と並ぶ、もう一つの内湾であった。『万葉集』の柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)による「大船の香取の海に碇おろし、如何なる人か物思はざらむ」という歌でも知られる。香取海が現在の姿に変わるのは、徳川家康による利根川東遷(とうせん)事業である。古代・中世において江戸湾に流れ込んでいた利根川を、近世初期に香取海を通して銚子口から太平洋に注ぐ流路に変えたもので、文禄3年(1594年)に始めて、承応3年(1654年)まで約60年かかっている。これにより利根川の堆積土砂で香取海の途中が塞がれて手賀沼になるのだが、それまでは香取海の入り江であった。そのため手賀沼は、中世までは手賀浦・手下浦(てがのうら)と呼ばれていた。かつては、整備の行き届かない陸上交通よりも、重量物を大量に輸送できる水上交通が重宝された。手賀浦の西端に位置する松ヶ崎は、陸路で太日川(ふといがわ)に接続して江戸湾に出ることもでき、この地一帯が水上交通・陸上交通の要衝であったと考えられる。この手賀浦の西端にある舌状台地の先端に松ヶ崎城が築かれていた。松ヶ崎の「崎」は海に突き出た地形を示しており、かつては香取海が台地の下まで迫り、手賀浦に松ヶ崎台地が半島状に突き出ていたと考えられている。城跡の北側斜面の腰曲輪あたりに船着場があったという伝承が残り、松ヶ崎城はこうした水上交通の要地を押さえるための軍事施設であったと推測される。現在、松ヶ崎城跡はJR常磐線北柏駅の北西約500mにある。手賀沼に流れ込む大堀川と地金堀の合流地点北側の標高約19m、比高約15mの台地上が城跡である。城域は主要部分が東西約250m、南北約200mであり、全体では約300m四方はあるので、中世城郭としては中規模といえる。本曲輪は約50mの方形プランで、北西面と北東面のL字形の土塁と空堀が特徴的である。これ以外には南側の崖に沿った曲輪があり、主な曲輪が2つだけの簡単な構造である。台地の中腹を削って造った腰曲輪は、城兵が見張りをしたり崖下の敵を攻撃する場所で、周囲に10箇所も設けられている。遺構の保存状態は良く、発掘調査の結果、曲輪・土塁・空堀・虎口・土橋・物見台(櫓台)などが良好に残されていることが明らかとなった。また、地中からは門跡・柵跡・溝などが検出された。しかし、建物跡は見つからず、城内に人が住んでいた可能性は低い。方形単郭構造を基本としているが、前身に在地領主の館があって、それが発展したものではないようである。生活した痕跡もないため、領主や家臣たちの生活の場所ではなく、手賀浦の水運の監視や物資の管理などのために守備兵などが常駐し、合戦時には兵士たちの駐屯地となるような軍事に特化した城と考えられる。また、中世ばかりでなく縄文・古墳・平安時代の遺構や遺物も確認された。城が構築される以前から3基の古墳(円墳)が存在していた。

台地先端にある一番大きな腰巻1号墳は、土を盛って周囲を監視する物見台として転用された。3基の円墳の成立時期は特定できないが、周辺から埴輪片および後期の土師器(はじき)片が出土している。虎口は3つあり、物見台(1号墳)と隣の腰巻2号墳の間にのみ門跡が見つかったので、この東側虎口が大手口だったと推定される。通路の幅は2.2mであった。周囲の地形や城跡の形状から、伝承どおり台地の北側に津(船着場)が存在した可能性があり、台地続きの西側ではなく、東側に大手口があったことは、手賀浦から船着場を経由して出入りしていたことを示す。他に西側と南側にも虎口が現存し、特に防備を固める必要がある西側は、喰い違い虎口であった。これは虎口を挟む左右の土塁が一直線ではなく前後にズレており、通路は城内に真っ直ぐ入っていかず、土塁で遮られて一旦折れて入っていた。敵が真っ直ぐ城内に入って来れないようにするための工夫である。また、西側の虎口前には土橋が造られ、大勢で一斉に攻めてこれないよう、人ひとりが通れる程度の幅であった。空堀はV字形の薬研堀(やげんぼり)である。堀幅は約7m、現状から約2m下が堀底で、堀底から土塁頂上までは5mである。柵跡と思われる穴は土塁斜面で見つかり、敵の侵入を食い止める障害物と考えられる。曲輪内からは、陶器(常滑焼の甕)や土器(擂鉢・土鍋など)が出土した。松ヶ崎城は、首都圏では珍しく遺構がよく残った城跡であるが、他の中世城郭の多くと同様に、この城に関する古文書や記録がないため、文書で築城時期や築城者などを知ることはできない。しかし、発掘調査で出土した陶器・土器から、松ヶ崎城は15世紀後半から16世紀前半まで機能していた戦国時代初期の城であることが分かっており、松ヶ崎城に残る遺構や構造からも間違いなさそうである。15世紀後半というと、関東では享徳の乱という享徳3年(1455年)から28年間続いた広域の内乱が発生した頃である。松ヶ崎城跡のある台地の中腹には、江戸時代から人々に信仰された松ヶ崎不動尊があった。松ヶ崎不動尊に奉納されていた『不動尊風景図』という、明治初年頃に作製されたと考えられる縦80cm、横166cmの絵馬には、不動尊の遠景が手賀沼や水戸街道も含めて描かれている。この絵馬により、手賀沼を往き交うサッパ舟や、麓に4軒の茶屋が並び、松ヶ崎不動尊の境内が賑わっていた様子が分かる。松ヶ崎不動尊は、正徳3年(1713年)現在の柏市松ヶ崎に倶利伽羅不動明王が祀られたのが始まりで、安政2年(1855年)に松ヶ崎城跡南側の腰曲輪に移された。下総国の印旛郡・葛飾郡・相馬郡という3つの郡境にあったため「三郡境のお不動様」とも呼ばれた。また「ふだらくや三郡境の滝不動、手賀の湖水にたつぞ白波」という詠歌(えいか)も伝わっている。滝不動というのは、現在も「松ヶ崎湧水」と呼ばれる場所があり、ほんのわずかな水が湧いているだけだが、かつては滝ができるほどの水が噴き出していた。『不動尊風景図』にも修行者が滝に打たれる姿が描かれている。松ヶ崎不動尊には、他にも『藤原秀郷(ひでさと)・平将門(まさかど)合戦図』、『文覚(もんがく)上人荒行図』、『不動尊参拝図』、『女拝み図』、『倶梨伽羅竜王剣図』、『剣図』など、計13点の貴重な絵馬が遺されていた。これらの絵馬を納めていた松ヶ崎不動尊は、平成8年(1996年)6月8日にホームレスの失火で火事になり、全てを焼失してしまった。江戸時代の松ヶ崎は葛飾郡に属し、谷を隔てた根戸は相馬郡、手賀浦は印旛郡に属した。しかし、この一帯は中世には相馬郡ともいい、葛飾と相馬の名称が錯綜する地域であった。

下総国の相馬郡と呼ばれる地域は、平安時代中期は、上総常晴(つねはる)が領有していた。長兄であり上総氏の初代当主であった平常家(つねいえ)が嗣子無くして没したため、五弟の常晴が養子として2代当主を継いでいた。上総氏は桓武天皇を祖とする桓武平氏の一流(房総平氏)で、上総・下総で大きな領地を有し、相馬郡も房総平氏が中心となって開拓した地域であった。なお、常家の次弟の常兼(つねかね)の系統が千葉氏となり、ここに房総平氏は二分されることになる。上総常晴は実子の常澄(つねずみ)と折り合いが悪かったのか、千葉常兼の三男・常重(つねしげ)を養子として、天治元年(1124年)相馬郡の郡司と房総平氏の惣領の地位を譲った。当時、このような開拓地は、国司によって理不尽に没収される危険があったため、開拓地を中央の貴族や有力寺社などの権門に寄進し、自らはその荘園の管理者に就任して、権益の確保を図ることが多かった。大治5年(1130年)千葉常重も相馬郡布施郷を伊勢神宮(三重県伊勢市)に寄進して相馬御厨(みくりや)が成立、常重はその下司職となった。御厨とは、皇室や伊勢神宮などの荘園を意味する。相馬御厨の領域は、茨城県北相馬郡と取手市および千葉県我孫子市と柏市を含む地域に比定され、この頃の南限が手下水海(てがのみずうみ)こと手賀沼であった。保延元年(1135年)常重の跡を継いだのが有名な千葉常胤(つねたね)である。しかし、時の権力者である平清盛(きよもり)と縁戚関係を持つ下総国司・藤原親通(ちかみち)は、保延2年(1136年)相馬郡の「公田官物未進」を理由に千葉常重を逮捕・監禁し、相馬御厨を横領した。さらに、康治2年(1143年)源義朝(よしとも)と上総常澄が介入してきて相馬郡の権利を主張、三つ巴の争いに発展した。久安2年(1146年)千葉常胤は官物未進分を納めて相馬郡司職を回復し、伊勢神宮からも下司職が認められるなど、あくまで合法的に解決した。その後、平治の乱で源義朝が敗死すると、永暦2年(1161年)には常陸国の佐竹義宗(さたけよしむね)が藤原親通と結び、過去の証文を根拠に相馬御厨を伊勢神宮に寄進、佐竹氏が伊勢神宮に供祭料を負担したことが評価され、千葉常胤は敗訴して相馬御厨を奪われてしまう。このように所領の安全保障のための荘園寄進も、それだけでは確実でないことが相馬御厨の事件からも分かる。治承4年(1180年)源頼朝(よりとも)の挙兵に呼応した千葉常胤は、頼朝を全面的に支援して鎌倉幕府の樹立に邁進するが、その過程で平家方であった下総国司の藤原氏を滅ぼし、頼朝に従わない関東武士として佐竹氏の討伐を進言した。こうして相馬御厨は、約20年ぶりに千葉常胤に返還された。上総氏については、寿永2年(1183年)棟梁の上総広常(ひろつね)が頼朝に疎まれて誅殺されている。千葉氏が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』にあるように源氏の累代の郎等であったからではなく、頼朝を担ぐことによって相馬御厨を回復するためであった。頼朝は所領安堵をおこなった。それが頼朝への関東武士の結束力となったのである。その後、千葉常胤の次男・師常(もろつね)が相馬御厨を分与され、陸奥国行方郡(福島県相馬郡)なども領した。その子孫は相馬氏を称して地頭職を相伝する。南北朝期に相馬重胤(しげたね)が陸奥国行方郡へ下向して奥州相馬氏を形成し、嫡流の下総相馬氏は衰退して守谷(茨城県守谷市)の局地勢力となった。こうして相馬郡は小領主たちによる分割統治となる。応永26年(1419年)4月7日付の『香取社仮殿造営用途算用状』(香取神宮文書)に、松ヶ崎に関する記載がある。

「一、五貫文、御かわらの木、相馬松崎にてとり申候ばんしやう二十人手間、山取九十人手間」と記され、香取神宮の仮殿(かりどの)の屋根に葺く瓦木の木材を相馬郡松ヶ崎で採ったとあり、五貫文(ごかんもん)は番匠(大工)20人の手間賃、山取り(伐採者)90人の手間賃とある。次に「一、壱貫文、相馬松崎より御瓦木船にてこぎ申候時、船方さかてニ給候」と記され、相馬郡松ヶ崎より瓦木を船に積んで漕ぎ出したとき、一貫文(いっかんもん)を船方に酒代として払ったとある。香取神宮(香取市)は、伊勢神宮と同じように、20年ごとに遷宮(せんぐう)がおこなわれていた。その仮殿造営に必要な材木を松ヶ崎で切り出して船に乗せ、香取神宮まで運んだという記録により、室町時代に松ヶ崎が香取海沿岸の地域と水上交通でつながっていたことが分かる。現在、松ヶ崎城を築城したのは匝瑳(そうさ)氏とする説が有力である。匝瑳氏は、千葉常兼の五男・常広(つねひろ)が匝瑳氏を称し、下総国匝瑳郡が名字の地となる。享徳3年(1455年)12月に勃発した享徳の乱において、千葉氏は関東管領・山内上杉氏に味方したが、重臣・原胤房(たねふさ)と傍系の馬加康胤(まくわりやすたね)は古河公方を支持して、享徳4年(1455年)千葉宗家を滅ぼした。遺児の千葉実胤(さねたね)・自胤(よりたね)兄弟は武蔵国に逃れて武蔵千葉氏となり、馬加氏が宗家を乗っ取って下総国守護職・下総千葉氏となる。山内上杉氏を支持する匝瑳氏も領地を失い、柏市高田に移転することになった。高田の匝瑳氏については『本土寺過去帳』に、康正2年(1456年)1月19日、「匝瑳新兵衛妙新、神田ノ」「同帯刀妙刀」「同二郎左エ門妙衛」が武蔵千葉氏や山内上杉氏に従い、下総千葉氏・古河公方の軍勢との市川合戦で戦死したとある。また、文明10年(1478年)扇谷上杉氏の家宰・太田道灌(どうかん)による下総千葉氏攻めで柏市域も緊迫するが、この境根原合戦に従軍して匝瑳勘解由などの一族が戦死している。柏市酒井根(さかいね)は、古くは葛飾郡と相馬郡の郡境のため境根の原と呼ばれていた。その後、境根原合戦に勝利した太田軍の兵士たちが、喉を潤した井戸の水が美酒のうまさだったので酒井根と呼び改めたという。戦国時代になると「千葉に原、原に高城、両酒井」というように、下総千葉氏の家宰であった原氏が勢力を誇り、さらに原氏の後を受けて重臣の高城(たかぎ)氏が小金城(松戸市大谷口)を本拠として東葛地方に大きく勢力を伸ばした。享禄年間(1528-32年)を境に、その高城氏に圧迫されて匝瑳氏は現在の埼玉県三郷市に移っている。匝瑳氏の松ヶ崎城は、戦国時代の初期には使われなくなったようである。それは手賀浦の水が引いていった事により、松ヶ崎城の船着場が使えなくなったため放棄されたと考えられている。戦国末期の高城氏は、小田原北条氏に他国衆として従った。北条氏が滅びて、徳川家康の時代になると、本多正信(まさのぶ)の弟・正重(まさしげ)が、元和2年(1616年)大坂の陣の功績により、相馬・葛飾郡内に42ヶ村1万石を拝領して舟戸藩が成立した。ここに松ヶ崎村も含まれる。元禄16年(1703年)本多家は下総の領地はそのままで上野国沼田藩に移封して4万石にまで加増、享保15年(1730年)に駿河国田中藩に移封して幕末まで続いた。下総の1万石の飛地を治める本多家の陣屋として、舟戸陣屋(柏市船戸)と藤心陣屋(柏市藤心)があった。船戸村や藤心村は江戸時代には葛飾郡に含まれるが、田中藩では下総の飛地の北部を中相馬領、南部を南相馬領と呼んだ。舟戸陣屋は中相馬領を、藤心陣屋は南相馬領を管轄した。(2023.06.18)

台地先端の古墳転用の物見台
台地先端の古墳転用の物見台

西側の喰い違い虎口と土橋跡
西側の喰い違い虎口と土橋跡

焼失した松ヶ崎不動尊の跡地
焼失した松ヶ崎不動尊の跡地

現在の手賀沼の西端の風景
現在の手賀沼の西端の風景

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