丸岡城(まるおかじょう)

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柴田勝家の甥である柴田伊賀守勝豊が築いた現存する最古の天守が存在する城

丸岡城の2層3階の望楼型天守
丸岡城の2層3階の望楼型天守

広大な坂井平野は福井県随一の穀倉地帯であるが、その東寄りに丸岡城が存在する。市街地の北東部に位置する小高い独立した丘陵に築かれた丸岡城は、本丸、二の丸、東丸、西丸、三の丸で構成された連郭式平山城である。丸岡城の小規模な天守は、北陸地方では唯一となる現存天守で、初層の大入母屋の上に廻り縁をともなう小さな望楼を載せた2層3階の独立式望楼型天守である。古式な外観や、掘立柱を用いている点などから現存最古の天守とも考えられていた。この丸岡城の現存天守と天守台の石垣は、昭和23年(1948年)に発生した福井地震によって倒壊しており、昭和25年(1950年)に国の重要文化財の指定を受け、昭和30年(1955年)に保存していた古材を使って修復再建したものである。その際、8割程度は当時の部材が使われたというが、最上階の窓が引き戸から突き上げ窓に改変されている。江戸期に記された『柴田勝家公始末記』には、天正4年(1576年)に丸岡城を築くとあることから、一般的にはこの時にこの天守が築かれたと考えられている。これに対しては異説もあり、1階と2階の通し柱がないことや、廻り縁が見せかけであること、安土・大坂・岡山などの関ヶ原の戦い以前の天守の最上階は3間四方しかないのに、丸岡城は4間×3間と大きいことを挙げて、これらは慶長年間(1596-1615年)後期の特徴であるとしている。この説に従うと、現在の丸岡城天守は柴田氏時代のものではなく、本多氏が城主となった慶長18年(1613年)頃のものとなる。実際には、近年の調査によって寛永年間(1624-44年)の建造と確定する。この天守の特徴は、石瓦と腰屋根である。寒冷地では通常の土瓦は積雪や寒さのために割れてしまうことが多く、その対策として約6千枚の屋根瓦にはすべて笏谷石(しゃくだにいし)を瓦状に加工した石瓦が使われている。石瓦1枚が20〜60kgの重さで、屋根全体では120トンにもなる。笏谷石は福井市の足羽山周辺で採掘される石材で、福井城(福井市大手)の石垣もこの笏谷石で作られている。天守台の石垣は、野面積みという自然石をそのまま積み上げる古い方式で、隙間が多く粗雑な印象であるが、排水性に優れており頑丈であるという。しかし野面積みの天守台では、天守台の石垣上端に揃えて天守を建てることができず、石垣の方が天守初層の外寸よりも余裕を持って造られる。このままだと雨水が隙間から入り込んで石垣が崩れる恐れがあるため、石垣の余裕部分に小さなスカート状の腰屋根とか板庇と呼ばれるものが取り付けられ、雨水が入り込むのを防いでいる。天正4年(1576年)丸岡城を築城する際に、天守台の石垣が何度も崩れて工事が進行しなかったため、人柱を入れることとなった。城下に住む片目の貧しい未亡人「お静」は、息子を侍に取り立ててもらう事を条件に人柱となる事を申し出た。その願いは受け入れられ、お静は天守の中柱の下に埋められ、天守の工事は無事完了した。しかし、初代城主の柴田勝豊(かつとよ)はほどなく移封となり、その約束は果たされなかった。それを怨んだお静の怨霊は大蛇となって暴れたという。毎年4月の堀の藻を刈る頃に丸岡城は大雨に見舞われ、人々はそれを「お静の涙雨」と呼んだ。天守台の階段前には、お静の慰霊碑と供養塔が存在する。地元には「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。丸岡城の築城後に越前一向一揆の残党が城を襲うことがあったが、その度に天守下の巽(南東)の隅にある「雲の井」という井戸から大蛇が現れて霞(かすみ)を吹き、城を隠して危機を救ったという伝説もある。このことから別名を霞ヶ城といった。

この伝説により、有馬氏の城主時代には雲井龍神を勝利の守神として祀ったが、明治以降に荒廃してしまい、昭和40年(1965年)になって再興された。徳川家康の家臣で、鬼作左の勇名をとどろかせた本多作左衛門重次(しげつぐ)が、長篠の戦いの陣中から妻に宛て「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」と書き送った話は有名である。この書簡碑が天守の北東下に建てられている。文中のお仙とは嫡子の仙千代で、後に初代丸岡藩主となる本多飛騨守成重(なりしげ)のことである。往時は山麓部分に大規模な内堀が廻らされており、丘陵自体が大きな五角形の内堀に浮かぶような威容で、大手門と不明門の2箇所からしか内堀を渡ることはできなかった。本丸、二の丸、東丸、西丸などの主郭部を取り囲んでいた最大91mにもおよぶ内堀は、近世になって徐々に埋め立てられて消滅したが、近年この内堀を復元する計画があるという。外郭には侍屋敷を配置し、さらに河川を利用して外堀を設け、寺院や民家を包容して城下町を形成していた。外堀は用水路となっており、その多くは当時と同じ場所を流れている。特に丸岡城南側の賢友橋から神明橋あたりまでは、田島川として流れる外堀跡に沿って歩くことができる。移築現存する建物としては、丸岡町野中山王の民家に不明門と伝わる城門がある。もともとは2層の櫓門であったが、福井地震により大きな被害を受けたため、上層を取り払って単層の門に改修したという。2階部分は失われてしまったが、その風格は堂々たるもので、笏谷石を用いた鬼瓦は左右が阿吽の形状となる。他にも、興善寺(石川県小松市)および、蓮成寺(あわら市前谷)に、それぞれ城門が移築されている。丸岡藩主本多家の菩提寺である本光院(坂井市丸岡町巽)の境内の左手奥には、本多重次から3代藩主・重昭(しげあき)までの4基の大きな五輪塔が立ち並んでいる。お家騒動で改易となった4代藩主・重益(しげます)の墓はここにはない。また、高岳寺(坂井市丸岡町篠岡)は丸岡藩主有馬家の菩提寺のひとつで、元々は初代藩主・清純(きよすみ)、2代一準(かずのり)、3代孝純(たかすみ)と、日向国延岡(宮崎県延岡市)時代の直純(なおずみ)、康純(やすずみ)などの墓碑のみであったが、大正になり江戸の菩提寺であった本覚寺(東京都台東区)から4代允純(まさずみ)、5代誉純(しげずみ)、6代徳純(のりずみ)、7代温純(はるすみ)などの墓碑が移された。本多家歴代墓所と有馬家歴代墓所は、ともに坂井市指定史跡となっている。古墳時代となる5世紀末、のちに第26代の継体(けいたい)天皇となる男大迹王(をほどのおおきみ)が、坂中井(さかない)の麻留古乎加(まるこのか)に住んで越国(こしのくに)を統治していた時、その妃の倭媛(やまとひめ)との間に2男2女を授かった。第1皇子が椀子皇子(まろこのみこ)といい、皇子の胎衣を丸岡城の地である乎加の南に埋めたと言い伝えられいる。いつしか「麻留」が「丸」に、「乎加」が「岡」になり、丸岡という地名になったとする。一方、この椀子皇子の名前から「まるおか」となったという説や、丸岡城の丘は椀子皇子が生まれた場所という伝説に因んで椀子岡と名付けられ、いつしか丸岡と呼ばれるようになったという説もある。現在、霞ヶ城公園に保存されている4世紀頃の牛ヶ島石棺は、御野山古墳(坂井市丸岡町牛ヶ島)から出土したもので、継体天皇の母である振媛(ふりひめ)の一族の石棺と考えられている。継体天皇は聖徳太子の曾祖父に当たる人物である。丸岡城の築城前、このあたりの軍事拠点は豊原寺(坂井市丸岡町豊原)であった。

丸岡城より東方約4kmの山中に豊原寺(とよはらじ)跡がある。この寺は白山豊原寺と号し、平泉(へいせん)寺(勝山市平泉寺町)とともに越前の白山信仰の拠点であり、最盛期には豊原三千坊と称されるほど隆盛を極めた。『白山豊原寺縁起』によれば、大宝2年(702年)越の大徳と称された泰澄(たいちょう)により創建されたとしており、源平合戦では木曽義仲(よしなか)に従い、南北朝争乱では北朝方の越前守護の斯波氏を助けている。戦国時代になると、越前守護の朝倉氏と共に一向一揆に対抗して勢力を拡大した。『朝倉始末記』によると、豊原寺は越前で最も勢力のある寺院に成長し、平泉寺と共に越前僧兵として多くの戦功をたてて活躍した様子が記されている。中世において豊原衆徒は、越前の動向をも左右する武力を備えており、本願寺の北陸の拠点である吉崎御坊(あわら市吉崎)と全面戦争に入っていた。元亀2年(1571年)朝倉氏は織田信長との戦いのため、半世紀以上にわたって敵対した本願寺と和睦しており、朝倉義景(よしかげ)の娘と本願寺第11世の顕如(けんにょ)の子・教如(きょうにょ)の婚約が成立、信長包囲網を形成した。しかし、天正元年(1573年)信長の越前侵攻により朝倉義景は攻め滅ぼされており、朝倉氏の旧臣の多くが信長に臣従することによって旧領を安堵された。その後は、守護代に任命された朝倉氏旧臣の前波吉継(まえばよしつぐ)が越前を支配したが、天正2年(1574年)これに不満を持った同じく朝倉氏旧臣の富田長繁(とだながしげ)が大規模な土一揆を扇動して前波吉継を殺害した。さらに長繁は、敵対してもいない朝倉氏旧臣の魚住景固(うおずみかげかた)とその一族までも殺害している。一揆衆は長繁の横暴な振る舞いに怒り、加賀国から一向一揆の指導者である七里頼周(しちりよりちか)や杉浦玄任(げんにん)を大将として招き、土一揆は越前一向一揆と化した。富田長繁は一揆軍と交戦するが、味方の裏切りにより殺されており、勢いを増した一揆軍は、朝倉氏旧臣を次々と攻め滅ぼしていった。このとき、平泉寺は放火されて衆徒も壊滅、豊原寺は一向一揆に降伏した。本願寺の顕如は、下間頼照(しもつまらいしょう)を越前守護として派遣し、杉浦玄任を大野郡司、下間頼俊(らいしゅん)を足羽郡司、七里頼周を府中郡司としており、本願寺が越前・加賀の2国を支配した。天正3年(1575年)織田信長は、越前一向一揆を殲滅するために10万といわれる大軍を派遣し、一揆軍が籠る木ノ芽峠城塞群を突破して一気に越前を制圧した。越前一向一揆の総大将である下間頼照は豊原寺に本陣を置いていたため、豊原寺は攻略されて寺坊はことごとく焼き払われた。信長は論功行賞をおこない、筆頭家老の柴田勝家(かついえ)に越前8郡を与え、北ノ庄に築城を命じた。勝家は甥であり養子となった伊賀守勝豊を豊原に4万5千石を与えて派遣し、北ノ庄城(福井市中央)の支城として豊原城という山城を構えさせたという。豊原に残る古城跡としては、雨乞山城、三上山城、西の宮城の3箇所があるが、勝豊が築城した豊原城がどれに該当するのかは不明である。勝豊は豊原寺の伽藍の再建を図り、東得坊や西得坊などを整備した。しかし、翌天正4年(1576年)勝豊はあまりに天険である豊原から丸岡に移り、一向一揆への備えとして丸岡城を築いた。これに倣って多くの寺院が丸岡に移り、豊原は急速に衰退したという。天正10年(1582年)信長死後の清洲会議により、柴田勝豊は勝家の所領となった近江長浜城(滋賀県長浜市)の守備を任された。代わって丸岡城には、安井家清(いえきよ)を城代として置いた。

柴田勝家は羽柴秀吉と覇権を争うことになるが、勝家から冷遇されていた勝豊は長浜城ごと秀吉に寝返った。しかし、勝豊はすでに病を得ており、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いの直前に病没してしまう。秀吉によって柴田勝家が北ノ庄城で滅びると、越前は丹羽長秀(ながひで)の所領となり、長秀は丸岡城主として青山宗勝(むねかつ)を置いた。天正13年(1585年)長秀が死去すると、青山宗勝は羽柴秀吉の直臣となり、黄母衣衆に列せられ、引き続き丸岡城と2万石の領地を与えられた。天正15年(1587年)には九州征伐に従軍、山城伏見城(京都府京都市伏見区)の普請でも功績を挙げたことから、慶長3年(1598年)4万6千石に加増、従五位下修理亮に叙任され、豊臣姓も与えられた。しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、青山宗勝・忠元(ただもと)父子は西軍に属し、東軍の前田利長(としなが)と戦っており、戦後に改易された。その後の青山氏の行方は不明である。関ヶ原の後、徳川家康の次男・結城秀康(ひでやす)が越前一国68万石を与えられて北ノ庄に入封し、丸岡城には家老の今村掃部助盛次(もりつぐ)が2万6千石で入城した。慶長12年(1607年)結城秀康は病にかかり死去、跡は嫡男の松平忠直(ただなお)が13歳で継いだ。浅井氏旧臣の今村盛次は新参家臣らの支持を得て勢力を増し、越前松平家の筆頭家老である本多伊豆守富正(とみまさ)ら徳川系家臣と対立、慶長17年(1612年)藩内は2派に割れて争い、久世騒動が勃発する。今村盛次と本多富正は江戸に呼ばれ、家康の裁断により今村一派は追放処分となった。慶長18年(1613年)江戸幕府より新たに附家老として派遣された本多成重は、4万石で福井藩の次席家老となり丸岡城に入った。元和9年(1623年)2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)は乱行の目立つ忠直に隠居を命じた。この時、本多成重は一旦幕府に召し返され、寛永元年(1624年)福井藩より独立して4万6千余石の丸岡藩が成立、譜代大名として取り立てられた。その後の丸岡城は、江戸時代を通じて丸岡藩の政庁として利用されている。しかし、本多家は4代しか続かず、元禄8年(1695年)4代重益は越丸騒動を起こして改易となり、代わって有馬清純が越後国の糸魚川藩より5万石で入封する。以後、幕末に至るまで有馬氏が8代にわたって続き、老中・若年寄など数々の幕府要職を務めている。幕末になると鎖国下の日本に外国船の来航が相次ぎ、幕府は海防の必要性を認めて、全国諸藩に海岸線を警備するよう命じた。嘉永5年(1852年)丸岡藩は沿岸警備のため、加越台地から日本海に突き出た小半島の台地上に砲台を建設した。ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊(黒船)が浦賀沖に来航する前年のことである。この丸岡藩砲台は丸岡藩砲台跡公園(坂井市三国町梶)に現存しており、梶台場とも呼ばれた。これほど原形を留めている砲台跡は全国的にも珍しく、昭和5年(1930年)国の史跡に指定されている。海岸からわずか数mの場所に、弧状の胸墻(きょうしょう)が築かれ、5つの砲眼と呼ばれる大砲を据える開口部が設けられている。胸墻とは敵弾を防ぐための低い防御壁で、外面は盛土で築き、内面と側面は石塁を積み上げている。東西約33m、高さは1.8mで、砲眼は約4.5m間隔で設けられており、すべて海に向けられている。高島流砲術の創始者である高島秋帆(しゅうはん)の門人と伝えられる丸岡藩の砲術家・栗原源左衛門が設計したものである。明治4年(1871年)丸岡城は廃藩置県によって廃城となり、天守以外の全てが解体された。廃藩時には6基の櫓と5つの櫓門もしくは城門が存在したという。(2013.08.26)

霞ヶ城の由来となる「雲の井」
霞ヶ城の由来となる「雲の井」

民家に移築現存する不明門
民家に移築現存する不明門

本光院にある本多家歴代墓所
本光院にある本多家歴代墓所

弧状胸墻が残る丸岡藩砲台跡
弧状胸墻が残る丸岡藩砲台跡

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