桑名城(くわなじょう)

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徳川四天王のひとりである本多忠勝の桑名10万石の水城

復元された桑名城の蟠龍櫓
復元された桑名城の蟠龍櫓

桑名は東海道五十三次の42番目の宿場町で、桑名藩の城下町でもある。江戸時代後期の調査によると、東海道の旅籠屋数では東隣りの宮宿(愛知県名古屋市熱田区)に次いで2番目の規模を誇った。桑名宿と宮宿の間は、東海道における唯一の海上路で、渡舟の距離が7里であったことから、「七里の渡し」と呼ばれた。舟着場付近が桑名宿の中心となり、舟着場の西側には舟の出入りを監視する舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が並んでいた。舟着場の南側には舟を手配する舟会所、人馬問屋や丹波本陣があった。この舟着場は、江戸方面からの伊勢国の入口にあたり、伊勢参りの玄関口でもあるため、天明年間(1781-89年)伊勢神宮の鳥居を移して「伊勢国一の鳥居」と呼ばれている。この鳥居は式年遷宮のたびに伊勢神宮の宇治橋前のものを移すことになっており、現在まで続いている。平成15年(2003年)国土交通省の水門統合管理所を、桑名城の蟠龍(ばんりゅう)櫓跡に建てることになり、蟠龍櫓の外観を想定復元した。この櫓は七里の渡しに面して設けられた4間×6間と比較的規模の大きい2層櫓で、かつて東海道を行き交う人々が目にした桑名城の象徴的存在であった。歌川広重(ひろしげ)の浮世絵『東海道五十三次』の「桑名(七里渡口)」にも描かれている。桑名城は揖斐川の河口に築かれた水城で、江戸時代には桑名藩の藩庁であった。現在は九華公園として整備されている。桑名城のほとんどの遺構は破壊されて失われているが、水堀に囲まれた郭跡が点在するさまは、水城の名残りをわずかに残している。往時は、本丸、二之丸、朝日丸、吉之丸、三之丸からなる梯郭式平城で、松平定重(さだしげ)転封当時の『城廓引渡帳』には、三重櫓3基、二重櫓24基、附櫓24基、多門(多聞櫓)12基、城門46棟(うち舟入門1棟、埋門2棟)と記され、規模の大きさが窺える。また、舟入門が水城の特徴を示している。本丸は東西約60間、南北約32間の長方形で、四方を水堀で囲んでいた。桑名城には、本丸の北東部に複合式層塔型4重6階の天守が存在したが、元禄14年(1701年)大火で焼失してから再建されることはなかった。現在の天守台跡に残る石垣は当時のものではない。本丸の南東部には辰巳櫓の櫓台跡が残る。桑名城の天守焼失後は、天守代用となる3層櫓であったが、戊辰戦争のとき桑名藩の降伏の証として新政府軍によって焼き払われている。本丸の南西部には神戸櫓の櫓台跡が残る。かつてここには神戸城の天守を移築した3層の神戸櫓が存在した。神戸城の天守台から想像するに、規模の大きな櫓であったと考えられる。いずれの櫓台石垣も取り壊されており今は存在しない。本丸の北側と東側の水堀や、三之丸の水堀は消滅している。一方、二之丸や朝日丸あたりの水堀の幅は当時よりも広く拡張されている。浄泉坊(三重郡朝日町)に三の丸御殿が、了順寺(桑名市大字大福)と照恩寺(四日市市大矢知町)に城門が移築現存する。また、堀川東岸の石垣は、桑名城の城壁の一部で、川口樋門から南大手橋に至る約500mが現存し、桑名市の文化財に指定されている。「勢州桑名に過ぎたるものは、銅の鳥居に二朱女郎」と謡われたように、寛文7年(1667年)桑名藩主であった松平定重が寄進した桑名宗社(桑名市本町)の青銅鳥居は、桑名の名物として威容を誇った。桑名という地名の由来には諸説あるが、桑名を開発した古代の豪族である桑名首(くわなのおびと)の名前からという説が有力である。北伊勢最大規模の前方後円墳である高塚山古墳(桑名市大字北別所)は、桑名首を葬ったものと考えられており、古代から大いに栄えていたことが分かる。

平安時代末期、伊勢国には安濃津・富田・桑名などを拠点とする伊勢平氏が発祥した。源氏とともに武家の棟梁である平氏には諸流あるが、桓武天皇の曾孫の高望王(たかもちおう)を高望王流桓武平氏の祖とする。高望王が賜姓を受けて平高望(たかもち)となり、その嫡子である平国香(くにか)や、嫡孫の貞盛(さだもり)の頃には、他の坂東八平氏と同様に関東地方に土着し勢力を張っていた。しかし、天慶2年(939年)の平将門の乱、長元元年(1028年)の平忠常の乱を経て、東国は源氏の基盤となっていき、次第に清和源氏の一党である河内源氏が鎌倉を中心に勢力を拡大、在地の平氏一門も服属させていくことになる。この時流に逆らい、貞盛の四男の維衡(これひら)は伊勢国に下向し、あくまで源氏と対等な、朝廷や権門貴族に仕える軍事貴族としての道を歩んだ。平維衡は伊勢国内に所領を開発して伊勢平氏の基盤をつくり、寛弘3年(1006年)伊勢守に任ぜられ、伊勢平氏は源氏と双璧をなす武門を誇った。平維衡の孫の貞衡(さだひら)は安濃津に住して安濃津三郎を称し、その子の貞清(さだきよ)も安濃津三郎を称した。その子清綱(きよつな)がはじめて桑名に住して桑名富津二郎を称し、以降は桑名三郎鷲尾右衛門尉維綱(これつな)、桑名九郎良平(よしひら)、桑名恒平(つねひら)と続く。そして、文治2年(1186年)伊勢平氏の桑名三郎行綱(ゆきつな)という者によって、桑名の地に城館が築かれ、この地を支配したという。桑名恒平は源頼朝(よりとも)の奥州合戦にて功を挙げ、その子宗平(むねひら)が大和氏・三重氏の祖となり、弟の伯耆守光平(みつひら)が杉原氏を称した。豊臣秀吉の正室北政所(寧々)の実父である杉原定利(さだとし)は、この杉原氏の分流と伝える。杉原氏は木下も名乗っており、まだ織田家の小者であった秀吉に、木下姓を与えて木下藤吉郎を名乗らせたという。一方、平貞衡の弟正衡(まさひら)の嫡子である正盛(まさもり)は白河法皇の院政で重用され、中央政界に進出、平氏興隆の道を開いた。その後裔には、平家全盛の時代を築いた平清盛(きよもり)を輩出している。平氏の中でも伊勢平氏、特に平正衡の系統を平家(へいけ)と呼ぶ。このように、正衡の系統は伊勢平氏の庶流であったが、こちらが伊勢平氏の嫡流と理解されるようになり、貞衡の系統はいつしか忠盛(ただもり)、清盛の郎従となり、歴史の表舞台から姿を消してしまった。平安時代以降、桑名では木曽三川と伊勢湾を中継した「十楽の津」と呼ばれる湊が発達し、室町時代にはこの湊を中心に商人たちによる自由都市が形成され、堺、博多、大湊(伊勢市)と並ぶ日本屈指の貿易拠点となった。十楽とは仏説で、極楽往生するものが受ける十の快楽を指す。十楽の津の町衆は自治体をつくり、中世では一般的だった座(独占権をもつ同業者組合)の規制にしばられずに商売ができる楽市・楽座とした。永正7年(1510年)中勢に勢力を張っていた長野氏が美濃国の土岐成頼(しげより)、斎藤利国(としくに)らと結んで北勢への侵攻を開始、河曲郡や三重郡など各地で戦い、ついに桑名を占拠した。この際、桑名の町衆は、武力抵抗せずに逃散した。長野氏は関を設けて、町衆の帰住を許さなかったが、その結果として十楽の津の舟は動かず、物資は滞ったという。年貢米の入ってこなくなった伊勢神宮からの再三の撤退要求や、敵対する南勢の北畠氏や近江六角氏の動きもあり、永正9年(1512年)長野氏はいったん桑名から撤退した。このような事件は、天文7年(1538年)、永禄元年(1558年)にも起きている。

当時の桑名には伊藤氏・樋口氏・矢部氏の3人の有力者がそれぞれ城館を構え、その下に三十六家氏人(三十六人衆)が居た。彼ら会合衆が共同して自治をおこなっていたと考えられている。伊藤武左衛門の東ノ城、樋口内蔵介の西ノ城(桑名市吉津屋町)、矢部右馬允の三崎城(桑名市太一丸)が桑名三城と呼ばれ、他にも40余りの城砦が存在した。このうちの東ノ城が、近世桑名城の二之丸と朝日丸あたりに位置しており、桑名城の起源と考えられている。治承年中(1177-81年)伊藤氏は員弁郡味岡庄を拠点にしていたが、ある年、高波によって本拠が潰滅したため、居館を加良洲の松原に移したという。永正10年(1513年)伊藤武左衛門実房(ぶざえもんさねふさ)が東側の洲島に新城を築いており、新城を東ノ城、旧城を西ノ城と呼んだものと考えられる。伊藤武左衛門は北勢四十八家にも数えられ、伊藤武者景綱(かげつな)、悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)の後裔という。伊藤景清は平家の侍大将として都落ちに従ったため、俗に平姓で呼ばれているが、歴とした藤原秀郷(ひでさと)の子孫である。伊藤姓は伊勢の藤原氏という意味で、加藤(加賀)、近藤(近江)、尾藤(尾張)、遠藤(遠江)などと同じである。永禄10年(1567年)美濃稲葉山城(岐阜県岐阜市)を攻略した織田信長は、敗走する斎藤龍興(たつおき)を追って伊勢国への侵攻を開始、桑名に本陣を置いて北勢四十八家の諸城を攻略した。滝川一益を先鋒とする織田軍は、目立った抵抗もなく桑名郡、員弁郡を勢力下に置いた。このとき、国人・土豪たちの多くは信長の支配下に入り、信長も彼らの領地を安堵して急激な変化を避けている。永禄11年(1568年)信長は神戸氏に三男の信孝(のぶたか)を養子に入れ、永禄12年(1569年)長野氏に弟の信包(のぶかね)を、元亀元年(1570年)北畠氏に次男の信雄(のぶかつ)を養子に入れて伊勢国を平定した。北勢四十八家の多くは長島願証寺(桑名市長島町杉江)の門徒であった。長島願証寺は本願寺派の中でも格式の高い寺で、門徒衆10万人を擁し、石山本願寺(大阪府大阪市)の東海地方の拠点であった。織田信長の伊勢侵攻に対しても何の反応も示さず、不介入を続けた。しかし、元亀元年(1570年)から始まる石山本願寺と信長の武力衝突に伴い、長島一向一揆として一斉に蜂起する。一揆衆は長島城(桑名市長島町)の伊藤重晴(しげはる)を放逐し、信長の弟である織田信興(のぶおき)を尾張小木江城(愛知県愛西市)に攻め殺し、桑名城から出陣した滝川一益を敗走させている。一方、信長は第一次から第三次までの長島攻めを実施、天正2年(1574年)織田の大軍に追い詰められ、中江・屋長島(やながしま)の両城に籠る男女2万の門徒を柵で何重にも囲み、四方から火を付けて全員を焼き殺すなど、長島一向一揆を殲滅した。北勢四十八家の中でも一向一揆に味方する者が多くいたようで、土豪たちはこれまで世襲してきた領地から引き離され、帰農するか、織田家の家臣として仕えるかの決断を迫られた。天正2年(1574年)桑名・長島一帯は、北伊勢5郡を与えられた滝川一益の所領となった。一益は長島城を改修して移り、桑名三城は家臣に守備させた。それまで東ノ城主であった伊藤武左衛門実倫(さねのり)は城から退いている。その後の伊藤実倫は、桑名城下の小網町に屋敷を設け、織田信長や豊臣秀吉に仕えており、秀吉の朝鮮出兵では戦功があったという。江戸期には桑名三十六家と呼ばれた桑名城下三十六町の町年寄として続いた。伊藤武左衛門実房・実倫父子の墓は仏眼院(桑名市南魚町)に存在する。

天正10年(1582年)本能寺の変の後、桑名城の城主は目まぐるしく変わった。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家(かついえ)が羽柴秀吉に滅ぼされると、勝家に与していた滝川一益も桑名城を攻められて秀吉に降伏する。滝川一益の旧領である北伊勢は織田信雄に配分され、桑名城には天野景俊(かげとし)が入った。天正12年(1584年)織田信雄と羽柴秀吉が対立すると、信雄に味方した徳川家康の家老である酒井忠次(ただつぐ)、石川数正(かずまさ)が桑名城を守備している。桑名で徳川勢と対峙した羽柴秀吉は、織田信雄に十分な圧力をかけたうえで、矢田河原(桑名市矢田磧)にて信雄と和睦した。天正14年(1586年)桑名城は信雄に属した丹羽氏次(うじつぐ)に任されたが、天正18年(1590年)秀吉によって信雄が改易されると、尾張国と北伊勢5郡は羽柴秀次(ひでつぐ)に与えられ、桑名城には服部一忠(かずただ)が入城している。天正19年(1591年)服部一忠が松坂に移されると、一柳可遊(かゆう)が城主となった。文禄年間(1592‐96年)可遊は神戸城の天守を移築するなど、桑名城を改修して城郭としての威容を整えている。文禄4年(1595年)秀次事件にて豊臣秀次は切腹、秀次の家族39名も処刑されると、一柳可遊も連座して切腹させられた。代わって氏家卜全(ぼくぜん)の次男である行広(ゆきひろ)が2万2000石で桑名城主となった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて氏家行広は中立の立場を取ったが、桑名に西軍勢力が及んできたために中立を維持できず、西軍に加わって伊勢路の防衛を担当した。このため氏家行広は改易となる。この開城の際、かつての城主である伊藤実倫が東軍の使者として行広を立ち退かせたという。その後、松平家乗(いえのり)が桑名城主となり、水谷九左衛門光勝(みつかつ)に守備させた。慶長6年(1601年)徳川家康は、徳川四天王のひとりである本多忠勝を上総国大多喜から桑名10万石に配置した。本多忠勝といえば、鹿角脇立兜に軽装の鎧、肩から袈裟懸けした大数珠が特徴的で、天下三名槍に数えられる蜻蛉切を愛用した。元亀3年(1572年)一言坂の戦いでは殿軍を努め、武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と賞賛された。13歳の初陣から57回の合戦に参加したが、かすり傷一つ負わなかったと伝わる。本多忠勝による桑名城の大改修の結果、本格的な近世城郭へと変貌を遂げている。この時、神戸城から移築した天守は、隅櫓として残された。慶長14年(1609年)本多忠勝の隠居により、嫡男の本多忠政(ただまさ)が家督を相続して、桑名藩の2代藩主となる。慶長15年(1610年)本多忠勝はうっかり小刀で指を切ってしまい、自分の死期を悟ったという。元和3年(1617年)本多忠政が播磨国姫路15万石に移封すると、以降は松平(久松)氏が5代、松平(奥平)氏が7代、再び松平(久松)氏が4代続いて松平定敬(さだあき)のときに幕末を迎えた。定敬の実兄は京都守護職として活躍した会津藩主の松平容保(かたもり)である。元治元年(1864年)松平定敬は京都所司代に任命され、兄とともに京都の治安維持にあたる。慶応4年(1868年)旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗れると、15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)は、松平容保、松平定敬とともに軍艦で江戸へ退却した。徹底抗戦派の松平定敬は、仙台から榎本武揚(たけあき)の艦隊で箱館へ渡って転戦している。一方、藩主不在の桑名城は新政府軍に降伏し無血開城したため、城下町は兵火を免れた。桑名藩は会津藩と並んで明治新政府から敵視されていたため、桑名城はいち早く破却されている。(2010.08.17)

本丸に残る神戸櫓の櫓台跡
本丸に残る神戸櫓の櫓台跡

移築現存する三の丸御殿
移築現存する三の丸御殿

移築現存する桑名城の城門
移築現存する桑名城の城門

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