草戸千軒(くさどせんげん)

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長和庄の年貢積出し港の機能を持ち、周囲を城砦群で守った中世の大規模集落

芦田川河床に眠る草戸千軒跡
芦田川河床に眠る草戸千軒跡

福山市草戸町にある草戸千軒町遺跡は、鎌倉時代から室町時代にかけて、およそ300年間存在した大規模集落跡である。江戸時代中期の『備陽六郡志』を始めとする地誌に「草戸千軒」という名前で記されている。現在の芦戸川に架かる法音寺橋の付近一帯に柵と堀に囲まれた草戸千軒の集落が存在した。福山藩水野家の旧臣・吉田彦兵衛が編纂した『水野記』によると、寛永16年(1639年)草戸村の報恩寺(現・法音寺)の住僧・弘伏(こうふく)が初代藩主・水野勝成(かつなり)に提出した資料に「古来草戸村在家七(者)千軒これあり、大風雨の時大潮満ち寺院民屋悉く流れる」と領民の伝承が記されていた。これが草戸千軒の一番古い記録とされる。大正15年(1926年)洪水対策として芦田川の流路を付け替える工事の際、この地から石塔・古銭・陶磁器などが大量に出土したため、草戸千軒の遺跡の存在が想定できたが、発掘調査はおこなわれることなく、草戸千軒の跡地は中州となり川の中に孤立することとなった。昭和36年(1961年)福山市教育委員会によって初めての発掘調査がおこなわれ、芦田川の中州に草戸千軒の遺跡が存在することが確認できた。しかし、昭和42年(1967年)芦田川が一級河川に指定されると、当時の建設省(現・国土交通省)によって河川整備の一環として遺跡のある中州の掘削が決定された。昭和48年(1973年)広島県教育委員会は、掘削により遺跡が破壊される前に発掘調査をおこなうための専門機関を設置し、平成6年(1994年)まで集落全体の発掘を実施した。この22年間におよぶ発掘調査によって、草戸千軒の町の様子や中世の民衆生活の実態、そして福山城(福山市丸之内)の城下町建設前の芦田川河口周辺の状況など、様々なことが明らかになった。例えば、町の内部には、舟を導き入れるための水路である掘割(ほりわり)や、物資を保管する倉庫などがあった。また、文字などが記された木簡(もっかん)を利用した商品・金融取引が活発におこなわれており、鍛冶や漆塗りの職人などが活動していた。これらのことから、この町は瀬戸内海に面した港町・市場町であり、芦田川河口周辺における経済拠点であったことが分かった。このような成果を基に、平成元年(1989年)福山城公園の一角に広島県立歴史博物館が開館した。草戸千軒町遺跡の100万点におよぶ出土資料はこの博物館で保管され、このうちの約3千点が国の重要文化財に指定された。広島県立歴史博物館の内部には、草戸千軒の発掘調査に基づいて、鍛冶屋、塗師屋、足駄屋などの建物、魚貝売り、穀物・野菜売り、かわらけ売りなどの市場、墓地、船着場など、草戸千軒の町並みの一部が実物大で復原されている。これは14世紀の初夏の夕暮れ時を再現しているという。草戸千軒の発掘調査がおこなわれる1960年代まで、考古学は縄文時代、弥生時代、古墳時代を対象にしており、中世史は文字に書かれた資料によって研究されてきた。草戸千軒の発掘では中世を対象にしており、発掘調査で膨大な量の実物資料が出土すると、民衆生活の実態や当時の社会の様子などが具体的に示され、文字資料だけでは当時の社会は復元できないことが明らかとなった。このため草戸千軒は、1970年代以降に全国各地で活発におこなわれるようになる中世遺跡の発掘調査の先駆的な事例として「中世考古学の先駆け」と呼ばれている。草戸千軒の発掘調査が終了すると、芦田川の中州は大部分が掘削されて消減してしまった。もともと草戸千軒は、明王院(福山市草戸町)の前身である常福寺の門前町としての側面もあった。愛宕山の中腹近くにあった常福寺は、眼下に草戸千軒を見渡す位置にあった。

草戸千軒の遺構の変遷としては、鎌倉時代の数少ない遺構は明王院に近い中州の中央部西側で建物跡などを集中的に検出している。町は東側に拡張しており、室町時代前半は中州全域で遺構の数が急激に増え、町が発展していく様子が窺える。室町時代後半には中州の北部から中央部にかけて町割りが明らかになり、一方、中州の南部でも大規模な町づくりがおこなわれていた。室町時代末期以降になると、遺構はほとんど見られなくなり、町が急激に衰退したことが分かる。この時期で検出された遺構の大半は、寛文13年(1673年)の洪水以降に作られた溜め池や杭列であり、町としては機能していなかったことが分かる。日常生活用具などの遺物、農具・工具・漁具などとともに商業生活を示す木簡などの遺物の出土から、この集落は庶民の町であったことが分かった。特に、備前焼・亀山焼(岡山県)など近隣の焼き物から瀬戸焼・常滑焼(愛知県)など遠隔地の焼き物、また中国の竜泉窯の青磁や景徳鎮窯の白磁も出土し、物資の流通・集散を兼ねた港町であったことが分かる。現在の福山平野の大部分は、江戸時代以降の干拓(かんたく)や埋立てによって陸地化したが、中世の段階では福山湾が大きく内陸に入り込み、草戸千軒は芦田川の河口付近に位置していた。この辺りは、芦田川の氾濫による影響を受けにくく、比較的安定した場所であった。草戸千軒の町は、備後南部の陸上交通と瀬戸内海の海上交通を結ぶ要衝として繁栄しており、遠くは朝鮮半島や中国大陸、南方諸国とも交易していたとみられる。発掘調査・研究によって、草戸千軒の町は鎌倉時代後期の13世紀中頃から集落の形成が始まり、順調に発展したことが明らかになっている。現在の福山市瀬戸町を中心とする地域には、長和庄(ながわのしょう)という皇室領の荘園があった。長和庄は古代から中世にかけて沼隈郡の南東部に存在した荘園で、草戸千軒もその荘域に含まれた。鎌倉時代には鎌倉幕府の御家人である長井氏が長和庄の地頭として勢力を拡大していたので、草戸千軒はその活動拠点になったと考えられる。鎌倉時代末期の14世紀初頭頃から草戸千軒は瀬戸内海の芦田川河口近くの港町として飛躍的に発展したが、南北朝時代の14世紀中頃以降に戦乱の影響か一時的に賑わいを失い、15世紀に入る頃までの半世紀にわたり活動が停滞している。室町時代中頃の15世紀前半には、再び経済拠点としての機能が復活して、15世紀後半まで継続している。14世紀中頃の南北朝の内乱や15世紀後半の応仁・文明の乱では、草戸千軒が争いの舞台となった記録があり、社会の動向が町の活動に影響を及ぼしたと考えられる。15世紀末期になると、町の南部に一辺100m程の方形の水堀と土塁に囲まれた大規模な館が出現しており、これは方形居館と呼ばれる領主層の居館で、集落が領主の支配拠点として利用されたことが窺える。しかし、この館も16世紀初頭には廃絶しており、これと同時に草戸千軒は港町としての役割を終えて消滅したと考えられる。かつては江戸時代に書かれた記録より、寛文13年(1673年)の洪水によって草戸千軒が滅亡したと考えられていたが、発掘調査とその後の研究により、寛文13年(1673年)の洪水よりも遥か以前に、政治的・社会的な要因により衰退したことが明らかになっている。南北朝以降の戦乱の時代には、福山市内の当地域にも草戸千軒の町を守るように城が築かれた。草戸山・佐波(さば)・中山・半坂山・神島(かしま)、鷹取といった城砦群である。草戸千軒の背後、常福寺裏山の南端に築かれた山城が草戸山城(草戸町)で、城砦群の主城となる草戸の代官・渡辺氏の城である。

草戸山城は、草戸山山頂から南東に300mほど下った標高104mの小さな山頂にあり、直径20mの曲輪跡と切岸が残る。北側には井戸跡と2段の帯曲輪跡が残っている。常福寺裏山の北端に築かれた山城が佐波城(佐波町)で、常福寺から一番近い位置にある。標高105m、比高97mの山頂を中心とし、南北に連なる尾根上に曲輪を配して、堀切によって分断していた。しかし、大正時代の佐波浄水場の建設によって、本丸から北側が破壊されている。元弘年間(1331-34年)元弘の乱に際して、佐波越後守景房(かげふさ)が、天皇方として挙兵した桜山茲俊(さくらやまこれとし)に味方して佐波城に拠ったといわれる。応仁年間(1467-69年)には渡辺越中守兼(かね)の家臣であった名倉土佐守仲春(なかはる)が居城したが、備後国守護職・山名是豊(これとよ)に従ったため没落したという記録が残っている。名倉氏は佐波氏の後裔と考えられる。その後の城主としては、神辺城(福山市神辺町)の山名豊後守理興(ただおき)の家臣である檀上重行(だんじょうしげゆき)の名がみえる。草戸千軒への南の進入路の抑えが中山城(草戸町)と半坂山城(草戸町)であった。草戸千軒や長和庄の北の関門となるのが神島城(神島町)で、草戸千軒への水路の入口を押さえていたのが平城の鷹取城(草戸町)であった。江戸時代初期の俳人・野々口立圃(りゅうほ)の『草戸記』に「大同年中(806-810年)の艸創(そうそう)と言ひ伝へたり」とあるように、常福寺の起源は平安時代初期にまで遡るという。その開山は弘法大師空海(くうかい)とされ、寺伝を裏付けるように、昭和34年(1959年)から実施された明王院の解体修理に際して本堂(観音堂)下で創建時の掘立柱建物跡が発見された。明王院の本堂(国宝)と五重塔(国宝)が創建されたのは、明王院が常福寺と呼ばれていた時代のことである。昭和の解体修理によって、本堂は鎌倉時代末期の元応3年(1321年)、五重塔はその27年後となる南北朝時代の貞和4年(1348年)に建造されたことが判明した。常福寺の本堂は和様(わよう)を基調とし細部に禅宗様と大仏様を交えた折衷様で、折衷様としては国内最古の建築物である。本尊の十一面観世音菩薩像は秘仏であり、御開帳は33年に一度である。五重塔は一文勧進(いちもんかんじん)という少額の寄付を積んで造られた純和様の建築物で、国内の五重塔のうち5番目の古さを誇る。常福寺が寺観を整えていった鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、門前の芦田川の河口近くに草戸千軒が繁栄していた時代である。常福寺の隆盛とこの草戸千軒の繁栄は密接な繋がりをもっていた。室町時代末期に草戸千軒が衰退に向かうと、常福寺も衰えていった。この常福寺が復興されたのは、元和5年(1619年)水野勝成が備後国神辺10万石の大名として入封してからである。水野氏は伝統ある堂塔の荒廃を嘆き、その復興には援助を惜しまなかった。江戸時代初期の明暦元年(1655年)頃に福山藩の3代藩主・水野勝貞(かつさだ)が城下神島町にあった福山藩の祈願寺である明王院を常福寺と合併させることで、この由緒ある建物を後世に伝えようとした。これが現在の明王院の起こりである。もともと明王院は、備後に入封した水野勝成が福山城の築城に際して、明王院の住職・宥将(ゆうしょう)に地祭(じまつり)を依頼したことから水野氏との関係が始まっている。明王院の書院と庫裡は、水野氏によって神辺城から移築された城郭遺構であった。常福寺と草戸千軒に関連する長井氏は、鎌倉幕府の初代政所別当・大江広元(ひろもと)の次男である長井時広(ときひろ)を祖とする。

長井時広が備後守護と長和庄の地頭になると、次男・泰重(やすしげ)の系統が備後守護を世襲し、長和庄の地頭としても長井氏が続いている。草戸千軒は長和庄の年貢積出し港として発展していった。長和庄の下地中分(したじちゅうぶん)の際、地頭の長井氏は港を重視して、海側の草戸・水呑・田尻一帯を要望したようである。一方、領家の悲田院(ひでんいん)は、米が安定的に確保できる瀬戸川下流域で妥協して和与が成立した。草戸村の常福寺は、元応3年(1321年)に創建された観音堂に「沙門頼秀(しゃもんらいしゅう)」と長和庄北方地頭の長井治部少輔頼秀(よりひで)の墨書銘があり、続いて貞和4年(1348年)に創建された五重塔の伏鉢(ふくばち)にも「沙門頼秀」の陰刻銘が残されている。『毛利家文書』によると、元徳元年(1329年)長井頼秀は嫡子の貞頼(さだより)宛に譲状を書いたという。法名は道可(どうか)と号した。南北朝時代になると、長井頼秀は後醍醐天皇の南朝方に味方しており、延元元年(1336年)4月の『建武記』の「武者所結番事」の三番に長井頼秀の名があり、楠木正成(まさしげ)等と共に南朝方の武将65名の中に名を連ねている。嫡子の弾正蔵人貞頼は足利尊氏(たかうじ)の北朝方として各地で活躍しており、父子は南朝方と北朝方に分かれて行動していた。長井貞頼の子・貞広(さだひろ)には子がなかった事から、安芸国吉田庄の地頭・毛利右馬頭元春(もとはる)の五男・広世(ひろよ)を養子に迎えた。しかし、永和元年(1375年)長井貞広は北朝の九州探題・今川了俊(りょうしゅん)に従って筑後国山崎で討死してしまう。幼少の広世に代わって実父の毛利元春が長和庄北方の支配を代行している。康暦3年(1381年)長井広世は実父から譲られた安芸国福原に拠点を移し、長和庄北方や信敷庄といった備後の荘園は室町幕府に返還している。一方、備後国守護職の山名氏は、長和庄草戸の守護請の権利を幕府に要求して獲得している。この時、備後守護代の大橋近江守満泰(みつやす)は、悲田院領の代官であった渡辺越中守高(たか)を見込んで草戸の代官に登用した。草戸の支配権は山名氏が掌握しており、山名氏は草戸等の代官として越中守高、信濃守兼(かね)、信濃守家(いえ)、越中守兼と4代にわたり起用している。渡辺信濃守兼は、山名宗全(そうぜん)の次男・是豊に属した。室町幕府三管領家の畠山氏に内訌が起こると、寛正3年(1462年)山名是豊は8代将軍・足利義政(よしまさ)の命により畠山政長(まさなが)を支援して出陣、兼もこれに従った。山名勢は畠山義就(よしひろ)を相手に奮戦、兼は長男の三郎太郎定(さだ)とともに先陣を務めるが、定が討死している。山名氏の分裂を狙う細川勝元(かつもと)は、是豊を備後・安芸の守護に任じており、次いで山城守護にも任じた。応仁元年(1467年)是豊の兄である教豊(のりとよ)が死去するも、養子の政豊(まさとよ)が家督を継いでいる。応仁の乱に際して山名一族が西軍に属する中、是豊は父・宗全を離れて細川勝元に属し、東軍として戦っている。文明7年(1475年)山名是豊は備後で敗北して石見に退去、山名政豊が備後・安芸・山城守護となった。是豊に従っていた渡辺信濃守家は草戸等の代官職を剥奪されるが、しばらくして政豊は家を赦して草戸の代官に任命している。復帰した家は草戸千軒の南部に方形居館を築いたとされる。備後守護の山名氏が内訌により弱体化すると、草戸千軒も山名氏とともに衰退の一途を辿ることになる。一方、渡辺氏は越中守兼の代で本拠を一乗山城(福山市熊野町)に移して大いに飛躍している。(2024.02.20)

復元された草戸千軒の町並み
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明王院の鎌倉期の本堂(国宝)
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南北朝期創建の五重塔(国宝)
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宥将が地祭した福山城の天守
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