栗橋というと埼玉県久喜市を想像するが、栗橋は元々は茨城県五霞町にあった。徳川家康の入国前の栗橋宿および日光・奥州街道(奥大道)は利根川(現・権現堂川)の東岸に位置しており、かつては下総国葛飾郡栗橋村(五霞町元栗橋)といった。中世の栗橋城もこちらにあった。しかし、慶長年間(1596-1615年)栗橋村は大洪水に見舞われて荒廃してしまう。栗橋村の池田鴨之介、並木五郎平の出願により、関東代官・伊奈備前守忠次(ただつぐ)の指揮のもと対岸の上河辺新田が開墾された。そして、池田鴨之介、並木五郎平ら56戸が移住して新栗橋と呼ばれた。その後、元和2年(1616年)に日光・奥州街道筋が付け替えられ、日光街道7番目の宿場町として栗橋宿(久喜市栗橋地区)が成立した。一方、栗橋村は元栗橋に名を改めたという。江戸時代末期に赤松宗旦(そうたん)が著した地誌『利根川図志』の巻二に「古河城旧址」として元栗橋の栗橋城が紹介されている。「この地、権現堂川を掘りしより城址も栗橋も二になれり」とあり、江戸時代初期の利根川東遷事業の一環として権現堂川が開削され、城跡が東西に分断されたと記されている。さらに「川を挟(ん)で共に城山といふ」とある。挿絵でも「本城」や「エノキグルワ(榎曲輪)」が権現堂川で削られている様子が分かる。また「七曲(ななまがり)」も描かれていて、内側に「愛宕若宮八幡社」が存在する。対岸には「正八幡宮」が描かれ、「この邉すべて古城跡なり字を大島といふ」とある。現在も若宮八幡宮(五霞町元栗橋)と八幡神社(埼玉県久喜市小右衛門)が共に存在する。城跡中央には「松本氏宅」が描かれており、古城跡に松本勘兵衛という人物が住んでいた。古城庵の松本可成(よしなり)という名で、「わがいほ(我が庵)は、みやこの乾(いぬい)何もなし、古城山とひとはいふなり」という短歌が掲載されている。現在も栗橋城跡の残存部には松本氏の住宅がある。栗橋城跡は権現堂川の改修によって城地の一部が削り取られてしまっており旧状は分からないが、『城築規範』という古図集にある「栗橋城図」が残存する遺構とほぼ一致する事から、この縄張り図のような城であったと考えられている。寛文12年(1672年)編纂とされる『城築規範』には、権現堂川の西側に曲輪はなく、東側に11もの曲輪が構えられていた。7つの曲輪が内郭部、4つの曲輪が外郭部を構成し、これらは概ね『利根川図志』の特徴と一致する。縄張りは戦国末期の極めて技巧的なもので、幾何学的で直線的な曲輪を複雑に組み合わせている。外部との連絡はすべて土橋を使用し、主要な曲輪のほとんどには角馬出が構えられている。権現堂川に面した主郭(本城)には櫓台があり、城塁には随所に折れが付けられており、外部からの侵入に対して、どこからでも横矢が射かけられるよう工夫されている。北条流築城術の特徴が見え、北条氏照(うじてる)が入城した際に改修されたと考えられる。『城築規範』と現地調査の結果から、北条氏照時代の詳細な構造が推定されている。城域は東西300m、南北500mにわたり、権現堂川の東岸に展開する11の曲輪から構成され、西岸は城域に含まれなかったと考えられている。現在、城跡の大半は権現堂川の堤防か耕作地となっており、残存遺構はわずかしかない。宅地などの中に土塁や堀の痕跡が断片的に残る程度である。法宣寺(五霞町元栗橋)の西側には堀跡が見られる。本堂裏手の西側から北西側には、『利根川図志』に「七曲」と記された堀跡が現存する。法宣寺南側の松本氏の住宅周辺にも堀跡が残る。『利根川図志』の「松本氏宅」は最も東側にあたる外郭部中央の曲輪であった。
栗橋城は、簗田(やなだ)氏とともに古河公方の家臣団で双璧をなした野田氏の居城である。『野田氏家系図』および『頼印大僧正行状絵詞』によれば、野田氏は尾張国の熱田大宮司家の一流で、のちに関東に移り、鎌倉公方の奉公衆となった。下野国簗田郡の梁田御厨(栃木県足利市)に名字の地を持つというので、同じ奉公衆の簗田氏と接点がある。築田氏や野田氏は低湿な簗田御厨において水運業に通じた「川の領主」であった。天授6年(1380年)下野国守護職・小山義政(おやまよしまさ)は河内郡裳原に侵攻して宇都宮基綱(もとつな)を討ち取った。私戦を禁じていた2代鎌倉公方・足利氏満(うじみつ)は小山義政の討伐を命じて自らも出陣した。鎌倉府の大軍を迎え撃つ事になった義政は、不利を悟って降伏する。しかし、氏満から出された赦免の条件が下総国下河辺荘・武蔵国太田荘をはじめ小山氏の所領の大部分の没収が含まれるなど、小山氏にとって過酷な内容であった。義政は氏満の要求に応じなかったため、翌弘和元年(1381年)小山義政の討伐が再開された。5月には太田荘が占領され、6月から下野鷲城(栃木県小山市外城)を中心に攻防戦が続いたが、小山義政と嫡子・若犬丸(わかいぬまる)は12月に鷲城を開城して下野祇園城(栃木県小山市城山町)に移って降伏した。ところが、弘和2年(1382年)小山氏は祇園城を自ら焼き捨てて、都賀郡粕尾の山中に城塞を築いて抵抗を図る。氏満は3度目の討伐軍を派遣して、鎌倉府の軍勢による猛攻でこれを陥落させた。義政は脱出するが追手に発見されて自害、若犬丸は逃走した。鎌倉府と室町幕府との間で4年にわたって交渉が続けられた結果、元中3年(1386年)氏満は旧小山領の下河辺荘や太田荘などを御料所として編入することが認められ、鎌倉府の財政基盤の強化に成功した。氏満は下河辺荘を支配するために奉公衆の簗田氏や野田氏を送り込み、簗田氏を水海(みずうみ)に、野田氏を古河(こが)に配置した。簗田氏は水海城(古河市水海)を築いて本拠とし、後に関宿に進出して関宿城(千葉県野田市)を築いた。野田氏は古河城(古河市立崎)を築いて本拠とし、後に栗橋城を築くことになる。この古河城、栗橋城、水海城、関宿城は河川沿いの水郷地帯に立地していた。中世のこの地域は現在とは全く異なり、利根川水系、渡良瀬川水系、常陸川水系が常に流路を変えながら自由に曲流し、無数の細流や湖沼によって結ばれていた。利根川と渡良瀬川はほぼ平行に南流して江戸湾へ注ぎ、常陸川は東流して香取海(かとりのうみ)に繋がり銚子に至る。これらの城郭は水上交通の要衝に構えられており、古河・栗橋・水海・関宿の間は水路を利用して緊密に結びついていた。野田右馬助等忠(としただ)は、野田氏の中で初めて実名が確認できる人物である。『鎌倉大草紙』によると、嘉慶元年(1387年)に「古河住人野田右馬助因人一人搦進す」とあり、古河住人の野田右馬助が「囚人」を捕えたとある。『頼印大僧正行状絵詞』には、至徳4年(1387年)に「野田入道等忠古河ヨリ召人一人搦進」とあり、野田等忠は小山若犬丸の乱に関わった「囚人」を捕えたと記されている。当時、若犬丸の軍勢は古河城の奪取を図っており、野田等忠は鎌倉公方勢の最前線に置かれていた。4代鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)のときに室町幕府との対立姿勢を崩さなかったため、6代将軍・足利義教(よしのり)は関東管領・山内上杉憲実(のりざね)に足利持氏一族の族滅を命じた。永享11年(1439年)この永享の乱において足利持氏・義久(よしひさ)父子は自害して鎌倉公方は滅亡した。
その後、足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとしたため、永享12年(1440年)持氏の残党や結城城(結城市)の結城氏朝(うじとも)・持朝(もちとも)父子などが持氏の遺児を擁立して、室町幕府に対して反乱を起こす。この結城合戦において、野田右馬助持忠(もちただ)は結城方(鎌倉公方方)として戦っている。『鎌倉大草紙』、『永享記』によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らと共に古河城に立て籠もった。野田持忠の家臣の加藤伊豆守らは山内上杉氏と戦うために下野野田城(栃木県足利市)に軍勢を集めている。しかし、翌年の結城城陥落後に山内上杉清方(きよまさ)の来襲を受けて古河城は落城。矢部大炊助は戦死し、野田右馬助は敗走した。この結城合戦で持氏の遺児・春王丸、安王丸は殺されたが、文安6年(1449年)鎌倉府が再興されると、持氏の四男・足利成氏(しげうじ)が鎌倉公方となった。野田持忠も新しい鎌倉公方の許で家臣としての活動を始める。しかし、享徳の乱が起こると、享徳4年(1455年)鎌倉を占拠された成氏は戻る場所を失い、鎌倉府直轄御料所の下河辺荘への遷座を決断、長禄元年(1457年)古河城に本拠を移して古河公方と呼ばれた。古河城を譲った野田持忠は新たな居城として栗橋城に移った。この時、栗橋城を新たに築いたのか、もともと存在したのかは分かっていない。持忠は栗橋城に拠って、関宿城の簗田持助(もちすけ)とともに古河城の足利成氏の両翼となった。一方で、野田氏は栗橋城ではなく文明3年(1471年)頃まで野田城を本拠とした説や、野田城とは栗橋城のことを指すとする説もある。野田氏は持忠、成朝(しげとも)、政朝(まさとも)、政保(まさやす)と続き、それぞれ4代鎌倉公方・持氏、初代古河公方・成氏、2代古河公方・政氏(まさうじ)から偏諱を受けている。しかし、次代の弘朝(ひろとも)・景範(かげのり)兄弟は、同時代の3代古河公方・高基(たかもと)から偏諱を受けておらず、嫡流ではないと考えられている。足利高基の代に「野田右馬助父子及数年緩怠増進之上」を理由に改易されており、この「野田右馬助父子」は系図上の野田政朝・政保父子に比定されている。このように野田氏は嫡流の断絶があったようである。4代古河公方・晴氏(はるうじ)は、敵対する小弓公方・足利義明(よしあき)の勢力拡大により閉塞していた。相模の北条氏綱(うじつな)が晴氏と同盟を結んで支援している。天文7年(1538年)ついに足利義明は、安房の里見義堯(よしたか)、上総の真里谷信応(まりやつのぶまさ)ら、1万8千の軍勢を率いて国府台城(千葉県市川市)に進出する。これに対して、北条氏綱・氏康(うじやす)父子も2万2千の軍勢を率いて国府台に向かった。第一次国府台合戦である。この戦いで足利義明は討死した。戦いに勝利した北条氏綱は足利晴氏との姻戚関係を求めた。晴氏には既に簗田高助(たかすけ)の娘との間に長男・藤氏(ふじうじ)がいたが、北条氏の力を借りた弱みから受け入れざるを得なかった。こうして、天文9年(1540年)氏綱の娘(芳春院)を晴氏の正室に迎え、翌年に次男・義氏(よしうじ)を生んでいる。北条氏の勢力拡大に危機感を抱くようになった古河公方・足利晴氏は北条氏との対決を決意、天文15年(1546年)関東管領・山内上杉憲政(のりまさ)や扇谷上杉朝定(ともさだ)と連合して、8万ともいう大軍で北条領へ侵攻するが、河越夜戦で惨敗してしまう。晴氏の命は助けられたものの、長男・藤氏は廃嫡させられ、天文21年(1552年)北条氏康の甥である次男・義氏が5代古河公方を相続することになった。
天文23年(1554年)足利晴氏・藤氏父子は古河城に籠城して抵抗するが、氏康によって古河城を攻められて降伏、晴氏は相模国波多野(神奈川県秦野市)に幽閉された。このとき、栗橋城主・野田弘朝は弟・景範と共に北条氏に味方しており、氏康から恩賞として旧領39か村、新領10か村を安堵されている。この旧領の一部は晴氏に没収されていたもので、旧領回復のために北条氏に転じたと考えられる。弘治3年(1557年)晴氏・藤氏父子は再び古河城の奪取と北条氏への抵抗を試みるが失敗、拘束された晴氏は弘朝の許に預けられ、永禄3年(1560年)幽閉状態のまま領内の嶋という場所で没した。永禄3年(1560年)長尾景虎(後の上杉謙信)の関東進出が始まり、古河公方・足利義氏の関宿城を取り囲んだ際、野田弘朝も義氏に従って籠城した。永禄4年(1561年)義氏は関宿城から小金城(千葉県松戸市)、武蔵江戸城(東京都千代田区)へ逃れ、永禄5年(1562年)には上総佐貫城(千葉県富津市)、相模国鎌倉に御座を移すが、弘朝は最後まで義氏に付き従って鎌倉で死去している。一方、弟の景範は長尾氏に転じたとされ、景虎の偏諱を受け景範と名乗ったものと考えられる。永禄8年(1565年)頃、兄の死を受けて野田氏の家督を継ぎ、永禄9年(1566年)景範は上杉方として行動していた。同年2月、上杉謙信(けんしん)は下総の北西部に侵攻した。このとき、里見義弘(よしひろ)に5百騎、土気の酒井胤治(たねはる)に1百騎、関宿の簗田晴助(はるすけ)に1百騎、結城の結城晴朝(はるとも)に2百騎など関東諸将に軍役を課すが、野田景範は50騎であった。謙信は臼井城(千葉県佐倉市)の原胤貞(たねさだ)を攻めた。しかし、胤貞はよく防戦し、上杉軍はかなりの死傷者を出して敗退した。謙信の臼井城攻撃の失敗後、景範は他の関東衆と同様に上杉氏を離反して北条氏の幕下に戻っている。ただ、従属の条件として栗橋城を明け渡す必要があった。永禄10年(1567年)5月、北条氏康の三男・氏照から起請文を与えられているが、この起請文の中で栗橋城の明け渡しを要求され、景範は古河城の頼政曲輪に移っている。栗橋城は武蔵滝山城(東京都八王子市)を本拠とする北条氏照が接収し、栗橋衆と呼ばれる城番衆に守備させた。永禄11年(1568年)氏照は栗橋城を拠点に関宿城を落城寸前まで攻め立てるが(第二次関宿合戦)、永禄12年(1569年)甲相駿三国同盟の破綻と相越同盟の成立により関宿城の攻撃は中止となった。この越相同盟に際して、上杉氏と北条氏との間で栗橋城の帰属に関する交渉がおこなわれ、栗橋城は野田景範の本拠であることを理由に北条氏が確保することとなり、栗橋城は景範に返還された。だが、元亀3年(1572年)景範は北条氏から再び離反する。同年12月、栗橋城は北条氏の攻撃を受けて落城しており、景範は古河公方・足利義氏の許に帰参した。以後、栗橋城は氏照の北関東攻略の拠点となり、天正2年(1574年)閏11月に関宿城を開城させ(第三次関宿合戦)、同年12月には小山氏の祇園城を攻め落とす。以後、栗橋城には城番が置かれ、氏照は祇園城へ移った。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏は滅ぶが、栗橋城で戦闘があったかなどは不明である。秀吉の命により徳川家康が関東へ入国すると、家臣の小笠原秀政(ひでまさ)が3万石で古河に入った。秀政は古河城を改修する間、栗橋城を暫定的な居城とし、改修が終わると栗橋城には家老の犬甘久知(いぬかいひさとも)を配置した。慶長6年(1601年)秀政は関ヶ原の戦いの戦功により信濃国飯田5万石に加増移封となり、栗橋城はこの時に廃城となった。(2024.12.29)