小山城(こやまじょう)

[MENU]

三重の三日月堀など武田流築城術の遺構が残る武田氏の遠江における最終拠点

復元された三日月堀と丸馬出し
復元された三日月堀と丸馬出し

小山城は、牧之原台地の枝尾根の最東端となる舌状台地の先端を利用して築かれており、三方が険しい崖となっている。現在の大井川はかなり東方を流れているが、往時は小山城のすぐ東側を流れていた。唯一の弱点となる台地に続く西側には武田流築城術の特徴である三日月堀を三段に重ねて防御しており、現在もその遺構が明瞭に残る。この珍しい三重の三日月堀(三重堀)の遺構が小山城の最大の見所となる。そして、この三重堀には、小山城が落城の際、この堀に身を投げた武田方の婦女子が化身した赤い唇のヒルが住むという伝説が残っている。連郭式平山城の小山城は、本曲輪の虎口外側、二曲輪側に三日月堀と丸馬出し(馬出曲輪)を配置しており、その間には空堀が復元されている。この空堀には土橋が設けられていたが、現在は朱色の橋の下に再現されている。さらに、二曲輪の外側に三曲輪があり、その西側に三重堀がある。大手口と称される場所は三重堀の北西側にある。ここには「勘助井戸」と呼ばれる井戸もあり、武田氏の軍師といわれた山本勘助の声がかかっていると伝えられている。ここから下に降りていくと、そこにも小曲輪がある。また、城の南麓にある能満寺(のうまんじ)境内も小山城に付随する曲輪のひとつであった。この能満寺の脇から男坂または女坂を登ると小山城の虚空蔵堂のある曲輪へ行くことができる。弘長2年(1262年)に開かれた能満寺は、文永11年(1274年)蒙古襲来が起こると、勅願寺として官寺に列せられた名刹である。能満寺には大きな蘇鉄が存在する。これは天然記念物の「能満寺のソテツ」で、日本三大蘇鉄のひとつに数えられている。高さは約6mもあり、根元の周囲は約5m、5本の大枝に分かれて、樹齢は1000年を越えるという。長徳元年(995年)陰陽学者の安倍晴明(せいめい)がこの蘇鉄を中国から持ち帰って植えたものと伝わる。遠州七不思議によると、安倍晴明が大井川を流れてきた大蛇を見つけ、これを葬って、その上に蘇鉄を植えた。すると、蘇鉄は大蛇の精をうけて巨大になり、大蛇のような姿になった。そこで晴明は、人々に害を与えないように大蛇の精を封じたといわれている。また、後年には徳川家康がこの蘇鉄を大変気に入って、駿河駿府城(静岡市葵区)の城内に移したところ、蘇鉄が能満寺へ帰りたいと毎夜泣くので、再び寺へ返したという伝説が残る。小山城の南西600m付近には、大熊備前守屋敷跡(吉田町神戸)がある。小山城の城代であった大熊氏の屋敷は、東西約60m、南北約50m程あった。空堀や土塁の跡も見られ、小山城の出郭を兼ねていた。現在は、屋敷跡の北側半分ほどが切り取られて工場となり、南側半分は茶畑となっている。小山城の曲輪は広く造られていることから、物資や兵員の移動拠点であったことが想像され、武田氏が駿河から遠江へ侵攻するための兵站基地であったと考えられる。天正3年(1575年)長篠の戦いによる敗戦後、比較的規模の大きな諏訪原城(島田市)が年内に落城しているのに比べ、小山城は比較的小さな城であるにもかかわらず天正10年(1582年)まで持ちこたえることができたのは、武田氏の守将が戦上手であったということ以外に、天然の要害である小山城は守備すべき方面が限定できたという構造的な理由もあったという。もともと小山城に天守はなく、昭和62年(1987年)物見台があったといわれる二曲輪跡に尾張犬山城(愛知県犬山市)の天守をモデルにした模擬天守が建てられている。模擬天守の前方にある三日月堀と丸馬出しは、茶畑となって埋められていたものを、古図に基づいて復元したものという。他にも大手口には模擬大手門が建てられている。

一説によると、鎌倉時代の文治年間(1185-90年)関東の武将である小山七郎朝光(ともみつ)により、この地に築かれた砦が小山城の始まりという。一方、確かなところでは、室町時代に駿河国守護職の今川氏によって遠江南東部に築かれた山崎の砦が小山城の前身である。ただし、築かれた年代や、その規模などは一切不明である。今川氏は駿河国を拠点に遠江国、三河国と領国を拡大していき、今川義元(よしもと)の代になると僧侶でありながら今川家の軍師であった太原雪斎(たいげんせっさい)の活躍によって尾張国東部まで版図を広げて最盛期を迎える。栴岳承芳(のちの今川義元)の教育係であった雪斎は、天文5年(1536年)10代当主の今川氏輝(うじてる)が死去すると、花倉の乱を制して義元を当主の座に導いた。また、三河の松平広忠(ひろただ)の嫡男であった竹千代(のちの徳川家康)は、今川家の人質時代に雪斎のもとで教育を受けたという。天文23年(1554年)雪斎は武田信玄(しんげん)、北条氏康(うじやす)との甲相駿三国同盟の締結に尽力する。しかし、翌年の弘治元年(1555年)に没しており、「雪斎亡き後は今川家の国政整わざりき」という状態であった。この頃、『今川分限帳』によると、今川義元の家臣である井伊肥後守直親(なおちか)が山崎の砦の地を治めていたという。永禄3年(1560年)今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張国を目指して東海道を西進した。ところが、桶狭間の戦いにおいて、義元は織田信長に討ち取られてしまう。今川家の武将たちは預かっていた番城を放棄して駿遠に逃げ帰っていったが、岡部五郎兵衛元信(もとのぶ)だけはただ一人、尾張鳴海城(愛知県名古屋市)に踏みとどまって織田軍と対峙し、信長と交渉して、義元の首級と引き換えに鳴海城を明け渡した。しかも、そのまま撤退することなく、三河刈屋城(愛知県刈谷市)を襲撃して、水野十郎左衛門信近(のぶちか)を討ち取り、刈谷城を焼き払って帰国した。この時、岡部元信は伊賀・甲賀の忍者10人に軽卒100人を添えて、刈谷城の浜側から攻め込んで火を放ち、水野信近の不意を突いたという。『三河物語』によると、水野信近は岡部元信の放った伊賀忍者に討たれたが、城兵たちが信近の首級を取り戻しており、忍者ら80余名を討ち取ったとしている。家督を継いだ今川氏真(うじざね)は、手柄をあげた岡部元信に駿河・遠江両国より勝間田、桐山(切山)、内田、北矢部の知行を与えており、山崎の砦も岡部元信が所有したものと思われる。今川氏真は戦国大名の器ではなく、その後は遊興にふけり、今川家は衰退の一途をたどることになる。この状況を見た武田信玄は、永禄11年(1568年)今川領である駿河国と遠江国を大井川を境にして徳川家康と分け合う密約を結び、今川氏との同盟を破棄して駿河に侵攻した。今川氏の本拠である駿府は武田軍によって短期間で占拠され、今川氏真は掛川城(掛川市掛川)へ逃れた。一方、遠江には西から徳川軍が侵攻した。このとき岡部元信は信玄に降伏しており、以降は武田氏に仕えるようになっている。同年、家康は駿河方面からの武田軍の侵入に備えるため、大給松平真乗(さねのり)に対して駿河との国境である小山一帯を押さえるように命じた。このときの山崎の砦は小規模なものであったと考えられるが、守備していた武田方の窪田輔之丞を討ち取り、山崎の砦の奪取に成功、この城砦は松平真乗が所有して武田軍の侵攻に備えた。永禄12年(1569年)大井川付近で徳川軍と武田氏家臣である山県三郎兵衛尉昌景(まさかげ)の軍勢と小競り合いが発生している。

家康は松平真乗に榛原郡下六ヶ村の所領を安堵しており、このことを『静岡県榛原郡誌』は、武田軍に対する対抗措置ではないかとしている。しかし、間もなく山崎の砦は武田軍によって占拠された。元亀元年(1570年)松平真乗はふたたび山崎の砦に駐屯する武田軍の一隊を駆逐して砦の奪還に成功している。ところが、元亀2年(1571年)武田信玄は2万5千の大軍を率いて、大井川を渡って遠江へ侵攻してきた。松平真乗は山崎の砦を放棄して退去、武田軍はこの城砦を接収した。さらに信玄は相良方面に進出して滝境まで勢力下に収めた。信玄は馬場美濃守信春(のぶはる)に命じて山崎の砦を大改修させており、馬場信春の縄張りにより空堀や土塁が築かれ、小山城と名付けられた。小山城の本格的な築城はこの時におこなわれ、城郭としての体裁が整ったといわれる。小山城は武田氏の重要拠点に位置付けられ、足軽大将の大熊備前守朝秀(ともひで)を小山城の城代とした。さらに後陣として相木市兵衛昌朝(まさとも)の80騎が置かれた。大熊朝秀はもともとは上杉謙信(けんしん)の家臣であったが、まだ謙信が長尾景虎(かげとら)と名乗っていた頃、長尾家の家臣同士で争いを起しており、景虎はこの調停に手を焼いていた。弘治2年(1556年)裁定に従わない家臣たちに疲れ果てた景虎は、突然出家することを宣言し、越後国の国主を捨てて高野山に向かった。この騒動の原因となった大熊朝秀は、武田信玄に内通して主家に反旗を翻す。大熊朝秀はいったん越中に退いて、会津の蘆名盛氏(あしなもりうじ)と呼応して越後に侵攻しているが、家臣の説得により帰国した景虎に敗れて西上野に逃れた。その後、永禄6年(1563年)武田信玄に招かれて山県昌景の与力となり、やがて信玄の直臣として取り立てられ、足軽大将として騎馬30騎、足軽75人持となっている。武勇に優れており、上野国の長野新五郎業盛(なりもり)を攻めた際には、新陰流の祖で剣聖として知られる上泉伊勢守信綱(のぶつな)と一騎討ちを演じ、かすり疵ひとつ受けずに引き分けたと伝わる。大熊朝秀は、元亀3年(1572年)の暮れ頃まで約1年半のあいだ、小山城代としてここに居住した。信玄は、元亀2年(1571年)に小山城だけでなく滝境城(牧之原市)も馬場信春に築城させている。この小山城と滝境城は、武田氏の遠江進出の拠点として以後も大きな役割を果たしてゆくことになる。同年、信玄は徳川氏の遠江の拠点である高天神城(掛川市上土方)を攻撃している。高天神城は「高天神城を制する者は、遠江を制する」といわれる要衝で、城主は小笠原与八郎氏助(うじすけ)が務めていた。小笠原氏助は、もとは今川氏の重臣であったが、主家の没落後は家康の属将として、2千の兵で高天神城を守備していた。これに対し、内藤修理亮昌豊(まさとよ)を大将とする武田軍が襲い掛かるが、天然の要害である高天神城を攻めあぐんだ。信玄は内藤昌豊に高天神城の監視を命じて、信濃高遠城(長野県高遠市)に退いている。元亀3年(1572年)信玄は西上作戦を開始、3万の大軍を率いて信濃から遠江北部の徳川領に侵攻し、二俣城(浜松市天竜区)などの諸城を落城させた。さらに本拠となる浜松城(浜松市中区)から出撃した徳川家康を三方ヶ原の戦いで打ち破った。しかし、元亀4年(1573年)信玄の持病が悪化して、西上作戦の途中で死去してしまう。信玄の跡は武田四郎勝頼(かつより)が継いだ。天正元年(1573年)勝頼は大井川西方の牧野原台地に諏訪原城を構え、諏訪原城から小山城を結ぶ線上に支城網を巡らし、高天神城を攻略するための拠点として、東から徳川領に圧力を加えた。

天正2年(1574年)勝頼は高天神城の攻略を成功させ、信玄でも陥せなかった高天神城を落城させたことにより、勝頼の武名は大きく上がることとなる。小山城は、高天神城、諏訪原城、駿河田中城(藤枝市)とともに、武田氏の駿河・遠江の重要拠点のひとつであった。この頃、大熊朝秀の三男である新左衛門尉長秀(ながひで)が小山城の守備に任じていたようだが、詳細は分からない。天正3年(1575年)勝頼は長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗、この機に家康は守備の手薄な諏訪原城を攻略した。このとき、諏訪原城の城兵は小山城に落ち延びている。さらに家康は小山城を攻めているが、勝頼が救援のために2万の大軍を率いて大井川を渡河し、徳川軍の背後に迫ったため、家康は小山城の包囲を解いて撤退している。この2万の軍勢は、甲斐・信濃・上野の名の通った者の子孫であったり、出家した者や町人などの若者を勝頼が召集して仕立てた寄せ集めの軍勢であった。この勝頼の援軍により小山城は落城することなく耐えている。このとき小山城では、鳥井長太夫、蒲原小兵衛、望月七郎左衛門ら駿河の先方衆が籠城して守りを固めており、退却に移った徳川軍を追って岡部忠次郎、鈴木弥次右衝門、朝比奈金兵衛ら200〜300騎が追撃した。しかし、徳川軍も酒井左衛門尉忠次(ただつぐ)、大久保七郎右衛門忠世(ただよ)らが殿軍を固めており、鳥井長太夫の指示により深追いをやめて城内へ引き上げている。武田勝頼は小山城に逗留して、この戦いで功のあった者に感状を下した。諏訪原城が徳川氏の手に渡ったため、小山城は高天神城への補給路の要となった。天正6年(1578年)小山城、田中城、駿河持舟城(静岡市駿河区)は家康の攻撃を受けている。このとき、家康は八幡神社(吉田町大幡)の森に陣を敷き、八幡の神に戦勝祈願した。家康は優勢に戦いを進めることができたので、後に6石3斗の御朱印と2町四方の境内地を寄進している。さらに、天正8年(1580年)家康は小山城近くの色尾に布陣、小山城の城兵を挑発するため、小山周辺の稲を刈り払った。この田畠薙ぎは小山城の兵糧米の自給を阻止するためでもある。これに対して、小山城の城兵が徳川軍を襲い、酒井忠次の一隊と戦っている。天正9年(1581年)武田氏の遠江における最大拠点であった高天神城が家康により落とされ、北遠の諸城もすべて家康に攻略されると、小山城は完全に孤立することとなるが、これに対して勝頼には援軍を出す余力も残されていなかった。そして、天正10年(1582年)織田信長はついに武田征伐を決定して、大規模な動員令を発した。信長の長男である織田信忠(のぶただ)を大将に森長可(ながよし)、河尻秀隆(ひでたか)らを主力とする部隊が伊那から侵攻し、それに続いて、織田信長、明智光秀(みつひで)、細川忠興(ただおき)、筒井順慶(じゅんけい)、丹羽長秀(ながひで)、堀秀政(ひでまさ)、長谷川秀一(ひでかず)、蒲生賦秀(ますひで)、高山右近、中川清秀(きよひで)といった錚々たる武将たちが進軍した。また、金森長近(ながちか)が飛騨方面から、徳川家康が駿河方面から、北条氏政(うじまさ)が相模・伊豆・上野方面から甲斐を目指して進軍している。ここに至って、小山城の城兵たちは、みずから城に火を放ち、甲斐へ引き上げていった。そして、小山城は徳川軍によって占拠されている。武田勝頼が自刃して武田氏が滅びると、論功行賞によって駿河一国は家康に与えられた。これにより、家康は三河・遠江・駿河の三国を領有することとなり、駿河との国境に位置する小山城はその役目を終えて廃城となった。(2011.12.29)

珍しい三重の三日月堀の遺構
珍しい三重の三日月堀の遺構

天然記念物の能満寺の大蘇鉄
天然記念物の能満寺の大蘇鉄

史跡大熊備前守屋敷跡の標柱
史跡大熊備前守屋敷跡の標柱

[MENU]