郡山城(こおりやまじょう)

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大和、和泉、紀伊の三ヶ国116万石の太守である大和大納言豊臣秀長の居城

復元された郡山城の追手向櫓
復元された郡山城の追手向櫓

大和国郡山の地は奈良盆地の西方に位置して、東部の秋篠川、佐保川と、西部の富雄川に挟まれた緩やかな西の京丘陵に立地した。この西の京丘陵の南端には郡山城跡がかつての威風を示している。往時は、本丸として天守曲輪、毘沙門曲輪、常盤曲輪、玄武曲輪、二の丸として二の丸屋形、菊畑、大腰掛、陣甫曲輪、松蔵、緑曲輪(新宅曲輪)、厩曲輪、麒麟曲輪、薪曲輪、三の丸として柳曲輪(五軒屋敷)、柳蔵といった曲輪を配置し、それらを内堀、中堀が囲んでいた。そして、城下町全体を土塁と外堀が囲む壮大な惣構えが構築され、城下町の外部へは惣構えに設けられた柳町大門、高田町大門、鍛冶町大門、九条町大門という4つの大門で出入りした。この大門のそばには番所や火見櫓が建てられ、箱本という町民による自治組織が当番制で勤めた。現在、天守曲輪には郡山藩主柳沢吉里(よしさと)の父吉保(よしやす)を祀る柳沢神社、東の毘沙門曲輪には柳沢家時代の史料を保管する柳沢文庫、常盤曲輪には旧奈良県立図書館が移築され市民会館として利用されている。そして、南の二の丸屋形に郡山高校冠山学舎が、西の麒麟曲輪に郡山高校城内学舎が建てられている。天守曲輪の北側には、付櫓を伴った見事な天守台が現存している。大和盆地は石材が乏しく、豊臣秀長(ひでなが)による改修時には、寺社の礎石や石仏、石塔などもかき集められた。天守台の北面には、地蔵が逆さまに組み込まれており、「逆さ地蔵」と呼ばれている。また、平城京の羅城門跡から運ばれたと伝わる礎石3基も石垣の角石に転用されている。他にも宝筺印塔、五輪塔などなどおびただしい転用石が使用され、仏教国大和の特徴とも考えられる。藩政時代の天守曲輪には、月見櫓、厩向櫓、坤櫓、台所橋櫓の4基の2層櫓と、白澤門櫓、竹林門櫓の2基の櫓門、2基の埋門が存在し、それらは多聞櫓で連結されていた。しかし、天守台には天守は建てられなかった。郡山城には抜け穴伝説があり、1つは北西の木島(このしま)に抜けるもので、もう1つは南西の外川(とがわ)に抜けるものであったという。いずれも城西を流れる富雄川端にある村落で、大坂方面への退路を想定していたことになる。これは郡山城が、摂津大坂城(大阪府大阪市)を守備する目的で配置されていた豊臣時代に成立した伝説と考えられる。近年、郡山城跡には、追手門(梅林門)、追手向櫓、追手東隅櫓、十九間東多聞櫓などが復元された。豊臣秀長時代、常盤曲輪には秀長の家老で、5万石を領する横浜一庵法印良慶(よしのぶ)の屋敷があったため法印曲輪または一庵丸と呼ばれ、追手門もこの場所に造られて一庵丸門といった。柳沢氏の入部に際して梅林門と改称されている。追手向櫓、追手東隅櫓も柳沢氏時代の呼称で、それ以前は大手先艮角櫓、法印斜曲輪巽角櫓と呼ばれた。これらの櫓は追手門を守るだけでなく、追手向櫓は参陣した軍勢の着到を確認する着到櫓として、追手東隅櫓は城内外に様々な合図を発する太鼓櫓として機能した。鰻堀池の南側にある永慶寺(えいけいじ)は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉(つなよし)の側用人であった柳沢吉保が甲斐国甲府に創建した柳沢家の菩提寺で、長男の柳沢吉里が甲斐甲府藩から大和郡山藩へ国替えになると、吉里とともに郡山へ移された。柳沢氏は甲斐武田氏の一門で、武川衆に属す。永慶寺の棟門形式の簡素な山門は、豊臣秀長時代に造営された郡山城南御門を移築したもので、現在では郡山城をしのぶ唯一の貴重な遺構である。郡山城跡は良い状態で保存されており、中堀の一部が鰻堀池、鷺池、五軒屋敷池として残り、外堀の一部は外堀緑地として整備されている。

郡山城は、戦国時代末期に大和国を治めた筒井順慶(じゅんけい)によって本格的な城郭として築城されたことに始まるが、それ以前にも在地土豪の小規模な城館が存在していた。久安2年(1146年)東大寺領の荘園であった清澄荘(きよずみのしょう)から薬園荘(やくおんのしよう)が分立し、鎌倉時代末期の正安2年(1300年)には薬園庄から郡山庄が分立している。これは大和国の各寺領の盛衰が時代背景としてあり、同時に大和武士の勃興を示している。中世の郡山には、中殿(なかどん)、辰巳殿(たつみどん)、薬園殿(やくおんどん)といった「郡山衆」と称される土豪たちが割拠していた。現在、郡山城のある丘陵地帯一帯に、この郡山衆の城館が雁行状に存在した。郡山衆は、筒井城(大和郡山市筒井町)に本拠を置く筒井党に属したり、また南和の越智氏に属したりと離合集散を繰り返しながら、南北朝の動乱、筒井・越智の党争、河内畠山氏の内訌、筒井順慶と松永久秀の戦いといった戦乱の続く大和を生き抜いた。当初は、越智氏方の中殿と、筒井氏方の辰巳殿との間で抗争が絶えなかったが、明応年間(1492-1501年)中殿の郡山城が筒井氏によって陥落、中殿が没落すると、辰巳殿が郡山城を居城とし筒井城の支城的な役割を担うようになる。永禄2年(1559年)松永久秀(ひさひで)の大和国侵攻に際しては、郡山辰巳氏(小田切氏)が松永軍の信貴山城(生駒郡平群町)入城を手引きしている。その後、郡山衆は筒井党への帰属を許され、郡山城は松永久秀に対抗する拠点として機能したが、永禄11年(1568年)郡山辰巳氏は再び裏切り、織田信長を味方に付けた松永久秀の先鋒として筒井城を落城まで追い込んでいる。天正2年(1574年)頃の郡山城は『和州郡山委細書』に「只今之御本丸カキ上堀御居城二ノ丸御家中衆百姓交リ也」とあり、掻き揚げの土塁に堀をめぐらせた城館で、本格的な城郭ではなかったようである。天正8年(1580年)信長により「大和一国破城令」が発せられ、郡山城を残して大和国中の城郭は破却となった。そして、筒井順慶は「国中一円存知」を許され、大和国37万石と郡山城を与えられる。筒井順慶が郡山城に入城するには、郡山衆の存在が障害であった。筒井順慶は、信長の上使から郡山城を受け取ると、郡山辰巳父子を矢田で成敗している。これについて、『多聞院日記』には永年の恨みと記されるが、それ以外に郡山衆の影響力を排除する措置もあったと考えられている。そして筒井順慶は、郡山城を大和国の府城として近世城郭に大改修した。この築城工事には明智光秀(みつひで)が目付として関わっており、光秀が同時期に築いた丹波福知山城(京都府福知山市)と共通点の多いことが指摘されている。天正10年(1582年)京都本能寺で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀は、新政権樹立のため諸将に協力を求めるが拒否され、光秀の与力大名の中で最大勢力を持ち、姻戚関係でもある筒井順慶だけが頼りとなった。しかし、羽柴秀吉が明智光秀に仇討ちを挑んだ山崎の戦いにおいて、光秀からの再三の協力要請に対して筒井順慶は合戦に参加せず、洞が峠(ほらがとうげ)から戦況を見定めていたとされ、これにより日和見(ひよりみ)主義のことを「洞が峠を決め込む」と言うようになったとされる。この山崎の戦いで明智光秀を破った羽柴秀吉は、天下人としての第一歩を踏み出していた。筒井順慶は秀吉の許へ赴くと、遅参を叱責されたが、からくも大和一国は安堵された。天正11年(1583年)筒井氏時代の天守が完成したことが記録に残るものの、その場所がどのあたりだったのか分かっていない。

天正12年(1584年)筒井順慶が36歳の若さでこの世を去ると、養子の筒井定次(さだつぐ)が家督を継いだが、天正13年(1585年)秀吉によって伊賀国上野20万石に転封を命じられている。そして、筒井定次に代わり羽柴小一郎秀長(豊臣秀長)が紀伊和歌山城(和歌山県和歌山市)から大和、和泉、紀伊の三ヶ国116万石の太守として郡山城に入る。天正15年(1587年)豊臣秀長は権大納言に昇進し、大和大納言と称された。秀長は郡山城を100万余石の居城にふさわしく大規模なものに改修し、新たに七重天守の造営に着手、城下町も整備して郡山を発展させている。また、天正15年(1587年)には紀伊根来寺の焼き討ちで焼失を免れた南大門を水運にて運び出し、郡山城の城門として移築した。豊臣秀長は豊臣秀吉の異父弟で、もとは尾張国中村の農夫であったが、永禄5年(1562年)秀吉から請われて23歳で武士になった。当初は木下小一郎と名乗り、秀吉がまだ木下藤吉郎といって足軽組頭であった頃から兄を支え続け、凡下平民の出自でこれといった一門衆家臣団を持たない秀吉にとって、実直な小一郎は最も信頼できる家臣であった。その後、小一郎は織田信長の美濃攻めにおいて、木曽川を支配する川並(かわなみ)衆を味方に付けることに成功、永禄10年(1567年)秀吉たちの活躍により織田信長はついに美濃斎藤氏を降伏させた。元亀元年(1570年)織田信長・徳川家康連合軍は越前朝倉氏を討伐するため3万の兵を率いて越前国に侵攻する。しかし、突然裏切った浅井長政(ながまさ)によって退路を断たれ、浅井軍と朝倉軍に挟撃されるという絶体絶命の危機に陥った。この時、木下藤吉郎は織田信長とその軍勢を無事に京都に撤退させるため殿軍を務めた。いわゆる金ヶ崎の退き口である。柴田勝家(かついえ)、丹羽長秀(ながひで)、佐久間信盛(のぶもり)らも決死の覚悟の秀吉を哀れみ、自分の部隊から弓や鉄砲に秀でた猛者を数十騎割いて、秀吉の部隊に付属させた。木下小一郎は敵軍に真っ先に当たる第一備えの大将に任命され、配下の蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、前野長康(ながやす)ら川並衆による獅子奮迅の活躍によって、万に一つも生存の可能性がない状況から秀吉の部隊を帰還させることに成功している。また、最前線に取り残された徳川家康の軍勢も、秀吉の部隊に合流し、秀吉たちの脱出を支援した。そして、天正元年(1573年)浅井氏の滅亡により、木下藤吉郎は恩賞として浅井氏の旧領である北近江三郡を与えられ、近江長浜城(滋賀県長浜市)を築城、羽柴秀吉と名乗って初めて城持ち大名となった。その後の中国地方の毛利氏攻略では、羽柴秀吉が山陽道を担当し、羽柴秀長が山陰道を担当するというように、秀長は秀吉の優秀な片腕として活躍する。天正13年(1585年)紀州征伐において、羽柴秀長は秀吉の副官として従軍し、これを平定すると紀伊・和泉など64万石の所領を与えられる。そして同年の四国征伐では羽柴秀長が総大将に任命され、毛利氏や宇喜多氏を率いて10万を超える大軍で長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降した。この功績により羽柴秀長は大和国を加増されて郡山に入ることになる。長宗我部元親、紀伊雑賀衆、紀伊根来衆など羽柴秀吉の背後を脅かす徳川家康の同盟軍が次々と軍門に下ったため、天正14年(1586年)上洛を拒み続けた家康も秀吉への抵抗をあきらめ、ついに大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊した。秀長は警戒する家康に接待して害意がないことを示している。その晩、秀吉本人が秀長邸に現れるという出来事が起き、金ヶ崎の退き口での救援に謝意を表し、家康に頭を下げて臣従を求めている。

翌日、家康は大坂城で秀吉に謁見し、約束どおり臣下の礼をとった。これにより、豊臣秀吉は実質的に天下を統一したことになる。ところが、天正17年(1589年)豊臣秀長は大病にかかり、小康状態が続いたのち、天正19年(1591年)郡山城でこの世を去った。葬儀には公卿、諸大名、民衆など20万人がつめかけたという。秀長に男子がいなかったため、家督は甥の豊臣秀保(ひでやす)に継がせた。生涯、兄の秀吉を立てて補佐役に徹した豊臣秀長は、真面目な人柄であったため、豊臣恩顧の諸大名から慕われ、領民からも親しまれた。秀長がもう少し長生きしていれば、秀吉晩年の愚挙である文禄・慶長の役(朝鮮出兵)も、関ヶ原の戦いに際して豊臣家の家臣が二派に分かれることもなく、豊臣家の滅亡は避けられたと言われている。豊臣秀保は秀長の意志を継いで、引き続き郡山城の整備をおこなっており、この頃に七重天守が完成したという。文禄元年(1592年)文禄の役に従軍したが、文禄4年(1595年)17歳で急死し、大和豊臣家はわずか2代で断絶してしまう。同年、郡山城には豊臣政権の五奉行の一人である増田長盛(ましたながもり)を22万3千石で封じた。このとき秋篠川の流路を変えて旧河跡を郡山城の惣堀に利用、土塁と外堀で城下町全体を囲む壮大な惣構えが構築された。また、柳町、高田町、鍛冶町、九条町の四大門を開いたのもこのときで、ここに筒井順慶から20年を経過して郡山城は内郭、外郭ともに完成した。しかし、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍に属して大坂城を守備した増田長盛は高野山に追放され、東軍の本多正信(まさのぶ)と藤堂高虎(たかとら)が郡山城の接収に来ている。このときの郡山城の引き渡しに際し、増田長盛の家臣であった渡辺勘兵衛了(さとる)の主人長盛の命があるまで開城を拒否するという対応が評価され、のちに藤堂高虎に2万石の破格の待遇で召し抱えられる。その後、郡山は天領となり郡山城の七重天守など建築物は山城伏見城(京都府京都市)にことごとく移築され、郡山城は南都(奈良)奉行所の管轄下となって、大久保長安(ながやす)が在番した。その後も山口直友(なおとも)、筒井一族の筒井定慶(じょうけい)と城番時代が続き、元和元年(1615年)大坂夏の陣の緒戦では、豊臣方の大野治房(はるふさ)が郡山城に攻め寄せると筒井定慶は戦わずに逃亡している。その後、豊臣家滅亡を知った定慶は、郡山城を放棄した責任を感じて自害している。ここに大和武士の名門である大名家筒井氏は途絶えた。元和元年(1615年)水野勝成(かつなり)は三河国刈谷より6万石で郡山に入部し、大和郡山藩を立藩、廃城同然に荒廃していた郡山城を復興した。この時、土木工事は天下普請でおこない、作事などの建築工事は勝成がおこなった。しかし、天守台には天守は建てられず、江戸時代をとおして天守は再建されなかった。元和5年(1619年)水野勝成に代わって摂津大坂藩より松平(奥平)忠明(ただあきら)が12万石で入封し、この間に廃城となった山城伏見城の城門6基をもらい受けて郡山城に移築している。寛永16年(1639年)松平忠明は18万石で播磨姫路藩に移封となり、替わって播磨姫路藩から本多政勝(まさかつ)が15万石で入封する。そして、本多政勝の後継者をめぐって有名な九・六騒動が発生している。その後は、松平(藤井)信之(のぶゆき)、本多氏5代を経て、享保9年(1724年)柳沢吉里が15万1千石で郡山に入封する。以後、柳沢氏は信鴻(のぶとき)−保光(やすみつ)−保泰(やすひろ)−保興(やすおき)−保申(やすのぶ)と6代続き、明治維新を迎える。(2009.07.29)

復元された追手門(梅林門)
復元された追手門(梅林門)

追手東隅櫓と十九間東多聞櫓
追手東隅櫓と十九間東多聞櫓

移築現存する郡山城南御門
移築現存する郡山城南御門

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