国府台城(こうのだいじょう)

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小田原北条氏と安房里見氏が雌雄を決した戦場の城

国府台城の「物見の松」櫓台
国府台城の「物見の松」櫓台

国府台(こうのだい)という地名の由来は次のとおりである。景行(けいこう)天皇の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征のおり、下総国の賊を平定してこの台地に陣を張った。そして武蔵国に向かおうとしたが、国境の河川は舟を使わずに渡ることができなかった。このとき、一羽のコウノトリが現われて浅瀬の場所を教えたため、日本武尊は大軍を率いて武蔵国に渡ることができた。日本武尊はコウノトリの功績を称えて下総の台地を与えたところ、このコウノトリの台地が「鴻之台(こうのだい)」と呼ばれるようになったと伝わる。しかし、実際には下総国の国府(こくふ)が置かれた台地なので、国府台の地名が起きている。国府台合戦で有名な国府台城は、現在の江戸川と坂川の合流地点に隣接する比高20m〜30mほどの河岸段丘上に存在した。江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといがわ)と呼ばれていたが、この太日川の流れる西側は急崖で、東側に低湿地の谷が入り込んでいるため、南北に細長い城域であった。これは連郭式の平山城を構えるには適した形状であるが、この地の利点は要害性のみでなく、水運で栄えた市河津周辺を押さえることができる軍事的かつ経済的な要所であった。国府台城跡には「市川市最高標高地点(標高30.1m)」の標柱が立ち、この城が市川市で最も高い場所に築かれていたことが分かる。小田原北条氏と安房里見氏などの房総諸将が激突した国府台合戦は、天文7年(1538年)の第一次合戦と、永禄6年(1563年)と永禄7年(1564年)の第二次合戦に大別される。永禄7年(1564年)の合戦において、北条軍に寝込みを急襲された里見兵は、「やれ太刀よ物具よと呼(さけ)び、太刀一振りに鎧一領に二人三人取付て我よ人よとせり合、兜許(ばか)りで出づるもあり、鎧着て空手で出づるもあり」という狼狽ぶりを呈した。この敗戦によって、里見弘次(ひろつぐ)、正木内膳らをはじめとして5千名が戦死したと伝わる。その後、この里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなかったが、文政12年(1829年)になって里見諸士群亡塚と里見諸将霊墓が建てられ、年代は不詳だが里見弘次公廟も建てられた。国府台城の周辺には古代から集落があり、そのため古墳も非常に多くあった。国府台城の城内にも6世紀後期に造られた明戸(あけど)古墳と称される全長40mの前方後円墳が存在するが、築城の際にはこれらの古墳を利用して土塁を造った。そのため、土塁の上部で後円部墳頂近くに2基の箱式石棺が出土したままの状態になっているが、これは太田道灌(どうかん)が築城の際に露出したものと伝わっている。江戸時代の『江戸名所図会』によると、一般的には北側の石棺が里見越前守忠弘(ただひろ)の子である長九郎弘次の墓で、もう一方は不明だが正木内膳の墓でないかと言われているが、しかし石棺の中から甲冑や太刀、金銀の鈴、陣太鼓、土偶、埴輪が出土しているため、古代人の墓であろうと記されている。この石棺の蓋は、いつの時代からか里見公園に残る「夜泣き石」の台座に使用されている。この「夜泣き石」には次のような伝説がある。第二次国府台合戦で里見弘次が戦死してしまい、弘次の末娘が、父の霊を弔うために安房国から国府台を訪れた。しかし戦場の凄惨な情景を目の当たりにすると、恐怖と悲しみに打ちひしがれて、傍らにあった石にもたれて泣き続け、ついに息絶えた。それから毎夜この石から悲しい泣き声が聞こえるようになったという。この石は「夜泣き石」と呼ばれるようになったが、後にひとりの武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは泣き声が聞こえなくなったと伝わる。

城跡に建つ曹洞宗の安国山総寧寺(そうねいじ)は、もともと近江観音寺城主の佐々木氏頼(うじより)によって、永徳3年(1383年)近江国に建立された寺院であった。天正3年(1575年)になって、相模小田原城主の北条氏政(うじまさ)が寺領20石を与えて、下総国関宿(野田市)に移したという。徳川家康が天下を掌握すると、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じた。しかも歴代住職は10万石大名の格式をもって遇せられた。その後、関宿の地にてしばしば水害を被ったため、寛文3年(1663年)4代将軍徳川家綱(いえつな)に願って国府台城跡に移したものである。この国府台城跡は、太平洋戦争中には首都防衛のための高射砲陣地が設置され、戦後になって里見公園として整備されたため、城跡の南半分の遺構は破壊されて原型を留めていない。しかし、残りの多くは住宅街になっているものの、堀切や空堀、二重の土塁がそれなりに残っており、「物見の松」と呼ばれる櫓台や、「羅漢の井」という水の手も現存する。享徳3年(1454年)関東管領山内上杉憲忠(のりただ)が鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に謀殺された事件から始まる享徳の乱は、関東地方一円に戦渦を拡大して各地に波紋を広げた。下総国守護職の千葉氏は、室町幕府から成氏追討の要請を受け、鎌倉を追われて下総国古河に本拠を移した古河公方足利成氏と戦った。康正元年(1455年)これに反対する千葉氏庶流で馬加城(千葉市花見川区)の馬加康胤(まくわりやすたね)は古河公方に通じて挙兵、千葉氏の重臣である原胤房(たねふさ)と結託して、亥鼻城(千葉市中央区亥鼻町)を本拠とする千葉宗家の千葉胤直(たねなお)・胤宣(たねのぶ)父子、胤直の弟胤賢(たねかた)らを攻め滅ぼした。馬加康胤はみずから千葉氏19代当主となり、千葉康胤と名乗った。一方、千葉胤賢の子である実胤(さねたね)・自胤(よりたね)兄弟は逃げ延びて八幡庄の市河城に籠ったという。この市河城の場所は不明だが、国府台城を比定する説や、国府台城東側の真間山にあって国府台城の前身であるという説などが存在する。室町幕府8代将軍である足利義政(よしまさ)の命によって、千葉氏の内紛を収拾するため関東に派遣された幕府奉公衆の東常縁(とうつねより)は、援軍を率いて市河城に合流、馬加城の千葉康胤に対抗した。しかし、康正2年(1456年)市河城は古河公方が派遣した簗田持助(やなだもちすけ)らの軍勢に攻められて落城、千葉実胤・自胤兄弟は武蔵国に追われた。このときの戦いを市河合戦といい、名族千葉氏は武蔵国と下総国に分かれて長らく対立を続けることになる。文明10年(1478年)古河公方足利成氏と関東管領山内上杉顕定(あきさだ)が和睦すると、千葉康胤の庶流の孫であり、千葉氏当主を継いだ臼井城(佐倉市)の千葉孝胤(のりたね)は孤立してしまい、山内上杉顕定に反乱を起こした長尾景春(かげはる)と同盟を結んだ。扇谷上杉氏の家宰である太田道灌は、武蔵石浜城(東京都荒川区)の千葉自胤を援けて千葉孝胤の討伐にのり出す。『鎌倉大草紙』に「太田道灌下総国国府台に陣取、かりの陣城をかまへける」とあるように、太田道灌は国府台の地に仮陣を築き、下総国境根原(柏市酒井根)の合戦で千葉孝胤の軍勢を破った。この時、国府台の地は城地としてふさわしいと見立てられ、翌文明11年(1479年)道灌の弟である太田図書助資忠(すけただ)と千葉自胤が、千葉孝胤の籠る臼井城を攻める際に国府台城を築城したと記録に残る。一般的には、この太田資忠の築城をもって国府台城の始まりとする。

永正年間(1504-21年)古河公方足利政氏(まさうじ)と長男の足利高基(たかもと)が不和になると、次男で鶴岡八幡宮若宮別当の空然(くうねん)は還俗して足利義明(よしあき)と名乗った。父や兄と対立した義明は放浪の末、上総真里谷城(木更津市)の真里谷信保(まりやつのぶやす)によって迎えられる。そして、真里谷氏の支援のもと、千葉氏重臣の原胤隆(たねたか)の小弓城(千葉市中央区南生実町)を奪取、これを居所として小弓公方(おゆみくぼう)を名乗った。天文2年(1533年)から始まる安房里見氏の内紛(天文の内訌)において、小弓公方は真里谷信保に命じて里見義豊(よしとよ)の支援に当たらせた。しかし、相模国の北条氏綱(うじつな)の支援を受けた里見義堯(よしたか)によって、里見義豊は滅ぼされてしまう。天文3年(1534年)真里谷信保は里見義豊の救援失敗によって足利義明と不和になり、義明から強制的に隠居させられ、そのまま病死した。信保の跡は庶長子の真里谷信隆(のぶたか)が継いだが、足利義明が家督相続に介入して嫡子の真里谷信応(のぶまさ)を擁立、真里谷氏の内紛に発展する。天文6年(1537年)里見義堯が北条氏から離反、小弓公方に味方して参戦したため、真里谷信隆は北条氏のもとに亡命した。これら一連の出来事によって、小弓公方は急速に勢力を拡大し、古河公方や小田原北条氏に対抗して、関東の統一を目指すようになる。一方、古河公方足利晴氏(はるうじ)は小弓公方や山内上杉氏との対抗上、北条氏綱と同盟を結んだ。天文7年(1538年)北条氏綱が葛西城(東京都葛飾区)を攻め取ったことから、足利義明は北条氏の房総侵略と判断、里見義堯、真里谷信応をはじめとする房総諸将を率いて1万の軍勢で国府台に進出、こうして第一次国府台合戦が始まった。北条氏綱・氏康(うじやす)父子は2万の軍勢を率いて相模小田原城(神奈川県小田原市)を発進、武蔵江戸城(東京都千代田区)を経由して国府台対岸に着陣する。小弓公方は国府台城付近に本陣を構えており、『国府台戦記』には、小弓公方が相模台に先鋒部隊を出したという記述があり、小弓公方軍が南北に長く布陣していたことが分かる。一方の北条軍は、北条本隊が国府台に向かっているという偽情報を流して小弓公方軍を国府台に釘付けにすると、根来金石斎の進言により「松渡の渡し」付近から太日川の渡河を開始する。小弓公方は国府台の河岸に防衛線を敷いて迎撃態勢を整えていたが、相模台城(松戸市岩瀬)に布陣する先鋒部隊の椎津隼人佐らが北条軍の渡河作戦を発見して、国府台城の本陣に報告した。裏をかかれた小弓公方軍の軍議では、里見義堯らが渡河中の北条軍に総攻撃を仕掛けて殲滅させる事を主張したのだが、己の家柄と武勇を過信する足利義明はこれを退け、北条軍の渡河を許してしまった。無事に渡河した北条軍は「松どのたいといふ山」に布陣、この「松戸台」は松戸城(松戸市松戸)とされる。そして、両軍は矢切台で激突した。当初は小弓公方軍が優勢であったが、兵力で勝る北条軍が次第に押し始めた。足利義明の弟の基頼(もとより)、子の義純(よしずみ)が相次いで討死、義明もわずかな馬廻衆を率いて敵中に無謀な突撃をおこなうが、後続する部隊はいなかった。義明は雑兵を何人か討ち取ったものの、三浦城代の横井越前守神助(しんすけ)の矢に射抜かれて戦死してしまう。横井神助は弓の名手で、三人張十三束の強弓から放たれた矢は義明の鎧を貫き、三寸(約9cm)も突き出ていたという。総大将を失った小弓公方軍は総崩れとなり、1000余名が討死、この合戦によって小弓公方は滅亡した。

第一次国府台合戦に勝利した小田原北条氏は下総国まで勢力を伸ばし、北条氏の保護を受けていた真里谷信隆は上総真里谷城を回復、原胤隆の嫡男胤清(たねきよ)も小弓城を回復した。一方の里見義堯は、戦闘らしい戦闘をおこなうことなく戦線を離脱しており、兵力を温存したまま安房国に退却している。そして上総南部に侵攻し、小弓公方の遺臣の多くを家臣団に組み込みながら、北に領土を拡大していく。国府台の地は原氏の重臣で小金城(松戸市大谷口)の高城胤吉(たねよし)の所領に帰した。現在の流山市から船橋市に至るまでを領有する高城氏は、永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』に「他国衆」として記載されており、小さいながらも独立した戦国大名として認められていた。永禄4年(1561年)越後国の長尾景虎(かげとら)は関東管領山内上杉憲政(のりまさ)を擁して、山内上杉氏の旧臣など10万の大軍で相模小田原城を包囲する。この時、里見義堯は嫡男義弘(よしひろ)に軍勢を率いて参陣させている。景虎は小田原城を落とすことはできなかったが、鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督を継ぎ、関東管領職に就任した。永禄6年(1563年)北条氏康と武田信玄(しんげん)が上杉輝虎(のちの謙信)方の武州松山城(埼玉県比企郡吉見町)を攻撃した際、里見義弘は上杉氏の要請を受けて松山城の救援に向かった。この時、これを阻止しようとする北条軍と国府台で衝突したとされる。結局、里見軍は反北条勢力の太田資正(すけまさ)らの支援を受けて武蔵国に入ったものの、松山城が陥落したため撤退している。同年、北条氏康の配下であった江戸城代の太田康資(やすすけ)が謀反を図って失敗し、同族の太田資正のもとに逃れた。この時期の江戸城代は、本丸に富永三郎右衛門尉直勝(なおかつ)、二の丸に遠山丹波守綱景(つなかげ)が配置され、太田康資は三の丸のみを任されており、一説にはこれが不満であったという。上杉輝虎から太田氏の救援を依頼された里見義弘は、翌永禄7年(1564年)房総諸将を率いて6千の軍勢で再び国府台城に布陣した。里見軍は太田資正の籠る武蔵岩付城(埼玉県さいたま市)へ兵糧を送るため、市河津付近で兵糧調達を行っていたが、高城氏が兵糧の市場価格を引き上げることでこれを妨害したという。値段が折り合わず手間取っている間に北条氏康は2万余の兵力で国府台に急行、太田資正も2千の兵を率いて里見軍に合流、こうして第二次国府台合戦が開始される。先着した江戸城代の遠山綱景、富永直勝は、太田康資の謀反に責任を感じて、北条本隊の到着を待たずに迦羅鳴起(からめき)の瀬(矢切の渡し付近)から渡河を開始した。遠山・富永隊は対岸に押し渡り、退却する里見軍を深追いするが、これは北条軍を誘い込むための策であった。矢切台の台地中腹で里見軍の反撃を受け、遠山綱景、富永直勝など100余騎が討死、この日の戦いは北条軍の敗北であった。里見・太田連合軍は、緒戦の勝利に油断して祝杯を挙げた。これに対し北条氏康・氏政父子は退却したと見せかけ、翌朝に全軍を二手に分けて国府台を急襲、里見・太田連合軍は壊滅的な損害を受けて撤退した。最大の激戦地は西蓮寺(松戸市下矢切)のあたりとされ、裏参道入口に「永禄古戦場跡」と刻まれた木柱が建てられている。敗れた里見義弘は安房国に敗走、北条氏は一気に上総国まで勢力を広げることになる。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原の役によって小田原北条氏が滅びると、代わって徳川家康が関東に入封した。家康は国府台城が江戸俯瞰の地であるという理由から廃城にしたという。(2007.10.08)

土塁上部に露出した箱式石棺
土塁上部に露出した箱式石棺

水の手であった「羅漢の井」
水の手であった「羅漢の井」

北条軍が渡河した迦羅鳴起の瀬
北条軍が渡河した迦羅鳴起の瀬

激戦地であった西蓮寺の木碑
激戦地であった西蓮寺の木碑

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