小松城(こまつじょう)

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古刹小松寺を起源とし、明智光秀も要害性を認めた北陸無双の城郭

切込みハギによる小松城天守台
切込みハギによる小松城天守台

加賀藩2代藩主である前田利常(としつね)の隠居城として築かれた近世小松城は、標高1-2mの低湿地に築かれた渦郭式平城で、広大な湖沼に浮かぶ12の島を石橋・木橋で連結した全国でも珍しい水城であった。梯川(かけはしがわ)と前川を外堀として、梯川の流れを水堀に取り入れており、有事の際はこれを堰き止めて一帯を湖のようにして守備すると伝えられ、「小松の浮城」と呼ばれた。古絵図によれば、本丸、二ノ丸を中心として、その周囲に三ノ丸、枇杷嶋、中土居、葭嶋(よしじま)の4郭、さらにその周囲に牧嶋、愛宕、後三ノ丸、竹嶋など6郭を巡らせていたことが分かる。それぞれの島は独立した曲輪として石垣や土塀で厳重に防備されたが、郭内には藩主が趣味とした広大な「お花畑」が広がっていた。現在、小松城の本丸は県立小松高校のグラウンドとなり、二ノ丸は小松高校の校舎一帯、三ノ丸は芦城公園となっている。小松高校のグラウンドの隅には、切込みハギの天守台および内堀の石垣が現存する。建造物としては、二ノ丸にあった鰻橋御門が、来生寺(小松市園町)の山門として移築現存する。他にも、稚松小学校(小松市殿町)には小松城の常磐門が移築され、正覚寺(小松市松任町)には棟門が移築されている。それ以外は、七十間長屋跡、葭島跡、鰻橋跡などの石碑が点在するのみである「小松」という地名は、平安時代中期に花山(かざん)法皇が巡幸でこの地を訪れた際、梯川ほとりの客館の周囲に稚松を植えたことから、後に「園の小松原」と呼ばれるようになったことが由来とされる。しかし、花山法皇は近畿地方をほとんど出ておらず、この話は菅原道真(みちざね)が讃岐国の客館に小松を植えた史実をもとにした創作であるという。実際には、平安時代末期の仁安2年(1167年)から天正3年(1575年)頃まで存在した小松寺の寺号からとする説が正しいようである。当初は真言宗新義派の三密精舎鎮華院小松寺と号し、安元元年(1175年)に浄土宗に改宗して仏徳院小松寺と号した。この小松寺は平清盛(きよもり)の長男である重盛(しげもり)が建立したもので、重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿や小松内府と称された。「はき溜めへ鶴のおりたは小松殿」とうたわれるほど人望厚く、仏道に深く帰依し、諸国に多数の寺院を建立・再興している。小松内府重盛は日本の六十八ヶ国すべてに小松寺を建立しようとしたと伝えられ、実際に「小松」を寺号とする重盛ゆかりの寺院は、茨城・愛知・岐阜・滋賀・京都・大阪・広島などに現存する。加賀の小松寺の文献上の初見は、『南禅寺慈聖院文書』という古文書の鎌倉時代後期にあたる徳治3年(1308年)の記述に「小松上総房圓勝」とあり、小松寺は名刹であるため単に「小松」と呼称されている。加賀の小松寺は、往時は複数の寺院群により小松寺町、小松庄を形成するほどの大寺院であった。現在の稚松小学校を中心とした一帯は、かつて小松庄として小松寺の寺領つまり荘園であったと考えられている。奈良時代以来、荘園を有する多くの寺院は、僧兵や寺侍を抱えて自衛した。さらに伽藍は、土塁や水堀、堅固な塀などによって防備していた。それが城郭伽藍である。日本にはこのような寺院城郭が多く、特に室町時代末期から多数出現した。小松寺も室町時代後期に至ると、加賀国を支配した加賀一向一揆の城砦となり小松寺城と呼ばれた。小松城の前身はこの小松寺城で、加賀の一揆衆が越前朝倉氏との戦いに備えて、小松寺を城砦化したのが始まりとされる。現在、この小松寺の法灯を継ぐ寺院が、小松市東町に移転した浄土宗の小松山佛徳院法界寺である。

加賀一向一揆と朝倉氏の戦いは、明応3年(1494年)一揆勢の越前侵攻に始まり、約80年間に渡り10回程度の抗争が続いた。永正3年(1506年)には越前国内で一向一揆が蜂起し、これに呼応して加賀・能登・越中の一向一揆勢力が30万という大軍で国境を越えて越前に侵入、九頭竜川の戦いが勃発した。朝倉氏は3代の貞景(さだかげ)の時代で、朝倉宗滴(そうてき)が総大将としてわずか1万2千の兵力で一揆勢を打ち破った。その後の戦いも朝倉氏が勝利を重ね、吉崎御坊(福井県あわら市)をはじめ、和田本覚寺(福井県吉田郡永平寺町)、藤島超勝寺(福井県福井市藤島町)など越前国内の本願寺系の寺院をすべて破却して国外追放処分とし、坊主から門徒に至るまで土地・財産を没収、加賀と越前の国境は閉鎖となった。そして、享禄4年(1531年)には本願寺の内紛である享禄の錯乱(大小一揆)が起こっているが、この頃の小松には火宅僧(妻帯僧)の道秀(どうしゅう)という者がいたことが知られている。道秀は小松寺の僧と考えられる。永禄5年(1562年)朝倉氏は加賀へ侵攻して月津・御幸塚・安宅などに陣を布いた。この戦いには、織田信長に仕える前の明智十兵衛光秀(みつひで)が朝倉氏の客将として参加している。『明智軍記』によると、同年の永平寺(福井県吉田郡永平寺町)参詣の際、朝倉義景(よしかげ)が明智十兵衛を召して築城の適地を尋ねた。光秀は答えて、越前では北ノ庄(福井県福井市)や長泉寺(福井県鯖江市)、加賀では小松寺を挙げたという。また、上方では石山本願寺(大阪府大阪市)と言ったところ、光秀が寺ばかりを挙げるので義景は笑ったと記されている。江戸時代初期に出版された『明智軍記』は、徳川家康の側近である天海大僧正が実は明智光秀であるという説を否定するために、江戸幕府が出版させた軍記物ともいわれる。その後、永禄7年(1564年)朝倉義景の攻撃により小松寺城は落城している。天正元年(1573年)朝倉氏が信長との戦いに敗れて滅亡、加賀一向一揆にとって隣国の脅威が排除されたのも束の間、天正3年(1575年)から越前一向一揆を制圧した織田信長の加賀侵攻が始まった。加賀に侵入した織田軍は、江沼・能美の2郡を平定して手取川まで進出しており、この時に小松寺も灰塵に帰したと考えられる。この頃の能美郡の支配は安定しておらず、各地で一揆衆が蜂起して激しい攻防戦が繰り広げられた。そして、天正4年(1576年)加賀一向一揆方の武将である若林長門守が笹藪をなぎ払って小松城を築いたという。その後の小松城主は目まぐるしく変わった。天正4年(1576年)から天正5年(1577年)にかけては織田軍が占領しており、柴田勝家(かついえ)配下の徳山五兵衛則秀(のりひで)が御幸塚城(小松市今江町)から小松城主として配置された。しかし、天正5年(1577年)からは一向一揆方の目賀多河内守信吉(のぶよし)が城主であった。江戸時代中後期の加賀藩士(小松城番)で、郷土史家でもある富田景周(とだかげちか)が著した『越登賀三州志』によると、『年代鑑』という史料に「以達(板津)九郎なる者が古の小松城を取り立つ」とあるという。この『年代鑑』は現代に伝わっていないため確認はできない。また同書には、一向一揆方の若林長門守が築城した話や、柴田勝家が城に取り立てて徳山某を置いた話が紹介されるが、いずれも不詳としている。天正8年(1580年)石山本願寺と信長が和睦すると、柴田勝家を総大将とする織田軍は抵抗を続ける加賀一向一揆を攻撃、小松城を攻め落として、そのまま尾山御坊(金沢市)まで陥落させた。

この加賀平定戦の戦功により、石川郡と河北郡が佐久間玄蕃允盛政(もりまさ)に与えられており、石川郡松任に徳山則秀が、江沼郡大聖寺に拝郷家嘉(はいごういえよし)が配置された。一方、白山麓の鳥越城(白山市三坂町)などで頑強な抵抗を続ける加賀一向一揆の残党に対して、天正8年(1580年)11月に柴田勝家は、和議締結の祝いと称して若林長門守など加賀一向一揆の首謀者19名を松任城(白山市古城町)に誘い出して謀殺している。天正10年(1582年)本能寺の変で織田信長が斃れると、柴田勝家と羽柴秀吉の主導権争いが勃発、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いに秀吉が勝利して、越前北ノ庄城で勝家を自害に追い込んだ。戦後、秀吉に協力した功により、丹羽長秀(ながひで)には若狭・越前・南加賀2郡(能美・江沼)が与えられ、前田利家(としいえ)には能登の安堵と北加賀2郡(石川・河北)が加増された。能美郡は小松城に派遣された丹羽氏の重臣である村上次郎右衛門義明(よしあき)が領した。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、丹羽長秀は病床にあり、父に代わって嫡子の長重(ながしげ)が出陣している。天正13年(1585年)長秀が没すると、丹羽長重が若狭・越前・南加賀2郡の123万石を相続したが、秀吉は理由を付けて長重から越前・加賀を召し上げて若狭一国15万石とし、重臣の長束正家(なつかまさいえ)や溝口秀勝(ひでかつ)、村上義明らを召し上げた。さらに、天正15年(1587年)にも理由を付けて若狭国を取り上げ、わずかに石川郡松任4万石の小大名に成り下がってしまう。これは秀吉が、丹羽氏の勢力を削ぐためにおこなった処置と考えられている。一方で、天正13年(1585年)村上義明は丹羽長重のもとから羽柴秀吉の直臣となり、能美郡に6万5千石を与えられて小松城主として続いた。村上次郎右衛門の諱は義明として流布しているが、頼勝(よりかつ)が正しいという。出自については、信濃村上氏、伊予村上氏(村上水軍)の一族ともいわれるが、何れも根拠に乏しく詳細は不明である。その後、秀吉の命により堀秀政(ひでまさ)・秀治(ひではる)父子の与力大名となり、九州征伐や小田原征伐に従軍、慶長3年(1598年)堀秀治の越後国への転封に伴い、越後国本庄(村上)に9万石で加増転封された。代わって松任城主であった丹羽長重が小松城主に加増転封となり、長重の所領は能美郡と石川郡松任を合わせて12万石となった。このとき従三位と参議および加賀守に叙位任官されたので、小松侍従(小松宰相)と称された。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、隣接する金沢城(金沢市)の前田利長(としなが)が徳川家康の東軍に与すると、家康から前田家を監視するよう命じられていた丹羽長重は、石田三成(みつなり)の西軍に与した。丹羽家と前田家には確執があり、西軍の大谷吉継(よしつぐ)はそこを突いて長重を調略したのである。利長は京都に出るため、2万5千の大軍で小松城の攻撃に向かうが、長重が3千の兵で籠城したため容易には攻め落とすことができない。堅固な小松城を攻めあぐねた利長は、小松城に押さえの兵を残して、西軍に与していた山口宗永(むねなが)の立て籠もる大聖寺城(加賀市)の攻撃に向かっている。一方、長重はそれを阻止するため、家臣の桜井源太に命じて木場潟に鉄砲隊を待ち伏せさせており、通過する前田軍の小荷駄隊を襲った。丹羽勢の攻撃を脱した前田軍は大聖寺城まで進軍すると、猛攻のすえ大聖寺城を攻め落とした。城主の山口宗永父子は自害している。さらに前田軍は、北ノ庄城の青木一矩(かずのり)の攻撃に向かっている。

ところが、敦賀城主の大谷吉継が海路から4万の大軍で金沢を奇襲するという虚報が流れたため、利長は金沢城に帰還することにした。しかし帰路には丹羽長重の小松城が待ち構えていた。長重との戦いは回避できないと考えた利長は、別働隊で小松城を攻撃しておき、その隙に本隊を金沢に帰還させるという策を取った。こうして、関ヶ原の戦いにおける北陸方面最大の激戦が始まる。前田軍の別働隊は湿地帯に足を取られながらも、強行に前進して小松城の城壁に取り付く。守る城兵は容赦なく鉄砲を撃ち掛けて、これを討ち取った。ひたすら攻め続ける前田軍であったが、劣勢は明らかであった。ついに利長は小松城の攻略を断念して全軍を撤退させる。ところが、長重はあらかじめ浅井畷に奇襲部隊を待ち伏せさせており、撤退する別働隊に襲い掛かった。さらに小松城からも軍勢が出撃して、殿軍の長連龍(ちょうつらたつ)隊に急襲、城の南方3.5kmの浅井畷で激しい合戦となった。利長は苦戦を強いられるが、丹羽軍の痛撃に耐え抜いて何とか金沢に帰城できた。利長は再び金沢を出発するも関ヶ原本戦には間に合わなかった。戦後、丹羽長重は改易、丹羽氏の旧領は、能登・越中・北加賀2郡を領有する前田利長に与えられ、これで前田家の所領は122万石となった。小松城には年寄衆が城代として置かれ、利長の義兄である前田対馬守長種(ながたね)が城代を務めている。前田長種は、加賀八家のひとつ前田対馬守家の祖となる人物である。父祖より尾張下之一色(しものいっしき)城(愛知県名古屋市)を本拠とし、前田利家の本家筋にあたるといわれる。織田信長の直臣であり、本能寺の変の後、次男の信雄(のぶかつ)に仕えたが、小牧・長久手の戦いで滝川一益(かずます)の誘いにより羽柴秀吉陣営に寝返る。しかし、蟹江城合戦で織田信雄・徳川家康の連合軍に敗れ、父の種定(たねさだ)は戦死、兄の定利(さだとし)も斬殺された。下之一色城にいた長種は降伏し、利家を頼って家臣となり、能登七尾城(七尾市)を守備する。越中守山城代のときには幼少時の前田利常を養育、その後は富山城代を経て、慶長10年(1605年)2万石で小松城代となる。しかし、元和元年(1615年)の一国一城令により、小松城は一旦廃城となる。寛永16年(1639年)2代藩主の前田利常は一国一城令の例外として幕府の許可を得て、小松城を隠居城という名目で再築、以後も特例のまま幕末まで続いた。この小松城の天守は独特で、2層3階の全高13.5m、寄棟屋根の数奇屋建築であった。この風流な本丸御櫓は、約10間四方という大きな石垣造りの天守台に一回り小さく乗っていた。天守こそ小さいが、城郭規模としては金沢城の約2倍を誇ったといい、前田領の南方を守る前線基地としての位置付けである。『小松軍記』によると、丹羽長重の城主時代、小松城の大手は梯川口(北側)であった。これは仮想敵国が金沢城の前田家だったことによる。しかし、前田家の時代になると越前松平家が仮想敵国となるので、大手は反対の三ノ丸側(南側)に移っている。三ノ丸北端にあたる、芦城公園と小松高校の間に架けられていた橋の名が「北ノ庄橋」であることがこれを裏付ける。従三位中納言の利常は、自らを小松黄門と称していた。これは平重盛が小松内府と称されていたことを意識していたと考えられる。内府は内大臣、黄門は中納言のことである。利常は、この湖に浮かぶ花園のような城で余生を過ごし、万治元年(1658年)に亡くなった。「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの名君であった。利常の没後は、金沢城の支城として城番により統治され、明治維新を迎えている。(2013.05.27)

現存する長屋門形式の鰻橋御門
現存する長屋門形式の鰻橋御門

わずかに残された堀石垣の遺構
わずかに残された堀石垣の遺構

稚松小学校に移築された常磐門
稚松小学校に移築された常磐門

小松城三ノ丸跡となる芦城公園
小松城三ノ丸跡となる芦城公園

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