小牧山城(こまきやまじょう)

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美濃攻略の拠点とした織田信長の居城

小牧山山頂の模擬天守
小牧山山頂の模擬天守

かつて小牧山城が存在した小牧山は、平野中央に存在する標高86mの独立丘で、山頂からは濃尾平野を一望することができる。織田信長が清洲から小牧山に本城を移したのが最初で、美濃侵攻の策源地にしたという軍事戦略上の要地である。次に、小牧・長久手の戦いで徳川家康が小牧山を本陣として羽柴秀吉と戦った。この山頂に建つ模擬天守は、豊臣秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣をモデルにしており、内部は小牧市歴史館となっている。織田信長が居城した永禄期には、小牧山の山頂から麓まで五段の塁濠を造り、山頂に屋敷、要所には重臣の館を置き、南西中段には馬場を設け、南側に大手道、北側に搦手道を開いた。また、城下町は小牧山の南西側に東西1km、南北1.3kmの範囲に整備された。『武功夜話』によると2層3階の望楼式天守建築が存在していたという。模擬天守の下に残る石垣は、信長時代の数少ない遺構である。小牧山城は長く土の城との認識であったが、近年の発掘調査によって永禄期のものとみられる上下2段の石垣が発見されて定説が覆されている。石材は小牧山中腹から切り出したとみられるチャートからなり、一段目は1.0〜1.3m、二段目は1.8〜2.0mの高さに階段状に積み上げられており、頂上部を囲むように配置されていた。現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつも、新たに周囲2kmに二重土塁を構え、土塁の間には空堀を穿ち、堀底から土塁上までの高さが5mにもおよぶ堅固なものに改修した家康による天正期の陣城跡である。家康は小牧山の古塁を修築させるとともに、犬山方面からの攻撃を意識して、蟹清水(かにしみず)、北外山(きたとやま)、南外山、宇田津(うたづ)、田楽(たらが)に砦を築かせている。中でも宇田津砦の規模は大きいものと考えられ、大給松平親乗(ちかのり)以下1500名が布陣したという。この当時の砦は、土豪の屋敷を利用して構築することが多く、蟹清水砦は織田信長が小牧山城を本拠としていた時代の丹羽長秀(ながひで)の屋敷跡を利用しており、南外山砦は土豪の堀尾孫助の屋敷、宇田津砦は宇田津氏の屋敷、田楽砦は土豪の長江平衛門の屋敷を利用したと伝わる。なお田楽砦は、羽柴勢によって犬山城(犬山市犬山)を奪われた犬山城兵たちが田楽の伊多波刀神社に逃げ込み集まっていたところ、家康が出向いて彼らを慰撫し、砦を築かせて守備させたものである。家康は小牧山城から蟹清水砦、北外山砦、宇田津砦、田楽砦を結ぶ軍道を作らせており、これが大縄手道であった。対する羽柴秀吉は犬山に着陣し、前線を視察して二重堀(ふたえぼり)、田中、小松寺山(こまつじやま)、楽田(がくでん)などに砦を構築させて、本陣を楽田に移している。最前線の二重堀砦に日根野備中守弘就(ひろなり)、三ツ山古墳を利用した田中砦に蒲生氏郷(うじさと)、堀久太郎秀政(ひでまさ)、細川忠興(ただおき)、加藤光泰(みつやす)、小松寺付近の小松寺山砦に三好秀次(ひでつぐ)、熊野神社付近の外久保砦に丹羽長秀、三明神社付近の内久保砦に蜂屋頼隆(よりたか)、金森長近(ながちか)、岩崎山砦に稲葉一鉄(いってつ)、青塚古墳を利用した青塚砦に森長可(ながよし)、羽黒城(犬山市羽黒)に山内一豊(かずとよ)、堀尾吉晴(よしはる)が布陣した。江戸時代になると小牧山は尾張藩が管理しており、「御勝利御開運の御陣跡」として一般の入山を禁止していたため、城郭遺構の保存状態は良好で、昭和2年(1927年)国の史跡に指定された。東麓にあった小牧中学校の移転に伴い発掘調査が始められ、これに基づいて帯曲輪地区に土塁、空堀、虎口などが復元されている。

美濃国の国主であった斎藤道三(どうさん)は、家督を譲った長男の義龍(よしたつ)との確執を深めており、弘治2年(1556年)義龍はついに美濃鷺山城(岐阜県岐阜市鷺山)に逼塞していた道三を討つために挙兵した。美濃の国人衆の多くは義龍に味方し、兵力で劣る道三は長良川の戦いで敗北、美濃の蝮と恐れられた斎藤道三は実の息子に討ち取られた。この時、死を覚悟した道三は、娘婿の織田信長に美濃一国を譲る遺言状を残したとされる。この『斎藤道三遺言状』は、日蓮宗本山である京都妙覚寺に残されており、「終(つい)には織田上総介存分にまかすべきの条、譲状、信長に対し渡し遣わす」という文面が確認できる。信長は道三を救援するため尾張国大浦(岐阜県羽島市)まで出兵するが、斎藤義龍の軍勢に北上を阻まれ、道三敗死の報せが届くと撤兵するしかなかった。こうして信長は、舅である道三の仇討ちと国譲り状という大義名分を得て、父の信秀(のぶひで)からの悲願である美濃攻略に執念を燃やした。しかし、斎藤義龍は優れた戦国大名で、信長の侵攻をことごとく撃退している。ところが、永禄4年(1561年)義龍が35歳で急死した。家督は子の龍興(たつおき)が13歳で継いだ。信長は好機到来とばかりに義龍が没した翌々日には美濃に攻め込むが、義龍に組織された美濃衆は強く、撃退されている。永禄5年(1562年)織田信長は本拠地の移転を考え始めた。信長の居城である清洲城(清須市)は、尾張国の中心に位置しており領国経営には最適であったが、美濃攻めを考えた場合には不利であった。当初、信長は尾張二の宮の大縣神社奥宮があった標高293mの本宮山を新たな本拠にしようとした。ここは国境の犬山とは目と鼻の先に位置し、この案は清須城内で反対一色となった。しかし結局、本拠地に選んだのは、清洲と犬山のちょうど中間地点に位置する小牧山であった。一説には、最初にあえて本宮山への移転をぶち上げることで、その後の小牧山への移転に対する家臣の反発を和らげるためだったとも考えられている。永禄6年(1563年)信長は美濃攻略のための拠点として小牧山に築城して、清洲城から居城を移した。築城にあたり、信長は丹羽長秀(ながひで)を総奉行とし、小牧山全体を城域として多数の曲輪を設け、南麓には惣構えの堀と土塁で囲まれた大規模な城下町を形成した。信長の築城以前は、西側谷地区に鎌倉時代から室町時代にかけて寺院が存在したことが発掘調査で分かっており、城下町部分では中世の遺物が採集できなかったので、原野であった可能性が高い。この小牧山城は美濃稲葉山城(岐阜県岐阜市)攻略のための臨時の軍事施設と考えられがちであるが、斎藤道三が造りあげた稲葉山城下に倣い、城下町に商工業地域を配置した経済の拠点としての側面も備えていた。信長は、武力のみでは崩れない美濃領主たちの結束を、小牧山城の繁栄を通して国造りの手腕や経済力を見せつけることにより切り崩そうと考えた。そのうえで、木下藤吉郎秀吉に美濃有力領主の内応工作をすすめさせ、東美濃の領主たちだけでなく、西美濃三人衆(氏家直元、安藤守就、稲葉良通)の調略に成功する。永禄10年(1567年)稲葉山城の戦いにより、ついに信長は美濃国主である斎藤龍興に勝利した。12年がかりの美濃攻略であった。信長は井ノ口の地名を岐阜へ改称し、本拠を小牧山城から岐阜城(稲葉山城)に移した。これにより小牧山城は築城から4年後に役目を終えて廃城となった。小牧山の城下町は衰微するが、それなりの規模を持つ町場が存続したようである。小牧山城跡は、小牧村の庄屋を勤める江崎氏が小牧山守として管理した。

天正10年(1582年)本能寺で織田信長が斃れたのち、明智光秀(みつひで)、柴田勝家(かついえ)を次々と滅ぼし勢力を拡大する羽柴秀吉は、信長の後継者を主張する次男の織田信雄(のぶかつ)にとって危険な存在であった。愚昧な信雄は賤ヶ岳の戦いで秀吉に与し、弟の織田信孝(のぶたか)を自害に追いやっているが、秀吉の野望にようやく気が付く。一方、羽柴秀吉は次の標的を織田信雄に定め、信雄の家老である津川義冬(よしふゆ)、岡田重孝(しげたか)、浅井長時(あざいながとき)の3人を懐柔したうえで、「三家老が秀吉に内通した」という流言を流した。これに疑心暗鬼となった信雄は、軽率にも3人を処刑してしまい、それぞれの居城を攻め滅ぼした。これが秀吉にとって信雄を攻撃する口実となり、伊勢国にて戦端が開かれる。たまりかねた信雄は徳川家康に援けを求めた。家康にとって信雄と結ぶことは秀吉との全面対決を意味するが、いずれ秀吉と雌雄を決すべしと考えていた家康は、信雄の援軍要請を受け入れて、秀吉に対して乾坤一擲の大勝負に打って出た。徳川家康は織田信長にとって20年以上もの同盟相手であり、信長亡きあと織田氏家臣である羽柴秀吉の暴虐から、信長の息子を守ることは十分な大義名分であった。家康は秀吉との戦いのため、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)、越中の佐々成政(さっさなりまさ)、紀伊の根来衆・雑賀衆と連携して、遠交近攻策による秀吉包囲網を形成した。かくして天正12年(1584年)羽柴秀吉軍10万(8万とも)と、徳川家康・織田信雄連合軍3万(1万6千とも)は、尾張の小牧・長久手で激突する。秀吉側についた美濃大垣城主の池田勝入斎恒興(つねおき)が濃尾国境を流れる木曽川を背にした犬山城を攻め落すと、徳川家康は尾張北部が主戦場になると判断、平野を一望できる、かつての織田信長の居城であった小牧山城を占拠して本陣とした。この時、池田恒興の娘婿で美濃金山城主の森武蔵守長可も小牧山城に着目しており、3千の軍勢を率いて小牧山城を目指して進軍していた。これを察知した家康は、酒井忠次(ただつぐ)、榊原康政(やすまさ)、奥平信昌(のぶまさ)ら5千の軍勢に奇襲を命じ、八幡林の戦いで森長可に勝利している。徳川家康・織田信雄連合軍は、4日間で小牧山城の周囲2kmに二重土塁を築くなど、大改修を施す。また小牧山城の東側に複数の砦を築き、軍道で結んで防衛線としている。一方の秀吉軍も犬山城から楽田城(犬山市楽田)に本陣を移し、小牧山城の北方に多数の砦を築き、大規模な野戦陣地を構築、最前線の二重堀砦と岩崎山砦を結ぶ土塁を設けて防備を固める一方、姥ケ懐(うばがふところ)に兵を出して家康を挑発、時に小競り合いが発生したが本格的な戦闘には発展せず、戦線は膠着状態が続いた。このとき功をあせる池田恒興が、家康の本拠地である三河岡崎城(岡崎市)の奇襲を献策した。これは信長が得意とした「中入り」という戦法であるが、一般的に成功率は非常に低いものである。この時期の秀吉にとって、味方する諸将は秀吉の家臣という訳ではなく、彼らの心を繋ぎとめておくためにもむげに断ることができず、献策を受け入れざるを得なかった。羽柴秀吉の軍勢は数では勝るものの寄せ集めの集団という弱さがあり、徳川家康のように一枚岩の家臣団ではなかったのである。奇襲部隊は、池田恒興と森長可、軍監として堀秀政、総大将として三好秀次の合計2万の兵力で4隊が編成された。奇襲部隊としては規模が大き過ぎるため、近隣の農民や敵陣に潜入する伊賀衆からの連絡により、その行動は家康に察知されることになる。

家康は酒井忠次、石川数正(かずまさ)、本多忠勝(ただかつ)ら6千余に本陣である小牧山城の守備を命じ、敵方に気付かれぬよう夜陰にまぎれて井伊直政(なおまさ)を前衛とする徳川本隊9千余を自ら率いて小牧山城を出発、小幡城(名古屋市守山区)を経由して色ケ根方面に向かった。また、徳川別働隊4千余は三河に向かう奇襲部隊の最後尾を追跡する。翌朝、第一隊の池田恒興隊が岩崎城(日進市)の攻城を始めてしまったため、第二隊以下は第一隊の行軍再開を待って付近に駐屯していた。その間、徳川別働隊は榊原康政隊と大須賀康高(やすたか)隊に分かれ、休息していた第四隊の三好秀次隊8千に接近して2方向から襲いかかった。この白山林(はくさんばやし)の戦いでは、秀次隊は抵抗するすべもなく潰走した。勢いにのる徳川別働隊は先行する第三隊の堀秀政隊3千に追いついたが、秀政は第四隊の敗報を受けて迎撃のため布陣していた。この桧ケ根(ひのきがね)の戦いでは、いくさ上手なことから「名人久太郎」と呼ばれる秀政によって榊原康政、大須賀康高らは撃退されている。徳川別働隊の敗戦を知った家康は、徳川本隊を色ケ根から富士ケ根に移動させて金扇(きんせん)の馬標を掲げた。徳川別働隊を追撃していた堀秀政は、家康の馬標を確認すると戦況が有利ではないと判断、すでに第四隊が壊滅しているため退却せざるをえなかった。一方、岩崎城を攻め落とした第一隊の池田恒興隊6千と第二隊の森長可隊3千は、徳川家康の追撃を知り、急ぎ長久手方面に引き返した。しかし、後続の第三隊、第四隊はすでに姿を消しており、森長可隊と池田恒興隊は完全に孤立、後方を徳川本隊に遮られて逃げ場を失った。仏ケ根、前山の高地に布陣して待ち構える徳川本隊に対し、池田・森隊は徳川勢の南東の仏ケ根池と烏ケ狭間を前にした高地に陣取って対峙、ついに戦端が開かれて激闘が始まる。両軍入り乱れての死闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、「鬼武蔵」の異名をもつ猛将の森長可が鉄砲隊の銃弾を眉間に受けて討死したあたりから徳川勢が有利になる。池田恒興は永井直勝(なおかつ)の槍を受けて討死、長男の池田元助(もとすけ)も安藤直次(なおつぐ)に討ち取られ、次男の池田輝政(てるまさ)は戦場を離脱した。池田・森隊は総崩れとなり、この長久手の戦い(仏ケ根の戦い)で徳川家康は大勝した。楽田城で敗報を受けた羽柴秀吉は驚き、自ら2万の軍勢を率いて、徳川本隊に決戦を挑むべく長久手方面に急行する。この行軍を見た小牧山城の本多忠勝は、わずか500の兵を率いて出撃、羽柴本隊に並走して銃撃により進軍を妨害した。羽柴秀吉は本多忠勝の勇気を賞賛して、本多勢への攻撃を許さなかったという。小牧山城を目指す徳川本隊は急ぎ小幡城に引き上げ、その間に羽柴本隊が小幡城近くの龍泉寺に着陣するが、すでに日没間近であったため、城攻めを翌朝として宿営準備にかかった。夜になると家康は密かに小幡城を脱出して小牧山城への撤収に成功している。その後、小牧山城の戦線は再び膠着状態に陥り、両軍の対峙が続いたが、両雄の対決はあっけない幕切れを迎えることになる。秀吉は家康を屈服させることを諦めて撤退、戦略方針を変えて織田信雄の領国である尾張、伊勢、伊賀の城々を攻め取り始めた。困窮した織田信雄は、家康に相談することなく秀吉と単独講和を結んだため、「織田信長の遺児を助ける」という大義名分を失った家康も和睦するしかなくなった。家康は局地戦において秀吉に勝利したものの、政治力によって秀吉に敗北したといえる。こうして小牧山城は歴史的な役割を終えた。(2005.12.30)

復元された天正期の虎口
復元された天正期の虎口

小牧山東麓の帯曲輪
小牧山東麓の帯曲輪

信長時代の石垣跡
信長時代の石垣跡

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