甲府城(こうふじょう)

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関東の徳川家康に備えた豊臣政権の重要な城

二層の稲荷櫓(艮櫓)
二層の稲荷櫓(艮櫓)

甲府盆地の中央部に位置する甲府城は、西側と北側を県庁とJR甲府駅によって損なわれているが、往時は天領にふさわしく広壮な城郭であった。もともと甲府城とは、甲斐府中城の略称で、舞鶴城、赤甲城とも呼ばれていた。本丸を最高所にして、二の丸を一段下げ、その周囲に天守曲輪、稲荷曲輪(東の丸)、鍛冶曲輪、数奇屋曲輪、楽屋曲輪、屋形曲輪、清水曲輪、御花畑等を配した典型的な梯郭式平山城で、躑躅ヶ崎近くまで広がる城下町を取り込んだ惣構えが施されていた。甲府城の見どころは浅野氏時代に積まれたと考えられる荒々しく豪快な野面積みの石垣である。関ヶ原の戦い以前に築かれた石垣は希少で、同年代に築かれた他の城の石垣よりも保存状態が格段に良く、本丸・天守台・稲荷曲輪を中心に広範囲に現存している。多くは高さ5m程度のものであるが、なかには10mを超えるものも存在する。甲府城は、甲府盆地北部の扇状地末端にある独立した丘陵に築かれており、安山岩の岩盤上に直接積まれた石垣が多いため、地震などの影響を受けにくかったようである。石材の調達には困らなかったようで、石垣に使われた石は甲府城のある丘陵のほか、愛宕山西面から切り出して運んだと考えられ、数寄屋曲輪などからも石切場(採石場)が見つかっている。台形の天守台は地形に沿っているため歪みが大きいのが特徴で、四角形や長方形の一般的な天守台とは異なり、四隅が鈍角か鋭角になっている。地形上の理由だけでなく、石垣の築造技術が未発達であったからとも考えられる。甲府城に天守が存在したかは明らかになっていないが、天守台の大きさから推定すると、かなり大きな天守であったと想定できる。文献によると、甲府城の楽屋曲輪(山梨県庁あたり)には温泉が湧いていたとあり、この城の珍しい特徴であった。効能は脚気と眼病と言われていたという。発掘調査によると、甲府城の天守台を中心とした本丸などに、金箔瓦が集中的に埋没している。徳川家康が関東に移封すると、甲斐、信濃、駿河、美濃にはそれぞれ豊臣大名が配置されていくが、その中でも松本城、上田城、小諸城、甲府城、駿府城、岐阜城から金箔瓦が出土しており、それは家康の領国である関東に沿って展開する城に見られる傾向である。金箔瓦は豊臣政権の象徴であるとともに、対家康包囲網の一環として、戦略的に重視された城に使用されていたと考えられている。現在、鍛冶曲輪門、内松陰(うちまつかげ)門、稲荷曲輪門の3城門と、鉄砲狭間を備えた障壁(長塀)が復元され、さらに稲荷曲輪にあった二層の稲荷櫓も復元された。今後は山手渡櫓門や天守の復元も計画しているという。

平安時代末期、甲斐源氏嫡流の武田信義(のぶよし)の子である一条次郎忠頼(ただより)が一条小山の丘に居館を築き、庄城稲荷大明神を守護神として祀った。この一条小山城と呼ばれた城が甲府城の前身である。戦国時代になると、大永3年(1523年)武田信虎(のぶとら)が躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)の防衛のため、湯村山城(甲府市湯村)とともに一条小山城を改修している。天正10年(1582年)武田征伐において織田信長は、同盟軍の徳川家康に2万余の兵で駿河口から、北条氏政(うじまさ)に3万の兵で関東口から攻め込ませ、織田本軍は7万の兵を二手に分けて、総大将の織田信忠(のぶただ)を伊奈口から、金森長近(ながちか)を飛騨口から攻め込ませた。武田勝頼(かつより)を滅ぼした織田信長は、徹底的な武田氏残党狩りをおこなうが、徳川家康は武田信玄(しんげん)を尊敬していたので実施することなく、のちに信長の許しを得て大量の武田遺臣を受け入れている。後年、家康は徳川家の軍制や陣法を全て廃止して、戦国最強の武将と言われた武田信玄のものに一新したほどの徹底ぶりであった。甲斐国は穴山梅雪(あなやまばいせつ)の巨摩郡を除いて河尻秀隆(ひでたか)に与えられたが、秀隆は織田氏の武力を背景に暴政をおこない、甲斐の地侍から恨まれていた。同年の本能寺の変にて織田政権が崩壊すると、甲斐国は当然のように情勢が不安定になる。家康は河尻氏を支援する名目で本多百助忠俊(ただとし)を派遣したが、秀隆は甲斐の地侍達を煽動しているのは家康だと考えていたため忠俊を殺した。これを聞いた甲斐の地侍は一揆をおこし、武田遺臣の三井十右衛門が河尻秀隆を討ち取って、遺体を逆さに埋めた。この「河尻の逆さ塚」は現在も甲府市岩窪町に存在する。ちなみに三井十右衛門はこのあと家康に仕え、1500石の旗本として明治まで続いている。

徳川家康は国主不在となった甲斐と信濃の両国に配下の諸将を進駐させると、甲斐の地侍は甲州人に好意的な家康に誼を通じた。しかし、小田原の北条氏直(うじなお)も5万の大軍を率いて信濃国佐久郡に侵入したため、家康は8千の兵で大国の北条氏を相手に甲斐と信濃の覇権を賭けて争うことになる。この天正壬午(てんしょうじんご)の乱では、兵力で劣る家康が戦いを有利に展開し、条件よく北条氏と和睦できた。これにより家康は、甲斐と信濃を手に入れ、三河、遠江、駿河と合わせて5ヶ国の大大名となった。天正17年(1589年)頃に、家康は小田原北条氏への備えとして、一条小山城跡に新城の築城を計画したようだが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役、つづく家康の関東移封にともない計画は頓挫した。この甲府城の築城は、家康のあとに入封した豊臣秀吉の甥の羽柴秀勝(ひでかつ)によって着工されるが、まもなく転封となり、天正19年(1591年)続いて入封した加藤光泰(みつやす)によって引き継がれた。加藤氏在任中に天守台、本丸や東の丸(稲荷曲輪)など中心部分の石垣普請が完成する。加藤光泰は甲府城を拠点に甲斐国支配を行っていたが、光泰の遺言状にある「甲斐国は要之地、其上御国端」というくだりからも分かるように、その政策原則に隣国の徳川家康の監視と牽制が含まれており、特に関東への物資流通には厳しい監視がなされた。このように、豊臣政権による天下統一後、関東にいる家康を封じ込める最前線として、その拠点である甲府城には秀吉の一族、重臣クラスの城主を送り込んで一国の経営に当たらせている。文禄2年(1593年)文禄の役にて加藤光泰が朝鮮で病没すると、甲府城には秀吉の相婿である浅野長政(ながまさ)が22万石で入城し、この浅野氏の時代に天守が造営され、甲府城は完成したという。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、浅野長政の嫡男幸長(よしなが)は紀伊国和歌山に37万6千石で転封となる。

慶長6年(1601年)浅野氏のあとの甲府城には、徳川氏譜代の平岩親吉(ちかよし)が城代として入城した。甲府城の天守台を中心として発掘された豊臣政権のシンボルである金箔瓦や、違い鷹の羽紋(浅野氏の家紋)の瓦は、この時代に撤去されたものと考えられる。家康は甲府城を武蔵江戸城(東京都千代田区)の詰城と位置付け、江戸城から甲府城を甲州街道で結び、江戸城に危機が及んだ場合、甲府城に逃れることを想定しており、途中の内藤新宿には百人組鉄砲隊、八王子宿には千人同心が配置された。そのため甲府城は、代々徳川将軍家の一門が城主を勤める特別な城となり、慶長8年(1603年)家康の九男で4歳の徳川義直(よしなお)が甲府城主となり、平岩親吉が城代となった。また、慶長12年(1607年)義直が尾張国清洲に転封されると、一時は幕府直轄領(城番制)となるが、元和2年(1616年)2代将軍秀忠(ひでただ)の三男である徳川忠長(ただなが)、寛文元年(1661年)3代将軍家光(いえみつ)の三男である徳川綱重(つなしげ)、延宝6年(1678年)綱重の長男でのちの6代将軍家宣(いえのぶ)となる徳川綱豊(つなとよ)と、徳川一門の封地となった。宝永2年(1705年)5代将軍綱吉(つなよし)の寵臣で武川衆出身の柳沢吉保(よしやす)が、大名で初めての甲府藩15万石の藩主となった。この時に甲府城は再整備され近世城郭として最盛期を迎える。宝永6年(1709年)徳川綱吉が没すると、長男の柳沢吉里(よしさと)に家督を譲り、吉里は今までの歴代甲府藩主で初めて甲府城に入城した。享保9年(1724年)柳沢吉里が大和国郡山藩に移封となると、甲斐国一円は天領となり、甲府城には甲府勤番が設置された。甲府勤番として2名の勤番支配の下に200名の勤番士を配置するが、勤番士は終生を甲府勤番として過ごさなければならず、結局は旗本の追放懲罰の一種となり、「甲府勤番山流し」と言われて旗本達から恐れられた。(2006.10.09)

本丸に残る天守台
本丸に残る天守台

復元された稲荷曲輪門
復元された稲荷曲輪門

鍛冶曲輪の塀と水堀
鍛冶曲輪の塀と水堀

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